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櫻井よしこじゃないが、今このときに、ニュースのトップに真央ちゃんですか?的な事態が刻一刻と、静かな恐怖を道連れにしてじわじわ迫っている。

やっとバラエティニュースもそこに気付いたのか、徐々に北朝鮮緊迫化ではじまるようになった。

そうなのだ、今、私たちは歴史が大転換するかも知れない時間を生きている。

これまで、核兵器をもっている国を、核兵器を持っている国が攻めた前例はない。皆無だ。核兵器はいわゆる「抑止力」のための「使わないみせかけの武器」=カリスマ武力だとされてきた。しかし、今、現実に世界最大の武力を持つアメリカが、じわりじわりと朝鮮の海を包囲しようと攻め寄っている。


日本国民の心も、北朝鮮の人々も、韓国も、しかし、心そこにあらずを演じている。そんなこと起きませんよというように、ほかの事件を書きたて、韓国などは大統領選ばかりが、北朝鮮では軍事パレードに、それぞれ迫り来る恐怖に気付かぬふりをして、うっちゃろうとしている。それが東アジアの伝統的古代的な「忌み」思想であることは間違いない。東アジアはいいと悪いに関係なく、一致して「言霊」思想の世界にあるのだ。

言い出さない。逃げ出さない。怖がらないふりをする。

しかし内心は心臓が破裂しそうに戦々恐々としているはずだ。




筆者は、ここに来ては、もうじっと見つめるしかないのであり、何よりも、それを苦痛ではなく、歴史の証人として冷徹に直視しつつも、達観して、何が起ころうと北は変わらねばならないのだというアメリカの考え方を認める側に立っているのである。いや立つしかない。西側の自由主義の勝利を待つのが日本の立場であろう。


さて、世界はいつかはひとつの世界になり、平和で共存できるようにならねばならない、というのは筆者も子供のころから信じてきた未来像である。そのことは自由主義社会の共通の未来像。北朝鮮や中国やロシアや中東は、その西欧的理想世界像を否定する世界にいる。北は、さらに中国共産主義とロシア社会主義とアメリカ自由主義の交差する場所にあって、それらの対立のアンチ緩衝地帯としてのみ生きながらえてきた特殊国家である。
それは
hr朝鮮半島がそうだった。歴史的にそいう位置に彼ら朝鮮民族は追い詰められてきたのである。これが歴史の必然であることはどうしようもない。


北が滅びることは、韓国人にとってははらからで朝鮮民族の死滅=全朝鮮民族の半減を意味してしまうわけである。それを彼らはどう感じるだろう?と想像してみて欲しい。日本人の例えば東の半分が滅びていなくなったとしたら、西日本人は、あるいはその反対だとしても、どう感じるだろう?



その思いは知ってあげねばなるまい。



知らぬ顔をして怖がっている古代人は、やまほどこのネット上にもあふれていることだろう。なぜ語らぬのか知らぬ。語らねば、やがてあなたは戦争の片棒をかついだことになってしまうとは考えないのだろうか>今語らねば、なんのためにネット上にサイトを作ったのかと問いたい。

この国は自由の国である。言霊などはもう必要なかろう。















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松木武彦は考古学の分析から、2世紀前の邪馬台国は吉備にあり、それが大和に移った・・・つまり吉備は卑弥呼がいた邪馬台国で、纒向に移動して臺與が治めたという考えを述べている。


吉備式土器、楯築型の墳墓様式がそれを示すというのである。

問題は、吉備に人々が集散した、その人々はどこから来たかである。ひとつは吉備の土器を持つ出雲地方ではあろう。しかしそれだけではあるまい。そこに連合国家の首都ができるには、全国からの移住者がなければならない。纒向のような丹後・吉備・東海地方など全国的な人の移住がなくてはならない。
何よりも纒向から九州の土器があまりでないと言うのは、魏志倭人伝の言うような、邪馬台国が九州の奴国や伊都国と連合していたという記事と完全に矛盾してしまった事実なのだった。

松木はまた、倭国王帥升が吉備の王だとも考えているが、それにしては吉備からは、中国的な遺物が出なさ過ぎないか?

