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ここを13年間読んできた方なら全員おまかりのことだろうが、筆者Kawakatは最初、邪馬台国九州説から分析を開始し、やがて森浩一氏の東遷説、そして纒向が発見されて以後、分析に分析を重ねたうえで、纒向説へ。その後、東遷ではなく移住説へ。さらに海のみち、貝の道研究、弧帯文・弧文・直弧文研究からは吉備→東瀬戸内→紀ノ川→纒向説に落ち着いている。これは考古学その他すべての資料を何百冊もまさぐった結果である。そこに到達した経緯がこのブログである。詳細は纒向研究その他の書庫記事をすべて読めば、これまでの艱難辛苦がわかるはずだ。

その筆者に、「あなたは自分よりいささか歴史を研究しているようだが、邪馬台国は九州だ」ろうといまだに言ったやからがいる。無学文盲のようなしろうと発言にはいささかあっけにとられた。いったい何を読んでいるのかと。どれほどおまえは研究したのかと、あきれかえった。そのサイトに行ってみると、ほとんどなにも研究してきた痕跡もない。あっても主観的な、古臭い、何を根拠にそう言うのか、さっぱり何も提示されてはいない。ばかばかしくて、蹴っ飛ばして帰った。

結局、九州説を言い募る人々には、客観的根拠がなにもない。
考古学も知らない、東洋史も世界史も目を向けない、国境と現在の県境すら把握できていない、視野の狭い、せいぜい神社や民俗誌の極論だけが頼りの、まさに主観性の塊でできた脳みそで、古代史研究家気取り。
あるのは古田史学か神社研究の『日本古代史』程度の知識しかない。
そうでなければ『日本書紀』研究、文献研究ばかりで、1歩もフィールドワークしないもの。文献馬鹿といわれる過去の遺物たちの群れ。
その程度で古代史を書き始めている。
それは自分も最初は変わりはないから、むしろ面白い着想も出る可能性はあるかも知れない。知りすぎたら見えなくなるものも確かに多い。

科学的分析・・・環境学や気象学、地形学、地質学、鉱物学、文献と考古の突合せ・・・山ほどヒントは満ちている。すべてを知ろうとしなければ何もわかるまい。


長老たちは学校で嘘を吹き込まれ、聖徳太子はいなかったと言葉の意味に反発するのみ。新しい、大きく変わり、学閥や学科と越えての研究が今や進んでいるというのに、いまだに『日本書紀』をバイブルに、あるいは古田本をバイブルに、進むべき道の反対をむいて毎日努力する老人たち・・・失礼ながら進むべき方向を間違えてまい進しておられる。それではいつまで経っても納得できるアイデアに出会うわけはない。



小学生になったつもりではじめなおさねば、邪馬台国へは絶対に行き着かない。

最近はおすすめ参考資料や文献ページを更新していないが、多すぎてかけないからほったらかしてある。そもそも他人に資料を教えるいわれなど筆者にあろうはずもない。それでも、大汗かいてこれまで、3000以上の記事でヒントを山ほど書いてきた。なのに、読んでくれていない。ただ開いて、目を通し、ナイスするならまだましだが、ふん、といいながら帰ってゆく。

筆者自身ですら、検索していてヒットしたのが自分の記事だったとき驚く。それほど記事が多くて、もう忘れたことがある。百味箪笥の引き出し状態である。

それでも毎日毎日、600人もの人が来てくれる。その中に10年間でひとりかふたり、本当に隅々まで読んでくれている人はいる。書くとはそういうことでしかない。


なぜ書き続けるのか?

俺が、この俺が知りたいからだ。
誰かに教えたいわけではない。
自分のための、老いて記憶が薄れてゆく自分自身のためのブログなのだ。
お金になる仕事のための、ブログはメモである。そしてそのメモは、普通の物書きなら絶対人には見せたりはしない丸秘である。それをKawakatuは解放している馬鹿ということになる。

説はどんな説でも全部仮説なのだ。
常識も仮説でしかない。
常に大きく変化する。進化論ですら進化するのである。
ふん。とよそを見て言ったとたんに、あなたは研究者ではなくなるのだ。

まことにネットは嘘と馬鹿の記事であふれている。
このブログだってそのひとつだ。専門家に言わせれば。
しかしその専門家たちすらが、常識のとりことなっていて、越境できずにいる。
鳥の目になっていない。
アースダイバーになってはいないのだ。

西欧の果てまで行っても、まだ不十分。
隅から隅まで、世界のすべての歴史と民族を見なければ死ぬことは出来ない。


だからこそ、友人は持たない、しがらみはいらないと、ひとりで暮らすことを選んだのだ。どこが悪いか?



人生は一度しかない。
会社仕事にかまけているのはどいつだ?
誰のための仕事をしているのか?
自分のためだけでよいのだ。
家族?家族は家族でそれを見つければいい。
お父さんはその中に?入らない人なんじゃないの?


ぼや〜〜っといきてんじゃねえ!ってチコちゃんに叱られたらいい。



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さて、夕餉にするか。











































この記事に

「纒向遺跡(奈良県桜井市)で大量に発掘された桃の種(写真)について、放射性炭素年代測定をした結果、西暦135〜230年のものとみられることが判明した=同市教育委員会提供 」
5月14日BOGLOBEニュースhttps://news.biglobe.ne.jp/domestic/0514/jjp_180514_4952725330.html

その纏向遺跡でまた新発見が。
 

「・・・桜井市の纒向遺跡で、3世紀前半の1体分のイヌの骨が出土していたことが分かった。古墳時代のイヌの全身骨格が見つかるのは珍しく「貴重な事例」という。纒向学研究センターが刊行した紀要「纒向学研究」第6号で報告された。

 発掘調査を担当した森暢郎同センター研究員が出土状況を、山崎健奈良文化財研究所主任研究員と覚張隆史金沢大学国際文化資源学研究センター特任助教がイヌの骨の分析結果を報告した。犬の骨は120点あり、土器や木製品とともに平成26年(2014年)度の調査で溝から出土。」
奈良新聞2018.05.18


