ここから本文です

HPの比較年表に若干手を入れて書き加えております。



■約4万年前長野県信濃町に動物の解体の痕跡=最古の列島原人存在

■BC1,4000年頃、中国長江流域に文明開始(BC1000年くらいまで存
 続。南朝の前身)
●約1,2000年前 ヤンガードリアス厳氷期が終了し急激に地球気温上昇

■一万年前くらいまでに九州から東北に無紋土器・隆線紋土器が出現
 =半島人あるいは江南人の去来(父方Y染色体北方系Q、C3遺伝子、
 北方系狩猟採集民)

■約7000年前(縄文時代前期)頃、中国長江流域で稲作開始。
●縄文海進始まる。
  黄河流域で栗栽培。黄河流域に文明開始(北朝の前身)。
●地球高温の時代
  東日本の人口急増。三内丸山遺跡出現
  九州有明海内陸部の龍宮洞穴に半島様式の櫛目紋土器出現。 
 =半島南沿岸部人との確実な交流を証明(北方系D2遺伝子漁労民)。 
  九州有明海側で櫛目紋土器を発展させた曽畑式土器の製作開始。
  同時にオサンリ式擬餌針牡蠣殻仮面などが半島南岸と有明海に出現。
  曽畑式土器、海を渡り南西諸島から沖縄本島に出現=西九州と沖縄の
交流を証明。沖縄からひょうたん栽培が有明海へ(南方系C1貝文文化人)
  ※ ゆえに縄文前期の確実な海上交流の存在が確定した。
  長崎県伊木力遺跡から縄文の丸木舟一部が出土。=「縄文人の海上
 交流は丸木舟交易」

■6000年前の岡山県に陸稲米出現(稲作はまだで、米だけが持ち込まれた) 

■BC2500年頃、地球は再び寒冷期に=東北縄文人の南下
→近畿地方にまで南下(落葉樹の南限)
●地球寒冷化の時代

■長江文明、黄河文明(青銅器文明)の寒冷化による南下によって圧迫さる

■BC1050年中国、殷滅んで周興る
■BC800年頃 中国春秋戦国の動乱へ 
■BC450〜330華北の黄河文明が寒冷化で本格的に南下し長江文明滅亡へ
■BC473長江河口域の南朝・呉滅亡、BC334越滅亡。
 ●長江文明人の南北への四散開始。南朝から北朝時代へ。
 長江人(Y染色体遺伝子O2)は四川雲南からベトナム北部(Y染色体遺伝子O2a)
へ、チベットへ(O2a)、中国河口部から北東部を経由して半島へ(O2b)、そして
少数のあるものは早くも直接船で日本列島(O2b)へ(蓬莱伝説が影響?)
→ 九州で弥生時代早期が始まる。佐賀県唐津菜畑で水田稲作開始・水田は長江
 様式の最新型が到来。=長江流域人(Y遺伝子系列O2b)の到来→弥生人へ
 これ以降、弥生人と先住縄文人の混血が始まり、北西部九州沿岸域「倭人」へ。
 現代日本人の祖先となってゆく。


■BC400年頃から遠賀川式土器の北上=九州人の北上→東北で稲作開始
 福岡県に前漢鏡を副葬した大首長墓出現(須玖岡本・三雲南小路)
 島根県意宇地方に田和山遺跡


■BC221 始皇帝中国統一、秦建つもすぐに内乱
■BC202 劉邦前漢起こす
■BC194年 燕の衛氏朝鮮建つ
九州に実用青銅器
 近畿に銅鐸。出雲に大量の銅剣・銅鐸集中
 九州の古墳に副葬用非実用鉄器(威信財)登場(黄河文明の後裔である北朝文化へ
 の切り替え時期)
 九州に環濠集落出現(吉野ヶ里)
 瀬戸内海に高地性集落
 南島の貝殻北海道に出現=「貝の道」完成(南方系父方遺伝子の混入)
 倭人、百余国に別れ、一部が楽浪郡に朝貢
■BC108年前漢、衛氏朝鮮滅ぼす
■BC100頃半島に高句麗建つ
 前漢匈奴対策に躍起


■AD8 王莽(おうもう)前漢を滅ぼす
■25年 光武帝後漢興す
■AD57年 奴国の首長後漢の光武帝に朝貢、金印授受さる
■107年 倭国王帥升、後漢に生口献上
この頃以後、各地に独自の大型墳墓出現
■111年 高句麗後漢に朝貢。
■184年 黄巾の乱。
■189年 公孫度、後漢により遼東太守に任命、そのまま後漢から自立
→後漢滅亡、曹操立つ
■208年 赤壁の戦いで曹操敗れる

三国時代へ
半島に辰韓十六国が存在
■204年 公孫度、帯方郡を楽浪郡を支配下にし、その南に設置 
■233年 魏、青龍元年
■237年 魏、景初元年
■238〜9年 公孫氏滅亡 
邪馬台国を首都とする倭人連合国の女王卑弥呼魏に朝貢し曹操の孫・明帝に奉献を願う。
■246  魏、高句麗首都陥落させ、高句麗東川王東へ退避し、
       魏撤退のあと立ち返って首都平壌城(現在のピョンヤンと
        は別の場所)再興。
■248年頃 女王卑弥呼死す
■263年 魏、蜀を滅ぼす

■265年 司馬氏、西晋起こす(武帝)
■280年 呉、西晋に滅ぼされ、西晋中国統一。呉の民衆、長江南北地域へ移動。
■281年 八王の乱で、西晋乱れる。
■304年 匈奴、漢を興し五胡十六国時代に

■313  高句麗、楽浪・帯方(テバン)郡を滅ぼし、大同江流域にまで領土拡大
  この頃馬韓の伯済国(パクチェ・グク)が漢江(ハンガン)流域小国家を統合し百済(ペクチェ)成立。
  その後、四世紀後半、辰韓の斯盧国(サロ・グク)、慶州周辺の小国をまとめ新羅(シルラ)成立。
   半島最南部に伽?(カヤ)同盟(連合国家)誕生→6世紀くらいまでに大伽?へ発展→ 四国時代へ

■317年 東晋興る
 この頃半島に百済興る 
この間の倭国の外国での情報無し。記紀は三輪王朝の存在を記述するが不明。
 謎の四世紀
 理由は中国の動乱で史書作成されず。
■342 中国本土の動乱に乗じて高句麗の西側にある鮮卑前燕(慕容?・慕容燕国)、高句麗を攻略
■355 前燕、高句麗を柵封 
     高句麗北方を前燕に奪われ南下政策をとる。
■360年前後、中国本土の動乱期に乗じて高句麗の西側にある前燕、高句麗の領土をうかがう。
      高句麗北方を後燕に奪われ南下政策をとる
 高句麗の南下によって百済・新羅は加耶方面へ押し出される。
■371 百済、高句麗の平壌城攻める。高句麗故国原王戦死。
■372 高句麗に仏教伝来
■375年 高句麗南下で危機感を持った百済の近肖古王、倭国に七支刀を贈り
援軍を望む。
■382年 加耶、新羅によって滅亡。葛城襲津彦阻止でんとするも失敗。加耶人民の列島渡来へ。
 (事実上の渡来開始・葛城襲津彦、秦氏工人を連れ帰るも、妨げられなかなか戻れず。
 支配者だけ葛城へ連れ帰る?部民・工人らは別途筑紫へ?)
■384  百済に東晋から仏教伝来
■390年 新羅が倭に太子を人質に出し、高句麗の侵入へ援軍を依頼。 
■391〜2年 高句麗広開土王即位。
■392年秋八月 高句麗が南辺をこえて百済を侵す。平壤に九寺を創建。
■393年秋七月 百済が高句麗へ侵入・・・これは高句麗側の言い分なので
実際は百済の北辺に高句麗が侵入したのが正しい。
■394年秋八月 広開土王、百済と海戦、これを大いに破り、捕虜八千余を
獲得した。
■396年 領地拡大に高句麗が半島南部に攻め込んだので、百済と新羅が
 ともに倭に人質などを贈って援軍を依頼し、倭はそれに応えて援助した
■397年 『日本書紀』百済が太子・腆支(直支)を質にし、救援を求めてきた。
■398  慕容徳、滑台(河南省滑台)に自立して燕王を称す(南燕)。
■399年 百済は先年の誓いを破って倭と和通した(高句麗側の言い分)。
 先に攻めたのは高句麗。そこで広開土王は百済を討つため平譲に出向いた(攻め込むための大義名分)。
■400年 後燕の 慕容盛、高句麗を攻撃して、遼東を奪回高句麗は5万の大軍を派遣して新羅にも攻め込んだ。
 新羅王都を守っていた山ほどの倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。
ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
■403年 百済から倭へ機織女貢上
■404年 阿直支、倭へ良馬二頭献上
■404年 百済、王仁博士を倭に贈る。すべて援軍要請のためである
倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に(百済のために)援軍を送ってきたので、
 広開土王は立ち向かった。


■425年 倭王讃、宋に朝貢。近畿古墳に鉄器副葬始まる。倭五王時代始まり
■427  高句麗、平壌城遷都
■433  新羅・百済同盟
■438年 倭王珍、宋に朝貢 羽曳野丘陵に巨大古墳登場
■443年 珍死して倭王済、宋に朝貢(ここで倭王の系譜が弟一族に切り替わる)安東将軍爵位。
■475  高句麗、百済の漢山城攻略。百済首都を熊津(ユウジン・くまなり)へ遷す
■477年 倭王武即位、上表文を宋に送る。百済救援。
       吉備・葛城王家滅亡し、代わって大伴・物部・尾張氏台頭

このあたりで光州栄山江沿岸に九州式の前方後円墳造営開始?一世代だけの墓13基
肥後の火葦北国造一族の墓か?近畿の吉備・葛城系氏族が筑紫を中継地にして狗邪韓を開発したか?

