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「藤原不比等は、天智天皇から藤原氏の姓を賜った藤原鎌足の子である。文武天皇2年(698年)には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。不比等の従兄弟たちは、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することと明確に分けられた。このため、不比等が藤原氏の実質的な家祖と解することもできる。

天智天皇の皇胤説
前述のように不比等は実は鎌足の子ではなく、天智天皇の落胤であるとの説がある。『公卿補任』の不比等の項には「実は天智天皇の皇子と云々、内大臣大職冠鎌足の二男一名史、母は車持国子君の女、与志古娘也、車持夫人」とあり、『大鏡』では天智天皇が妊娠中の女御を鎌足に下げ渡す際、「生まれた子が男ならばそなたの子とし、女ならば朕のものとする」と言ったという伝説(実際に男子=不比等が生まれた)を伝える。『帝王編年記』『尊卑分脈』などの記載も同様である。

平安時代まではこの伝説はかなりの信憑性を持っていたと考えられ、『竹取物語』でかぐや姫に求婚する5人の貴公子の1人車持皇子のモデルは不比等とされている。これは、母が車持氏出身の皇子、という意味の名である。

歴史学者の間では皇胤説の支持は少ないが、もし本当に皇胤であったとすれば、後の異例とも言える不比等の出世が、天武天皇・持統天皇代に行われた皇親政治(天智・天武系皇子を朝廷の要職に就け、政治の中枢を担わせた形態)の延長として考えることも可能になるとして、支持する学者もいる。」Wiki藤原不比等

 
ちなみに大山誠一は鎌足は大職冠など授かっていないと考えている。しかし、彼は不比等があくまでも草壁皇子の血統にこだわったと考えていて、天智血統こそが大事(藤原宮の真北つまり太一=北極星=皇祖として墓が造られているのが証拠)だと考える筆者とはそこが相容れない。また大山は武内宿禰を不比等は鎌足に見て描いたと言うが、そこもやや疑念はある。息長系である景行とヤマトタケル、神功皇后の熊襲征伐と武内宿禰の宰相としての表現が、藤原氏の蘇我氏誅殺に当たるとするなら、大山の説は正しいかも知れないが。



「藤原不比等の母の詳細が不明です。
鏡王女説、車持与志古説です。
不比等は竹取物語の5公のひとり車持皇子のモデルとされるので、平安時代は不比等の母親は車持与志古で、父親は天智天皇との認識があったようです。
車持与志古は最初天智の側室で、後に中臣鎌足と再婚しますが、再婚前に不比等が胎内にいたという説が有力です。
一方、鏡王女も最初「中大兄皇子」 の妃とあり、「尊卑文脈」では、不比等の母親は鏡王女とします。
いずれにしろ、不比等は鎌足にとって変則的な連れ子(胎内連れ子?)だった説が最有力ということになります。
ただ、ここも微妙な時間軸で、不比等659年生まれとすれば、白村江以前のことであり、実の父親は「中大兄」ということになります。
ただ、私の説では天智=新羅武烈王、鎌足=新羅将軍金庾信ですから、不比等を新羅生まれとすれば、武烈王の実子ということになります。
確かに、出世があまりにも遅い点、持統天皇の時代になってはじめて日の目を見ることから、倭国皇子の末裔がゆえにということも考えられます。」
https://plaza.rakuten.co.jp/systemwelware/diary/201209180000/


この説はいわゆる「ありがち」な愉快説である。
しかし、不比等が本当に母親の腹の中にいた状態で母が鎌足にとついできたとすれば、それはまるで胎中天皇と呼ばれた応神天皇を彷彿とさせるエピソードになるだろう。そのコンプレックスが不比等に応神・神功皇后、引いては河内王朝と言う架空王朝を考え付かせたと。おもしろい。



確かに父・鎌足自体、一巳の変以外、なんの実績もない人物で、そのヒーローとしての実像は、ほぼ中臣大島と不比等が描き出した虚像だと考えられる。まず藤原姓は天智が鎌足のみに与えたと『日本書紀』が書くにも関わらず、不比等は藤原を名乗っていることは、鎌足が藤原をもらったこと自体が怪しく、当時、かばねではなく、氏姓を持てる人物などほとんど存在しなかった時代なので、まずは藤原氏姓を名乗れたのはよほどの権力者でなくてはならない。

物部や中臣などはみな「かばね」であって苗字ではない。苗字は天皇から特別に与えられねば名乗れなかった。あるいは土地の名をそのまま分家はかばねとして名乗っており、苗字ではない。苗字とはもともと中国の風習である「あざ名」だった。名字は、元々、「名字(なあざな)」と呼ばれ、中国から日本に入ってきた「字(あざな)」の一種であったと思われる。公卿などは早くから邸宅のある地名を称号としていたが、これが公家・武家における名字として発展していった。近世以降、「苗字」と書くようになったが、戦後は当用漢字で「苗」の読みに「ミョウ」が加えられなかったため再び「名字」と書くのが一般になった[要出典]。 参考Wiki名字

ちなみに平民が名字を持てるようになったのは明治時代から。だから日本人の大半の名字は明治以後、勝手に平民が名乗ったもので、貴族や武家の名字とは、まったく無関係だと考えたほうがいい。たとえ藤原さんであっても、ただ地名名乗りであると考えるのが無難である。なお、天皇には平民同様姓名がない。理由は、姓名とは天皇が民にさずけるもので、天皇がさずかることはなかったからである。柳田國男らは、天皇とは「もうひとつの被差別者」と言ったこともあるが、姓がないという点、また人間ではない(神だった)という点で、確かに両者は似通っているものの、天地の差、雲泥の差があったのは否定できない。

藤原不比等がおそらく天智など関係なく、実権のすべてをつかんだから藤原という宮都の地名をなれたのだろう。しかし地名藤原は、大坂の藤井寺がそうしたように、もとは葛の文字を当てており、湿地であったことは間違いない。ゆえに宮にふさわしく藤に変更してのちに名乗ったに違いない。ということは、『日本書紀』鎌足のイメージは虚像であることも間違いない。

考えてみていただきた。一巳の変とはなにかを。筆者はこれを正当化したのが、ヤマトタケルや景行天皇の熊襲征伐だと考えている。あるいは神功皇后が新羅征伐といいながら、九州に入るとすぐに、やはり南の熊襲であろう地域を攻めようと言っている。何度も何度も、なぜ熊襲だけが、出雲でえ一度きり書かれたものを、熊襲だけは何度も征伐されるのである。なぜ彼らは何度も殺されるのか?それが藤原の敵だった蘇我氏の国家であり、祟るように殺したからではないのか?

そもそも藤原氏とはいったい誰なのか?中臣氏でいいのか?これも確定してはいないのだ。まずもって不比等は母親がわからない。われわれは知っているつもりになっているだけである。調べてみるといい。

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数年前に筆者が調べた記録上の息長氏人物たちの一覧である。再び掲載しておきたい。

◆実在した息長氏人名一覧
名前       時代          出展    備考
息長足日広額天皇(舒明天皇)629〜641日本書記」父押阪彦人大兄皇子/母糠手姫皇女
息長山田公 642 皇極元年12・1   「日本書記」   舒明の殯宮で「日嗣」を誅している
息長真人老 711 和銅4・4・7 従四位上   「続日本紀」 
息長真人子老 702 大宝2・1・17 従五位下  「続日本紀」  息長真人老の子
息長真人臣足 714 和銅7・1・3 従五位下  「続日本紀」  719年 出雲守
息長真人麻呂 729 天平元・3・4 従五位上 「続日本紀」 
息長真人名代 733 天平5・3・14 従五位下  「続日本紀」  738 備中守
息長真人孝子 743 天平15・7・12 「正倉院文書」  中宮職音声舎人から皇后職へ(女性)
息長丹生真人国嶋 762 天平宝字6・1・4 従五位下 「続日本紀」常陸国部領防人使大目  
息長真人広庭 765 天平神護元・正 外従五位下 「続日本紀」  女性?
息長真人道足 766 天平神護2・11・5 従五位下 続日本紀」771年長門守776年摂津山背検税使
息長真人清継 766 天平神護2・9・19 外従五位下  「続日本紀」 
息長丹生真人大国 769 神護景雲3・4・24 正五位下 「続日本紀」    造宮少輔
息長真人黒麿 750 天平勝宝2・5・26 「正倉院文書」大和国城下郡人親族の借銭の保証人となる文書
息長丹生真人広長 761 天平宝字5・11・27  「正倉院文書」  左京七条二坊戸主 752東大寺画師
息長丹生真人川守 757 天平勝宝9・4・7「正倉院文書」右京九条一坊戸主759里人画師年39 
息長丹生真人犬甘 757 天平勝宝9・4・7  「正倉院文書」  右京九条四坊戸口画師年22
息長丹生真人常人 762 天平宝字6・7・12  「正倉院文書」  造石山寺所 (画師)
息長真人真野売 747 天平19・12・22「正倉院文書」近江国坂田郡司解婢売買券
息長真人忍麿 747 天平19・12・22 少初位上 「正倉院文書」 近江国坂田郡司解婢売買券
息長秋刀自女 823 弘仁14・12・9  「平安遺文」 近江国坂田郡長岡郷長解  戸主秦富麻呂妻
息長真人福麿 832 天長9・4・25 従七位上 「平安遺文」坂田郡福擬大領 近江国坂田郡大原郷長解
息長秋刀自女 823 弘仁14・12・9  「平安遺文」 長岡郷戸主秦富麻呂妻
坂田酒人真人乙刀麻呂 年不詳 八世紀  「平城京二条大路 出土木簡」 庸米荷札(上坂郷戸主)
坂田酒人真人新良貴 747 天平19・12・22 正八位上 「正倉院文書」 
坂田郡大領 近江国坂田郡司解婢売買券
坂田酒人真人広公 832 天長9・4・25 外従八位上 「平安遺文」 近江国坂田郡大原郷長解
坂田酒人真人公田狭 762 天平宝字6・8・18  「正倉院文書」
坂田郡上坂郷長 近江国坂田郡上坂郷長解
息長といふ人 1020 寛仁4・11  「更級日記」 美濃から近江に入り宿泊
以後息長一族に記録なし