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同上サイトから


「土器や木製品とともに出土し、頭蓋骨と下あごの骨などは欠落していましたが、今回犬1匹分の骨格が復元できました。

体高約45センチ、柴犬よりやや大きいのではと推測されています。
時期は3世紀前半頃で、そのころの犬の全身骨格が見つかることはとても珍しいです。

3世紀前半といえば、先の時代背景では弥生時代。
この遺跡は・・・・候補地でもあり、出土場所から約50メートル離れた位置に「卑■■の宮殿」との説がある大型の建物跡があります。
この建物跡は3世紀前半〜中頃とみられており、時期がたいだい一致していますね。
 
特徴として骨に傷が無く、食用にされたわけではないという点です。
食用にする場合、なたのようなものでたたき切る時代なので、必ず骨が粉砕されるはずです。」
バズフィックスみんなのニュースhttps://buzfix.tokyo/2018/05/himiko-dog/


イメージ 3当・ブログ「纒向研究」3よりhttps://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/49430012.html
石野博信『纏向遺跡』画像

イヌが出たのはおそらく地図の祭祀場そば。ちょうど水路が合流するY字になったあたりだと思うが。




つまりこういう聖地を、古代人は、東から西へ斜面になっている纒向微高地に人工的に作っているのである。
イメージ 4
京都市下賀茂の河合突堤





などをご覧あれ。納得いかれるはずである。






考古解剖学では、
もし食べられたなら、骨はばらされ、骨に裁断痕跡があるだろう。
病死ならストレス・サインがあるはずである。
丁重に葬ったなら頭がないはずはない。
胴体だけ溝跡から出たのなら、それは祭祀用生贄ドッグだった。
となる。
溝とは纒向では水路のことである。
三輪山から水を引き、大和川に連絡させていた流通、祭祀のための運河と見られる。
神殿は朱塗り材木が出ており、弧文円盤が屋根に建てられていたもの。弧文があるのならそこは墓場である。

古代、水路は水祭祀の場で、意図的にY字型の川を造り、そこに四隅突出型墳丘墓の脚のような突堤(古墳の作り出しと同じ意味)を作り、祭祀していた。

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導水施設のY字型構造 Kawakatu
Y字は記紀の木の股神と同じ概念。男性自身と女性自身が合体する形状である。



結果は歴然。

頭骸骨がない、胴体は溝へ遺棄、というケースは、
1 この犬が神への供物にされた
2 首をはねられて殺されてほうり投げられた
、となるだろう。

イヌへの愛情、憐憫を捨て去って冷静に分析した場合、答えはほかに考えられない。

縄文人がイヌを家族として、狩猟の相棒として「憐憫をもって埋めた」ケースでは必ず頭部が一緒に葬られている。

この纒向の頭部損失犬遺骸のすぐそばには「神殿」遺構があるのだから、この犬はそこで神に頭部を捧げられ、胴体は溝へ遺棄されたと考えられる。のちの時代の馬犠牲、牛犠牲とまったく似た風習である。つまり彼は生贄であると結論できる。

纒向の祭祀者は、出土する祭祀土器様式から吉備王一族であると考えられるから、彼らにはひとまず渡来的風習だった犬食よりも、犬の首を神に捧げる風習があったとなるので、まずは愛犬家は、ほっとされたい。


ほかに答えはありえない。以上。




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Once I lived the life of a millionaire
Spent all my money; I just did not care
かつて 俺は豪奢に暮らす金持ちだった
でも 全部使っちまった もう どうでもいいんだ
Took all my friends out for a good time
bought bootleg whiskey, champagne and wine
友達を大勢ひきつれて 遊びに行ったものさ
違法なウィスキーやシャンパン、ワインを飲み歩いた
Then I began to fall so low
Lost all my good friends, I did not have nowhere to go
そして 底の底まで落ちぶれた
大勢の友達が離れていった 頼れる場所なんてないさ
I get my hands on a dollar again
I'm gonna hang on to it till that eagle grins, yeah
やっと1ドルを手にしたよ
これでなんとかやってくつもりさ ワシの絵柄が笑うまでな
No, nobody knows you
when you're down and out.
誰一人 お前のことなんか憶えてないさ
落ちぶれた時にはな
In you pocket, not one penny
And as for friends, you don't have any
一文無しになったら
友達も皆 離れていくもの
When you fin'lly get back up on your feet again
ev'rybody wants to be your long lost friend
また お金を手に入れて元に戻ったら
誰もが「昔の仲間よ!」て近づいてくるのさ
Said, it's mighty strange, 'out a doubt
Nobody knows you
nobody knows
nobody knows you
when you're down and out
ホントにおかしいだろ でもホントだぜ
誰もお前のことなんか憶えてない
誰一人な
誰も憶えてない
落ちぶれた時にはな






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イメージ 2


















イメージ 3
















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一杯やらせてもうらうよ









じゃな
今宵
ここまで














  What a difference a day made twenty four little hours  
 
  Brought the sun and the flowers where there used to be rain
 
  My yesterday was blue dear
 
  Today I’m part of you dear

  My lonely nights are thru, dear
 
  Since you said you are mine
 
  What a difference a day makes

  There’s a rainbow before me  
 
    Skies above can’t be stormy since that moment of bliss,
 
  That thrilling kiss 
 
   It’s heaven when you find romance on your menu

  What a difference a day made 
 
   And the difference is you  Is you

 

  (私の意訳)

