ここから本文です


イメージ 1



淀川の摂津三島地区には筑紫津(つくしづ)があって筑紫津神社があるように、枚方側には対馬津があって津島部神社があった。継体大王が樟葉宮を建てた枚方市町樟葉(まちくずは)に津島野地名が残っている。樟葉から八幡市を古くは津島野=対馬野と呼んでいたらしく、かつての茨田郡だった守口市には津島部神社があって、女神と菅原道真などを祭ってある。(『継体天皇の時代』「淀川と継体大王」森田克行      2008 )

菅原道真は樟葉の交野天神社でも祭られるいわゆる土師氏、部民たちの祖先神であるから、これらの神社が淀川沿線に古くから住んでいた菅原=土師部たちが祭る神社だとわかり、「対馬」地名もそこから出たとなるだろう。ということは土師氏らにとって対馬は大事な土地だったということになるから、彼らが埴輪製作でやってくるときに半島から対馬を経由したことは間違いあるまい。記紀では野見宿祢が彼らを出雲から呼び寄せたことになっていて、大和では三輪山の麓の、三輪素麺で有名な穴師あたりに珠城山(たまきやま)古墳群があり、その近くに宿禰と当麻ケハヤが相撲をとった相撲神社がある。

交野天神社は、今は天神社としてよりも継体天皇樟葉宮址として有名になったが、そもそもそこがそうだったかどうかは定かではない。ただ、平潟(枚方)津から樟葉津にかけてのここが、荷を水揚げしやすい地形だったことは間違いなく、継体が樟葉に最初に宮を建てた理由もそこだっただろうと思える。


町樟葉、つまり京阪電車樟葉駅前のモール街を光交差点方面へ向かい、裏道に入ると公園があり、そこに交野天神社はある。住んでいたし、のちにも何度か参っている。

男山の南側が枚方丘陵の切れ目になっており、峠を降りると八幡市女郎花になる。松花堂跡があって、弁当の発祥地で有名だ。角が八幡警察署だったか、八幡中央病院だったか、もう忘れた。八幡は岩清水八幡造営後から、多くの宮大工や職人、芸能・漂泊民たちの住処となっていった。


この岩清水八幡宮の祭祀に関わるのが紀伊郡の紀氏である。
先に、阿蘇石棺運搬に関わった氏族は、その運ばれた道程の津や港の氏族であるむね書いたが、まさに紀氏等も九州から運送に関わったと、和田萃は言っている。


阿蘇石石棺は三種類の産地があり、それぞれ時代と地域を異にする。

イメージ 2


4世紀末〜5世紀 菊池川産阿蘇灰色石 求めたのは倭王後半時代の河内の臣下氏族と吉備、四国の同族たち。前方後円墳の培塚氏族に。切り出したのは阿蘇の火中君、玉名市日置(ひき)神社の石切部たち。運んだのは紀部、的臣たちだろうと、前回数年前の阿蘇石分析で推論した。日置は引きで、三回ほど足を運んだ。五王時代の九州管理氏族は靫負大伴連であり、その下に紀氏や日下部弓連などがいた。


5世紀〜6世紀 宇土産阿蘇ピンク石 継体、息長、三尾、三上関係氏族と藤井寺の氏族。運んだのは火葦北国造(吉備下道臣=吉備王家子孫)と、のちには蘇我氏・推古の部出ある額田部。方墳の時代。藤井寺氏族はのちの蘇我氏関係だろう。葛城・紀氏・巨勢なども。

終末期  氷川産阿蘇石

時代を通じて土師氏、土師部は埴輪で関わっている。
そして今回の対馬地名ではずせなくなったのが山背の壱岐氏である。この氏族、きっとどこかで息長氏の元に関係したはず。安曇族や宗像、小野・和邇とともに、三世紀からの海運産業の中心人物だ。


さて、ワニだが、この言葉はサメ・フカの意味があるけれど、一番は船である。船をフカとも言ったはずだ。出雲の白兎神話で、フカを並べて跳んで渡ったというのは、古代の艀=浮き橋=舟つなぎ状態を指している。ワニ氏は船氏の元だ。



往古に書いたフナ釘と河川遡上のことを少し訂正しておきたい。
古墳時代の船にはフナ釘は使っていないという。すべてゆわえつけているという。あるいは縄文時代からすでにあった「ほぞ穴」などの和式連結方法も使ったかも知れない。しかしそうなると古墳時代に、まだ倭国には簡易製鉄がなかったか?