ほとんどの記録が天平年間に集中しており、それは聖武天皇と藤原光明子の時代。それより前の四名は天武〜元明時代で、天武が息長を真人に任じた直近の時代ゆえにたくさん子孫が記録されたのだろう。なお不比等は720年頃まで存命だったと推測されている。その後は藤原四家長子が流行り病ですべて死んだため娘・光明子が後を継ぎ、子の仲麻呂へつないだ。ゆえに光明子存命期間中までは息長、あるいは真人の人名の記録があるが、仲麻呂の時代以後、見えなくなる。藤原氏の最初の隆盛期はここまでで、中央でしばらく権勢を失うこととなる。では平安時代の藤原家中興の祖である道長が復権してのちに息長記録は復活しているかと言うと皆無である。従って言える事は、息長本家の氏姓を記録された時期は第一期藤原氏隆盛の期間のみであり、その後はまったく記録がないことになる。どういうことだろう。

(『正倉院文書』の記録は息長姓のひとたちが奴婢を売った記録ばかりである。土地や奴婢を売るとは坂田郡や奈良を立ち去った、つまり氏族が解散して零落したからだろうか?)

考えうることは、息長氏とは藤原不比等が『日本書紀』天皇の母方息長血脈の正当性を証明するために捏造された、あるいは存在する氏族ではあったが天皇とは無関係だった地方氏族だったのではないか?という疑問である。

ただし、まったく存在しない人々であったはずはない。すべてが捏造であれば誰しも疑問を持つだろう。氏姓はあったはずである。しかも坂田などの分家がいくつか
あって、その人々は現代まで残っている。坂田は息長氏発祥の地であった滋賀県坂田郡にちゃんと息長地名もある。ならば中世以降、地名を名乗ることは多かったから、息長や坂田姓の人がいくらでもいても不思議ではない。しかし坂田は多いが、息長姓の現代人は10数軒しかない。実に面妖ではないか?天皇家の母方なのである。普通なら明治時代に爵位などもらっていてもおかしくはあるまい。

つまり『日本書紀』の記録した息長氏に、実態がないと言うしかなくなるのである。
あとは息長直系子孫である誰かの出現と告白を待つしかないのではあるまいか?


イメージ 1
『日本書紀』息長血脈のオリジナル系図



イメージ 2
「息長氏考」サイトの息長系図




解とは奴婢を解き放つこと。長解はそれが半永久的であること。すなわちそれは雇用していた一族そのものの解体を意味したであろう。息長氏は藤原衰亡によって役目を終えて、保護もなくしたのである。ということはやはり息長氏は中央での力も何も持たされていなかった氏族なのだ。名前だけを貸したような存在であった、と解釈するほかはなくなる。



次回、藤原不比等、天智天皇ご落胤説

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空白の天武以前
・・・推古・斉明・天智・天武天皇はいなかった!
女王卑弥呼・男王・臺與から生まれた「皇極・孝徳・斉明重祚の虚構の造作」その相関関係と神功皇后の必要性

『日本書紀』では皇極女帝が重祚して斉明天皇となる間を縫うように孝徳天皇が即位するが、これは一巳の変(大化の改新直前の蘇我氏滅亡事件)で蘇我入鹿が誅殺されてのちのことで、蘇我王権=方墳氏族から持統・不比等の藤原京と律令制完成までのはざまの出来事であり、蘇我王権から藤原・持統王権つまり大和朝廷成立までの、どさくさのこととして描いた可能性があり、事実、彼ら天皇姉弟が大王だったのかどうか...いや、実在したかどうかすら疑問がある。

彼らも天智・天武も、母方息長王家の正統性のために作られている可能性があるのかも知れまい。


というわけで、皇極〜孝徳〜斉明の期間を少し分析しておきたい。

『日本書紀』の磐井の乱を、まったく反対に、磐井が新羅になど助力してはおらず、むしろ代々の筑紫の諸王がそうだったように、百済をこそ祖国として守ってきたと考えてみるような視点が必要ではないか?

『日本書紀』が大和朝廷、特に天皇よりも藤原氏のための史書だと考えれば、それは当然の「逆転の日本史」視点になる。

『日本書紀』編纂当時に、すでに百済はなく、日本は新羅としかつきあえないこととなっていたのだ。不比等が持ち出し、最重視した息長系譜は、神功皇后・応神天皇・継体天皇・天智天皇などなど、代々百済を守護し、新羅を宿敵とみなして、ほろぼそうとしてきた人物たちの系譜である。しかし九州やその他の王家にはそうしたものはなく、蘇我氏も、百済も新羅もさらに中国も受け入れているし、天武も丁重につきあおうとしている。ところが不比等は唐とも新羅ともさほど付き合うこともなく、継体が一方的に筑紫を悪者としていると書き、なぜか大和よりも百済とのつきあいが長かったはずの筑紫君を新羅とつるんでいたとみなしてあるのだ。そこに九州王朝説が生まれる格好のヒントがあるのだと見える。『日本書紀』飛鳥時代とは九州にあった王権の歴史ではないか?とする一連の研究好事家が九州にはごまんと存在する。はじまりは某親鸞研究の学者先生からだが。それはかなり奇妙な研究まで生んで、かなり支離滅裂になった人もいるようだ。自分はそこには絶対組しない一匹狼だが。もちろん邪馬台国研究の会にも近寄らない。

そもそも息長氏には現実的な実態と政治家、貴族がまるで見えてこない。実態がわからない。敏達天皇の妻として、いきなり先祖がほとんど描かれていない息長広姫がとついで、飛鳥大王家の母方息長系譜が始まる。また、それがあったのだとしても、なぜ藤原不比等が彼らを執拗に重要視して、その系譜をつなごうとしたのか、意味がよくわからない。ただ蘇我の血統から切り替わるためだけのように見える。そして古墳の形状すらここで切り替わった。ところが不比等の嫁は蘇我氏の娘だったわけである。それはちょうど殺した物部守屋の妹を嫁にした蘇我馬子そっくりである。あたかも戦国時代の国盗り合戦のさいの人質結婚である。しかし蘇我氏の時代の中臣氏はまだほぼ無名氏族。なぜそれが蘇我家の女を嫁にできたのかも不思議ではないか。

 
そしてその息長血統すらも、実は空虚な創作の可能性がある。つまり蘇我王権の前の歴史は、また推古も斉明・皇極も孝徳も天智・天武も、持統以前の大王はみな、つまり今の天皇につながるような王家は、全部空白、すべては藤原不比等の創作だったと筆者は考えるものである。飛鳥蘇我氏よりも前に実在した王家は、記録上三つしかない。