  1日は24時間だけれども、日々ほんの少しの違いで変わってしまう

  太陽と花が雨が降った土地にも、やって来る

  昨日までの私は、ひどく落ち込んでいた
 
  しかし、今日は、あなたの心の一部になった
 
  一人寂しい夜は、今宵で終わる
 
  あなたが、「君の全ては私のものだ」と言ってくれるから

  たった1日で、こんなに変わるなんて

  私の頭上には虹が横たわる

  天空には嵐がやってくる気配も感じられない

  何てスリリングなキスなのか
 
  あなたのようなロマンチックな人生に逢えたのは天国のように思える
 
  たった1日で、こんなに変わるなんて

  あなたが私をこんなに変えてしまった  素敵なあなたが





















SoLong,,,]
さよなら

































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その二 広虫女、牛に変わって生まれる

 七日過ぎるまで火葬せずにおき、坊さんや在俗の修行者三十二人を頼み招いて、九日の間願を立て、亡き広虫女の冥福を祈った。七日目の夕方、広虫女は生き返り、棺のふたがひとりでに開いた。

 そこで棺の中をのぞいてみると、なんともいいようのなく臭かった。腰より上は牛に変わっており、額には角が生え、長さは四寸ばかりであった。二つの手は牛の足となり、ひびが入って爪が割れて、牛の蹄に似ていた。腰より下のほうは人の形をしていた。飯をきらって草を食い、食い終わるとふたたび口まで吐き出してかんでいた。裸で着物も着ずに、糞をした土の上に臥している。あちこちから人々が走り集ってき、不思議がって見、見物客はたえ間なかった。

 夫の郡長(小屋県主宮手)と息子たち、娘たちは恥ずかしがり、妻(子供たちには母親)の後生を心配し、体を地に投げ出して、あらゆる願を立てた。罪の報いを償うために、その土地の三木寺にいろいろな家財を奉納し、東大寺に牛を七十頭、馬三十匹、田二十町、稲四千束を寄贈し、他人に貸し付けていた物は、みな帳消しにして、返済の必要がないことにきめた。

 讃岐国の国司や郡の役人はこれを見て、都の官庁に報告書を出そうとしているところ、五日たって死んだ。これを見聞きした国府や都庁の人たちは、ことごとく来世の運命を嘆き悲しんだ。死んだ宮手の妻は、因果応報の道理をわきまえず、道理もなければ義理もなかった。だからあれは道理に外れた非道な行為、義理も人情もないない者への現世での悪報であったのだ。この現世における悪報でさえもこのとおりである。ましてや来世の報いは知るべきである。

 仏典に、「物を借りて返さないときには、馬や牛になって支払わされる・・・」とお説きになっている。物を借りている人は奴隷のように弱く、物を貸している人は王者のように振る舞う。借りている人は雉(きじ)のようであり、貸している人は鷹のようである。ただいかに相手に負債があるからといって、理不尽に徴収すると、かえって馬や牛となって、借りた人に使われるので、度を越えた徴収をしてはならない。


引用掲載 日本霊異記(下) 中田祝夫著 講談社学術文庫




地獄から閻魔につきかえされ、死んだのに蘇らされたあげくに、牛の姿で九日間もいきはじをかかされたあげく、九日目についに死んだごうつくな高利貸女の哀れな末路である。実際、そんなことなどあろうはずもないのに、この著者はしゃあしゃあと聞き書きしている。こういう与太話は、果たして著者が考えて脚色したのか、それとも最初からそういう伝承として村々に伝わっていたものなのか、はんぜんとはしないが、おそらく前者だろう。なにしろ仏教説話である限り、そのように怪奇譚に仕上げるものなのだから。それにしてもすごい想像力。中国にタネ本でもあったのだろう。

中国ではこうした怪異物語は「志異」などというが、仏教よりも道教色の強い噺ばかりである。あちらでは仏教よりもいまだに道教の人気が高い。そういえば中国の僧侶なんか、あまり見たことがないではないか?

奈良時代の僧侶、いや寺そのものが、かなりの数、金を貸していたことは商業史では有名である。お布施だけでは生きていけない僧侶や、経営できない寺が山ほどあったのである。この広虫女のように、幅広く商売する寺も多かった。もちろん国司や介たちも大差はない。手広くあきない、しかもあくどいやつらは山ほどいたようだ。時代劇の「お代官さま」的な官吏である。私腹を肥やし、弱者からとれるだけ奪って、3k仕事ばかりさせている。

ところが庶民のほうもしたたかで、その上を行くあくどい商売などで生き抜こうとする。それが現実の人間生活というものだろう。

この物語はまあ、学校で道徳教育に使っても、いまどきのガキどもなら、「んなあほな」だろう。「もっとストーリーにリアリティもたせなきゃ、現代の子供は怖がらないで」と言うだろう。こまっしゃくれやがって。そっちのほうが怖いわい。































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日本霊異記 九州の話

■下巻第十九 卵のような肉の塊から生まれた女が、仏法を修め、人を教化した話。

肥後国八代郡都(やつしろのこおり)豊服(とよぶく)の郷(熊本県下益城郡松橋町)の人、豊服広公の妻が懐妊して、宝亀二年(771)の冬十一月十五日の午前四時ごろ、一つの肉塊を生み落とした。肉塊は鳥の卵のような格好であった。夫婦はこれは吉祥ではないと思い込んで、入れ物にいれ、山の石の中に隠して置いた。七日たって行って見ると、肉貝の殻は破れて、女の子が生まれていた。夫婦は赤子を取り上げ、改めて乳を飲ませ養育した。これを見聞きした人々は、国中だれ一人として不思議がらないものはいなかった。

 その女の子は八ヶ月も過ぎると体が急に大きくなったが、頭と首がくっついて、普通の人と違ってあごがなかった。身の丈は三尺五寸ほどである。生まれながらに物を知り、天性賢い子であった。七歳にならない年齢で『法華経』、八十巻『華厳経』を転読した。しかしこのことは黙っていて、人に誇ろうとはしなかった。