重製鉄と、簡易製鉄は、普通、どう考えても簡易のほうが先に生まれるか、渡来したと考えがちになるが、その加工品の優先性のほうが、実はあらゆる時代の産業には契機になっている。つまり剣やらの武器のほうが優先してくれば、当然、先に鉄鉱石使用の重製鉄技術が伝来するという順番だ。で、3世紀にすでに倭が伽耶の鉄をとっていると魏志は書いたわけだろう。それは加工されたインゴットである。








この記事に

開くトラックバック(0)


『日本書紀』
斉明天皇紀
即位1年1月 西暦655年 飛鳥板蓋宮で斉明天皇即位。
即位1年5月 空に竜に乗るものが見える。
即位1年7月 難波で大勢の蝦夷と宴会。百済が(国家援助のために)贈ってきた(ペルシア人)建築博士や技術者らとも宴会。蝦夷の木工匠に冠位を与える。=飛鳥寺建設と古墳石棺のくりぬき技術や石造物の技術を得た。
即位1年8月 河辺臣麻呂が帰国。
即位1年10月 小墾田に宮を立てようとする。瓦葺きにしようとする。飛鳥板蓋宮が火災。飛鳥河原宮に移る。
即位1年 高麗・百済・新羅が貢ぎ物を献上。蝦夷と隼人が属国に。
即位2年8月 高麗が貢ぎ物を献上。
即位2年9月 高麗に使者を派遣。
即位2年 後飛鳥岡本宮を建てて移る。斉明天皇が宮を建てまくることが批判される。吉野宮を作るが火災。
即位3年7月 覩貨邏国(タイの国)から男女が漂流してくる。飛鳥寺に須弥山を作理、盂蘭盆会を設け、その男女を歓待する。
即位3年9月 有間皇子(孝徳天皇の子)は狂った振りをしていた(仮病?)。牟婁温湯に湯治に行って治った。斉明天皇は喜んだ。
即位3年 新羅に使者を派遣。新羅経由で中国へ行こうとするが新羅が断る。百済経由で帰国。石見国で白い狐を見たと報告がある。
即位4年1月 巨勢徳太臣が死亡。
即位4年4月 阿陪臣が蝦夷を征伐。
即位4年5月 建王(天智天皇の子で斉明天皇の孫)が8歳で死亡。斉明天皇が合葬を願う。
即位4年7月 蝦夷が朝廷に出向いて宴会。冠位などを与えた。沙門(僧)が新羅の船で中国へ行き、三蔵法師から習った。
即位4年10月 斉明天皇が紀温湯へ。建王の思い出を歌う。
即位4年11月 蘇我赤兄が斉明天皇を批判すると有間皇子が謀反を提案する。しかし謀反は中止。有間皇子を中大兄皇子が問い詰める。有間皇子は縛り首に。
即位4年 越国守の阿倍引田臣比羅夫が熊と皮を献上。沙門の智踰が指南車を作る。出雲国が奇妙な魚の報告。唐と新羅が百済を滅ぼす。

即位5年1月 斉明天皇は紀温湯から帰る。(現地の愛媛県道後にその証拠まったくなし。石碑は後年のもの)
即位5年3月 吉野で宴会。近江の平浦へ。吐火羅人が妻と舍衞(トカラ=ペルシアかタイ。舎衛は女中=メイドのことである)の婦人と来た。甘檮丘で陸奥と越の蝦夷と宴会。に阿倍臣が蝦夷国を征伐。
即位5年7月 坂合部連石布たちが唐に行き、蝦夷を見せた。西漢大麻呂の讒言により流罪となる。その後、朝鮮での戦争のために出国を禁じられた。出雲の神宮を修繕。狐がツルを噛み切る。犬が人の手を持ってくる。高麗の死者が熊の皮を敷いて客をもてなすが、客人は恥ずかしく思った。
即位6年1月 高麗の使者の乙相賀取文と100人が筑紫に停泊。阿倍臣が粛慎国を征伐。能登臣馬身竜が死亡。
即位6年5月 高麗の使者の乙相賀取文が難波館に到着。仁王般若の会を設ける。中大兄皇子が漏剋(水時計)を作る。阿倍引田臣を蝦夷を献上。石上池で須弥山を作り、粛慎と宴会。百姓が理由もなく兵器を持っている。
即位6年7月 高麗の使者の乙相賀取文が帰国。覩貨羅人の乾豆波斯達阿が妻を残して帰国。
即位6年9月 百済は役人と僧の覚従が来日して、百済の滅亡を報告。王は唐の捕虜となる。鬼室福信の抵抗。
即位6年10月 鬼室福信が日本に救援を要請。百済の王とするため日本の人質として居た百済王子の豊璋を求めた。
即位6年12月 斉明天皇は難波宮へ。鬼室福信に兵器を準備する。
即位6年 新羅征伐のための船を作るが、ひっくり返ったために戦争は負ける予兆ととらえた。また科野国ではハエの大群が現れたので、これも救援軍が破れる予兆と考えた。そのような動揺も。




ここから天皇、皇太子ともに飛鳥を離れ、百済救援のため筑紫へ向かう
即位7年1月 西暦 661年  修造した船が出発。大伯海で大田姫皇女が大伯皇女を出産。伊予の石湯行宮に到着。
即位7年3月 娜大津(博多)の磐瀬行宮に到着。
即位7年4月 鬼室福信が糺解を迎えたいと手紙を送る。
即位7年5月 斉明天皇は朝倉橘広庭宮に。宮を作るときに朝倉社の木を切ったために祟りがあった。耽羅が王子の阿波伎を派遣して貢ぎ物を献上。
即位7年6月 伊勢王が死亡。
即位7年7月 661年 斉明天皇が朝倉宮で崩御。
 
即位7年8月 中大兄皇子が葬式をする。朝倉山に鬼が現れる。
即位7年10月 中大兄皇子が遺骸を帰国させようとする。歌を歌う。遺骸が難波に到着。 遺骸だけが飛鳥に帰ったのである。皇太子以下は全部まだ筑紫にいる。
即位7年11月 遺骸を飛鳥で安置。