■503  新羅、国号・王号定める

このあたりで武寧王、オオドに鏡を贈ったか?
■507年 男大迹王が河内国樟葉宮にて治天下大王に即位(継体大王)
■512  倭国任那四県百済割譲、百済記述は奪取。
     (『日本書紀』は下さいと言ってきた、百済側は奪い取ったと記録。)   『日本書紀』代わりとして五経博士来日?漢字その他の伝来?もっと早いだろう。卑弥呼は文字を知っている。
立場の違いで記述も正反対になる。大伴金村これによって権威失墜。大伴氏衰退。

■520  新羅、律令頒布、官の衣服を制定(日本の冠位十二階に当たる)
■522  司馬達止、来朝し、草堂に本尊を安置?(『扶桑略記』)

仏教も文化も、豪族・商人らはとっくに持ち込むが、渡来人も自前で持って来る。しかし宮中全体的な公伝にはならない。秦氏は新羅系の弥勒信仰や「後戸の神」を持ち込んでいる。

■525  百済武寧王陵築造
■527  新羅、仏教公認 
      筑紫国造磐井の乱
■531  『百済本記』に日本の天皇及び皇太子・皇子ともに死すと記録される
■532  新羅、金官国(南伽?)併合
■534  武蔵国造乱を起こす
■536  蘇我稲目宣化大王?の大臣となる 
■538  百済、泗沘(しび)城遷都(国際関係の巻き返しねらう)
      ※この頃、新羅、真興王(チヌン・ワン)によって花郎(ファラン)制度始まる(弥勒信仰が深く関わる)。
      のちに王族花郎の金春秋台頭
      (このあたりで百済から畿内倭国へ対新羅対策として仏教公伝か?ここでなら弥勒信仰も付随できる)

■539  欽明大王即位? 飛鳥時代へ
■552  蘇我稲目、百済から仏像下賜され、小墾田の自宅(のちに推古女帝小墾田宮に)に安置。
      新羅、漢山城を百済から奪取(百済挽回策で倭国へ仏教を?)
■562  新羅、大伽耶(高霊伽耶)を滅ぼす。
      蘇我稲目へ高句麗から美女、妻にする。
■586  高句麗、長安城に遷都
■587  蘇我馬子が仏教受容反対派の物部氏を滅ぼす(丁未の乱)
■588  百済から寺工人・鑢盤(ろばん/仏塔の相輪の部分)博士・瓦博士・画工ら貸与さる。
      皇極女帝、これらと飛騨の工人たちを饗応す
      蘇我氏飛鳥寺造営開始。百済昌王、自筆署名の仏舎利容器贈呈。飛鳥寺仏塔地下に埋納さる
■612  煬帝、高句麗攻撃(薩水の戦い)
■642  新羅に淵蓋蘇文(えんがい・そぶん)台頭 
      ※この頃 王族花郎の金春秋台頭
■644  唐、高句麗に開戦宣布
■645  安市城の戦い 高句麗、唐に勝利
      乙巳(いっし)の変で蘇我氏本家滅亡。
      翌年大化の改新?孝徳大王難波へ遷都
■654  新羅、金春秋即位(武烈王、太宗)                 
■655  金春秋、将軍・金庾信とともに巧みな外交(花郎大活躍)
■660  新羅、唐と連合し百済滅ぼす
■663  新羅・唐連合軍、白村江に百済・倭連合艦隊を大破し百済再興は消滅。
      百済王族大挙して倭の近江(蒲生郡など)などへ
      中大兄、天智天皇に。母斉明天皇の死を悼み各地に寺院。近江に遷都 
■668  新羅・唐連合、高句麗を滅ぼす
■672  壬申の乱・天武天皇即位
■676  新羅、三国統一
■683? 天武、飛鳥浄御原宮から藤原京遷都
■685  藤原不比等初出、判事に。草壁皇子に出仕。母・鸕野讚良にまみえる。
■686  鸕野讚良、はじめての「天皇」称し即位
■687  新羅、郡県制
■698  渤海国興る

■710  元明女帝、平城遷都 奈良時代へ
■712  『古事記』成立
■720  『日本書紀』成立

■794  桓武天皇、平安遷都・平安時代へ
■892  後百済興る

■901  後高句麗興る
■926  契丹、渤海を滅ぼす
■935  新羅・敬順王、高麗に降り新羅滅亡
■936  高麗、後百済を滅ぼし半島再統一

      平家台頭。武士の時代(中世)へ


■1180 源平合戦開始
■1185? 源頼朝、鎌倉幕府
■1231 モンゴルが高麗に侵攻→元国
■1259 高麗王朝、モンゴル帝国に降伏→モンゴル・高麗軍、日本へ=元寇
       反元運動高まる

      文永・弘安の元寇
      室町幕府

■1392 李成桂、王位に。高麗王国滅亡→翌年国号を朝鮮に   
■1418 世宗即位
■1443 世宗、ハングルを創製
■1467 応仁の乱発生〜1477
      戦国時代へ
■1590 豊臣秀吉朝鮮侵攻
   ※天下統一後、秀吉はそれまで使ってきた家臣やその下にいた草、非人たち(これが秀吉の躍進の影の功労者である)のいくさ中毒状態を抑えきれなかった。それでそのはけ口として海外に矛先を向けざるを得なくなった。このとき、浜松殿(徳川)を敵に想定する想像力があれば、この朝鮮への迷惑な派兵はなかっただろうし、豊臣の天下は続き、歴史は随分変わっただろう。

■1607 日本と国交回復(・徳川家康の江戸幕府との通信使交流)
■1636 清国、朝貢を要求、清の支配的時代続く     
■1832 イギリス、アーマスト号寄港し通商を要求            
■1897 国号を大韓帝国に改元 
■1925 朝鮮共産党結成
■1905 第二次日韓協約調停
■1906 日本、朝鮮総督府を置く
■1941 太平洋戦争勃発
■1945 日本帝国主義の植民地支配から解放
■1948 チェジュ島人民蜂起、大韓民国樹立・朝鮮民主主義共和国樹立
■1950 朝鮮戦争勃発
■1963 朴政権
■1965 日韓基本条約調印
■1973 金大中事件
■1994 金日成死去
■2002 日韓ワールドカップ開催 




データベース 水野俊平著・李景Υ峠ぁ愆攅颪領鮖法找禄仆駛漆啓辧2007 
       関周一『日朝関係史』吉川弘文館 2017
       遠山美都男 敗者の日本史1『大化改新と蘇我氏』吉川弘文館2013
        Wiki6世紀





この記事に

開くトラックバック(0)


前回、光州栄山江沿岸域の13基ばかり存在する前方後円墳の主について、筑紫つまり九州勢力の墳墓であろうと書いておいたが、章の最後に、それとなく吉備・葛城氏のことを書き添えてもおいた。そして熊本の葦北国造が吉備王由来氏族であることも付け加えた。

つまり、倭五王時代の九州には、吉備・日本海由来の管理者が入っていたというわけだ。『日本書紀』では火葦北国造刑部靫負阿利斯登の子・日羅は大伴金村を「わが君」と呼んで崇拝しているとあり、金村が蘇我氏時代よりかなり前なのに、もう生きていたのかどうかは疑問だが、その時代には要するに『日本書紀』では河内王朝時代に大伴氏が靫負(ゆげい)部の大親分であって、西日本一帯に弓・武芸の集団を率いて管理していたことになっている。