①『宋書』倭国伝が書いた5世紀の倭五王地方王権と

②『三国志』魏志倭人伝が書いた邪馬台国を中心とした3世紀後半の女王国、

③『漢書』地理史が書いた筑紫の奴国

だけである。


まして『隋書』「俀(たい)国伝」ともなると、倭国どころか、どこの国の歴史なのかもわからない。時代は確かに日本の飛鳥時代であるが、倭国とも書かれておらず「たい国」では東南アジアの国かと首をかしげる副題で、ところが舞台設定に阿蘇山と書かれてあって、まずもって大和のこととはまったく考えにくい状況。となると蘇我王権とは筑紫島南部の球磨(人吉以南)あたりにあった熊襲国家だった可能性すらあるだろう。その証拠品が人吉市から出ている金メッキの神獣鏡かも知れない(人吉市才園(さいぞん)古墳5世紀)。これが魏志の狗奴国の後継国ならば?魏志は狗奴国が負けたとも、滅びたとも書いてはいない。むしろ邪馬台国が負けたと考えれば、『日本書紀』で吉備・葛城王家がほろびたことに合致する。

ちなみに「奴」とは朝鮮語で「国・・・奈良のナ」である。奴国の「な」を、定説は博多=那の津の「な」とするが、弥生以後の国家なら半島渡来人が作ったものだから朝鮮語のほうが?また奴=那=灘とする意見も捨てがたいのだが?海人族の住まった地名に那賀は多い。「海の目の前の国」の意味。往古、海人族は海を「灘」と、狭い範囲で呼んでいた。神戸市灘区などは海人が開いた土地であろう。



斉明に戻る。
なんとなれば、皇極女帝はあまり存在感のない姫で、入鹿が目の前で惨殺されているのに「ひゃっ」とか叫んで逃げ出すようなえがかれかた。それが一巳の変以後は、孝徳という男弟王が登場し、難波に王都を建てるものの、天智・皇極に裏切られ病死のあとに再び女帝・斉明が重祚して登場・・・しかも同じ人なのにまったく性格正反対で、たぶれたように溝を作らせ、けったいな水祭祀をしてみたり、


イメージ 3
酒船石下水祭祀遺跡


新羅征伐に自ら九州まで乗り込んで死んだりする、

イメージ 4
斉明が死んだ朝倉広庭宮跡とされている場所・福岡県朝倉市
その後息子の天智が遺体を大和へ持ち帰り埋葬したというが?
帰路腐ったことだろう。


まるで別人・・・という、『日本書紀』の描いたどたばた劇は、どことなく魏志の邪馬台国女王が、

卑弥呼→男王になったがまた不安定になって→臺與女王
にそっくり。
これを比較してみると以下の様になる。

卑弥呼→男王になったがまた不安定になって→臺與女王
皇極女帝→孝徳大王で浪速へ遷都も不安定→斉明女帝重祚
アマテラス→男弟王スサノオと仲たがい戦争、岩戸隠れ→再登場


という三つの変換劇は似ていないか?もしや、魏志倭人伝の女王交代を、そのまま名前だけ置き換えて書いたのではないか?どたばたさせて蘇我王権滅亡への批判をかわしている?



万世一系と『日本書紀』が言い募る天皇の系図で、あきらかに無理につないだらしきところが複数個所ある。

①まず崇神の三輪王家からヤマトタケル伝説をはさんで仲哀が神に殺され、なぜか突然応神と息長の姫・神功皇后の新羅征伐と帰還があって、いつのまにか河内王家へ王朝が交代。

②さらにその河内王家が武烈大王の子供がないというありえない話になって越前から正体不明の継体大王が登場、息長血統と書き始める。

③さらに継体の子供らが早めに死ぬと、いきなり蘇我稲目が現れて(中国の周王の前で釣りをしていた太公望の登場のようだ)息子の馬子大臣と推古と聖徳太子が出現して、大和物部氏と崇仏・廃仏戦争が始まる・・・。

④蘇我氏が滅んで、またまた息長血脈の嫁入りと天智がひきつぐ息長血統の異常なまでの保護、持ち上げ。

⑤天武がすごいといいつつ、実は草壁は死に、持統と言う息長系譜が復活

⑥天武の血脈が全部が全部若くして死に、結果的には桓武という息長血統だけに。

⑦続日本紀になって、ようやく、『日本書紀』で改竄した歴史のために不比等の四人の子供が死んだと書かれた。つまり反藤原勢力の報復。

これらのつなぎの場面は、みな前の大王家の生き残り女性とに婚姻や遠い親戚とかいう無理な系譜になっており、神功皇后の限りなく息長氏(架空氏族)の血と葛城大王家の血筋が不可思議にからみあって継体へとつないであるし、なにかうそくさい。蘇我馬子の祖先にしても造作であるし、一巳の変で切り替わった大王家面々も創作。そもそも飛鳥のはじまりであった欽明そのものからしていなかったと考えられる。

中でも持統の前に置かれた二人(重祚させて三人にしてある)の女帝は、いかにも持統以下の傀儡3女帝の正当性のための前例であった可能性が非常に高いのだ。孝徳もそうである。その系譜の元ネタは魏志倭人伝の女王記事ではないか?

斉明の和風諡号(いみな)にその謎は隠されはいないか?

天豊財重日足姫尊 あまとよ・たから・いかしひ・たらしひめ

「あまとよ」は持統の諡号に高天原がつくための前例的な天の世界の意味。
 「たから」は幼名宝皇女から。
「いかしひ」は女帝即位の前例に「名前を生かしただけの姫」だろうか?
大事なのは最後。ちゃんと息長の姫のあかしである「たらしひめ」がついているところ。



彼女は明白に神功皇后のモデル、前例として創作された女帝ではないか?(大山もそう書いている)

それが重祚するのは卑弥呼と臺與の前例から創作。つまりこの女帝と弟の孝徳は、明白に魏志倭人伝の邪馬台国女王記事から不比等が創作した、存在しない天皇ではあるまいか?




それが、入鹿が死ぬときに「これはどういうわけなのか?」と足元で聞かれ、時の皇極女帝は「わたしにはなにがなにやら」と知らなかった振りをさせられたり、あるいは馬子のときに三韓の調の場で出てこなかった推古女帝もまた、いない存在だったであろう。つまりこれらの女帝は、明白に不比等が、持統、元明、元正という天智の血筋が即位することの前置き、前例として創作されたものと考えるものである。もちろん聖徳太子もそうである。祟る入鹿と蘇我一族の神霊を慰める手管として聖徳太子は登場するのだ。

太子が、「丁未(ていび)の変」で物部守屋を倒したとき、祈願したお礼に大阪上町台地に四天王寺を建てたとあるが、四天王寺は実にそのころまだないのである。その証拠は日本最初の寺院とはそのあと皇極(のちに斉明)、つまり蘇我王家が建てた飛鳥寺なのだと同じ『日本書紀』はちゃんと書いてあり、完全矛盾。また四天王寺のある場所ですでに祭祀をしていたのは難波吉士(なにわのきし)氏らである(加藤謙吉「四天王寺と難波吉士」など)。https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/f5593bc82c50de74897cc03b9f06c612

●※吉士
「吉士とは日本古代のヤマト政権のもとで行われた姓(かばね)の一つ。
「吉志」・「吉師」・「企師」とも表記される。

「渡来系氏族が多く、難波周辺を本拠としていた。この姓を持つ氏族としては

1.大彦命を祖とする。のちの難波吉士で、この一族に難波日鷹吉士(なにわのひたかのきし)・大草香吉士(おおくさかのきし)がある。

2.百済人努理使主(ぬり の おみ)を祖とする。のちの調吉士(つきのきし)[2]

3.新羅王子天日槍(あめ の ひぼこ)を祖とする。のちの三宅吉士(みやけのきし)

の3つの流れがある。 」Wiki吉士より


●難波吉士・大草香部・日下部
多くが今の大阪府吹田市岸部に住まった。有名な後裔子孫に岸部一徳・シロー兄弟(ザ・タイガース)もそうか?岸部出身である。

●大草香部吉士(おおくさかべ・きし)は草香部皇子(安康天皇が殺した)の名を雄略天皇時代に名乗ったと造るが、非常に怪しく、海部氏関係で靫負となった日下部との関係者かも知れぬ。日下部はこれも諸説あるが、四国の久米部など海人族関連氏族だろう。浦島伝説を持つ。日下と書くのは「草香部皇子の親衛隊門番のくさかべがいたところであり、そこに日が昇るので、くさかべの日の本と」。

有名なのはもとは大阪湾の海岸だった東大阪市日下。大和の港であった草香江(くさかえ 孔舎衙)がここである。東に金剛・葛城・生駒の山地が連なり、そこから日の出することから地名となったというのが定説。日本国命名の元になったとも言われる海人族的な地名。ニギハヤヒを祭る石切剣矢神社がある。