天智天皇紀
斉明天皇即位7年7月 唐の蘇定方と突厥の契苾加力が高麗の城下に到着。中大兄皇子が長津宮に移る。
斉明天皇即位7年8月 阿曇比邏夫連などを派遣して百済を救援しようとした。
斉明天皇即位7年9月 長津宮で中大兄皇子が豊璋に冠を授ける。多臣蔣敷の妹を妻に。狹井連檳榔などを5000人をつけて百済に派遣。豊璋を鬼室福信が迎える。
斉明天皇即位7年12月 高麗が唐の侵略を退ける。
斉明天皇即位7年 播磨国司の岸田臣麻呂が宝の剣を献上。百済の加巴利浜で火を焚くと、灰が穴になり鳴鏑のように鳴った。これを高麗と百済が滅ぶ兆候だとした。


天智天皇即位1年1月668年 鬼室福信に援助。

実際には即位していない。あくまでも天皇の代行であるが、『日本書紀』は即位元年としてある。
即位するのは7年後である。その間、飛鳥には大王が不在である。即位していたとしてもやはり大王は飛鳥にはいないで筑紫にいる。
実に奇妙だ。

天智天皇皇太子即位1年3月 百済に布を与えた。唐と新羅が高麗を征伐。高麗は大和朝廷に救援を要請。将軍を派遣してなんとか食い止める。
天智天皇即位1年4月 ネズミが馬の尾で子を産む。これを高麗が破れて日本に服属すると判断した。
即位1年5月 阿曇比邏夫連が豊璋を百済へ送る。百済を復興。
即位1年6月 百済は達率万智を派遣し献上した。
即位1年12月 百済の豊璋・福信が狹井連と合議。部下の進言を聞かず、都を移動させる。
即位2年2月 百済は達率金受を派遣して献上。新羅が百済に侵略し、結局都を元の州柔に戻す。
即位2年3月 日本が上毛野君稚子と27000人を派遣して新羅を討たせる。
即位2年5月 犬上君が高麗に行くと、そこで福信の罪を聞く。
即位2年6月 上毛野君稚子たちが新羅の城を取る。百済の豊璋は福信の手のひらに穴を開けて革で縛って捕らえて、結局処刑した。首は酢漬けにして保存。

即位2年8月 西暦663年 白村江の敗北。
福信の死を受けて新羅が都を取ろうとする。日本から救援1万人が来ることになっていると豊璋が言う。新羅が百済の都を包囲。唐は170隻の船で白村江に陣を張る。27日に日本と唐の船が出会って戦争になる。日本敗北。28日日本が乱れた兵で戦うが破れ続ける。百済の豊璋は高麗へと逃げる。
即位2年9月 百済の都の州柔城が降伏。百済の滅亡。百済の人々が日本に逃げる。

ここ、数ヶ月空白。

即位3年2月 天智天皇は大海人皇子に冠位を改めるように命じる。
即位3年3月 百済王の善光王が難波に。星が都の北に落ちる。地震。
即位3年5月 百済の劉仁願は郭務悰を派遣し献上した。蘇我連大臣が死亡。
即位3年6月 嶋皇祖母命(=天智天皇の祖母)が死亡。

いきなり鎌足再登場
即位3年10月 中臣鎌足が智祥を派遣して郭務悰に品物を与えた。郭務悰と宴会。高麗の大臣蓋金が死亡。
即位3年12月 郭務悰が帰国。淡海国の報告。
即位3年 対馬嶋・壱岐嶋・筑紫国に防人を置く。筑紫に水城を設置。
即位4年2月 間人大后(孝徳天皇の后・天智天皇の妹)が死亡。百済の官位を調べて、日本の位を授ける。百済の百姓四百人が近江国の神前郡に移住。
即位4年3月 間人大后のために330人が出家。百済人に田を与えました。
即位4年8月 長門・筑紫に築く。済州島から使者が来る。
即位4年9月 唐が使者を日本に派遣。
即位4年10月 菟道で検閲。
即位4年11月 唐の使者の劉徳高と宴会。
即位4年12月 劉徳高に品物を与えた。劉徳高が帰国。この歳、小錦守君大石を唐に派遣。
即位5年1月 高麗が使者の前部能婁を派遣して調を献上。済州島が王子の姑如を派遣して貢ぎ物を献上。
即位5年3月 皇太子、佐伯子麻呂連に病状を尋ねる。
即位5年6月 高麗の使者の前部能婁が帰国。
即位5年7月 洪水。
即位5年10月 高麗が乙相奄鄒を派遣して調を献上。
即位5年 この年に都のネズミが近江に向かって言った。百済の男女二千人を東国(=関東)に移住させる。倭漢沙門智由は指南車を献上。
即位6年2月 斉明天皇(=皇極天皇)と間人皇女を合葬する。大田皇女を近くの墓に埋葬する。皇太子(中大兄皇子)が言うには「斉明天皇の遺言で昔ながらの大きな墓を作らなかった。永遠にそうしましょう」
即位6年3月 近江に遷都。ただし百姓は遷都を嫌がり、批判した。
即位6年6月 葛野郡が白いツバメを献上。
即位6年7月 済州島が使者を派遣して貢ぎ物を献上。
即位6年8月 中大兄大和の都へ。
即位6年10月 高麗の長男の男生が中国へ亡命。
即位6年11月 百済の劉仁願が部下を筑紫都督府に送る。高安城・屋嶋城・金田城を築く。
即位6年閏11月 椽磨(済州島)に援助を行う。