こうしたことから以前もここで、九州の靫負集団はすでに河内王家の支配下に、ある程度はいってしまっていると考えざるを得ないことになると論じた。それを『日本書紀』でなく、現実的な倭王五人に置きなおせば、どうも吉備氏は王の宰相・外交を担う氏族だったとなる。そうすると、河内の巨大古墳に匹敵する全国最大規模の前方後円墳が吉備に二基あることが理解できることになろう。いわばそれほど信頼されていたのが吉備王後裔氏族だったこととなる。倭呉王か、河内王家かわからぬが、いずれにせよ吉備氏が、『日本書紀』の言うとおり伽耶経営を任されていたことは否定しにくい。


このわけはさほど難しくはない。

そもそも倭五王は河内に本拠を置き、そこは当時、古河内湖・古奈良湖が連なる二重潟湖(せきこ)である。大阪湾が深く入り込んだ日本最高の良港。だから彼らもそこを選んだ。その理由は、倭王がそもそも海の氏族で、瀬戸内を輸送路とした交易商人氏族だったからであろう。だから当初は海外への玄関口だった筑紫、有明を通じてすでに存在していた弥生からの貿易港システムに依拠したが、畿内へ向うとき、やはり吉備という歴史ある王族が出雲と丹後を港にして自在に半島伽耶と通交していることを重視し、血縁関係を結ぶことになったわけである。

纏向遺跡以前から、四国の讃岐や河内湾には吉備系土器が来ており、大和のフル式土器の基礎がそれだったと考古学では言われている。
吉備氏は弥生時代から近畿にいたのだ。


つまり、王家の貿易・外交の主力コースが近畿から遠回りな筑紫よりも、身近な吉備〜出雲に切り替わったということになる。それはすなわち同時に筑紫の低迷を導いてしまっただろう。

しかも、その後、天武天皇以前から、信濃という内陸部の小国が、高句麗をメインに外交をしていた情報も入った。高句麗系積石塚を擁する松本平・安曇野には、安曇連というそもそもは日本海・玄界灘を又にかけた海人の長がいた。すでに弥生時代の根塚遺跡からは渦巻き紋装飾付鉄剣など、半島の遺物が多く出る。畦地遺跡では伽耶系耳飾が出る。信濃は北陸へ出るよい中継地であり、北陸からは新羅系垂飾耳飾などが出る。要するに古墳時代の国内把握は多元的で、取捨選択がバラエティだったのである。百済の倭人系官僚に「斯那奴 しなの」という人名すら散見できる。

そうした中で、既得権益を巡ってやがて吉備氏は煙たい存在にもなったのだろうか、『日本書紀』雄略天皇が葛城氏とともにこれを滅ぼしてしまう事態も起こり、倭王の衰退も始まったのだろう。しかし、吉備・出雲・諏訪などが優遇されれば、当然、筑紫はだまっていられない。やがて筑紫君磐井の反乱が起こってしまう。

阿蘇ピンク石石棺が、継体の今城塚古墳を最後に一旦ブームが終わるのも、吉備氏由来の葦北国造家が倭王の描くよき臣下の範疇からはずれてしまったからだろう。そしてそれもまた倭王王家衰退の象徴的証拠品となったと言える。絶頂期からまっしぐらに衰退は始まる。それも歴史だ。まるで小池百合子人気の凋落のようである。

葛城氏の遺跡、有名な古墳には、彼らもまた靫負の一角を担った証拠である弓入れの埴輪が出て、そこに直弧文が描かれていた。直弧文は吉備の古墳からも出る。つまり両者は靫負でつながる豪族でもある。

すると、光州の前方後円墳群からももし直弧文や弓矢に関する遺物が出てくれば、それらが葛城や吉備に関わる大伴靫負集団だと証明できるのだが。

直弧文で考えるなら、熊本の阿蘇ピンク石露頭に近い井寺古墳その他の古墳にもそれは描かれている。もし直弧文のデザインが吉備由来の王の紋章であれば、その被葬者は間違いなしの葦北国造一族だとなるだろう。彼らは吉備から倭王によって筑紫・肥後に派遣された人々だ。


直弧文は、そのデザインの前身が吉備・楯築の弧帯文であるとされる。そしてそれより前には3世紀纒向遺跡からよく似た弧文が出ている。これらが真実、同じ流れから変化した神仙思想の象徴なら、それは伽耶や公孫氏燕のあった遼東、帯方郡などで出てきてもおかしくないわけだ。もしそうなったとき、これは九州王朝を主張する人々には青天の霹靂になりかねない。なぜなら3世紀、すでに九州は近畿の支配下に入っていたあかしになるからである。


魏志倭人伝は卑弥呼の政治が鬼道を用いて民衆を惑わせていると書く。同じ鬼道を遼東の黄巾党も使ったという。それが同じものかどうかはわからねど、漢字にうるさい中国が同じ文字で表現したものなら、少なくとも似た信仰形態だったはず。それは公孫氏燕も利用した。ならばそれは卑弥呼と同時代の観念であろう。その象徴が纒向の弧文円盤だったのか?やがて公孫氏を通じて神仙思想の象徴は神獣鏡へと変化する。それは公孫氏が一時的に呉王と親密だったからではないか?神獣鏡もまた、筑紫の象徴的鏡だったことはない。

磐井の乱によって、筑紫の残照的権威・権力は歴史から消える。筑紫は衰亡し、迎賓館としての役目になってしまう。しかし、平安末期まで、実質、輸入品の既得権益は筑紫があらかた持っている。ために平安時代は衰亡し、武家集団平家が登場するのである。そのまま時代は武家社会の中世へまっしぐら。応仁の乱の混乱を招くと、政治の中枢は東へ動く。再び寒冷期は訪れて世は信長たちの群雄割拠へ・・・



筑紫の衰亡は、日本全土を変えるきっかけになったのである。磐井の乱はそれほどの歴史的敗北だったと筆者は言いたい。そこに2世紀までの筑紫の栄光を垣間見る思いがする。




おまけ
崇神天皇四道将軍のうち大彦命は北陸道を平定して、会津で、東海道を平定したタケヌナ河と出合うとあるが、出雲の特徴的弥生墳墓である四隅突出型墳丘墓は、まさに出雲から北陸道を経て会津に到達して消えている。『日本書紀』神話から歴史は出雲を重視してきたが、実は四隅突出型墳丘墓の始まったのは広島県の三次からであり、日本海岸部出雲へはあとで伝わるし、それは彼らイズモ集団が、まず広島に定着して墓を持ち、出雲へと出て行ったとなるだろう。そして出雲を大和よりも先に良港として半島交易を開始していたのは筑紫と吉備なのだ。その証拠は出雲に九州式横口式石棺、吉備の楯築の特殊器台が出るなどで確実。すなわち、神話のように大和が出雲を掌握するのは継体天皇時代くらいだったのである。遺跡や古墳や半島系遺物でも、実は丹後や北陸のほうが充実したものが出る。出雲を代表する弥生遺物は銅剣・銅鐸であり、鉄器がない。つまり古墳時代までは、出雲はまだ先進地帯ではないのではあるまいか?


















この記事に

開くトラックバック(0)


イメージ 1

265年 魏滅んで司馬氏西晋成立
280年 西晋、呉を完全に滅ぼす
291年 八王の乱起こり西晋の東方統治おろそかに。半島諸国活動活発化
311年 西晋滅亡
313年 高句麗美川王、楽浪・帯方両郡を滅ぼす。二郡の中国人高官らを接収し、半島北部を掌握。これにより、南部韓地域は中国の属国から解放された
337年 遼東の慕容皝、前燕建国

西晋滅亡と混乱の時代(狭義の五胡十六国)・・・それは同時に、今度は半島南部全域が高句麗の圧迫を受けることになっただけだった。そこで韓地域に独立機運が高まった。馬韓地域では五十余国の小国の中で力があった伯済(はくさい)が四世紀半ばに百済となる。東岸辰韓では斯盧(しろ・しら)が新羅へ。南岸部弁韓では金官伽耶が力をつけた。しかしいずれも統一とは言いがたく、どこも昔ながらの一強多弱の状況には変わりなかった。

313年、西晋が滅びた翌々年には、美川王がさっそく中国の出先機関を襲い、これをうばった。遼東地域には慕容(ぼよう)氏が勢力を広げつつある。これが高句麗と北部でいがみあいをはじめた。慕容皝が前燕を建国するさいに勢力争いに敗れた冬寿(とうじゅ)が高句麗へ亡命した。冬寿は高句麗で独自の存在となり、前燕に反駁する一派の受け皿となってしまった。これを受けて前燕は342年、高句麗の首都丸都(がんと)を攻略。先代美川王の墓を暴き、王母・王妃を拉致する。これを見た故国原王(ここくげん・おう)は前燕に臣下を自称して滅亡をかろうじて回避しようとする。しかしこの一件があって高句麗の新羅方面への侵略は頓挫。南下方針へと変換し、百済と対峙することになる。