イメージ 2

この矢こそが日下部たちの職掌で、ゆえに靫負(ゆげい=大伴氏の象徴的武芸軍団で門番。靫(ゆき)とは飾り矢を背負って最前線に立つ勇猛なものが背負った矢筒である。羽を下にして矢先を上にした威嚇する姿であったという。一般的に実戦の矢は羽を上にして靱(やす・ゆき)に差す。)となった。


イメージ 1
熊本県人吉市の横穴古墳群に掘られた靫
熊襲を粛清するために大伴氏とその靫負であった日下部たちが人吉には入っていた




日下部たちはもともと大阪湾河内湖のもっと南の草香にいたが、その後ほかの渡来氏族に追われて仕方なく草香江に移住。草香の夢津が最初の居住地。神武上陸伝承があり、日下部氏が奏上して取り入れられたのだろう。移住した東大阪石切を彼らが再び草香と呼ぶのである。だから「日の本の日下」と枕詞にまでなるのは、日下部たちの力があったからだろう。それを最初の国名にしようとしたのはおそらく蘇我入鹿であろう。焼かれた国書(帝紀・国紀)が残っていたらそう書いてあったに違いない。しかしその行為を奪って天武から日本となったとしたのは藤原不比等である。なにもかも蘇我氏の物まね、コピーの朝廷のはじまりであった。一般に蘇我飛鳥時代の「日本」国主張は聖徳太子だと考える人が多いが、聖徳太子は実は、殺した蘇我氏の理想像であり虚像として、不比等の娘・光明皇后が考え付いたもので、要するに前の王家を滅ぼしたことへの、藤原氏的な「神やらい」思想だったのである。

※福岡市早良区?にも草香江がある。日下部靫負が入ったからなのか、あるいはこちらのほうが先住地だったか?
九州には大和と同じ地名がいくつかあるが、どれもどちらが先はよくわからない。



●おまけの久米部
「久米部(くめべ)とは、古代日本の軍事的な職業部(品部)。「来目部」・「久目部」とも書き、「大来目部」とも言う。
 
本来は久米直が伴造として管掌してきたもので、のちに久米直とともに大伴連の統率下に入った。中国・四国地方に分布し、宮廷の警衛・軍事にあたった。

久米部は 中国地方・ 四国地方を中心に、東海道沿いにも分布しており、 伯耆国・ 美作国 ・伊予国には久米郡が存在した(久米郡 (愛媛県)・ 久米郡 (愛媛県))。 岡山県には、現在も 久米郡が存在する。一方で、従来から大伴氏が統轄していた大伴部が東国に多いこと、『古事記』では対等な立場で描かれている「久米氏」と「大伴氏」が、『書紀』などでは大伴氏に久米部が従属するかのように記述されていること、久米直氏が 八色の姓でも賜姓されていないところから、久米部を管掌していた氏族が衰亡し、久米部も大伴氏に管理されるようになったことが想像される」Wiki久米部



「くさかべ」は天武の長子・草壁皇子に似る名前である。アメノオシホミミのモデル。そこから前倒しで造られたという見方は無理か?天武は大海人皇子でやはり海と関係深い。「おおあま」は海人族に育てられたという意味だ。それが日下部の正体かも???いずれにしても部がつくので、大王家の部民出身である。部民は貴族でも武家でもない。これをシナベという。大王のために専用の世話や守護をする下層民出身者。


つまり聖徳太子なども、あとからの創作。丁未の乱が廃仏論で起こるというのも嘘。原因はおそらく蘇我氏による物部氏=ニギハヤヒが配下にしていた、大物主を信仰する縄文人ナガスネ彦集団という中央集権の邪魔者を排除した事件であろう。つまり出雲国譲り以前にあった本当の国譲りを描いたものだろう。不比等は神道氏族として、聖武の仏教傾倒に困り果てていたわけで、そのことも影響してか、廃仏を唱えた守屋のされたことを、聖武への戒めとしたかったのかも知れない。持統以後の日本は、仏教よりも神道が強く、空海以降はしぶしぶ神仏習合に踏み切るが、仏教ははかばかしくない貴族へは向かわず、しかたなく民衆しかも部民、中でも被差別者へ向かうしかなかったのである。つまり一向宗、延暦寺、日蓮宗などなどそうである。




結論
蘇我王権も大和にはなかった可能性がある。それは大和でもない別の国家。例えば狗奴国王権のこと?

持統よりも前に、大和にはすべての王権は存在せず、『日本書紀』全部が、中国史書と朝鮮の史書、及び九州南部にあった狗奴国の歴史から創作し、大和に置き直しただけのまがいものの歴史である。

『日本書紀』は持統だけが実在で、それより前はすべて虚構。つまり『日本書紀』は日本の正しい正史ではなく、藤原氏のための偽書である。

今のところ筆者はそう考えるしかない。



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●紀氏・・・紀直・紀臣・木部(岐部)などの集合体氏族である。
紀貫之、友則、大人などが有名。 
 推定出身地・・・肥前國基肄郡 きいの・こほり、 あるいは伽耶小王国の安羅(『日本書紀』の言う任那みまな)あるいは紀州和歌山県紀ノ川河口部南北岸(大谷古墳・岩橋千塚古墳)つまり名草郡、海部郡、有田郡、大阪府の淡輪(たんのわ)などなど。


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スイジガイを象った王冠を被る埴輪・岩橋千塚古墳

スイジガイを幾何学的にしたのが九州装飾古墳に描かれたスイジガイの双脚輪状文
である。それが最大数描かれた古墳は、福岡県桂川町にある王塚古墳である。

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つまりこれが紀氏のステータスシンボルであり、九州出身であった一級証拠品。


※みまなとは・・・「朝鮮半島における倭国の北端(→北岸Kawakatu)である、『三国志』魏書東夷伝倭人条の項目における狗邪韓国の後継にあたる金官国を中心とする地域、三韓の弁辰、弁韓および辰韓の一部、馬韓の一部(現在の全羅南道を含む地域)を含むと看做すのが通説である。任那諸国の中の金官国(現在の慶尚南道金海市)を指すものと主張する説もある」 Wiki任那より

Wikiはいろいろ書いているが、要するに安羅のことである。
決して『日本書紀』の言う様な「任那」や「日本府」というものがあったのではなく、そもそも伽耶は、どこにも属さない各国からの邦人の小国家の集まっていたコスモポリタンであり、その中の安羅・・・釜山周辺に倭人がごっそり住んでいた。理由はさまざまな産物確保だろう。鉄や漁業。やがて東部は新羅に、西部は百済に切り取られ消滅する。そのとき『日本書紀』では葛城襲津彦と秦氏120部がやってきたとあるが、もちろん伽耶諸王族も亡命したことだろう。だから秦氏支配者も、実は伽耶の一王族であり、その臣下であり、あるいは世話をしていた職人たちであったのかも知れない。

任那の表記を分析すれば「任された国」で、『日本書紀』イデオロギーそのままである。読みは朝鮮語で「にんな」。日本語で「みまな」と訛っただけ。勝手に占有していたことは魏志に「倭は伽耶の鉄をほしいままにしている」とあるから明白。その当事者が葛城や紀氏であろう。



紀氏はもともとは木部であろう。海人族なので船材の樹木には詳しい。そこからイタケルの種をまいた神話が出る。

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民族学伝承ひろいあげ辞典オリジナル


●出身地肥前説の証拠品
●肥前基肄郡・・・佐賀県三養基郡基山町宮浦の荒穂社を最古基盤とし、孝徳天皇時代(7世紀中頃)に創祀された郡と伝わる。『日本三代実録』に貞観2年(860年)に、従五位上から正五位下に陞叙された記録があり、延喜の制で国幣小社に列した(式内社)。明治6年(1873年)に郷社、昭和3年(1928年)に県社に列格した。 基肄郡は明治初年時点では全域が対馬府中藩領であった。「旧高旧領取調帳」の記載によると、酒井東村、酒井西村、飯田村、姫方村、永吉村、田代村、神辺村、萱方村、長野村、柚比村、小倉村、宮浦村、園部村が存在。(13村)

基肄郡はもとの表記は基ひと文字だったが、孝徳朝までに、中央で良字二文字表記の命によって基肄郡となった。いずれの文字も「もと」という意味があり(角川「新字源」より)、ここが木部集団発祥の地であったことを思わせる。

■荒穂神社(あらほのじんじゃ)