 女の子は出家して尼になろうと思い立ち、髪を剃り、法衣を着、仏法を修めて他人を教化した。だれ一人としてこれを信仰しない者はいなかった。声量が豊かで、聞く人はみな感動した。しかしこの尼の体は通常の人間とは異なっていた。女陰がないので結婚することもなかった。ただ尿を出す穴だけがあった。そこで愚かな人たちは、嘲笑して、猿聖(さるひじり)といった。



 当時、同じ肥後国託磨郡(たくまのこおり)(熊本市出水町)の国分寺の僧と、豊前国宇佐郡八幡(うさのこおりやはた)(大分県宇佐市)の宇佐八幡宮の僧の二人が、その尼をねたんで、
「貴様は異端者だ」
ときめつけ、見下げあざけりからかうと、仏教の守護者が空から降りて来、桙で僧を突こうとした。僧は恐れ叫んで、そのまま死んでしまった。



 大安寺(大和国奈良左京)の戒明禅師が、九州の大国師に任ぜられたとき、宝亀七、八年(776.7)のころに、肥前国(佐賀県)佐賀郡の郡長、正七位上佐賀君児公が安居会(あんごえ)を催した。その時、戒明禅師を招き、八十巻『華厳経』の講義を請うた。その講義を尼は欠かさず多くの人の中に交じって聴聞した。講師の戒明禅師は尼を見ると、

「どこの尼だ。無作法にも聴衆の中に交じっているのは」
と叱った。

尼は、
「仏さまは平等の慈悲心で、一切衆上のために正しい教えを広めなさる。どういうわけでわたしを除け者にするのですか」
と尋ねた。

 さてそこで尼が、仏教詩の詩句の形式を整え、それをもって質問したときに、講師の方は詩句の形式を整えて答えることができなかった。大ぜいの知識僧たちは不思議に思い、ひたすら尼に質問を浴びせた。しかし尼は最期まで負けなかった。そこで、人びとは、この尼は仏が人間に姿を変えて現れた者であることを知り、さらに名を舎利菩薩とつけた。僧も俗人もこの尼を信じ敬い、尼を教化の重要な人物とした。

 昔、釈迦が生きておられたとき、サエ城のスダチ長者の未婚の娘ソマンが卵を十個生んだ。それが割れて十人の男の子が生まれ、それがいずれも出家して阿羅漢果(あらかんか)の悟りをえたという。また、カビラエ城の長者の妻は、懐妊して一つの肉塊を生み、七日の後、その肉塊は破れて百の童子が生まれた。その後、彼らは一時に出家し、百人全部が阿羅漢果の悟りをえたという。わが日本の一握りほどの狭い国土でも、このような奇譚の人を得た。これはまた、まことに不思議なことである。









■上巻第三十 非道に物を奪い、悪い行いを重ねた報いを受け、世にも不思議なことが起こった話 (その一)

 膳臣広国(かしわでのおみひろくに)は豊前国宮子郡(福岡県京都郡)の次官であった。藤原の宮で天下を治められた文武天皇の御代慶雲(きょううん)二年(705)の秋九月十五日に、広国は突然この世を去った。死んで三日目の十七日の午後四時頃に生き返って、以下、次のように告白した。

「二人の使いがやって来た。一人は大人で髪を頭の上で束ねていた。いま一人は小さい子であった。私、広国は二人に連れられて行った。駅を二つばかり過ぎると、道の途中に大きな川があった。橋がかけてあり、その橋は黄金で塗り飾ってあった。橋を渡って対岸に着くと、目新しい見慣れない国があった。使いに向かって、
『ここは何という国ですか』と尋ねると、
『度何(どなん)の国だ』と答えた。その国の都につくと、八人の役人がやって来て、武器を持って、私を追い立てた。前方に黄金の宮殿があった。

門に入ってみると、そこに王がいた。黄金の座席に座っておられた。大王は私に向かって、
『いま、お前をここに召したのは、お前の妻が嘆き訴えたからなのだ』とおっしゃった。すぐ一人の女を召し出した。見ると死んだ昔の妻であった。鉄の釘が頭の上から打ち込まれ、尻まで通っており、額から打ち込んだ釘は後頭部に遠ていた。鉄の縄で手足をしばり、八人がかりで担いで連れて来た。大王が、
『おまえはこの女を知っているか』と尋ねられた。わたしが、
『確かに、私の妻です』と答えた。

また、
『お前は何の罪をとがめられて、ここへめしだされたのをしっているか』と尋ねられた。
私は、『知りません』と答えた。今度は妻に受かって尋ねた。妻は、
『私はよくわかっています。あの人は私を家から追い出した者なので、私は恨めしく、口惜しく、しゃくにさわっているのです』と答えた。(そこで広大とその以前に死亡した妻との過去の事実が詳しく調査せられたが、その後で)大王は広大に、『お前には罪はない。家に帰ってよろしい。しかし、決してこの黄泉の国のことはしゃべってはならんぞ。それから、もしそなたの父に会いたいと思うなら、南のほうに行ってみるがよい』とおっしゃった。


その二



 行ってみると、本当に父がいた。非常に熱い銅の柱を抱かされて立っていた。鉄の釘が三十七本もぶち込まれ、鉄の鞭で打たれている。朝に三百回、昼に三百回、夕べに三百回、あわせて九百回、毎日打ち攻められている。私は悲しくなり、
『ああ、お父さん。わたしはお父さんが、こんな苦しみを受けておられようとは、まったく思いもよりませんでした』と嘆いた。父は次のように語った。

『私がこんな苦しみを受けていたのを、息子よ、お前は知っていたのかどうか。私は妻子を養うために、ある時は生き物を殺した。ある時は八両の麺を打って十両の値を取り立てた。ある時は軽い秤で稲を貸し、重い秤で取り立てた。またある時は人の者を無理に奪い取り、また他人の妻をおかすこともした。父母に孝行も尽くさず、目上の者を尊敬することもせず奴隷でもない人をまるで自分の奴隷でもあるかのように、ののしり、あざけった。このような罪のため、私の体は小さいのに三十七本もの釘を打ち込まれ、毎日九百回も、鉄の鞭で打ち攻められている。とても痛く、とても苦しい。一体、いつの日になったらこの罪が許されるのか。いつの時にか体を休めることができものであろうか。お前はすぐにも私のために仏を作り、お経を写し、私の罪の苦しみを償ってくれ。忘れないで必ずやってくれ。