斉明の死から7年でやっと天智は正式即位する。筑紫の滞在期間を入れると8年間飛鳥には大王が不在だったことになる。即位はしかし飛鳥宮ではなく近江宮であった。天智は飛鳥勢力には帰還を認められず、しかたなく近江へ逃避引きこもり、別の王家を作るしかなかったのである。

即位7年1月 668年天智天皇やっと即位。内裏で宴会した。博徳が服命。
即位7年2月 倭姫王を皇后に。蘇我山田石川麻呂の娘の遠智娘も嫁いで大田皇女・鸕野皇女(のちの持統天皇)・建皇子を産んだ。阿倍倉梯麻呂の娘も嫁いだ。蘇我赤兄の娘も嫁いだ。伊賀采女宅子娘も嫁いで大友皇子を産んだ。
即位7年4月 百済が調を献上。
即位7年5月 天智天皇が蒲生野で猟りをした。大海人皇子やその他の家臣たちが従った。
即位7年6月 伊勢王とその弟が1日違いで死亡。
即位7年7月 高麗が調を献上。風と波が強くて帰国できなかった。近江国が武を習う。牧場を作り、馬を放つ。越国が燃える土と燃える水を献上。宴会会場で魚が集まる。蝦夷と宴会した。舎人に命じて宴会をした。その時代の人は「天皇は天命を終わらせようとしているのか?」と言った。
即位7年9月 新羅が調を献上。中臣鎌足が新羅の使者に船を与えた。
即位7年10月 唐が高麗を滅ぼす。
即位7年11月 日本は新羅王に品を与え、部下を派遣する。道行が草薙剣を盗んで新羅に逃げるが、途中で迷う。
即位8年1月 蘇我赤兄を筑紫率に任命。
即位8年3月 耽羅は王子の久麻伎を派遣して貢ぎ物を献上。耽羅に五穀の種子を与える。
即位8年5月 天智天皇が山科野で猟りを。大海人皇子と臣下たちが従う。
即位8年8月 天智天皇が高安嶺に城を作ろうとしたが、労役が厳しいから止めた。鎌足の家に落雷があった。
即位8年9月 新羅が使者を派遣して調を献上。
即位8年10月 天智天皇が病に伏せる中臣鎌足に見舞いに行く。藤原姓を与える。鎌足が死亡。
即位8年12月 大蔵が火災に。この冬に高安城を作ったことで田税を徴収した。斑鳩寺が火災にあった。この年、河内直鯨を唐に使者として送る。余自信・鬼室集斯を近江国蒲生郡に移住させた。唐が郭務悰と2000人を派遣した。
即位9年1月 宮で大射の儀式をした。マナーを規定し、妄言などを禁じた。
即位9年2月 戸籍を作る。長門城1つ、筑紫城2つを築いた。
即位9年3月 山御井で御幣を捧げた。中臣金連が祝詞をあげた。
即位9年4月 法隆寺に火災。
即位9年5月 奇妙な童謡が歌われる。
即位9年6月 村で「申」の字が記してある亀が見つかる。
即位9年9月 阿曇連頰垂を新羅に派遣。
即位9年 この年、水碓を作って治鉄をする。
即位10年1月 賀正の儀式。大友皇子が太政大臣に。蘇我赤兄が左大臣。太皇弟が詔して、冠位・法度を施行。大赦する。高麗が貢調する。百済が表を献上する。百済の臣たちに冠位を授ける。また動揺を歌う。
即位10年2月 百済が貢調する。
即位10年3月 黄書造本実が水臬を献上する。常陸国は中臣部若子を献上する。
即位10年4月 漏剋が新しい台に置かれ、鐘鼓が鳴った。筑紫で8つ足の鹿が生まれて死んだ。
即位10年5月 天智天皇が皇太子と臣と宴会をする。
即位10年6月 百済の使者が軍の要請をする。百済は貢調をする。栗隈王を筑紫率に。新羅は貢調する。
即位10年7月 唐の李守真が百済の使者と帰る。
即位10年8月 高麗の可婁たちが帰国。蝦夷と宴会。
即位10年9月 天智天皇が病気に。
即位10年10月 新羅が貢調する。内裏で仏の開眼式。法興寺の仏に宝が奉られる。
即位10年10月 天皇の病気が悪化。皇太弟(のちの天武天皇)を呼び出して、即位を求めるが皇太弟は固辞。皇太弟は皇后か大友皇子に譲って欲しいと言い、出家する。皇太弟は吉野へ。
即位10年11月 対馬から筑紫に郭務悰ら2000人が74隻の船に乗って朝鮮の比智嶋に来て、来日しようとしているが、通告していないと驚いて襲うだろう考え、あらかじめ朝廷に使者を派遣しようとしている、と情報が来る。大友皇子は内裏で蘇我赤兄たちと泣いて誓いを立てる。近江宮に火災。大蔵省から出火。天智天皇の前で蘇我赤兄たちが誓う。新羅が貢物を持って来る。
即位10年12月 天智天皇が崩御。殯をする。動揺が歌われる。新羅の使者が帰国。讃岐の山田郡で四つ足の雛が生まれる。8つの鼎が鳴いた。