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佐賀県三養基郡基山町宮浦に鎮座する神社である。社格は式内小社、県社。 『延喜式』神名帳記載神社。基山町(きやまちょう)は、佐賀県東部の三養基郡に属する町。周辺の鳥栖市や福岡県小郡市、久留米市とともに、一大経済圏を形成している。
主祭神・瓊々杵尊
配神・鴨大神・五十猛命
のちに付加されたであろう配神・八幡大神、宝満大神、春日大明神、住吉大明神

祭神を見ての通り、この社が明らかに紀氏・鴨氏ら武内宿禰氏族の枝族が祭っていたとわかる。
紀氏(きの・うじ)は、もとは木氏で、その意味は「朝鮮半島新羅から木種を持ち帰り、父スサノオとともに紀州にまいた息子・五十猛(イソタケル・イタケル)に由来する氏名である。


●紀氏同族平群氏
畿内・中央では、大和国平群県紀里(現在の奈良県生駒郡平群町上庄付近)を本拠とした古代豪族である。姓は初め臣(おみ)であり、天武天皇13年(684年)八色の姓制定に伴い朝臣へ改姓した。 平群(へぐり)氏はのちに同族。平群氏には平群谷に古い古墳がなく、先行した中央豪族だった紀氏の力で中期以降になってようやく平群に古墳を持ったが、その規模は小さく、記紀にもその名はわずかしか出てないので、小集団であるが、近畿では早期に横穴式石室を導入しており、九州や半島百済南部の光州前方後円墳を造った筑紫系倭人氏族との接触があったことが思われる。紀氏は、朝鮮半島南部、光州から伽耶の安羅にいたと考えられ、葛城氏同族である。荒穂神社に鴨の神が祭られていることから、紀氏と鴨氏、葛城氏などとの同族化は安羅で起きていたのは間違いなかろう。

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平群西の宮古墳・横穴式石室外観


さて、紀氏は基肄郡から太平洋周りで、南九州や豊後各地、土佐などを経由して紀伊半島に入ったと考えられ、その足跡に、石棚を持つ横穴式石室のある古墳や、国東岐部などの地名を残していった。大分県、和歌山県に木、紀関連だけでなく海部郡を共有していることは、紀氏たちが海部集団という海人管理にあたっていて、のちに天武以後律令制で海部(あま)が成立したときには、ほかの氏族(尾張氏や日下部氏ら)とともに、一部が中央が各地に置いた海部のひとりとなったのだろう。その後、紀ノ川河口部から葛城、纒向、飛鳥へと進出し、倭五王時代までに京都市桂の物集女(もずめ)あたりまで進出(考古学の土器淡輪技法の紀ノ川河口北部淡輪古墳群から桂へと流れた先)。宇治市から伏見区はかつて山背國紀伊郡であった。ただし考古学的にはすでに3世紀には、巨椋池北部、今の宇治市市街地小倉や伏見区深草に朝鮮式の遺跡が見られ、これが果たして紀氏のものか、あるいは渡来人秦氏のものか決定できない状況。秦氏の渡来には葛城襲津彦が関わっている記録があるから、同族の紀氏もともに京都に入る可能性は大であろう。


●壱岐氏
安羅から帰るとき、舟は必ず壱岐・対馬に寄港する。壱岐には中臣氏の中にあって祭祀を執り行い、忌部氏とともに中臣神道の中心的存在となっていたシャーマン壱岐氏がいたはずで、壱岐は海士(男性あま)発祥の地であり、月読信仰の発祥地でもあるから、忌部とともに壱岐氏もまた紀氏一族、武内宿禰氏族との関わりがあったに違いない。その壱岐氏と秦氏が京都の松尾で並んで住む隣保班であるのも面白い。


●紀州の須佐地名
なお和歌山県有田市に須佐がある。須佐神社があってスサノオが祭られている。これも紀氏によったものではなかろうか?つまりやはりスサノオもイタケルも紀伊の神々だったのを、無理やり『日本書紀』は出雲の成立神に仕立てたと見て良いだろう。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E4%BD%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E6%9C%89%E7%94%B0%E5%B8%82


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有田市・須佐神社
ありだと濁る地名は、葛城支族の蟻の臣を思い出させる。

和歌山はそもそも国生み神話の舞台である淡路島に対面しており、ロケーションとして紀氏からの神々情報を受けてぴたりとはまったに違いない。




●忌部・斎部氏 いんべ・いみべと物部影姫
蘇我氏の品部、のちに中臣・藤原に寝返って祭祀・記紀神話現地採集の中心に。

玉造集団の管理者

猿田彦の妻アメノウズメ=猿女君の祖、は忌部祖神・天太玉命の娘だとさ。『日本書紀』ではアマテラスの岩戸の前でストリップした踊るシャーマン。
忌、斎、どちらも祭祀部であることを名前にしている。

忌みごととか、呪文というのは、往古は吉凶どちらにも使われた言葉。そのどちらかを占うのが忌部やシャーマンである。

ちなみに、忌部氏の「いんべ」地名は吉備にも出雲にもあり、筑紫物部氏として九州に入っていた荒鹿火(あらかい・筑紫物部氏開祖、守屋の息子)の娘・影姫を天皇と取り合った話も『日本書紀』に残されている。この「かげひめ」が、武内宿禰の妻となった肥前基肄郡の山下影姫に反映されたのかどうかは明白ではない。忌部と紀氏の同族関係は、国東の岐部のいる場所が伊美岩倉であるところから推察可能。忌部氏はもともと蘇我氏の配下にあって、玉造集団を支配下に置く玉の祭祀を執り行う一族だった。ゆえに玉の素材として出雲や古志を重視し、出雲神話の題材を不比等に提供するようになった寝返りシャーマンであろうと大山が書いている(祖神が天太玉命)。玉造地名は大坂や出雲や東国のさきたまにあり、忌部氏の力が及んだところだろう。しかし政治では三種の神器には入れてもらえたが実際には玉はさほど重視されていない。それはやはり忌部が寝返り氏族で、藤原氏にはいまひとつ受けが悪かった?せいかも知れない。

■ 伊部(いんべ): 岡山県備前市伊部
■ 出雲忌部
朝廷の品部としての「忌部」は、出雲・紀伊・阿波・讃岐が代表的なものとして明らかとなっている[2][1]。『古語拾遺』では、天太玉命に従った5柱の神を「忌部五部神」として、各忌部の祖としている。 職掌:玉の貢納
島根県忌部神社  忌部子首が不比等によって出雲に送り込まれた記録あり。『日本書紀』神話の元ネタを持って還った氏族のひとつが忌部氏である。
■紀伊忌部
地域:紀伊国名草郡御木郷・麁香郷 『古語拾遺』では「御木」は木を採る忌部、「麁香」[注 2]は殿を造る忌部がいたことによるとする。『和名類聚抄』では、紀伊国名草郡に忌部郷と神戸郷(忌部神戸か)が見え、和歌山県和歌山市鳴神の鳴神社付近に比定される[4]。
■阿波忌部
地域:阿波国麻植郡忌部郷
職業 麻、大麻(ちょま、護摩壇で燃やす)の栽培と献上
■讃岐忌部 楯の貢納
「また『古語拾遺』には筑紫・伊勢に天目一箇命(あめのまひとつのみこと:忌部五部神)を祖とする忌部があったと記し、この神に刀・斧・鉄鐸・鏡などを作らせたという記述がある。 このことから、鍛冶として刀・斧を貢納した忌部がいたものと推測されている[2]。そのほか、備前・越前にも忌部が分布したと見られている。」 以上Wiki忌部氏より

そもそも祭神がばらばらで、各地でいろいろな献上品を作っているのが部の民であった証拠。
その中から中央進出して氏族になったものがある。これは部がつく人々の常。臣や直などの「かばね」が持てたのはごく一部の支配階級(えらいさん=網元、豪農、庄屋、鉱山主)だけ。すると土師部(墓・土木・埴輪専門職人)から右大臣までいった菅原道真とかシャーマン・食事係り阿部一族から皇室専属の陰陽師になった安倍晴明たちの類稀な勉強と努力がわかるはず。

いずれにせよ藤原不比等が忌部を出雲に送り込み、さらに出雲国造も送り込んだ。それが『日本書紀』出雲神話としてできあがるわけだが、実際の国譲りの現場は蘇我氏のいる飛鳥でのことだったわけである。出雲では何事も起こっていない。では、あの神庭荒神谷のおびただしい銅剣や、岩倉の銅鐸たちはいったい?推察でしかないが、蘇我氏を出雲大社へオオナムチとして流したのちか、以前、出雲には渡来人の来襲があって、それが鉄剣を持っていてかなわなかった。それで鉄に早くに目覚めた出雲では、足元にいくらでもあった砂鉄に気がつく。このカルチャーショックによって銅の文化が古いと知った出雲人民は、古い銅製品をステータス・神さまのヨリシロにしてきたことを恥じて、埋めた・・・。あるいは藤原氏がタケミカヅチとフツヌシを常陸から持ってきて、国譲りのスターにしたことが、鉄剣=大和支配であり、銅剣・銅鐸=古い地元祭祀で記紀神話にあてはまらないからと、遺棄させた。象徴として神と古墳も一転した?いろいろ考え付くが結論は出ない。