371年、故国原王敗死し、百済は一応勝利。翌年、百済は東晋へ使節派遣し冊封を受ける。これにて百済の朝鮮での地場は固まった。また倭国へは七支刀を贈り、倭国と親和する。

377年 高句麗の南下がおさまり、新羅も華北にあった前秦へ朝貢。
383年 中国で淝水の戦い。五胡十六国時代最大規模の混乱始まる。いわゆる中国に倭関連文献のない謎の四世紀である。高句麗の南下はこうした中国の数度のどたばたのたびに起きる。結果的に東晋が勝つ。
391年 高句麗、内政の復活を図り充実させた広開土王(好太王)が立つ。固有の官位、年号なども作って、国内を律令的国家へ。再び南下政策。百済のたのみで倭国北上。広開土王と対峙する。
396年 高句麗、報復として百済を攻める
広開土王、百済・倭連合に対抗して新羅を「奴客 どきゃく」として軍艦をおしつけ、無理やり同盟臣下に。北方の契丹、粛慎、東扶余を征服。
413年 高句麗長寿王即位




広開土王碑金石文(倭に該当する部分のみ)

百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民

新羅・百残(百済)はそもそも(わが高句麗国の)属民であり、かつてはむこうから朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・■■(伽耶か?)・新羅を破り、臣民となしてしまった。Wikiの翻訳では「399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。」となっている。

解説
広開土王碑文そのものが、まず高句麗を称える健勝碑であるから、当然文面は高句麗・広開土王が南の韓へ攻め込む行為を正当化しようという意図で書かれている。そうすると、海を隔てた別の国である倭国にすべての責任や原因を持たせることで、「おまえたち韓を私が攻めた原因は倭人であって、それはおまえたちが倭人の臣民と成り下がったゆえである」と言いたいのである。真実、百済・新羅・伽耶が倭国に支配されていたわけではない・・・というのが日韓の学者たちの判断であるようだ。「高句麗王が新羅の救援願いでしぶしぶ倭と対峙したのだ」と正当化してある解釈である。なお「百残」は百済を見下した表現。




倭国の半島進出の目的は3世紀の頃と変らず伽耶の鉄資源の獲得である。伽耶地域には百済や新羅のような突出する国家はなく、小国割拠。金官伽耶も安羅も小国だった。ゆえに、南岸部に出先機関としての「倭の北岸」的な場所を持つとすれば4世紀〜5世紀初頭はうってつけだろう。高句麗と百済・新羅がきな臭い期間であった。どさくさにまぎれて南岸部を掌握しやすい。そのために目の上にある百済と戦略上の結びつきを持てば、倭にとっても恩が売れるから、伽耶の鉄は掌握しやすくなっただろう。なにしろいくさするには鉄がいる。百済も認めぬわけにはいかない。広開土王の南下に対して軍を送ったのは、さて大和か筑紫かとなるが、光州の前方後円墳を見ればそれが筑紫の倭だったことはあきらかである。九州式横穴の石室、ドーム型の石室・・・肥後氏族か?となる。古墳時代前期では、まだ大和は竪穴式石室で、鉄器威信財も少ないから、このときの倭の援軍はまず筑紫勢力。するとその勢力は?それはあとで。



420年 東晋滅亡して宋成立。高句麗と百済・倭の対立はピークに。

宋、高句麗王と百済王に大将軍位。遅れて翌年、倭王へ安東将軍。
大将軍と将軍では歴然として格の違いがあった。大統領と首相の違い。前者は元首であり、後者は朝貢関係である。しかしながら『三国遺事』には、新羅が対高句麗援助の見返りとして、倭に人質(王子未斯欣 みしきん)を贈ったともあり、半島内部での立場は中国が思っていたほどの上下関係にはなっていない。この王子はやがて新羅に逃げ帰ったと『日本書紀』『三国遺事』が伝える。また百済も太子腆支を倭に贈っている。人質とはいっても、この当時の「質」は盟約遵守の証拠であり、上下関係があるからではなかったらしい。

ただ、新羅に対しては、地の利の悪い東岸部の新羅が、裏切るケースも考えたはずで、その見返りと考えた戦略もあっただろう。新羅を百済同盟へ引き込むという作戦もあっただろう。倭王珍はそういった意味で新羅・百済の連合、ひいては統一も倭がなしえますよという含みも持たせて宋へ爵号をねだったのだろう。

しかしこのとき倭王珍は、なぜか伽耶のことは併記していない。韓統一を匂わせるのなら伽耶も併記してしかるべきだろう。もしや伽耶そのものが倭の領土だったからではあるまいか?

4世紀の伽耶(加羅)には金官国があり、王姓は※新金氏である。かつて滅びた公孫氏の末裔が日本に公孫淵(こうそんえん、公孫氏最後の盟主。子孫は滅亡後に日本へ亡命したとも)を祭る※常世岐姫(とこよきひめ)神社を八尾市に持ったのとは少し違うが新金氏には仏教の大師となった人がいる。※真鏡大師である。石碑に「大師は俗姓新金氏、その祖は任那王族」とある。任那王というのがつまり金官王であろう。



八王子社とも。祭祀は公孫淵子孫を名乗る常世連(とこよのむらじ)氏。これはいわゆる筑紫の赤染氏の名乗りである。

染色をなりわいとし、福岡県田川郡香春岳の古宮八幡採銅所に関わる氏族。宇佐の辛嶋氏とともに銅鏡製作、機織、染色に関わった神事氏族で、ともに半島渡来人氏族。福井・香春の敦賀氏も同じ。

※真鏡大師
昌原鳳林寺址真鏡大師塔
大師諱審希俗姓新金氏其先任那王族草拔聖枝每苦隣兵投於我國遠祖興武大王鼇山稟氣鰈水騰精握文符而出自相庭携武略而高扶王室
Wiki任那より

※金官国の新金氏については諸説ある。いわゆる金官金氏で任那王だった、金海王だというのが主流。新羅王家の金氏とは別族。ただし加羅と任那の地理関係にも諸説ある。

たとえば・・・
「(高句麗広開土王碑)
⑮(永樂)十年庚子〔400〕教遣歩騎五萬住救新羅從男居城至新羅城倭滿其中官軍方至倭賊退自倭背急追至任那加羅從拔城城即歸服安羅人戌兵

  (『三国史記』列伝第六 強首)
⑯及太宗大王即位〔654〕、唐使者至傳詔書。其中有難讀處。王召問之、在王前一見説釋無疑滯。王驚喜、恨相見之晩、問其姓名、對曰、臣本任那加良人、名字頭。

  (真鏡大師宝月凌空塔碑 924年)
⑰大師は諱は審希で、俗姓は新金氏である。その祖先は任那王族で、・・・わが国に投じた。遠祖の興武大王は・・・武略を携えて王室をたすけついに二敵(百済・高句麗)をたいらげた。(田中俊明『大加耶連盟の興亡と「任那」』による)

    ⑮は同時代史料の金石文であり、政治目的があるとはいえ、その内容の信頼性はかなり高い。任那加羅は五十年後に倭王済が宋の皇帝から除授された号「都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東將軍」にあり、広開土王碑文にある「任那加羅」が「任那」と「加羅」であることを示している。

   それでは⑯の「任那加良人」はどうなのだろうか。「任那と加良人」では、一人の人間についてのことであるから意味が通らない。任那と加羅は『宋書』によれば、それぞれ一つの国として書かれている。しかし倭王珍の自称を除き、任那と加羅は常にセットであることも忘れてはならない。任那と加羅は地理的にも政治的にも非常に近い関係にあっただけではなく、同族だった可能性も含めて考えなければ「臣本任那加良人」は理解できない。任那と加羅は別の国であるが、非常に近い国、血縁関係にあった国と推測される。

   ⑰は[「任那」について]ですでに述べたとおりである。任那王族とは、始祖首露からの王族のことではなく、仇亥が新羅に投降した後にさらに投降した真鏡大師の先祖のことを指しているのであり、新金氏の先祖が任那王族だといっても、金海金氏も任那王族だったとはいえないのである。したがって田中俊明氏のように、任那を金官国だと言い切ることはできないのであり、この塔碑の碑文からは、任那は「任那」でしかないのである。

   朝鮮史料からいえることは、任那と加羅は別国であっても、血縁関係も考えられる、互いに非常に近い国であり、さらに任那が金官国だと決定づけるものはない、ということである」
http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/note11.html