 私は飢えて、七月七日に大蛇となってお前の家に行き、家の中に入ろうとした時、お前は杖の先に私を引っかけてぽいと捨てた。また五月五日に赤い子犬となってお前の家へ行った時は、他の犬を呼んでけしかけ、追い払わせたので、私は食にありつけず、へとへとになって帰って来た。ただ正月一日に、猫になってお前の家に入り込んだ時は供養のために供えてあった肉や、いろいろのごちそうを腹一杯食べて来た。それでやっと三年来の空腹を、どうにかいやすことができたのだ。また私は兄弟や身分の上下を無視し、道理に背いたので、犬と生まれて食い、口から白い泡を出してあえいでいる。わたしはまたきっと赤い子犬になって食をあさることになるだろう』と語るのであった。

 およそ、米一升を施す報いは、あの世で三十日分の食もつがえられる。衣服一着分を施す報いは、一年分の衣服がえられるのである。お経を読ませた者は、東方の宮殿に住むことになり、後には願いのまま、天上界に生まれる。仏菩薩を仏像に作った者は、西方の無量浄土に生まれる。生き物を放してやった者は、北方の無量浄土に生まれるのである。欲望を抑え一日断食すると、あの世で十年間の食料が得られる。
 このほか、生前この世で善いこと悪いことをして、それからうけたあの世での報いなどを見てから地獄を出ようとした。そしてわたしはしばらくその辺をぶらぶらしていると、小さい子供がやって来た。すると、さっきの門番はその子を見て、両膝を地につけてひれ伏した。その子は私を呼んで、片側の脇門に連れて行き、門を押しあけた。そこから私が出ようとすると
『早く行きなさい』といった。わたしは、その子に、
『あなたはどなたさまですか』と聞いた。その子は、
『わたしが誰だか知りたいと思いますか、わたしはそなたがまだ幼かった時に写した「観世音経」なのです』
と答えた。そしてそのまま帰ってしまった。ふと見回すと、生き返っていたのである」という。

 広国は、黄泉の国に行き、善い行いが善い報いをえ、悪い行いに悪い報いが帰ってくるいろいろな例を見たので、この不思議な体験話を記録して、世間に広めた。
 この世で罪を犯して、あの世でその報いを受ける因縁は『大乗経典』に詳しく説いてあるとおりである。誰がこれを信じないでいられようか。このようなわけで、経典に、「この世で甘露のような甘い汁を吸っていると、未来は熱い鉄の玉を飲まされる」といっているのは、このことをいうのである。広国は、生き返ってから、父のために仏像を造り、お経を書き写し、仏・法・僧の三宝を供養して、父への恩返しをした。父の犯した邪悪の罪を滅ぼし、これからのというものは、広国ともども正しい道に入ることができたのであった。

参考引用掲載 日本霊異記 中田祝夫著 講談社学術文庫










■第十七 戦乱にあって観音菩薩の像を祈り、この世でよい報いにあった話


 伊予国(愛媛県)越智郡の郡長の先祖にあたる越智直(あたえ)という人は、百済の国を救うために、百済の国に派遣された。方々に転戦していた時に、唐の軍勢に追いつめられ、捕虜となって唐の国まで連れて行かれた。そしてわが日本人の八人が捕虜となって、同じ一つの島に住むことになった。八人は観音菩薩の像を得て、これを信仰し、あがめ奉っていた。八人は共同して、松の木を伐って一隻の舟を作った。そして観音像をお迎えして舟中に安置して、それぞれが無事に日本に帰れるようにと観音像に祈願した。すると西風が吹き出し、この風に乗ってまっすぐに九州に到着した。

 朝廷ではこのことを聞き、事の次第をお尋ねになった。天皇は哀れに思われて、望むところを申すようにとおいいつけになった。そこで越智直は
「新しく一郡を設けていただき、ここに観音様を安置し、礼拝奉仕したいと思います」
と申し出た。天皇はこれをお許しくださった。そこであたらしく越智という郡を設けて、そこに寺を建て、観音様を安置することになった。その時から今日に至るまで、越智直の子孫が相ついでこの像を心から信仰している。

 思うに右のことは観音のご利益であり、また観音信仰の結果であろう。昔、親孝行の丁蘭(ていらん)が母の木像を造り、それに仕えた事により、本当に生きているような姿を示してくれたし、僧が愛した絵の中の女性でさえ、僧をいとしんでこれに応じてくれたという。ましてやこれは観音菩薩である。どうして感応のないことがあろうか。


参考引用掲載 日本霊異記 中田祝夫著 講談社学術文庫





最後の話は白村江戦いの話になっている。
伊予の越智直は越智国造の一族で、海人族だったから百済救援にいかされたのだろう。信濃安曇野(長野県北部)の安曇連もやはり救援に行ってはなばなしく戦っている。

船の民の多くが、この海外軍事派遣で出向いていたことがわかる。

地名に当時の行政単位であるはずの評が使われず、越智郡になっている。この話が書かれたときはもう奈良時代だからか?違う。ほかの霊異記記事でも多くは里は村になっていて国政単位は無視されている。その時代にそうだったのである。

越智直は現地で捕虜になって島に放り込まれた。
たぶん今の舟山諸島のようなところが収容所だったのだろう。今も舟山には観音道場になっている。

それが戻ってきて、天皇はこれを哀れに思い、願いを聞いてやっている。福岡市に越智姓がいくらかある。ここだろうか?