そして楯築の弧帯文と、纒向の弧文に、まったくの同じ模様がなくてはならない。しかし、両者には大きな違いが見えている。


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吉備楯築墳丘墓の弧帯文

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纏向遺跡の弧文


吉備の弧帯文には、纒向の弧文のような端っこのデザインの尖りがない。
中央の「目」部分の突起もない。

纒向の弧文が、ゴホウラ貝の断面を組み合わせた可能性が見えるのに対して、吉備の弧帯文は組みひものような、あるいは水引のようなものの渦でできている。

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ゴホウラ貝断面とゴホウラディスク 
目の部分に巻貝特有の独特の突起ができる




両者がしかし、ともに「永遠」をあらわそうとした意匠であることは共通している。

纒向のデザインが、ゴホウラ貝断面を意匠にしているとするならばだが、その源流があったのは弥生時代前期の北部九州の貝輪である。しかし吉備の意匠では貝輪とは別のモデルがあったことを思わせている。



纒向から出てくる土器は、九州のものがないわけではない。福岡や大分宇佐地方のデザインの土器が、数点だが含まれている。一方、吉備には古墳時代に、九州の装飾古墳ができている。しかし時代はずっと遅い。それ以前に、なにか九州的な遺物が出てはいないか?


意外に忘れられている遺物に木製製品がある。
これは実用品が多い。しかし、木は腐りやすく、水辺でしか残存しないので、考古学者はどうしても土器や金属器で編年してきた。
しかし、実は残存する木造品は山のようにあるのだ。
その中にはスプーン・フォーク、ビアジョッキ、コップ、祭祀用具の鳥、なべのふた、などのあらゆる生活用品が含まれている。これを誰も分類できていない。土器よりも、生活雑貨はその様式やデザインが変わりにくいという特徴があり、地域性もよく出ているケースが多い。木造品の分類は早急に進めねばならないだろう(石野信弘)。


吉備からは鏡や銅器や鉄器が九州や纒向ほどには出てこない。しかし吉備から移動した最初の土地であろう讃岐には鉄器が多い。


鏡には1朝鮮鏡(多チュウ細文鏡) 2漢鏡 3ボウセイ鏡の三種類がある。

銅鐸には1朝鮮式小銅鐸 2国内産大型銅鐸がある。
銅鐸には舌があり、正確には外部を叩いて鳴らす「鐸」ではない。それは「鐘」「ベル」である。
弥生前半の銅製武器にはやいばがあるが、後半のものにはやいばがない。前半は実用品としてやってきたが、後半は鉄器が入ったことで銅器の武具としての役目は終わっている。実践用武具が必要な時代とは「倭国大乱」までであり、そこで鉄器が主流になり、銅器は祭祀用に埋衲されてゆく。

環濠はいまだになぜ必要だったかの理由付けがなされていない。いくさの痕跡や、武具が出ない唐子・鍵遺跡には、しかし九重もの堀が掘られていた。これはいくさのためというよりも篭城したかのように見えてしまう。あげくにここは捨てられ、纒向が出現するのに、纒向には環濠も掘もまったくない。矛盾している。
獣から守るべき田畑もない。意味がわからない遺跡である。

想像するに「みるあるものすくな」き山奥の隔絶地帯に逃げ込んだ吉備の人々は、遠く九州の目の前の大陸に起こった混乱を知っていた気配はある。知っていて最初は何重にも堀を掘ってみたのだろう。頭の中で恐怖心だけが渦巻いていたようである。しかしやがて外国からの敵はやってこないことがわかって纒向では堀が作られなかったようだ。つまり纒向は倭国が乱れた時代よりもあとの遺跡だとなるだろう。しかし唐子鍵は真っ最中の遺跡だろう。それは外敵だけでなく国内の狗奴国のような反抗勢力の脅威も消えていたことを語る。つまり纒向は臺與の時代の遺跡であり、唐子鍵は卑弥呼から男王の時代の遺跡、吉備楯築や鯉喰神社遺跡は大乱前の遺跡で、どこか遠いところで乱が起きて、すぐに捨てられたものという解釈が可能である。