5世紀には内陸部の半跛(はへ)国が勢力を持ち、「大加耶」と呼ばれるようになる。479年、加羅国の荷知なる王が南斉に使節を派遣したとあるが、この人は大加耶王の嘉悉(かしつ)であると言われる。「かち」「かしつ」・・・よく似ているが、倭国にも「か」ではじまる大豪族がいる。彼らも四世紀、加耶の鉄採集権益によって倭五王の妃を出す母方氏族になっている。葛城氏である。

さて、倭王は加羅の管理を大吉備氏という豪族に任せていたと『日本書紀』は言う。吉備王一族は葛城氏とともに倭王へ妃を出す氏族で、両者は大和・河内の葛城山周辺で隣り合って住まった氏族。つまり両者ともに倭五王の宰相である。彼らは外交官として加羅・伽耶ばかりでなく倭の筑紫へも管理知事として入っている。具体的には、吉備氏では火葦北国造刑部靱負阿利斯登(おさかべのゆけひありしと)はあきらかに吉備の王族の人である。例の宇土の阿蘇ピンク石石棺を近畿に送っただろう氏族だ。その子供が百済高官だった日羅である。





次回、金官滅亡から武寧王誕生まで

 

この記事に

開くトラックバック(0)


本論に入る前に、まず中国の1〜2世紀、「光武帝」「桓霊時代」「中平」年について解説しておく。


前置き、中国のここまでの流れ(光武帝時代)と韓地名の初出
「新(8〜23)代からの混乱は、王朝の把握人口を激減せしめた。実に漢末約6000万人の4割にも満たなくなってしまったのである。これは、現行の統治機構、防衛機構それ自体の維持にさえ支障の出る数字である。

漢を号して再統一を目指した劉秀(後漢・光武帝)は、遼東郡に自立していた王調を30年に討滅すると、楽浪郡統治の縮小に着手した。

楽浪郡掌握の30年には、旧臨屯郡系の東部都尉を廃し、日本海側7県を放棄、在地の<シ歳>(穢貊)を侯に任じて統治を委託した(不耐<シ歳>侯、華麗<シ歳>侯、沃沮<シ歳>侯の三侯)。次いで、32年に「下句麗侯」を「高句麗王」に戻し、44年には韓人の蘇馬譴鰺厳に任じて楽浪郡南境の安定を図った(漢廉斯邑君)。この流れで57年に倭人が漢委奴国王に任ぜられている。

この44年の韓侯が、「韓」の初出であり、以降半島南部は「真番」でなく「韓」と呼称されるようになる。また、57年の漢委奴国王が倭王の初出である。なお、倭人が邑君、侯よりも高位の王号を与えられたのは、単に人口の多さに由来すると考えられている。
こうした漢の周辺宥和策は、東北辺境での安定をもたらす一方で、周辺所属の組織化を促すものであった。」




中平(ちゅうへい)は、後漢の霊帝劉宏の治世に行われた4番目の元号である。
西暦のAD184年〜189年を指す。

●中平年中の出来事
元年2月:黄巾の乱が起こる。
元年3月:党人の禁錮を解く。盧植・皇甫嵩を黄巾賊討伐に派遣。
元年11月:黄巾の乱を一旦鎮圧。
元年12月:光和7年を中平元年と改元。
6年4月:霊帝崩御。少帝劉弁が即位。何太后が朝に臨む。
6年8月:大将軍何進が宦官に殺される。袁紹、兵を率いて宮中の宦官を誅殺。并州牧の董卓が兵を率いて洛陽に入る。
6年9月:董卓、少帝を廃して献帝劉協を立てる。何太后を毒殺。
6年11月 : 董卓、相国となる。
(奈良県天理市和邇の東大寺山古墳出土鉄刀に
「中平□□(年)五月丙午造作文(支)刀百練清剛上応星宿□□□□(下避不祥)」
と金象嵌された文字があった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3

天理市の和邇(わに)から櫟本(いちのもと)にかけては、和邇氏と関連氏族の拠点であるとされる。ということはつまり少なくとも中平元年〜6年の期間のどこかでこの鉄剣は造られて、直接、あるいは韓地域、あるいは公孫氏の建てた帯方郡を通じて、和邇氏がこれを手に入れた=通交があった、ことになる。それはちょうど後漢が霊帝の治世で、世界は寒冷期で、倭で大乱が起きていた時代に該当するし、奴国王が金印を受け取る時代である。いわゆる邪馬台国前夜の話だ)











イメージ 1

2世紀後半ごろ、それまで安定していた弥生時代の気候が急転し、寒冷・乾燥期になる。以前もここに詳しく書いた、パンデミック大変換期の始まりである。さきがけはタウポ火山(ニュージーランド)の大噴火だった。これによっていわゆる現代でもやがて起こるはずと考えられている、大量燃焼エネルギー蓄積による硫酸エアロゾルを含んだ噴煙は地球を覆い、縄文海進以来温暖で安定していた弥生時代の気候は一変。

後漢では、まさに桓帝・霊帝の期間に相当する2世紀後半は、農作物がとれない事態に陥った。すると当然、北方民族は南下して、遼東を犯しはじめ、後漢はこれを抑えるために公孫度を遼東太守として送り込む。ところが公孫氏は呉と通じて魏を脅かす存在に成長し、楽浪南部に独自で帯方郡を設置。高句麗・韓を支配せんと暗躍。人民を鬼道を用いて扇動しはじめてしまった。もともとその前の黄巾によって、この地域には道教以前の華南起源の神仙思想(太古からあった原始的神秘性を重視するシャーマニズム。よりしろに神獣鏡などを用いて、不老不死や祖霊憑依による口よせ的な神霊降臨思想)によって民人をたくみにあやつろうとした。

こうして激動の3世紀は始まった。

呉やのちに百済が生まれる帯方郡、つまりピョンヤンやソウルとの魏を挟み込む挟撃作戦と、北方異民族の烏丸・鮮卑をも手なづけた騎馬戦力、表向きは魏にすりよる格好だけしてみせる公孫氏の狡猾さは、長く遼東から韓半島・高句麗を巻き込んで魏を脅かし続けた。たまらず魏では遼東進撃を開始して、度の子孫公孫康(燕王を自称)を撃たんとする。

イメージ 3

この公孫康も後漢に将軍として任じられており、帯方郡設置は実は公孫康の仕事であった。これによって韓、倭諸国はこぞって帯方郡に帰属するようになってしまう。表向きは中国の出先であると広めたからである。これではその北にあって南から遠い後漢の楽浪郡は形無しである。それにしても黄巾を最初に許容した中国の政策こそがそもそもの厄病の始まり。公孫氏はその宗教的などさくさを利用して勝手に動けてしまうからだ。しかもその鬼道すら取り込んで、倭・韓の遅れがちな近代性さえ手なづけてしまう。まさに今で言えば金北朝鮮以上のやっかいさであったろう。

隣接した高句麗は一番のめいわくをこうむる。高句麗が南部よりも進んだ国家体制を持てたことが、かえって災いし、そのアイデンティティー、愛国心がむしろ公孫氏の懐柔(236年高句麗王へ使者)を拒ませてしまう(高句麗王これを斬首)。やったとったのあげく、広開土王が登場し、きびすを返すように、今度は高句麗自体が南下をはじめる。奪われ行く北部国境地帯をあきらめ、撤退するしかないのだ。いや、撤退と見せての、移住、南部侵略のはじまりだった。韓はたまらず倭に援助を求め、倭はこれをうけて伽耶から北上し、高句麗国境地帯まで攻め上がり、これと対峙した(広開土王碑文)。

さて公孫康は魏呉の勢力を眺めつつ、いきなり魏に寝返る。232年には呉王孫権が康を燕王に任じて歩み寄っていた関係だったが、呉弱しと見るやさっそく裏切り。呉・蜀同盟の敗色はこれによりさらに悪化。魏は237年、さきほど書いたように遼東に軍を派遣。しかし失敗。再び翌年、ついに軍師・司馬懿(しばい、字仲達)を遠征させ、ようやく康を切り殺した。こうして公孫氏は四代で滅び、楽浪・帯方・遼東・玄菟郡のすべてが中国に戻った。これを知った倭の女王・卑弥呼は使者を送り、帯方郡を窓口に、正式に魏の帰属となって倭王金印を手にしたわけである。卑弥呼と帯方郡の通交には、常に韓、特に狗邪韓國を通ってなされることとなる。そして倭王であるためには、この韓諸国との平安な交流こそがかかせぬ条件であった。