この記事に

開くトラックバック(0)

にゅうが多いからにゅうのほうがはぶより勝ちとか意味のないことを言っているテレビを見ている。多いのはそちらのほうが身分が下層だったからである。それだけのこと。それが人口ピラミッドの法則。同じ苗字なら、多いのは最下層の読み方。階級によって読み方をかえたのも当たり前。論理としてそう考えて当たり前。


少ない苗字の人は管理者だったってこと。
佐藤や後藤は百姓、部民です。

はにゅうとはぶの読みが違うのは、管理者側がよりよい人名由来を作り出すからにすぎません。
だからはしゅうはそもそもははに土由来で、土師氏の部民です。はぶはその管理者。
というのがもっともわかりやすいのだが、一般的にそれは差別的だとするので言わないのがつね。


つまり地名や人名の由来は、絶対本当のことは言わない。


これ日本の風習だから、由来に関しては日本人には無理な学問ジャンルだといえる。うそしか言わないので。




ところが筆者はうそは言わない。本当のことを書くのでだいたい嫌われる。







この記事に

開くトラックバック(0)


不可思議な斉明天皇の行動と、ありえない中大兄の即位

『日本書紀』斉明天皇紀
「 斉明7年(661)1月6日、前年末から難波宮に居た斉明天皇は難波津を出発した。8日、吉備の大伯の海で、大海人皇子の妃・大田姫皇女が女の子を出産した。大伯皇女と名付けられた。14日に伊予の熟田津に到着し、石湯の行宮に滞在した。

 
 熟田津に 船乗せむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな   

 
 3月、磐瀬の行宮(朝倉の広庭宮のこと。福岡県朝倉市 筑後川沿線の平地)に入った。この地を川港として長津と改称。4月に入って、百済の鬼室福信は、改めて東朝(大和王朝)にも使いを遣って、皇子・豊璋の返還と援軍を求めた。

 5月23日、先の遣唐使がようやくのこと帰ってきた。越州に留めていた船に乗り、4月1日に出港したが、陸地の見えない海上の航海技術が不完全であったらしく、9日間漂流して耽羅島(済州島)に着いた。島人の王子らを伴って帰り、以後、耽羅国との通交が始まったという。

 
 翌7月に、斉明天皇崩御。中大兄皇子は8月1日に葬儀を行い、遺体を博多湾岸の磐瀬宮に移した。朝倉山の上に鬼が現れ、大笠を着けて葬儀を見守っていたという。」



1 皇極時代との異常な変化
斉明は孝徳の難波宮を中大江とともに捨てて、百済援助に自ら九州へ出向く。この行動力と、皇極時代の目立つこともなかった天皇とにギャップがありすぎる。これは中大兄白村江での大敗北を、『日本書紀』編集者が斉明重祚と神功皇后並みのおてんばぶりとで誤魔化し、責任を斉明になすりつけたと考えるのがよいだろう。

つまり斉明女帝は、重祚しなかった可能性、そして九州にも行かなかった可能性の二点の疑義がここには存在する。だいたい朝倉町は海から遠すぎる。しかも筑後川なら朝鮮ではなく有明海へ出てしまう。そんなあほな。

有明海が重要な港だったのはわかる。遠浅で、おだやかで、敵は入りにくい地形。干上がるとしかしこっちもなかなか外海へは出られないが。瀬高女山などの朝鮮式山城の存在は唐を意識したときには有効。つまり有明側が港にさるのは遣唐使以後である。それ以前には玄界灘が大事。だから斉明・天智が朝倉に仮宮はちょっとありえない。朝鮮半島に出てゆくなら絶対宗像や伊都や遠賀川である。作り話だと言える。



2 九州で斉明が死ぬのが到着から数ヵ月後、その後なぜか中大兄は即位もせず七年が過ぎてしまい、途中で百済王として扶余豊樟(よ・ほうしょう)を送り出して、彼が半島で鬼室を殺し、行方不明になると自ら船団を率いて百済援助へ向かう。しかし新羅・唐の連合軍にあっけなく木っ端微塵に粉砕され逃げ帰る。それゆえかしばらくは大和へも帰れない。しかし戻ったとたんに飛鳥から近江へ逃げ込み、勝手に朝廷を建てて引きこもった。

ではそれまでの10年近い期間、いったい畿内は誰が面倒見ていたのだろうか???


このことを歴史学者は何も問題にしない。こともなげに鎌足が内臣で代行したとする。しかし記紀には、このシーンでまったく飛鳥の出来事を書いていない。だから当然、鎌足も記事に出てこない。空白の10年である。どうして誰も不思議に思わないのだろうか?

いったいそんな期間、飛鳥を放っておいたら、普通はクーデターが起きていてもおかしくない。天智が即位し、近江へ遷都できたことも不思議な話だ。唐と新羅に空前の大敗北を喫した皇子が、素直に大王になれるものだろうか?ここも誰も疑おうとしない。

もし、鎌足が豊璋で、百済に戻っていたのなら、では誰が斉明女帝の代わりができただろう?