だから天皇家、大和朝廷に最も近い時代の遺跡は纒向遺跡であることになる。大和に吉備の勢力が入るのは西部の葛城氏の前身が登場する以前か、同時期だろう。おそらく4〜5世紀前に葛城山の西側に、吉備と葛城の氏族は登場したはずである。つまり確実な天皇氏族よりも彼らは先住した大王だったとなる。だから蘇我氏は葛城を故地としたいと言うのであろう。そこにステータスがあるということに過ぎない。

そのとき大和東部の岡の上(やまのべ)には物部氏、和邇氏などが入っていたと思われる。この東西両者は別の王家を形成していた。それが大同して大王を担いだ。そこに倭五王のような外来大王がやってきたのであろうか?するとそれは「大和朝廷」ではないことになるだろう。大和朝廷と言いたいならば継体以後の話になるはずだ。

蘇我氏がもしや臺與の子孫であるとしたならば、それは吉備から倭の五王とともに?あるいは紀州の紀氏のように筑後から豊国=宇佐、豊前を経由してやってきた氏族ではなかったか?


















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先日来、天皇諡号の豊のつくものを分析、分類しているわけだが、はたと気がついたことがあった。

それは飛鳥時代の豊諡号を持つ天皇は、蘇我氏三代(稲目も含めると四代である)の時代に三人あり、間に蘇我氏と外戚親縁関係がない皇極・孝徳・斉明を挟んで、今度は時代を下がった持統子孫の時代に復活するのであるが、皇極天皇はまさに蘇我入鹿が一巳の変(いっしのへん)で惨殺されたときの天皇であるし、孝徳は、そのあとをついで、斉明〜天智の間に難波の宮で失脚してしまった天皇。二人はくしくも兄弟である。

以前、孝徳こそが大化の改新の首謀者、と書いた。
その理由は、蘇我氏滅亡で最も得をしたのは中大兄でも鎌足でもなく、つけるはずがなかった天皇になれ、蘇我氏血脈という中心的親王主流の時代にはないはずだった皇極〜斉明の三代天皇の時代を造れた張本人であるからだとした。さらに天武の子孫たち、古人大兄らの蘇我系有力者たちまでも殺したのが孝徳だとしたのである。

ここにきて、実は皇極(斉明)にも、その野望はあった可能性があると気がついた。紅玉は、目の前で入鹿を殺されたとき、「なにごとか!どういうことなのか?」と中大兄らに問いただしたと『日本書紀』は言うけれど、それは確かに仰天したできごとであったとしても、皇極の時代にはたいして大きな事績もなく、むしろ失意の天皇を演じており、孝徳をはさんで重祚すると、いきなり新羅征伐を言い始め、九州朝倉にまで出兵する、非常に男勝りの、勇猛果敢な指導者に変身している。ここが怪しい。

彼女のこの征服欲のにわかな現れは、蘇我氏を滅ぼした当初には猫をかぶっていた欲望、天皇への執着心が、顔を出したものといわざるを得ない。すなわち、彼女には、無縁である蘇我氏の存在を煙たがっていた内心があった。

孝徳は、即位するといきなり遷都して、海岸部の難波に都を造営。対外的貿易に野心を見せ始めるが、そのノウハウは蘇我氏そのままの真似でしかない。ゆえに中大兄らは飛鳥にとってかえし、勝手に都を復活させてしまった。さすがに皇極もこれについてきているから、兄弟を見限ったのだろう。

一方、にもかかわらず中大兄はなぜか自分で即位しない。実は彼の妻は蘇我氏の娘である。

強い嫁の持つ影響力を言うと、遡れば蘇我馬子の妻は、やはり滅ぼした敵方の長女であり、のちの藤原不比等の妻がこれまた、滅ぼした蘇我氏の娘だったという不思議なえにしがある。そして天智の嫁が蘇我氏で、その娘が持統である。さらに元明がその孫になって、ここはまさに母方蘇我の天皇時代になっているのである。

つまり豊のつく天皇とは、皇極・孝徳以外は全部、母方が蘇我氏の人ばかりなのだ。

これはどういうことなのか?
天智が本当に蘇我氏を滅ぼしたのならば、それはまるで蘇我氏の祟り封じのようなことになりそうだが、持統以下が即位するころには、すでに天智は死んでおり、即位に関与してはいないのだ。しかも天武も死んでいる。