魏によって安定するかに見えた半島であるが、実のところ高句麗だけはまだ戦々恐々。いつ魏によって滅ぼされるかわからない。国境を接する隣国の悲哀は永久に続く。そこで242年、ついに自らが西安平に侵略。これがかえって魏の激しい逆襲にあい、しかもとうとう魏も高句麗を許せなくなってしまう。火に油を注いでしまったのである。246年首都丸都陥落。魏はついでのように北方まで犯し、扶余、沃祖、穢、粛慎まで攻め入った。それは軍事的な威圧、つまり抑止行為であったと言える。そして世界がそうであるように、その侵略は同時に文明・文化の伝播を引き起こした。

かつて劣悪な地域だった欧州南部にも、サラセン帝国・ペルシアなどの侵略と最新文化の流入が起きたことでギリシア・ローマ文明は開花したようにである。戦争はそうした両面を常に持っている。



韓は馬韓・辰韓・弁韓の三地域に分かれていた。すべては帯方・楽浪郡の支配下にある魏の属国となっていた。一部反抗勢力がこれをよしとせずに帯方郡太守・弓遵を戦死させたりもしたが、魏はほかの二郡によってこれらを制圧する。これは政治的には、半島全体の王の登場を抑制し、独立を阻害することとなった。特に半島南部における小国家分立状態の永続こそは、倭にとって都合がよく、鉄を欲する倭国の自由な権益を見逃すことになる。それは高句麗にも同じで、かえってのちの三国独立や倭国の伽耶経営を許すことにもつながってゆく。






歴史には、このようにいろいろな見地がある。軍事で見る場合、文明伝播で見る場合、政治的見地で見る場合、民俗学的見地の場合、食文化、技術、科学、信仰・宗教、イデオロギー、墳墓様式や土器様式・・・人間が生きてゆく限りさまざまの事象すべてに歴史はあり、見方もいろいろある。

先にシリーズの1で、他サイトが考えている寒冷化前の東アジア地図を紹介したが、歴史学者が考える同時代の地図も見てもらいたい。

イメージ 2

日本の歴史学で考えられている穏当な?(言い換えると政治・イデオロギーに背を向けるマルクス主義歴史学の史観)アジア勢力図

イメージ 5
1に貼り付けた他サイトが考えるやや『日本書紀』より史観の3世紀半島勢力図


これによれば「倭の北岸」つまり『日本書紀』がのちに言う任那日本府があったとされる南岸地域=伽耶にそれはなく、それにともなって金官や瀆盧国の位置も当然、異なっていることに気付かれたい。また上に貼り付けている3世紀東アジアで倭の文字は中国地方あたりにあるのが、5・6世紀地図では近畿に移っているのも気付かれると思う。

イメージ 4

倭国が5世紀、古墳時代あたりには明白に近畿地方・大和にあるというのは戦後学者たちのこぞって認める地理になっているが、筆者では、それは飛鳥の6後半という認識になってしまう。3世紀だと、筑紫と大和の二箇所に小国家集団が集まったという認識である。どちらが邪馬台国という小首都だったかはまだわからない。

半島の場合、もっとイデオロギーの影響を受けて諸説が噴出するだろう。文献が明確に地理を描かないからだ。伽耶は日本府があったというのは『日本書紀』の右思想であり、学者たちがそこを書き入れないのは、戦後からの左より思想からである。両者は相容れない。それはまったく現代の政治事情=三極分化選挙そのものであろう。人間は考える生き物。そして日本は思想や表現に自由が約束されている。どちらかを否定し消し去るのは憲法違反になる。つまり日本国憲法は、別の考え方で見ると大変あいまいな法律であろう。それは他国から敗戦のときに限って使うように与えられた法だからかも知れない。人間は面白い生物で、戦争に負けた、もう絶対しないとなったら、それまでの極右・軍国主義から正反対の極左・反戦主義へと、いとも簡単に変身したのであった。まるでざるの中の小豆のようにである。

そして戦後70年、敵がもし攻めてきたらどうするのか?という立憲国家の根幹にある問題を問うことは、戦争するつもりか?と決めつけられ、右思想、軍国主義者であると決めつけられていたのである。不思議な国だとアメリカは思ったそうだ。そして左翼へと、ロシア民謡やルパシカを喜んで受け入れて、歌声喫茶でトロイカを熱唱する若者たちを「赤」になってしまわないように監視したという。そして昭和60年代、アメリカの心配が、安保反対、その後の赤軍、学生運動、朝鮮逃亡旅客機ハイジャック、重信、赤軍テロ、東大立てこもりを次々に生み出していったことは忘れない。

そしてそれに正反対にやはりテロへと突き進んだ三島由紀夫の切腹、斬首事件のことも・・・。

歴史にはいろいろな角度からの見方がある。それのどれかを選ぶのがわれわれの勉強ではない。すべてを知っておくことが歴史なのだ。どちらも否定はしない。批判もしない。終わったことは戻らない。どれが間違いかと言われても、答えようはない。むしろ全部が間違いかも知れない。それはあとの時代が見分けることだ。ずうっとあとの、一万年ほどもあとの人間が考えればいい。キリストや仏陀が生まれてからでさえ、まだ1万年も過ぎてはいない。それを自由と呼ぶのだ。選択は自由である。しかしひとつだけに知識を偏らせてはなるまい。道路は左右をよく見てわたるものだ。ど真ん中でもいけない。道路の真ん中は双方から風圧が来て危なっかしい。どこを立ち居地にするかは、それもまたあなたの自由。

朝鮮半島はかつて日本にとってアマテラスのいる天上界だったこともある。それはつまり多くの先進文化を韓を通じて知ることができていた時代があったという認識につながる話だ。もちろんアマテラスは実在しない8世紀宮中の観念であり、民衆はまったくそうとは思っていなかったはず。記紀など読む自由すらないし、読むことすらできない大半の日本人には、モノこそが文化であり、先進であっただろう。そして人々は自由に海の外からこの島国へと訪れた。血は混じり、智も混じった。すべてを自在に、日本人は取り込んだ。そんな民族は日本人だけだということこそが、われわれのアイデンティティではあるまいか?そして今、海外から、多くの外国人がその日本の、混沌の夢を求めてやってくる時代になった。






歴史は先生である。

眺めておくもの。

そして役立てるもの。

それは科学や技術の前にあるもの。

国民が最初に知るべきもの。知識の源泉。思想の大元。自由と平和の礎。









温故知新




小池百合子も三国時代・三韓時代をもっと勉強しておけば、この安倍の策謀にはまらなかったかも?





次回五世紀へ。倭の五王が登場する。本当かどうか誰も知らない時代へ。
推理と推測
わたしの最上の友人がそこにいる。








葛城氏の正体に迫れるか?

 

この記事に

開くトラックバック(0)


3世紀の世界史は気候によって大きく左右された。これは東アジアに限ったことでなく、世界中で共通している。

1世紀あたりから、火山爆破も相次いで、地球全体は冷え込んでゆく。すると東西で、帝国がゆらぐ事態が連鎖していった。東アジアでは前漢が滅び、遼東に公孫氏が台頭。南の高句麗を圧迫しはじめる。高句麗はしかたなく南下政策をとって、半島南部の韓諸国を侵し始める。それが倭国にも影響するのがこの時代である。

前記事では、韓地域の伽耶にあった廉斯国の鉄を取り上げたが、では伽耶が遼東の公孫氏といかほどの関わりをもったか、鉄や胴や、あるいは鬼道と言われた宗教形態、呉とのつながりがどのように両者を倭国へ影響したかは、定かではない。

韓という地域名は、半島の南部全体を指すわけだが、北部は高句麗成立以前は扶余である。民族的に、高句麗が扶余民族を中心とするに対して、韓地域は、雑多な他民族が混在する地域であった。それはDNAによって明確にされるが、文化や言語、食生活など民族学的にもかなりな違いが認められる。

民族で言うなら、韓には、もちろん扶余族もいたし、倭族、ツングース、モンゴルなどなど、多種多様な混在が見て取れる。つまり韓は、そうした多民族国家地域である。


国家と書いたが、国家ができあがる前は人、つまり民族集団である。それが国となるのは遼東、扶余地域の高句麗が最初で、それも、中国や公孫氏の遼東侵犯があってこそのこと。もとより、半島に国家などは存在しなかった。高句麗が成立したきっけかも、中国が気候の温暖な時期に、外を欲した結果であり、寒冷期なら、逆に、北方外部民族が中国に侵犯してきて、それどころではない。

この寒冷化は、倭にも当然影響を与える。それが倭国の乱であり、ちょうど桓霊帝の頃に始まる寒冷化で、北方からの進入があって前漢が滅び、あとの後漢もまた、公孫氏と呉のつながりで弱体化する。すると魏が北部に興り、これが遼東の公孫氏燕を滅ぼす。つまり歴史的ピストン運動が半島に起こったわけである。