No1は大海人皇子ではないか?
大友=弘文天皇はまだ幼少。いや九州で生まれて飛鳥にはいなかったかも知れないだろう。鎌足はどこへ消えたのか?この間に飛鳥では何一つ事件が起こらなかったとでも言うのか?

斉明が飛鳥に居残っていれば?まずはそれが順当な見方かも知れない。そもそも女帝がのこのこと船に乗ること自体が異常事態である。しかも勇ましく鎧兜で・・・。これはまったく神功皇后をそのまま生き写しにしたような大歴史小説になっているではないか。彼女は九州には行っていないのではないか?

ならば飛鳥は安泰である。しかし・・・。

斉明が重祚しておらず、すでに大海人が即位していたとしたなら?

すると、大敗北後、すごすごと戻ってきた中大兄こそが、飛鳥では排除され、クーデターを起こすしかない落ちぶれ皇太子だったことになってしまうだろう。


この期間なら、天武も額田王を天智から取り戻せていたはずだし、吉野にも行く必要がなくなる。そして天智が戻ってからは近江と飛鳥の2朝対立時代だったとも考えられる。天武の年齢が天智より上だったとも書かれる理由も、天武が天智のいない間に飛鳥を乗っ取った継体のような外部親王だったからといえることになりはしないか?


そうすると天智はまるで神功皇后と武内宿禰によって殺された仲哀天皇のモデルだったとも見えてくるから面白い。




そもそも天智が「聖人聖徳太子」を最初に創りだした人である。自分の祖母が蘇我氏だったから、殺してしまった蘇我本家と石川家両方の祟りを畏れ、事実をかわすために厩戸を持ち上げたのが聖徳太子。その後も鎌足の孫である光明皇后がこれを受け継いで、蘇我氏を鎮魂するために太子を持ち上げ続けたことが太子信仰まで生み出すこととなった。以後、日本人は戦争のたびにアマテラスと聖徳太子を軍神のごとく引っ張り出し、平和の象徴どころか実際には戦争の道具にしてきたのだ。

天智までの大王家は飛鳥の王家ではないのではないか?そう思うぐらいでちょうどいい。またぞろ戦争に『日本書紀』を持ち出されてはかなわない。むかしの無教養だった日本人とは今のわれわれは違う。そういうことだけはさせてはならない。


戦争するのにいちいち神がかりする時代では、もうない。












この記事に

開くトラックバック(0)

古代人はザコネしない


縄文人も弥生人もザコネしなかった。
九州の住居遺跡には室内に区切りがあって、ちゃんと土の高い床があり、別々に寝ていたことがわかっている。その土の床がそのまま墓にも造られたのが九州の墳墓様式である死床(ししょう)なのである。いわば今の床の間である。

イメージ 2
これは南九州弥生人の住居。
トランクルームだったか寝室だったかはまだわかってない。
しかし円形に区分けしてあるのは縄文の円の思想にも、中国南部の集合家屋にも等しい思想か?


魏志倭人伝にも「屋室あり、父母兄弟臥息ところを異にす」と確かにある。
九州の倭人はおしなべてプライベートがあったようだ。

ところが奈良時代の『貧窮問答歌』には、平民たちがみんな掘っ立て家屋の中の土間にザコネしていたとなっている。これではどっちが古代人だかわからない。


伏蘆の曲蘆の内に 直土に 藁解き敷きて 父母は枕のほうに 妻子どもは足のほうに 囲み居て・・・


イメージ 1


川と言う字にも寝ていない奈良時代平民。
この親父の気の利かぬわがままな寝方ってどうよ。
帰ってきていきなりど真ん中で寝てやがる。
ああ、これが近畿の民間人の常だったか・・・。





石野博信『楽しい考古学』より





















この記事に

開くトラックバック(0)

結論は出ている

阿蘇石の結論は出ている。ファンクラブで書く。


さて縄文の寝室について、次回書こうと思う。

弥生時代に影響を与えた縄文人の心根の優しさについてだ。

イメージ 1

ぼくには縄文のほうがはるかに楽しい。






この記事に

開くトラックバック(0)



イメージ 1
手前に向かってゆるやかな斜面
畑地のほとんどは古い岩盤の上に阿蘇火砕流が乗っかった、そもそもすべりやすい地層で50年前にも横滑りが起きた危険地帯に指定されている。

イメージ 2




イメージ 3




イメージ 4


画像は
などから借りて筆者編集しています。


だいたい横滑りのシステムはこれでわかるかと。
阿蘇火砕流は構造線南側ラインの両端に阿蘇ピンク石露頭を形成している。
宇土市〜臼杵市野津町。このライン上を掘るとピンク石は出るはず。竹田市でも出る。



この記事に

開くトラックバック(0)