最初の話は朝鮮や日本に多い「卵生説話」の残存が奈良時代にあることがわかる。
しかしこの夫婦はこれを吉兆とは見ていない。むしろヒルコ扱いで土中に埋め隠している。しかしそれでも女子が生まれたから持って帰り育てる。ところが女子には女陰がなかった。やはりこれはヒルコ=異常出産児だろう。

恵比須はそういう異常出産した胎児のことを神格化したものである。出雲神話では八重事代主と言う。「やえ・ことしろ・ぬし」葛城鴨氏の神社高鴨アジスキタカヒコネ神社に鎮守されている。オオクニヌシの子で、国譲りで船に乗って魚釣りしており、出雲を譲ると言ったあと海に消えたという。海人族の神であろう。




真ん中の話は豊前国宮子郡の話。今の福岡県京都郡である。行橋市あたり。ここは豊前国国府・国分寺跡があるが、そこに膳臣(かしわでのおみ)が国司に次ぐ介(すけ)で来ていた。

膳臣氏は古代の斎(にえ)の官吏である。神前に供物をささげた氏族。大伴氏の一派。
神使えた氏族も、仏教では観音にひざまづくのだと言っているのだろう。因果応報。












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天皇木簡





「1998年に奈良国立文化財研究所が、飛鳥池遺跡から出土した木簡の中に、「天皇」の語が墨書きされたものがあると発表した。この木簡は飛鳥池遺跡の北地区の、持統朝を下限とした溝のさらに下層から出土しており、同じ遺構から「庚午」天智9年(670年)、「丙子」天武5年(676年)、「丁丑」天武6年(677年)の紀年木簡が伴出している。

また、この遺構から伴出した木簡の「里=サト」単位を「五十戸」としてあった。飛鳥石神遺跡から出土した多量の荷札木簡から、「サト」が「五十戸」から、のちの「里」に切り替わったのは、飛鳥浄御原令の編纂が始まった681年から683年頃であることが分っている。これらより「天皇」の表記は、683年以前(天武11年)に存在していたことが分る。

※(「国―評―郷―里 くに―こほり―おおさと―こざと」の制定は孝徳朝。その前は里は五十戸と書いた。その後天智朝には評は郡になった。「国―郡―郷―里」。)

唐の高宗が「天皇」の称号を使用し始めたのが上元元年(674年)8月であり、倭国では683年には既に「天皇」表記を使用していた。定説の「天武天皇(672〜685年)に対して最初の『天皇』号が捧げられた」というのが成り立つためには、この僅か10年間に、倭国が唐から「天皇」の称号の情報を得ていなければならない。この事が可能あったか検証してみる。674年8月以前でも、684年以後であっても、不可なのである。
唐から情報を得るとすれば、「遣唐使」の帰国の船である。第6次の遣唐使船の帰国は668年で674年8月以前であり不可。第7次の遣唐使船は出発が669年、帰国年は不明である。20次にわたる遣唐使船の中で、出発と帰国が明確な船は、全てが2年以内に帰国している。これからすると、第7次も674年8月以前ということになり不可である。第8次の遣唐使船の帰国は704年で684年以後となり不可、遣唐使船はいずれも天皇元号の成立に関わることはなかった。
http://syoki-kaimei.blog.so-net.ne.jp/2013-07-13-1

天皇を天武が初めて称するのは死後かその直前である。最初から天皇を称したのは妻の持統女帝から。だから「天皇制」のはじまりと言うと持統からとなる。

天皇制が始まったので飛鳥浄御原令の編纂は開始された。だから律令→天皇制ではなく、天皇制→律令であったことになる。天皇と称したから日本の法律は考えられたのだ。

大王時代には法律はないのである。

聖徳太子の17条憲法?あとから考えられた創作憲法だ。考えたのは藤原光明子と藤原仲麻呂しかありえない。このときから日本人は聖徳太子と17条憲法、和を以って尊し」という聖人・法律があったのだとすっかり思い込み、現代までの1300年間、信じてきた。

ただ、藤原氏はそれを、飛鳥の蘇我氏の手柄だとはどうしてもしたくない。日本国号開始も、律令の始まりも、蘇我氏の事績を消したかった。日本国号と天皇称号は天武からとしてあり、律令は聖徳太子からだとしたほどである。だから蘇我氏の国史を、記紀編纂以後、すべて消し去ったのである。

蘇我氏王権までは大王である。そして天皇と大王のつながりを、継体を河内王権の養子縁組外籍王として置き、天武と天智が兄弟にすることで、大王と天皇の系譜が、切れていないと思わせたかった。




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太刀洗無線所



05/19 21:35  NHK総合 【NHKスペシャル】
米国最高機密ファイル・日本“ネット諜報”の衝撃
マラードが稼働を始めたとされるその頃、金正恩体制に移行した北朝鮮がミサイルを次々に発射。

また中国当局の船が領海侵入を繰り返し東アジアの情勢は厳しさを増していた。
ジャパンファイルにはマラードはNSAと電波部の共同衛星傍受システムであると記載されていた。

リチャードタンター博士はこれまで諜報の世界でサードパーティだった日本はファイブアイズに一歩近づいたように見えるとコメント。

NSA元技術高官・ウイリアムビニーは集めようと思えば衛星を介する通信はなんでも収集できる、国家や組織、ハッカーなどあらゆる情報の中には一般市民のものも含まれているとコメント。

専門家の分析では太刀洗通信所にある11基のアンテナで傍受できる通信衛星の数は約200基。
その中には日本の国内で使われている無線インターネットのやり取りも含まれているという。
安全保障に言及。
https://jcc.jp/news/13500394/



太刀洗町
アンテナ
無線


防衛省の秘密組織がある「大(→太)刀洗通信所」とは?