しかし大和の飛鳥蘇我王権では、まさに、「どうして現場に血が流れるんだ!」なのである。よくも造ったもんだ。うそでもそれは天才的である。不比等は物語作家として偉大である。入鹿の首は飛んでいなかったかも知れない。飛んでいたら飛鳥は「飛ぶ首の明日香」とかかれただろうが。




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今日の夕刻、作詞家の松本隆がBS「関口宏の人生の詩」に出ていて、ちょろっと見たら、いろいろしゃべっていて、青山の生まれだと申されていた。で、青山には洋館が多いとなって、すかさず松本は「江戸川乱歩の少年探偵団シリーズで、怪人二十面相が住んでいた設定になってた洋館」

関口「そこで今しゃべってもらってますがね」

松本「そうですよね。すごいなあ」

みたいな話があって・・・。


ぼくも子供時代、少年探偵団シリーを愛読して、江戸川乱歩の設定する「洋館」「ニコライ堂」「時計台」なんぞに、いたく心酔し、どんなところなのだろう・・・などと想像をたくましゅうしていた頃があったので、共感してしまった。


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nikoraidou


長じて、何度か青山には行ったわけだが、なぜかそういうことを思い出したりがなかった。リアルな歩きと、少年時代の思い出がそのときリンクしなかったのは、どうも仕事だったからだろう。



で、今になって、それを他者から聞くことで、かえってまざまざと、原宿駅から表参道を歩き、キディランドやらに寄りながら青山から渋谷へ向ってた、若い頃が脳裏にリアルに浮かんだのだ。

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原宿は、季節も秋で、いたくウェットな景色で、 ぼくもまだ二十代の、大坂のファッション雑貨に勤めていた、ばりばりで、せいぜいおしゃれしたつもりのベルベットの上下と茶のバックスキンの靴なんかで決め込み、 表参道からアマンド(まだあるのかな?)の角を曲がって三愛の・・・なんたら・・・ベル・・・??なんたらに立ち寄って、渋谷まで・・・。それからまた五反田のサンリオ「いちごの王国」だったっけ?まで戻って・・・なんかしたりは仕事上の必要からだったな。

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はっぴいえんど「風街ろまん」、聞きたくなったな。あなたはどうですか?


作詞 松本隆






風街・・・
松本は子供の頃から宮沢賢治の愛読者だったそうで、「風」というキーワードに憧れ、青山を風街と呼んでいたらしい。



表参道原宿は
懐かしすぎる友だちと
人に言えない苦しみすら

風が運んでくれる街・・・
たくろう





そうなんだ。
だから田舎育ちのぼくでも、あのとき風のようにあの街を・・・




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もう戻れないんだよな。
あの時代に。





































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大神とは何か?
●土佐大神 とさのおおかみ

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土佐神社



『日本書紀』天武天皇紀土佐大神の条
「土左大神神刀一口を以て、天皇に進る」
「秦忌寸石勝を遣わして、幣を土左大神に奉る」

『土佐国風土記(逸文)』
「土左の郡。郡家の西のかた去くこと四里に土左の高賀茂の大社あり。
その神の名を一言主の尊とせり。
その祖は詳かにあらず。
一説に曰はく、大穴六道の尊(おほあなむちのみこと)の子、味鋤高彦根の尊なりといふ。」

「この二柱の神は、古来より賀茂氏によって大和葛城の里で篤く尊崇されてきた神とされ、大和の賀茂氏および、その同族が土佐の国造に任命されたことなどから、賀茂氏の神を当地に祀ったものであると伝えられている」人文研究見聞録サイト土佐神社よりhttps://cultural-experience.blogspot.com/2015/11/blog-post_16.html
 ちなみに、『土佐国風土記(逸文)』によれば、土左大神には御子神として天河命(あまのかわのみこと)がおり、天河命には浄川媛命(きよかわひめのみこと)という娘神がいるとも記されています。」


土佐の表記は、古く平安時代までは「土左」であるが、近年は「土佐」表記を使う。
今の高知県の大部分。

土佐神社は土佐神社(とさじんじゃ)は、高知県高知市一宮(いっく)しなねにある神社。式内社(大社)、土佐国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表(べっぴょう)神社である。 ※別表神社とは、神社本庁が定めた、神社本庁が包括している神社のことである。

文献によって表記や神社名がまちまち。
土左大神 - 『日本書紀』[原 1][原 2]、『土佐国風土記』逸文[原 3]
土左高賀茂大社 - 『土佐国風土記』逸文[原 4]
都佐坐神社 - 『延喜式』神名帳[原 5]
都佐坐神 - 『日本三代実録』[原 6]
高賀茂神 - 『長寛勘文』


上記『日本書紀』と風土記では、土佐大神はアジスキタカヒコネ(書紀)と一言主(風土記・ひとことぬし)であるとなっていて、●高賀茂とは、奈良県葛城地方の高賀茂味鋤高彦根神社の祭神でアジスキタカヒコネである。高賀茂神、つまりこれが賀茂大神(くらおかみ、たかおかみとも。くらおかみはたかおかみの後戸神で、たかおかみがアジスキ、くらおかみが一言主ととらえる手がある)であるから、土佐大神の二柱のうち、ひとつはアジスキタカヒコネそのものとなる。これは『日本書紀』天武天皇時代の、中央政権の主張である。●一言主もまた葛城の神で、両者は葛城山中腹に高賀茂、やや高いところに一言主が祭ってある。


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葛城一言主神社


高賀茂神社の場合、出雲神話の神で、ともに地主神である一言主神をオオナムチの分身である賀茂神つまりアジスキタカヒコネが鎮撫する形で葛城の鎮守であり、一言主神社は記紀・雄略天皇(大王)の時に、天皇と同じ姿で神として登場し、天皇をいさめた神。つまり葛城山の山の神で地主神である。

つまり天皇氏よりも古くから大和にあった神々である。言い換えれば葛城氏は「先の先の大王(近畿に限れば、天皇大王家の前は蘇我王家、蘇我王家の前が葛城・吉備王家。日本全体では奴国王が最古で、次に邪馬台女王国、あとの地域にも群雄割拠で、丹後、越、蝦夷国家、隼人国家、球磨国家、北関東国家などなど、100以上の小王国が林立していたと考えられるが)」だった可能性もあるが、文献では天皇氏へきさきを出していた一族が葛城氏であると造られている。

住所=高知県高知市一宮(いっく)しなね2丁目16-1

「大神 おおかみ」とは=主として奈良の大神神社の大物主=倭大神のことだが、ある地方には、ほぼ一箇所〜複数個所の地域の大神がある。記紀や風土記に記載された、記紀神話に登場する神々が、地方へ流されたりして祭られていることが多い。特別なのかどうかわからぬが、紀伊国には大神が二箇所ある。


なにゆえに葛城の地主神二柱が、ともに中央から土佐へ流されたかと言うと、称徳天皇と道鏡の時代の『続日本紀』はこう弁明している。

「『続日本紀』によると、大和の葛城山にあった一言主神は雄略天皇と狩りの獲物を巡って争いを起こし、命によって土佐に流されてしまったという。この流された神はしばらく別の場所に鎮座していたが、新しい宮へ移ろうと、須崎の鳴無神社から石を投げて、現在の土佐神社に宮を定めたということになっている。その投げた石は、今も「礫石 つぶていし」という名で境内にある。

  しかし『古事記』によると、雄略天皇と一言主神の関係は逆転し、葛城山中でいきなり神と出くわした天皇は、畏れ多いこととして着ていた衣服を差し出して崇めたとされる。この矛盾する話のために、賀茂氏の別の祖神である味鋤高彦根尊を「高鴨神」とする説も支持されることになった。この結果、現在の土佐神社の祭神は二柱となっているわけである。」
日本伝承大鑑サイト高知編よりhttp://www.japanmystery.com/index.html

簡単に『日本書紀』主張では、一旦、滅ぼした先の王家飛鳥蘇我王家の祟るであろう神霊は、蘇我氏の祖であるアジスキタカヒコネと一言主(=出雲の八重事代主か?)として、先の先の王家葛城王家と一括して、土佐へ流した。しかしその後、また大和の元の場所に戻されたのである。しかし土佐は土佐で神社は残り、形式上、やはり神は流されていることになる。意味不明。