地質や地震学の専門家ではないけれど、一応地元近いので、そして古代史で地質を若干見ているので、思うことですが・・・。


イメージ 1

大野は構造線の切れ目に近いのと、地盤が、阿蘇の新しい隆起層と、祖母・傾の古い層の切れ目がありまして、かねてから地すべりは起こってもおかしくないと思うわけでして。古墳や遺跡と地層地質は深く関わるので、走っていると「あ、ここから地質が違うな」に、気がつくようになった。だから少し調べたわけです。すると大野の古墳のそばに断層ではないが、変わる場所があるんだな。と気付くわけです。大野町は祖母の鉱山が二つもある地域で、鉱物採集氏族も緒方氏とかいろいろいるわけです。鉱山があるというのは、地層が「ユリ」を受けています。押し付けられたり、ずれたりの圧迫が金属=「凝り」という ストレスが起こっているってことです。祖母山には建男下凝神社があるわけで、祖母=大地母ですから、豊かな資源を生み出すということです。それは=大地の危険性も言うことになるわけ。



阿蘇隆起と祖母隆起は、前者が90万年前、後者が270万年前でして、当然地質は違うわけで、断層ができていいわけなんですが、これまでの調査では大野にはあまりないことになっています。しかし、全国のマップにある活断層は実はちゃんと調べてない場合もある。もう一度、全国的に再調査しておくことが必要でしょうね。いいかげんんなハザードマップもありましょうから。



イメージ 2





熊本〜大分の地震では、構造線内部の横ずれが起きたわけです。ならばその外側だっていくらかは影響を受けてないはずはないと思うほうがいい。地層は何が起こるかわからない。時間のスパンが、人類の生きてきた時間枠を越えていますから、あらゆる想定などははなから意味がない世界でしょうね。そう思っているべきじゃないですか?あれはないはずだ、これもありえない、なんて、あちこちの地震サイトなどは書いていますが、そんな甘いものではないですよ。相手は気まぐれな「自然神」なのですからね。人間ごときが想定しようとしたってわかる分けない。だからあらゆることを考えておくべきです。


そうしますと南海トラフが広がっているなども、当然、頭の中に置いておいても無駄じゃないでしょう。

ま、だからと言って、それで今回、大騒ぎする必要もない。そういうサイトは読まなくても大丈夫でしょう。


こういう巨大なスケールの話は、人間なんかが考えたって意味はありません。祈るしかないわけです。人間なんかまだそんなものです。








この記事に

開くトラックバック(0)


継体大王擁立に関わる氏族として大伴氏、物部氏は『日本書紀』が記すが、ほかに九州の火君、筑紫君、吉備氏、紀氏、葛城氏なども考えられ、さらに『日本書紀』も書いた河内馬飼氏がある。

枚方市〜四条畷市、南野、寝屋川市の広範囲に彼らの遺跡は点在し、その多くの場所に近いところに若い頃、筆者は住んだり、仕事をしたりしたから土地勘がある。

イメージ 1
枚方市と寝屋川市香里園の間の丘陵地に茄子作遺跡はある。学生時代にはまだ発掘中だった。藤田川大団地のそばだ。筆者はそのころ香里ヶ丘の県学生寮にいた。


寝屋川市の太秦や茨田(まった)は、記録にある池が掘られた地域である。秦氏や茨田氏がこれに当たったとある。

四条畷市蔀屋(しとみや)の鵜野・讃良(うの・さら)の馬飼部のいたあたりは、働き始めた頃によく仕事で走った。中古住宅を管理している会社だったので、よく隅々まで歩いた記憶がある。遺跡はただの空き地だった。確か出水川病院?の近くだったのではないか。

この鵜野・讃良はのちの持統天皇の幼名であるから、彼女は馬飼氏に育てられたのだろう。彼女は蘇我遠智娘(おちのいらつめ・蘇我倉山田石川麻呂のむすめ)の娘だから、蘇我倉石川氏が依頼したのではないか?

継体を出迎えて活躍したのは河内馬飼

「今から1500年前の507年1月、越国三国へ即位の招請に向かった倭の使者に対して、「男大迹王(をほどのおおきみ)」後の継体天皇は大きな疑念を抱いていた。
この時、「男大迹王」に倭中央政権の内情を伝える使者を送ったのが「河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのあらこ)」でした。
「河内馬飼首荒籠」と「男大迹王」は以前からの知り合いだったと日本書紀には書かれています。」


河内馬飼は応神の記録にもあるので、継体より随分前から畿内にいたようだ。新羅王が神功皇后に献上した馬と氏族の記事は信用できないとしても、応神記事にある新羅の馬飼い阿直岐(あちき)の子孫が河内に住んだのかも知れない。


蔀屋遺跡では多くの馬犠牲の遺骨が出ている。



そうした氏族が北河内一帯に住んでいたことは重要だろう。



また茨田氏は本拠地が東大阪の茨田大宮あたりだったか?ここに瓢箪山古墳がある。職場の女性たちがよく「ひょうたんやまで買い物する」とか言っていた。小阪が近い。


当時、学研都市線(旧片町線)の鴻池新田のニチイに通っており、まだ筆者の思考の中には古代史はなく、鴻池善衛門の屋敷跡にばかり気が行っていたのを思い出す。



また阿蘇ピンク石が出た大王陵の培塚がある藤井寺も懐かしい。かの井真成の住む土地だったらしいが、藤井寺はもと葛井寺で、近つ飛鳥太子町である。ここのピンク石から考えたのが、ピンク石石棺が改葬前用の棺かも知れないと言うことだった。

というのは植山古墳の推古・竹田のピンク石石棺がそうらしいいからだ。二人はのちに太子町の山田高塚へ改葬されるが、植山の石棺は非常に美しいままで、未使用のようであった。これはあるいは、阿蘇ピンク石は、改葬したあと用の石棺で、さらの手付かずで埋められただけだということも考えさせる。本来なら、そこには何もなくなっているはずだが、わざわざ入れ込んだか?