もしや元明・文武・聖武の母方蘇我氏で豊のつく天皇の即位は、天智の妻だった蘇我遠智娘の意志であるかのようだ。

もしそうなら飛鳥時代の印象はがらっとかわってしまう。

持統即位の背後にいたのは藤原不比等で、藤原氏は蘇我氏を滅ぼしたかったという常識が変わりかねないこともありうる。


その不比等の嫁がまた、蘇我氏(石川家)である。

蘇我 娼子(そがのしょうし/そがのまさこ、生没年未詳)は飛鳥時代後期の蘇我氏の女性。「娼子」という名前は『尊卑分脈』に依る物で、『公卿補任』では蘇我 媼子(そがのおんし/そがのおうなこ)と書かれている。


ついでだが、山背大兄と上宮一家を滅ぼしたのも、入鹿ではなく皇極・孝徳だったのではあるまいか?



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用明天皇 - タチバナノトヨヒ橘豊日天皇 6世紀 欽明と蘇我堅塩姫の子。推古兄弟     厩戸皇子の父。母親は蘇我堅塩姫。嬪に蘇我石寸名(いしきな、蘇我稲目の娘。または意富芸多志比売おおきたしひめ。堅塩と同じ訓なのが奇妙)

推古天皇 - トヨミケカシキヤヒメ豊御食炊屋姫天皇 同上 厩戸の伯母 母親堅塩姫

厩戸皇子 -聖徳太子-トヨトミミノミコト 用命の子 祖母堅塩姫、母は蘇我稲目の娘・小姉君
ここまで完全な蘇我本家系である。

皇極(斉明)天皇 - アメトヨタカライカシヒタラシヒメ天豊財重日足姫天皇
母方が息長広姫系であるが父敏達は継体(息長系)と尾張目子姫系。父は敏達の孫茅渟王で母は吉備津姫王(欽明天皇の孫)。敏達天皇の皇子・押坂彦人大兄皇子の王子・茅渟王の第一王女。母は吉備姫王。
蘇我氏との血縁なし。
舒明天皇の正妃。子供が天智・間人皇女・天武

孝徳天皇 - アメヨロズトヨヒ天万豊日天皇
皇極の弟。同じく蘇我氏と無縁。ただし妃に馬子の孫。遷都した難波豊崎宮の地名が豊崎だったためか?しかし姉の皇極は難波とは無縁。



文武天皇 - アメノマムネトヨオオジ倭根子豊祖父天皇あるいは天之真宗豊祖父天皇
持統天皇の孫。父・草壁皇子、母元明女帝。元明は天智と蘇我姪姫の娘なので文武も蘇我系。

元明天皇 - ヤマトネコアメツミシロトヨクニナリヒメ日本根子天津御代豊国成姫天皇
阿閉(あえ=阿部)皇女。母が蘇我姪姫で蘇我系。しかしその娘であった元正女帝は豊を名乗らず「やまとねこ」と、息長系の「たらし姫」を名乗る。

聖武天皇 - アメシルシクニオシハラキトヨサクラヒコ天璽国押開豊桜彦天皇・ 勝宝感神聖武皇帝
文武の子。母藤原宮子。


仁明天皇 -ヤマトネコアマツミシルシトヨサトノミコト日本根子天璽豊聡慧尊
(異称)深草帝 833年〜名は正良親王といい嵯峨天皇の第二皇子。
823年叔父にあたる淳和天皇の皇太子となり、833年淳和天皇の譲位を受け即位した。
母も皇后も橘氏娘。自身の先祖も橘氏。
さかのぼれば先祖が橘諸兄(藤原不比等と県犬養八千代の子)。
蘇我氏とはまったくの無縁。
「豊聡」は厩戸の諡号であるので、あやかっただけか?