出雲オオナムチは大山誠一の説では蘇我氏のことであり、「出雲神賀詞」ではアジスキタカヒコネ・事代主・カヤナルミは藤原京の四方を鎮撫するとして置かれた神々。それをひとつ追いやれば、そこは鬼門となってしまう。だからあわてて戻したのだろう。アジスキタカヒコネは葛城氏と賀茂氏のおやがみであるから、武内宿禰系氏族すべての祖人だと言えるだろう。だからオオナムチ(大穴持=大地主神)である蘇我氏の先祖もろともに一旦追い出してしまったことになってしまった。

オオナムチはちゃんと奈良に神社があり(葛城山麓御所市大字朝町小字宮山の唐笠山東麓)、なぜこちらではなく葛城の二神だったのか不思議である。霊力としてすでに古くて弱いか?あるいは藤原氏にとっては直接的に流懺(るざん)したのは蘇我氏神霊だから、葛城はもっと前の河内王家が流懺したので、なくてもよいと思ったか?それを戻したというのは、不比等死後の藤原氏では、そのことがうっかり忘れられ、しまったそれもうちがやったことだった!と、言うことだったのかも知れないが、実は『続日本紀』の頃は、藤原家は橘諸兄の台頭や藤原仲麻呂の乱で衰亡しており、橘氏がそういう事情を知らなかった可能性があり、また道鏡事件も起こっている。土佐に葛城の神々を流したのは橘氏か弓削道鏡だったかも?となると、それはまさにうっかりであろう。

それにしても6世紀の雄略朝に流されたはずの葛城の神を、「続日本紀」の天平宝字8(764)年に戻す(道鏡側近だった円興の弟である賀茂朝臣田守が戻したという)とは、あまりに時代に開きがありすぎる。二百年も忘れられていたということはなかろうと、上山春平はこれは役行者を流したことを言い換えたかと書いているが、それも奇妙で、役小角が流されたのは伊豆で、まったく土佐とは方向が違う。

大山はそれより前の天武の壬申の乱関係で、蘇我赤兄・巨勢比等、中臣金の子供、蘇我果安の子供らが流されたことなどとの関与か?としている。まあ、それも変ではあるが。しかし土佐かどうかはわからないし、身内の中臣まで流したというのはまだ藤原不比等ではあるまいから、どうかとも見える。いずれにせよ戻したのは道鏡でいいのではないか。新興勢力としての人気取りだと大山も書いている。



●紀伊大神 きいのおおかみ
紀大神は二箇所にある。
①五十猛命=和歌山市伊太祈曽(いだきそ)の伊太祁曽(いたきそ)神社のご祭神
②アマテラス=日前国懸
 
 「天武期持統期の神々への奉幣は国家的祭祀で行われている。天皇家の祖神とされる伊勢の神はともかく、その他の神は一地方氏族の祖神であるはずがない。とは云え紀伊には太陽神として日前神が鎮座しており、国懸神が伊勢に先んじての皇室の祖神の天照大神のこととは考えにくい。ましてや天武の回復祈願にでも皇祖神の天照大神を祀ることになった伊勢の名は出ていない。
  天武期に紀伊国国懸神と書いている。しかし持統期には四所の一の紀伊大神、五社の一の紀伊となっているのは伊勢の天照大神と同様に紀伊に日前神として天照大神が祭られた可能性も考えられる。これは『日本書記』の編纂は、大宝二年(702)の伊太祁曽三神の分遷以後の和銅七年(714)からであることからも推測できる。
  日前神の名が神代紀以来登場するのは嘉祥三年(八五〇)の『文徳実録』で、紀伊國日前國懸大神社とある。従って、紀伊国国懸神とは紀伊國日前神ではなく、国懸神の神格の一である「紀伊國に坐す大神」と見るのが素直な見方。即ちこの頃では木の神の五十猛命ではなかろうか。」神奈備へようこそサイトhttp://kamnavi.jp/ki/nitizen.htm

見ての通り、アマテラスは持統が天皇になってから置かれたのだからイタケルよりもあと。つまりそもそもはイタケル=スサノオの子供が紀伊大神で間違いない。しかし記紀では、スサノオに、アマテラスとの誓約で生んだ八王子・王女以外に子供がいたとは、いつのまになのか?奇稲田比売(くしいなだひめ)との子供だろうか?いきなり新羅から親子で出雲に戻るとされるが、なぜか樹種を紀伊半島にまく。

そもそも大山説なら、出雲など出雲大社に蘇我氏を祭った以外はまったくスサノオ・イタケルと関係なく、まずは紀伊半島の熊野に二人は入り木々の種をまいたので、紀州の大神としてイタケルが祭られる。記録上は文武天皇の時代で、日前・国懸よりも古くはないとなっている。しかしアマテラスが日前・国懸(くにかけす)に祭られたのと同時期に、イタケルも、『日本書紀』記録にあわせて置かれたに違いない。しかしこれは不比等が意図した、蘇我氏オオナムチの出雲大社祭祀の元ネタがばれてしまうことであるので、記録しなかった可能性があり、イタキソの祭祀はもっと古くから紀伊の名草郡・海部郡・スサ地域の紀氏・木部たちが行っていた神こそがイタケルだった可能性がある。その紀伊における父であるスサノオを出雲開闢神に利用した。風土記はスサノオなどは紀氏だけが祭る神だったので書きたくないが、しぶしぶ、地方神として名前だけ出した・・・。というのが大山説だ。


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筆者もそれは共感できる。紀氏は木の仮面をかぶり、祭祀ではよく踊ったと考えるからである。これは纒向で出ている仮面、さらに豊後国東突端の伊美におけるケべス神(=岐部の神で紀部であろう)がやはり仮面をかぶるからである。出雲風土記のスサノオも仮面をかぶって陽気に踊る気のいい地域神として登場している。


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纒向出土木製仮面



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ケベスマツリの仮面


『出雲国風土記』にはスサノオのオロチ退治はなく、まるっとそこに名も知らぬ地元神の国引き神話=国家成立話がはめられている。つまり出雲ではスサノオはいない神であり、紀伊と同名の熊野神社も、『日本書紀』以後に作られたものであろう。本来スサノオは紀直、紀臣の祖人として紀伊半島海岸部で紀氏が祭る神だった。それは同族である葛城氏の本拠であるから、紀ノ川河口部北側の大阪淡輪〜葛城山地、そして京都桂などは紀氏が一国と飛び地にしており、葛城とも婚姻関係にあって、スサノオ--武内宿禰子孫氏族としてある。蘇我氏ももし本当に葛城の支族であるなら、出雲築杵宮のオオナムチ=オオクニヌシとは蘇我入鹿一族だけでなく、葛城の神も祭られている可能性がある。

葛城氏の本拠地にある極楽ヒビキ遺跡で、葛城襲津彦の古墳に当たる墓には直弧文のつけられた靫の埴輪があるが、直弧文は大阪の紫金山古墳からも出るし、北部九州の装飾古墳からも出る。だから直弧文は流懺された吉備と葛城一族が祟らぬように貼り付けられた印だと筆者は思うのである。そしてその×を除くと表れる吉備系弧文こそが、纒向でも出たのだから、それこそが邪馬台国の氏族が吉備と葛城であったことになるとも思うのである。だから彼らの流懺は、ずっと新しい持統と不比等の時代にはありえないはずだ。それは4〜6世紀に起こったことになる。おそらく秦氏がやってくる4世紀以後のことである。すると肥後の阿蘇ピンク石などの阿蘇の石材が使われなくなる時期こそは、吉備・葛城の衰亡だと見えてくるのである。その頃、紀氏もまた佐賀県の基肄郡を離れて、太平洋を紀州へと動いている。石棚のある石室が動き、やがて北関東へ彼らが移住したこともはっきりしている。紀氏こそは前方後円墳の時代が終わってもまださきたま古墳群などを作り続けた氏族だっただろう。



イメージ 3



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たまには音楽でも。

閑話休題に。

Crossroads 2010 Live - B.B. King, Eric Clapton, Robert Cray, Jimmie Vaughn ....     





どうにも
人間に
なじめないと感じた日は
音楽は救いになる。







音楽も
ひとつの民俗誌である。








死ぬまで勉強ですわ。





呑んでるかい?





