持統女帝が蘇我氏氏族であることと、阿蘇ピンクは何か関係するだろうか?しかし彼女も夫の天武も阿蘇石は使われていない。推古以来、赤い石は消えている。それはまるで蘇我氏が消されるのとリンクしたかのようだ。

しかし継体と蘇我氏にはなにも関係がなかったように『日本書紀』はしてある。ここは怪しい。蘇我氏は継体と尾張氏の姫の息子よりも、欽明の参謀として登場する。ここに二つの皇統の対立を見る学者も多い。






















この記事に

開くトラックバック(0)

ここでは大三嶋信仰を持っていた海人族地名である三嶋について書く。

摂津三嶋(大阪府)と伊予大三嶋
ここが海人族三嶋地名の根源となっている。『伊予国風土記』に「津の国=摂津の三嶋より大山積の神を伊予国大三嶋に移す」旨の記載があるので、はじめは摂津の三嶋地域で伊予海人が祭っていた大山積を瀬戸内に動かしたことがわかる。

ところが大山積神はそもそも日向の(今は鹿児島県)霧島山の神で阿多隼人たちの神であるので、伊予海人族がもともとは霧島の隼人の神を摂津で祭っていたという、遠隔地を神の名前がつなぐ不思議がここにはある。

伊予の水軍となった氏族が、もとは阿多隼人だったわけであるが、これには紀伊半島の海人族だった紀氏(きのうじ)の海人族とりまとめというか、支配体制があったことが想像できる。継体大王の時代より前に、それはあっただろう。

京都の淀川沿い、摂津三嶋の少し北の八幡市に岩清水八幡宮があって、ここは代々紀氏が神職を勤めていた。それを思わせる記録が紀氏出身の紀貫之の『土佐日記』の京都帰還記事にある。難波津の船の上で海が荒れたさい、貫之は住吉大神に鏡をささげて海に投げ込んだが、岩清水八幡宮の下を通過するときには、遥拝したとなっている。紀氏にとっては同じ海・航海の神でも住吉よりも岩清水が大切だった。八幡神はもともとが豊前の神であり、倭の五王時代からの由緒ある海人族の神であった。だから渡来人秦氏(はたうじ)たちも、海のナビゲーターとしての八幡神を大切にしたわけだが、そのそもそもの正体には、八幡神と同時に隼人の大山積も関わっていたらしい。宇佐八幡で大神氏のえんみ事件があった時代、宇佐の八幡神はいっとき、大三島に移され、伊予海人族が守っている。

紀氏は河内に王朝があった時代には、そうした祭祀をとりまとめる管理者だったようだ。これはのちの飛鳥時代には、海部氏と尾張氏が代わって管理するようになったのだろう。





さて、「しま」は洲で、ここが二つの川・・・芥川、安威川で三つに区切られた地域だったからであろう。洲とはテリトリー、行政区分であり、別名シマである。淀川は縄文海進で、寝屋川の手前まで広がっており、枚方市樟葉の津までは、深い川だが、八幡市から浅くなる。だからここは平安京の鬼門=朱雀として岩清水八幡宮が置かれた。それが男山の高いところにあるのは、奉祭氏族の紀氏が海人族だった証明になる。進入する船を男山と大山崎から監視できる。


イメージ 1


伊豆の三島市は、源頼朝が船と海の神として移し、三島神社を建てたからの地名で、このジャンルでは一番新しい三島になる。摂津の三島が市制になるときに、三島市と名乗ろうとしたが、先に伊豆の三島市があったため遠慮したというのは、歴史的には本末転倒ではある。摂津が最古。


イメージ 2
『継体天皇 二つの陵墓 四つの王宮』より編集



摂津の三島はそのように海人族が最も古く住まう場所だった。証拠のひとつに安曇氏が祭った磯良(いそら)神社がある。神功皇后と安曇磯良を祭る、通称「でんぼの神・疣神社」である。ここで涌く水で顔を洗うとイボが「できる」とされるのは、磯良の顔がフジツボだらけの岩礁のようだったからだ。安曇族は琵琶湖の高島では息長氏や三尾氏と同居したらしく、高島市に安曇川(あどがわ)の地名がある。鴨稲荷山古墳は継体の祖先の墓といわれている。


海人族には、それぞれにネットワークがあったらしい。いわゆるテリトリーもあったが、連絡は取り合うらしい。海の情報はいくらあってもいい。


紀氏は近畿に住まったから大豪族になれたわけだが、その努力の一旦は紀ノ川の淡輪古墳群や大阪側の大谷古墳での埴輪、土器などに現れている。継体大王時代まで、彼らも、同族とされる葛城一族も時代の中心氏族である。










この記事に

開くトラックバック(0)

[ すべて表示 ]

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事