※ちなみに持統天皇は天智と蘇我遠智娘とのあいだの子で蘇我系である。つまりその子の草壁や孫の文武も当然、母方蘇我系(父方天武)である。

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こうして仕分けしてみると、豊諡号を持つ人々は、四つに大別できる。
1 用命〜推古〜厩戸という蘇我本家を母方に持つ一群。
2 皇極(斉明)〜孝徳という難波豊崎に関与した一群。
3 元明〜文武〜聖武という母方が蘇我姪姫の子孫の一群。
4 仁明という無関係な時代の人。

さて、1と3は時代をやや隔てているが蘇我稲目、馬子、蝦夷の蘇我王権時代の人々で共通する。

2はそれをつないだ世代であるが、孝徳が蝦夷・入鹿を誅した本人である過程可能で、皇極(斉明)はその変の際、入鹿の目の前にいた人である。



さて、ここで思い出すことがある。蘇我蝦夷のあだ名が「豊浦大臣 とゆらのおおおみ」だったことである。父・馬子は屋敷に島を浮かべた四角い池を持っていて、「嶋大臣」と通称されたが、蝦夷は飛鳥の豊浦に豊浦寺という別荘を持っていたので豊浦大臣であった。1〜3の豊諡号の理由で最もあっただろうと思えるのは、この蘇我本家の土地・豊浦地名ではなかったか?その周辺が「豊」地域=蘇我氏の土地だった可能性は高い。その蘇我本宗家氏の最も力があった時代の、母方に蘇我氏を持った天皇たちが、どうやら「豊」を名乗ったことは間違いあるまい。問題は2の孝徳と皇極にまったく蘇我氏との血縁がないことだが、当時の宰相は蝦夷である。あやかったと考えられそうだ。もちろん単に「豊穣」という美称である可能性もあるだろうが。

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さて、蝦夷の読みは「えみし」であるが、奈良の明日香村の豊浦や甘樫丘の低い山地=河岸段丘が「エビス谷」通称「エベスっさん」などと民衆に呼ばれ、今もエベス地名であることをご存知か?エベスは恵比寿のなまりで、エビス。海の神。蝦夷もえびすと読む。なぜ彼が蝦夷を名乗ったかというと、誰もが生命力があるからと答える。しかし蘇我氏が欲しがった葛城の本拠地にある高鴨アジスキタカヒコネ神社にはエビス=八重事代主が祭られているのだ。事代主は出雲から高鴨氏が葛城山に持ってきた出雲の神である。そして葛城氏はそもそもが伽耶から秦氏を連れて戻ってきた氏族だ。その大和ではない、伽耶〜出雲の海の神であるエビスを蘇我蝦夷は名乗ったのである。このことは蘇我本宗家氏はエビス=渡来系海人族だったという意味にとれないだろうか?あるいはそれが縄文的な倭種であった可能性もある。

蝦夷の子・入鹿の名も、海に関係している。そして入鹿は林太郎であった。何か関連性はないだろうか?

こうしてみいると葛城王だった天智の弟天武が、やはり海に関与した大海人を名乗ったわけもうすすすみえてくる気がする。天皇の血脈と海人族の不思議な関与だ。渡来系民族は日本へ渡るとき、半島南部の倭種つまり海人族をナビゲーターにするので、当然両者には主従関係は生まれただろう。そういう古墳なら九州北部にいくらでもある。いわゆる装飾古墳である。中には装飾古墳とそうでない同時代の古墳が隣接するものもある。

奈良県明日香村(遠つ飛鳥)にある馬子の桃源墓つまり石舞台の東北部周辺には、古い時代の横穴式古墳群がたくさんあって、これがやはりエベスと呼ばれている。石舞台そばのやはり東から、坂部摩利勢が兄馬子の墓を作るとき、近くに小屋を立て、そこにあった多くの墓をこぼって、墓所にしようとしたが、そのとき崇峻天皇が暗殺されてしまい、天皇位をめぐって穴穂部皇子と推古が対立。馬子らが推す推古を、摩利勢が推す穴穂部が襲うという事件に発展するのだが、摩利勢はこのとき、兄の墓作りをおっぽらかしたばかりか、作業小屋を打ち壊して去ったとされる。

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その作業場あとらしき遺跡で、巨大な柱穴が二つ、並んで見つかっている。なんらかの柱を建てて作業したらしい。記紀には、飛鳥のある天皇の墳墓に二本の柱を建てた記事がある。どうも墓には柱が建てられたようだ。例えば朝鮮のソッテのようなものか?あるいは中国神樹思想から来たものか?