 新しい門が新設され、古い門柱にかかっていた「自衛隊太刀洗通信所」の隊の看板がなくなり、表札がなくなりました。

 この「太刀洗通信所」は、朝倉郡筑前町(旧夜須町)にあり、映画「月光の夏」で全国に有名になった戦前の太刀洗飛行場跡にありましたが、1961年現在の場所に移設されました。

 毎年の防衛白書で、「自衛隊はわが国の防衛に必要な情報を得るため、上空に飛来する軍事通信電波や電子兵器の発する電波などを収集し、整理・分析している」と述べ、また、97年の「日米防衛協力のための指針」(新ガイドライン)では情報活動について、「日米両国政府は、効果的な作戦を共同して実施するため、情報活動について協力する。これには、情報の要求、収集、処理及び配布についての調整が含まれる。その際、日米両国政府は、共有した情報の保全に関し各々責任を負う」と述べ、自衛隊と米軍が一体で情報活動し、最近の各種施設増設は、自衛隊が米軍の代わりの役割をしていると思われます。

 この自衛隊の通信・電波傍受施設は、北海道の稚内から鹿児島県喜界島までに10ヵ所配置(※注)されており、日本周辺のロシヤ・中国・北朝鮮の出す通信・電波を24時間体制で傍受し、軍事動静などを探っているスパイ基地であります。

(※)北海道東千歳、北海道稚内、北海道根室、北海道東根室、北海道奥尻島、埼玉県朝霞、新潟県新発田小船渡、鳥取県美保、福岡県大刀洗、鹿児島県奄美喜界島

 83年9月1日おこった「ソ連軍」の大韓航空機撃墜事件は、この襲撃状況の交信を、北海道の東千歳通信所の稚内の分遣隊がキャッチしていたにもかかわらず、撃墜を回避する行動は一切とらず、自衛隊が国民を守る」とか言っているのがウソで、自衛隊の情報収集能力が当時のソ連にわかってしまうのを恐れたからにほかなりません。

 この事件を契機に当時のソ連を含め、一部外国はそれまでの通信系の一大転換を行ったと言われており、戦争になれば「敵」の最優先攻撃目標になるということは第一次湾岸戦争やイラク戦争でも証明済みです。

 平成17年度防衛予算は、情報通信機能の強化をはかるため、情報本部を長官直轄組織とし、新たに統合情報本部を新設し、画像・地理部、電波部などの要員の増強を図っています。

 太刀洗は、90年代前半の調査で各種アンテナ群が増加し、管理棟やゲートも更新され、また、ロシアや中国の軍事衛星を追跡するドームが一個新設されたのを、91年8月地元の人が確認しています。

 その後、大幅な増強がおこなわれ、以前の太刀洗通信所の様相は一変している。特に軍事衛星を追跡するドームが増設され、3個となっている点が注目されます。増設されたドームは、以前あったHF・LPAスーパーゲインアンテナ(2基)を撤去しその跡に設置されています。

 HF・LPAスーパーゲインアンテナは、管理棟のある基地の北側に1基移設新設され、垂直式カーテンアンテナもすぐ横に新設されています。

 増設された2個目のドームは01年暮れ頃から基礎工事が開始され、02年暮れにはドームはカバーで蔽われ、管理棟側とドームを結ぶ地下道工事が県道を迂回させて施工され、3基目は03年暮れには完成しています。




中国でのべ2億件超の日本人情報が販売、企業流出も確認--ファイア・アイ
5/17(木) 16:48配信 ZDNet Japan
 セキュリティ企業のファイア・アイは5月17日、中国でのべ2億件以上の日本人の個人情報が販売されていたと発表した。情報の中には同社の顧客企業から流出したデータが含まれていたことも確認したという。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180517-35119345-zdnet-sci

転載元転載元: Kawakatuの、ニュースを料理してしまえ

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合議制クリルタイ


クリルタイ Quriltaiはモンゴル民族の首長合議制
各部族の首長がより集まって合議して決めるスタイルは、世界ではアフリカ原住民、スキタイ、テュリュクなどの遊牧民で採用されてきた。日本では「和を以って」これを行ったことになっているので、これも豪族の合議制だと言える。



ローマの有力軍閥による合議であったが、第1回のときはカエサル、第2回のときはアウグストゥスによる権力掌握によって独裁制に入った。
酋長は調停役。
有力御家人による合議制であったが、北条氏の勢力が強大化し、敵対勢力は放逐され、執権独裁得宗専制政治)に陥った。
五大老による合議。大老の一人徳川家康の勢力が増大し、主家豊臣氏を凌駕するようになった。
4 - 5人の老中らによる合議制であった。
事実上常任理事国五大国による合議制



モンゴルのクリルタイでは、テント・天蓋の元で行われるが、この天蓋のことをモンゴル語でゲル、スキタイなどではパオ、中国では穹廬(きゅうろ)、日本では屋根を意味する一宇(いちう)などと言うが、すべて天・家・屋根・空・宇宙を意味する。トルコ・モンゴルでは天をテングリと言い、西欧では天蓋をテントと言う、いずれも漢字の天のアジア読みである。これはスキタイが東西へ運んだ言葉である。

テングリは匈奴の単于の名にもなっている。天蓋一宇の元で話し合う、その議長のことでもある。モンゴルの最高神はフォルムスタテングリ、ダフール族では父天神アチャテングリ、母天神がアワテングリである。つまり天空の存在がテングリ。ゲルの中にある円形ドーム型支柱こそがテングリ住むところということになる。


古墳の石室がドーム型であるのもそれは空=テングリである。この様式は高句麗や新羅でも同じである。神々は高い山に降臨する。そこがテングリなのである。頂点。



中国語で天をテンというのもスキタイの影響であろう。日本語ではあめ、あまだった。それがあるとき漢字が入って「テン」を音読みにすることになった。同時に合議制も入ってきた。それを天皇制と言う。この天皇制を正当化した言葉が「八紘一宇」である。天皇の下の家族=全体主義理念である。『日本書紀』はこの天皇制の正当化を目的として書かれた政治的史書だったわけである。それを真に受けた人々がかつてわが国にはいた。そもそも藤原氏がリーダーであることの正統性のための嘘っぱち正史だったのにである。

