すまぬ、今日はここまで。









この記事に

開くトラックバック(0)


日本史の継体天皇までと飛鳥時代を区切って考えると、前者は近畿地方の王権だったかどうかいくらかの疑問点が垣間見えるが、後者は、飛鳥に蘇我氏の墳墓や遺跡が出ることで、これは飛鳥は間違いなく大和の王権であると言うしかなくなる。

神武から三輪王家までは、九州の伝承が大きな影響を見せており、三輪の前半、崇神・垂仁あたりまでは奈良の、小さな王家内部のエピソードになっており、後半が景行〜神功皇后といった九州的な話に。ヤマトタケルの遠征で、熊襲だけではなく、東国遠征がやっと扱われる。こういう部分は、大和王朝の全国平定を前倒しで描いて、天皇家が古い正統な王家であることを言っているだけである。つまり天皇家出現は天武、持統を遡らない。その直前の国際的な東アジアデビューの時代が蘇我氏・聖徳太子の飛鳥時代だろう。どこまで正しいことが書いてあるかは、しかしあとの不比等時代の潤色もある。


『日本書紀』では蘇我氏がどこから出てくるか、誰にもわからなくなっている。継体王家がみな死んで、欽明が大人になると、どこからか蘇我稲目なるものが現れ、葛城と高句麗が贈って来た女性などを嫁にして、いきなり大臣となってしまう。そして欽明よりも(梅山古墳)大きな墓・・・しかも蘇我氏としては異例の前方後円墳(五条野見瀬丸山古墳か?)を造り、河内の飛鳥にも大きな方墳を造らせている。これは考古学者によって説が分かれるところだが、五条野のほうが欽明にふさわしいのだが、年代が合わないと思われもする。


継体が九州王家に迎えられたのだとすると、その前の河内王権も実は九州にあった、それが河内へ移動していったという人もいるようだ。そして先ごろ大雨で土砂が流出した朝倉〜東峰町あたりの山中に、継体のでっかい古墳はあるのだという珍説もあるが、あれほどの土石流が流れ出ても、いまだいっこうにそういう情報はない。


河内王朝の王墓は確かに羽曳野台地にあるが、それだからと言って彼らが全部、太子町あたりに王家を形成したと言えるかどうかは知らない、大和の葛城山に住んでいた可能性もないとは言えぬ。墓は宮城の西に造るものだからだ。雄略の墓はぐっと大和に近寄っている。

もし近つ飛鳥一帯が河内王家の在所だったとするならば、そこに隣接して宰相一家の葛城氏や許世氏、あるいは紀氏が居住したことと合致する。しかしなぜか河内で母である神功皇后の痕跡を聞かないのは奇妙だ。


蘇我稲目は、妻だった葛城の娘の持つ王家宰相としての権威をフルに活用して、娘を二人、王家の妃にした。二人とは堅塩姫と小姉君である。つまり馬子の兄弟である。
この二人の子孫が、その後の天皇を生んでいく。その血脈は100年後の持統女帝とその兄弟姉妹まで続く。しかしここで蘇我氏は天誅を受けて、母方は息長氏の娘広姫の血筋へ急変換。以後、天武、天智から桓武、そして現代の天皇家へ受け継がれた。つまり今の天皇家は母方の大元が息長氏であることになっている。その息長氏からは、継体と神功皇后が出たことにされている。しかしこの息長氏というのが、これまた正体不明の豪族で、蘇我氏と同じく、妻に葛城の姫を迎えることで王家に妻を出す一家とされている。こういうのは葛城血脈がいかに王家、大臣一家にとってステータスだったかを『日本書紀』は言いたいわけである。しかし、すると神武以来のニギハヤヒつまり物部の血はどうなったのかとなるだろう。

守屋が殺されたことで、物部氏の大連のステータスは、まったく消されてしまう。ところがその妹は、実は蘇我馬子の嫁になっている。それが物部大刀自(おおとじ)である。「とじ」は長女である。 別名「太姫」で、これも長女であろうと思われ、兄の死後、大連として物部所領のすべてを手中にできた。それのおかげで馬子は大臣となった。

考古学で、馬子の石舞台古墳が、もしかすると馬子の墓ではなかったのではないか?と言われ始めている。しかし近隣には島の庄の地名があり、島があったとされる池も存在する。ところがこの池には島があった痕跡が見つからない。別の場所からそれらしき池が別に出てきた。また石舞台を旧来から「桃源墓 もものさと」とよんで来たが、島の庄に桃源の地名があった記録がない。すると桃源は地名ではなかったとも考えられ、島の庄という地名も、池とは関係ない古名だとも考えられるケースがある。


面白いのは、王家だけではなく、大臣家でも、諸豪族でも、前の大臣の妹や娘をもらう風習があったらしく、蘇我氏を滅亡へ追いやった藤原鎌足の嫁は蘇我氏の娘である。その息子が不比等である。

不比等は、当時、宰相どころか大臣にすらなれない没落氏族となっており、そのわけは天智の子供・大友皇子(弘文天皇)を天武が壬申の乱で滅ぼしたからだった。ついでに蘇我氏親戚だった石川家の大臣就任もなしで、全員、天武が都から追い出している。それで蘇我・石川の血は宮中から消えることとなる。藤原の血は、不比等の持統接近で復権し、しかしその血脈は、直接的には天皇家には伝わらなかった。聖武の母親の藤原宮子は不比等の養女で外の人である。


藤原氏は、蘇我氏を反面教師として、決して王座を狙ったり、はでな所業をしなかった。影の存在として永続できた。ただし奈良時代には橘氏と骨肉の争いを幾度もひきおこす。藤橘の争いは、のちの怨霊思想の大元になる。藤原四兄弟の菅原道真怨霊により死滅なども、似た話になる。


蘇我氏の墳墓が、その多くが改葬されて飛鳥から近つ飛鳥へ移されて、本来の方墳に葬られたのは、つまり飛鳥から蘇我の痕跡を消そうということだろう。それをしたのは不比等以外に考えられない。

飛鳥の多くの不思議な石造物の中に、鬼の俎板と雪隠があるが、あれは古墳の石室で、最初の斉明天皇の墓だったと考えられ、その後、近つ飛鳥へ移され、あとの墳墓は壊されたと考えられる。だから雪隠はひっくり返された格好で今に残った。なぜ斉明の墓かと言うと、五条野・梅山・鬼の雪隠と俎板、天武持統陵、文武天皇中尾山古墳が一列に並ぶ、蘇我氏系の王家の墓だからだ。


そして遠つ飛鳥には聖徳太子の墓とされる墳墓がない。斑鳩にもなく、それは近つ飛鳥にあるので、聖徳太子として厩戸皇子が、最初は言われていなかったという考えが可能である。彼はその時代には聖徳太子ではなく、天智、持統、藤原光明子の時代に、伝説的聖人となったのである。その伝説のほとんどすべては、蝦夷・入鹿の怨霊封じのための蘇我氏持ち上げ記事として記録に残された。天智にとっては、太子がいたとすることは、自分が殺した蝦夷と入鹿の怨霊封じであると同時に、白村江敗北で攻めてくるだろう唐・新羅軍に立ち向かうための旗印でもあった。


光明子には太子は、橘氏勢力と立ち向かい、その争いを逃れて仏教に傾倒してゆく夫・聖武のための信仰上の聖人であり、かつ天智同様に、祖父鎌足が殺した蘇我という怨霊へのいいわけだっただろう。














この記事に

開くトラックバック(0)


現代、東アジアと日本の関係は微妙になっている。現代の日本と東アジアの勢力関係、交流関係の大前提として、古代のそれを知っておくことは、人同士が円滑、平和に付き合うためにはかかせない歴史だろう。ところが、日本人のほとんどは、第二次大戦以来、あまりここを知りたがらず、おざなりにしてきたし、学校でも、ざっとしか教えていないのではなかろうか?