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■惟喬親王
「惟喬親王(これたかしんのう、承和11年(844年) - 寛平9年2月20日(897年3月30日)は、平安時代前期の皇族。文徳天皇の第一皇子。母は紀名虎の娘・更衣紀静子。別名小野宮。同母妹に恬子内親王がいる。当親王を支持した紀氏は、側近だった者らを顕彰し六歌仙となったといわれる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%9F%E5%96%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B

この方のキーワードは、
紀氏の母親・静子
小野の宮
である。
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1462756/08/53477408/img_2?20181115084046


惟喬親王は木地師の祖といわれ、木地師が用いる手挽き轆轤(てびき・ろくろ)を発明したと言われている。もちろん木地師はプライドが高い職人ゆえ、彼らが親王や平家を出自とする伝承は、職能民独特の「貴種流離譚」のひとつである。
母親である静子には「しずこの舞姫」というあだ名がある(綛野和子)。
要するに紀氏が娶った白拍子であろうかと言われている。
紀貫之が『古今和歌集』の編纂に当たったことも、紀氏出身者と職能民の関わりが、木の国・紀州や熊野で往古からあった・・・紀氏はその管理者であったことを思わせる。かつての「先の王家」に関与していた紀氏が、在地管理では民衆に近い、というよりも、紀氏自身が職能民とよく似た境遇にあった可能性が考えられる。その上下関係はおそらく河内王朝以来のものだったのだろう。紀氏はもともと紀ノ川河口部に入り、東の葛城氏や吉備王氏たちと王家を構成した古い氏族と考えられる。紀ノ川河口部には河内王朝時代の大古墳が存在する。
岩橋千塚古墳群→http://inoues.net/ruins/otani_kofun.html
          →http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/53255514.html


■轆轤木地師
ろくろはおそらく中国から入ってくる。惟喬親王発明というのはもちろん木地師たちがこしらえたお話である。

https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1462756/08/53477408/img_3?20181115084046

さらに紀氏の管理下にあったろくろ木地師や漆部(ぬりべ)たち技術者の、さらに古い出身地を探していくと、やはりさざれ石の出る滋賀県永源寺に行き着く。
木地師は日本の職能民・技術者の中でおそらく唯一、その出自と姓名が明確な部民なのである。
木を扱うゆえに山に籠もり続け、ほとんどほかの血が混じらなかったためであろう。
彼らは永源寺君ケ畑から全国に散らばるが、その理由は材木と漆の枯渇に始まる。
その経路は少なくとも6つあるとされる。なぜそれがわかるかというと、彼らはプライドが高いがために、かならずどこから移動したかを明確に言うように一子相伝されてきた。だから宮崎県椎葉の木地師なら、その前は久住山といい、久住山木地師は玖珠耶馬渓と言い、玖珠木地師は四国といい、四国では永源寺というふうに明快に答える。
そしてその姓名は小椋、筒井、星、大蔵、真壁などで、これは『『新撰姓氏録』』にちゃんと記載がある。だから木地師や漆部は差別されていなかったことがわかる。使用する木材や漆が深い山の中にしかなかったから、自ら率先して山にこもったのである。


■その流出ルート
1 永源寺→大和→紀州・熊野(紀州塗・根来塗)→四国→耶馬溪(内匠などのキジ車)→久住山→祖母山・竹田→高千穂町→椎葉村→人吉(キジ車)
2 永源寺→伊勢→三河→上野・下野
3 永源寺→美濃→飛騨高山(東山木地師の墓)→木曽(春慶塗)
4 永源寺→若狭→越前→加賀→輪島(若狭塗・輪島塗)
5 永源寺→丹波→但馬→因幡→伯耆
6 永源寺→大和→備中→備後→出雲→石見→安芸→周防→長門 
すべての木地師が故郷を近江君ケ畑と看板にしている。
永源寺まではバスがあるが、そこから君ケ畑、蛭谷へは大変な山道で、今でも一日では無理である。

江戸時代、近江領主の蒲生氏郷は徳川幕府によって会津に封じられたが、このとき、わざわざ近江から木地師を呼んだ。これが会津塗となる。箱根細工も木地師の作品である。また大分県竹田市や別府市内成(うちなり)の竹細工(人間国宝生野祥雲斎・籃胎漆器)などもこの流れであろう。
熊本県小国町にもキジ車や酒林の職人あり。

木地師に較べて竹細工師はそのルーツ探しが難しい。なぜなら竹はどこにでも植えられ、平地でも育つからだ。


次回、竹細工師と「うつぼ」

転載元転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典

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思うところあって、過去記事から木地師を分析したものを再掲載したいと思います。
すでにその1を揚げております。

新たな職場について、慣れるまで、過去記事再掲載でつながせていただきます。

すぐになれますし、今すでに新たなアイデアもほのかに生まれておりますので。しばしお待ちください。ただ、木地師は古代漂泊民と知るのに有効です。

おたのしみください。

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■さざれ石(細石=こまかな石)
○古今和歌集の巻第七賀歌   題しらず 読人しらず
  わが君は千代にやちよに さざれ石の巌となりて苔のむすまで

○「さざれ石」
 成務天皇の三十八人目(の子供)は、「姫君にて..数も知らぬほどの皇子
 たちの御末なればとて、その御名をさざれ石の宮とぞ申しける。」
 さざれ石の宮は信仰に厚く、ある時、天からの使いが差し出した壷には、

 君が代は千代に八千代に
  さざれ石の巌となりて
       苔のむすまで

 『古今和歌集』編纂は、延喜5年(905年)以降。編者、紀貫之など

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「さざれ石」の大元をたどってゆくと滋賀県と岐阜県の県境・伊吹山に辿り着く。
岡神社→http://www.biwa.ne.jp/~tam/sansaku/report/28%20sazareishi/sazareishi.html
「さざれ石(細石、さざれいし)は、もともと小さな石の意味であるが、長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウム(CaCO3)や水酸化鉄が埋めることによって、1つの大きな岩の塊に変化したものも指す。学術的には「石灰質角礫岩」などとよばれる。石灰岩が雨水で溶解して生じた、粘着力の強い乳状液が少しずつ小石を凝結していき、石灰質の作用によってコンクリート状に固まってできる。

日本では滋賀県・岐阜県境の伊吹山が主要産地である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%81%96%E3%82%8C%E7%9F%B3

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

■近江の民話にある惟喬(これたか)親王と木地師とさざれ石の献上
 この民話にさざれ石に関するキーワードのすべてが揃っている。

「 岐阜県揖斐郡春日村に、その「ざされ石」があります。「ざされ石」は学名「石灰質角れき岩」と言い、石灰石が長い年月の間に雨水で溶解し、その粘着力の強い乳状液が、次第に小石を凝結させ、だんだん巨岩となり、河川の浸食により地表に露出、苔むしたものです。
 「ざされ石」は、岐阜県の天然記念物に指定されており、皇居・伊勢神宮・明治神宮などに奉納されています。

 春日村には、「君が代」にまつわる伝説があります。
 平安時代の初め、文徳天皇の第一皇子に、惟喬親王(これたかしんのう)がおられました。天皇は親王を皇太子に推すつもりでした。しかし、事情により親王は、年下の第四皇子(後の清和天皇)に皇子の座を先んじられることとなりました。悲運の親王は一時、近江の小椋郷に隠れ住みました。やがて親王はその地で、お椀や鉢などを作る木地師(きじし)の祖神とされるようになったのです。

 ある時、親王に仕えていた木地師の一人が、小椋郷の君ヶ畑から,良材を求めて、春日の地へやってきました。そして、君ヶ畑に向かう途中、川辺でめずらしい石を目にしたのです。それは「さざれ石」の巨岩でした。男は心を打たれ、見たまま感じたま歌を詠みました。

わが君は 千代に八千代に さざれ石の 
        巌となりて 苔のむすまで

 この歌は都で評判を呼び、ついには『古今集』に採録されることとなりました。男は身分が低かったため、「よみ人知らず」の歌とされたのです。その後、男は朝廷から歌のうまさを認められ、石にちなんで「藤原朝臣石位左衛門(ふじわらあそんいしいざえもん」という名前を賜りました。この歌が民衆に歌い継がれる間に、「君が代は」と歌われるようになっていったのです。 」
http://www.yoshimura-zouen.co.jp/isigumi/sazareisi.html

   御伽草子集  (日本古典文学全集36) 小学館   昭和49年9月30日初版
   古今和歌集  (ワイド版岩波文庫49) 岩波書店  1991年6月26日発行
   伊吹町の民話 伊吹山麓口承文芸学術調査団編集 昭和58年6月30日発行

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さて、それでは惟喬親王とは?
木地師とは?
次回に続く。

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転載元転載元: 民族学伝承ひろいあげ辞典

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