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記紀にはたくさんの神が登場する。
いわゆる八百神(やおよろづのかみ)である。
日本神話はあらゆる事物・事象・器物にいちいち神がいることにしてある。
これを原始信仰と言う。

いわゆる経典などで成文化されていない精霊である。それを記紀は神だと考えている。しかし精霊である。
またそれを信じることを、厳密には宗教とも言わない。教義がない信仰は、宗教ではなく単に信仰である。

そして記紀神話は神仙思想・道教・陰陽五行などをバックボーンにして作られるため、多神教が原点にあって、やがて人皇時代になるとあとへいくほどに、太陽神に一神教化されてゆくようにしてある。

かつて神々はすべての氏族・豪族・実力者・首長によってまちまちに存在した。記紀はそれをひとつにまとめる必要があって書かれている。いわゆる西欧的に言うなら思想統制と中央集権化である。天皇を頂点とするピラミッドになるように概念的にしてある。

するとそれぞれが祭っていた祖霊や水の神なども、しだいに記紀、特に『日本書紀』の神々に名前も変更された。これを「神名の変更」あるいは「神名の交換」と言う。いずれも思想統制と中央主権によって、豪族たちが天皇の旗のもとに強制的におかれた結果であり、そうしたのは『日本書紀』編纂時の実力者である藤原不比等の政策である。これを国家統一などと言うが、勝手な制度改正である。


水の神
淤加美神 おかみのかみ
実にだぶった名前である。おかみのかみ。
おかみ神は水の神で、大きく罔象女神という女神と、闇龗神(三島神)・高龗神(鴨氏貴船神)という男神がある。

みつはめのかみ は、弥都波能売命とも書き、意味はみずの端=水際にいます女神。
くらおかみ は、四国海人族の三島の神雷神で大山積の関係。たかおかみは貴船神水神で鴨氏の関係である。

※鴨氏には最初、葛城地方で「鴨都波 かもつば」という葛城の水の神を持っていたが淤加美神に改名する。かもつばも鴨氏の水端にいる神で水神だった。
それが秦氏や海人族と婚姻することで、三島神・松尾神が合体。移住した京都では下加茂の松尾大山ツミとなり、ほかは貴船の三島神になる。闇龗神(三島神)も高龗神(鴨氏貴船神)もそういう秦氏・鴨氏・宗像氏・水軍氏族らの神である。松尾神社や下賀茂ではそれが見ることが出来る。上賀茂では見られず、葛城鴨主流派の古い神である高龗神(鴨氏貴船神)となっている。


いずれにせよ本体は鴨別雷神=高鴨アジスキタカヒコネ=賀茂大神であるとしていいと思っている。



それぞれ別々に祭ってきた神々が、『日本書紀』によって統一され、皇祖アマテラスの配下神・水の神・竜神などとして全国へ流布される。しかし地方はいつもお上のいうことを聴かぬもので、いつまでももとの名前を使う。すると力で無理やり平定され、記紀神名を押し付けられることになる。意味は同じことじゃないかと。

そうでなければ、最初から素直に自分から変えてしまう地域も出る。だって、平定されたという話が聞こえてくるから、怖くなるので。

で、おかみであった氏族の原始神はおかみではなくなり、結果的に語尾に神をつけてお上と淤加美を区別しなければならなくなった。

ということはそれまで、その氏族にとっては淤加美(唯一神)がお上の神(唯一皇祖)であり・・・・ああ!ややこしい!
だいたいわかるでしょ?

つまり大王がばらばらの時代だったのが、天武〜持統が天皇を名乗ったときから、そうなっていった。特に不比等の時代に、記録上そうなった。だから全国でそれにあわせた・・・そういう強引なことが大和の国家統一だったわけだから、あくまでも観念上の統一。しかし律令は全国でばらばら。そういうのを世界史では国家とは呼ばないわめである。






























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キラウエアまた大噴火


 【ホノルル=田原徳容】米ハワイ島のキラウエア火山で17日午前4時17分(日本時間17日午後11時17分)頃、爆発的噴火が起きた。

 AP通信は、噴煙が約3万フィート(約9・1キロ)上がったと報じた。人的被害は確認されていない。地元当局は、爆発で生じた火山灰による被害が周辺に広がる恐れがあるとして注意を呼びかけている。

 同火山は今月3日に噴火し、20か所以上の亀裂と溶岩の噴出が確認された。これまでに被害を受けた建物は住宅26戸を含む36棟に上り、周辺住民ら約2000人が避難している。



火山はおしなべて、プレートの切れ目、つなぎ目の真上にある。


それを地理・地形上では海溝と呼ぶ。海中にある場合である。
最も深い海溝はマリアナ海溝で、その北側に連なる日本海溝とつながっている。
ハワイ島だけがリング・オブ・ファイアーの環状列島から離れて見えるが、海中ではつながっているので、ハワイで噴火があれば、必ずどこかに連動する活動が起こる。

実はあの東北大地震の前にも、キラウエアは噴火していたことがわかっている。

つまり今度のキラウエアの噴火活動は、極めて東北沖の海溝に影響を及ぼす可能性があると見なければならない。

そういう視線で昨今の日本での地震や噴火を見ると、長野県から北海道東部沖、伊予灘、岩手、茨城、千葉などの沖での活動が頻繁に起きていることに注目すべきだ。



また、もっと根本的な問題として、地球温暖化がそのひきがねになっているのではないかという疑惑も、持っておくべきである。科学者や学者なら、絶対にこうした可能性を見つめていなければならない。竹田なんたらいう学者のような「温暖化が人的なものかわからない、いやそうじゃないだろう」のような、安易で、不勉強で、危険を感じない鈍感な人間は、学者としては大失格なのである。


数パーセントの疑念があれば、そうであるかどうか証明しようとしなければ学者ではないだろう。
















転載元転載元: Kawakatuの、ニュースを料理してしまえ

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