今回は最も近い隣国である朝鮮半島と倭国のつきあいの歴史をメインに、3世紀中後半の寒冷期以前と以後に分けて振り返ってみたい。


紀元前108年、前漢の武帝の朝鮮進撃から中朝関係はにわかに深まる。これ以後、半島には楽浪・臨屯・真番・玄菟(らくろう・りんとん・しんばん・げんと)の四郡が置かれ、中国の半島支配が始まった。しかし前漢の支配は長く続かず、前82年には臨屯・真番郡が廃止。ちょうどその頃、半島北部には高句麗が出現した。これは半島北部人の中に生まれた、中国支配への反駁心が積み重なったもので、半島最初の独立心の萌芽であった。

高句麗は、中国と対立することを勇気のもととして、勢力を増してゆく。しかし、同時に中国からの圧迫はどんどん強まってもきた。前漢の王莽(おうもう)による高句麗王殺害は有名で、この時期は、高句麗は中国によって「下句麗 げくり」と卑下する名で呼ばれたこともあった。

ただ、四郡設置は、中国が倭国を知る契機にもなった。後漢時代の『漢書』地理誌に初めて倭国が記載された。あのあまりにも有名な一節である。


「夫れ楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国と為す。歳時をもって来り献見すと云う」

楽浪郡を通じて、漢も、古くから半島とつきあいのあった倭人を知るところとなったのである。半島と倭人のつきあいは、考古学の証明するところでは縄文後期。九州西海岸に半島式土器や釣り針が出ることで確実になった。


イメージ 3







イメージ 1
紀元前1世紀頃の 前漢時代のアジア勢力図


このころの半島には北部東岸部に、沃沮・濊(よくそ・わい)、南部西岸部に韓といった諸部族の集団ができていた。倭人はこの中の韓と特に交流が深かった。おそらく民族的に互いが近い倭種=海の民だったためかと思える。接合型釣具の出土は、彼らが海人であったことを裏付ける。それがやがて1世紀西暦44年の韓の楽浪郡朝貢で、韓廉斯人・蘇馬(そ・まてい)を漢廉斯邑君(かんの れんしの ゆうくん)に封じており(建武二十年)、これをきっかけに倭の奴国王も後漢に使者を派遣し「漢の倭の奴国王 かんの わの なこくおう」金印をもらうことになる(57年)。

韓とのつきあいから、後漢の成立や楽浪郡の存在も知っていたのであろう。それは奴国と言う、九州玄界灘沿岸域の一国家であったことは重要で、当時の日本での、九州北部の先進性を示すし、韓の柵封の刺激を受けての出来事だったことは間違いない(その後、倭国は高句麗とも中国へ同行して朝貢してもいる。三世紀)。


奴国人は、福岡県の博多の那珂川以東に所在し、遠賀川に近い。遠賀川の弥生時代の人骨DNA分析からは、半島人と近縁であることがわかっており、九州西岸部の倭人と違い、在来種縄文人DNAが少ない人々である。

イメージ 2
紀元後1世紀ころの後漢時代の東アジア




107年には、倭国王・帥升が、朝貢。これも廉斯国を通じてであろう。



廉斯国にはもうひとつ日本にとって重要な産物があった。『魏志』が引用する『魏略』韓伝に、廉斯鑡(さく)が楽浪郡へ亡命しようとしたときに、木材を伐採している漢人の一団に出会った話がある。この伐採は、製鉄用だったという指摘があり、慶尚南道(キョンサンナンド・けいしょうなんどう)の前一世紀の遺跡・茶戸里(タホリ)遺跡から鉄器が発見された。韓では紀元前1世紀にはすでに製鉄ができていたらしい。

ほとんど同時期に、北部九州でも製鉄が始まっており、この鉄と製鉄技術が廉斯との交流で得られた日本最初の製鉄であった可能性は高い。

このつきあいは2〜3世紀までつながっており、『魏志』韓伝 弁辰条に

「国鉄を出す。韓・濊・倭は皆これをほしいままに採る」という有名な一文がある。


その弁辰には小国家が群雄しており、特に瀆盧国(とくろこく)は倭と国境を接する海岸の国であった。



イメージ 4
この図は、魏志倭人伝や韓伝の位置関係から推定して、「倭の北岸」が半島南岸部に存在したという想定で作られたものらしい。

そのすぐ北側に瀆盧国が置き描かれている。
またそこから楽浪郡への道程である狗邪韓國は魏志にも出てくるが、いわゆるのちに伽耶とか金官伽耶と呼ばれるようになる場所で、今の光州南道にある。

イメージ 5

この一帯には5世紀古墳時代中期にいくつもの前方後円墳が出現する。つまり『日本書紀』記述から推定するに、それは葛城集団の外交官だったかと思える。『日本書紀』が大和の先住王家として描いた葛城氏は、だからそもそもは北部九州から日本海側を拠点として半島南西部につきあいを持った縄文由来の筑紫〜日本海海人族であった可能性も充分に考えうるのであり、さらにその大元が南九州の神武伝説発祥地にあった可能性すら想定可能である。そこからこの氏族の始祖が武内宿禰という、九州佐賀などの有明海勢力地にその妻の神社を擁すること、同族だとされた紀氏の佐賀県・熊本県・鹿児島県・大分県での広まり、出雲神話で大国主の娘婿として葛城鴨氏の祖神・アジスキタカヒコネが登場することなどなど、海と半島との関係の深さが見えてくる。

アジスキタカヒコネには、天孫が送り込んできたアメノワカヒコと姿かたちがそくりだったという神話伝説があり、それは天を半島南部伽耶地域、アジスキタカヒコネが日本海〜倭北岸の人だとした場合、その人種が同じ倭種だったと言い換えることも可能であろう。あとで書くが、土居が浜や遠賀川周辺の弥生人には、縄文人の血が入っていないと言う。彼らはすでに縄文時代からそこにいたのだろう。

さらに、葛城襲津彦が四世紀に伽耶を守って新羅と戦い、逃げてきた秦氏らを連れ帰ることからも伽耶・弁辰地域と葛城氏の関わりは想像できるだろう。その始祖武内宿禰が「内臣 うちつおみ」の代表として描かれることは、神武東征での参謀となる霧島地方(阿多津姫出身地)塩土の翁によく似ることと何か関係があろうかという想像も出てくるわけである。その祖神としてのスサノヲは新羅=半島に渡ってから出雲へ入るという話も、なるほどと気がつくはずだ。

さらに葛城を本貫としたと語った蘇我氏は、稲目の妻のひとりが葛城の女で、馬子はこれを根拠に、推古女帝に葛城を本拠地としたい=葛城氏を名乗りたいと考えたのであろうし、葛城氏になれば、のちの天皇家よりも古い、近畿最古の大王家として名実ともになれるからこそだっただろう。葛城集団は天皇の前にあった河内の別王権(ほむたわけの血筋)の宰相だったわけである。


ここまで参考
関周一『日朝関係史』吉川弘文舘 2017


続く











この記事に

開くトラックバック(0)


日本にはじめて政治的実権を持った「天皇」が登場するのは飛鳥時代後期、藤原不比等が実現させた持統女帝からである。それ以前の大王たちは、まず間違いなく、今の天皇家に直接的なつながりはない別の存在だったと言ってもいい。特に、河内王権、継体王権、蘇我王権は、葛城の母方王家の血を受け継ぐことで、大王よりも大王でありえた政権で、天皇とは異なる政治体系を持ち、世襲と言うよりも、交替する豪族政治の長であったと言ってよかろう。

さらにそれよりも前の三輪王家に至っては、単なる近畿地方、筑紫地方の小王権の伝承を取り込んで作り上げた、始祖伝説でしかない。

明白に、天皇の始まりは、壬申の乱以後に出現する。また律令政治も同じく、不比等以後に、蘇我氏がやろうとしていた夢を奪い取って、代わりに飛鳥後期〜奈良の人々が作り上げてきたものであろうと思う。



この記事に

開くトラックバック(0)


というような面白い空想記事をやってみますかね。

似ている部分があるようなので。

いや、持統天皇に 似ているのかな?光明子かな?

では「天皇誕生」でいきますか?


この記事に

開くトラックバック(0)

自民の勝ちは決まり


小池がこれほどばかだったとはね。
もう間に合わないだけではなく、野党を壊しただけだ。
ミニ自民がまたひとつ増えただけではないか。
ただ、民進の呉越同舟が露呈して、崩壊したのは、先々にはよかった。

言える事は、リベラル、反戦の戦後レジウムは少数派になってしまったという理解だけである。

どう国防するかの、わずかなノウハウの違いだけ。それが自民と希望のわずかな差異でしかないことも明確に。小池は毛色の違う安倍だということだし、それが今のこの国の政治世界の大勢なんだということだ。

攻められても話し合いでおさまるという共産・社民・民進リベラルと、それはそうだが、いざとなったら自前で戦えるようにしておこうという自民・公明・維新・希望・民進保守。それだけが明確になった。



希望がどれだけ議席をとったところで、所詮は自民的な考え方が増えるだけだということ。



思ったとおりだった。ただ、左右がはっきりした。それでいい。



改憲はやりやすくなった。



それでよい。















この記事に

開くトラックバック(0)

[ すべて表示 ]

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事