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いずれにせよ葛城山の西側に「近つ飛鳥」=安宿があり、そこは蘇我氏の関連遺跡がたくさん出る。石川の沿線である。ここがもともとの蘇我氏の本拠だったのだろう。そして豊の蘇我稲目が、最初葛城の比売を娶ることから蘇我氏の突然の繁栄は始まったのである。この嫁の存在こそが、新参蘇我氏のステータスだったのである。ということは、いかに葛城氏の血脈が大事だったかの証拠となろう。天皇家でさえも、やはり葛城の娘を最初に娶って大和王朝が始まったのである。

ということは葛城は、かつての王家だったことになるのではないだろうか?

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さて、その安宿の北部に一須賀という土地があり、三つの方墳がある。シショツカ、ツカマリ、アカハゲ古墳と、その関連古墳群である。これがそが=すが由来地名かとも思えるが、「須賀」は出雲の地名でもある。スサノヲが「心すがすがしくなった」と安住したのが須賀である。この安住と地名安宿には意味が近いものを感じる。すると蘇我氏はもと出雲にいた・・・その前は葛城氏同様、伽耶にいたのではないか?という気がしてくる。

つまり蘇我氏はエビスだったのか?国譲りで出雲を明け渡すことに同意して、海に没して消えたという事代主とは、つまり蘇我氏だったのだろうか?豊という地名は海岸部なら日本中どこにでもある。海辺の港の多くが、豊浦や豊津や豊岡を地名としている。そこに、多く、恵比寿や鴨神社や住吉神社があろうかと思う。




参考文献 西川寿勝・相原嘉之・西光慎治『蘇我三代と二つの飛鳥』NHK大阪文化センター 2007


次回稲目の墓は五条野(見瀬)丸山古墳?欽明は?







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斎は忌むこと。
仏教では「とき」食事。

心身をきよめて神に仕えること。また,その人。特に斎宮斎院。 「賀茂の−には,孫王の居給ふ多くもあらざりけれど/源氏 賢木
神をまつる場所。 「隼は天に上り飛び(かけ)り−が上の鷦鷯(さざき)取らさね/日本書紀 仁徳


神を饗宴し、鎮魂すること。


「斎王(さいおう)または斎皇女(いつきのみこ)は、伊勢神宮または賀茂神社巫女として奉仕した未婚の内親王親王宣下を受けた天皇の皇女)または女王親王宣下を受けていない天皇の皇女、あるいは親王の王女)[1][2]。厳密には内親王の場合は「斎内親王」[3]、女王の場合は「斎女王」といったが、両者を総称して「斎王」と呼んでいる。
伊勢神宮の斎王は特に斎宮(さいぐう)、賀茂神社の斎王は特に斎院(さいいん)と呼ばれた」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E7%8E%8B

「いつき」はいつくこと。厳く。


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歴代伊勢斎王
豊鍬入姫(とよすきいりひめ)

父: 崇神天皇
母: 遠津年魚眼妙媛
垂仁天皇の異母姉妹で、垂仁天皇とともに皇位継承者の候補にあげられた豊城入彦の同母妹。
宮中に祀られていた天照大神を大和笠縫邑で祀る。
崇神58年(B.C.40)ごろ、老衰により退下。
崇神
垂仁 皇女 崇神6
B.C.92 崇神58 B.C.40頃 53年間

倭姫命(やまとひめ)
父: 垂仁天皇
母: 丹波道主王の女、日葉酢媛命。
垂仁天皇皇女。
豊鍬入姫命より、御杖代の役目を引き継ぎ、天照大神の鎮座される地を求めて各地を巡幸し、伊勢に至った斎王。
ヤマトタケルノミコトの叔母にあたり、東征に赴く途中、伊勢神宮を訪ねたヤマトタケルに草薙剣を手渡した。
垂仁
景行 皇女 崇神58 B.C.40 ? ?

五百野皇女(いおの)
父: 景行天皇
母: 三尾氏磐城別の妹、水歯郎媛
ヤマトタケルノミコトの姉。別名、久須姫(くすひめ)
明和斎宮へ来た最初の斎王といわれる。
伊勢で死亡と伝えられ、三重県安芸郡美里村五百野に「景行天皇皇女久須姫命之古墳」の碑が残る。
三重県志摩郡浜島町南張の楠御前八柱神社も景行天皇皇女久須姫を祀る。この地で生涯を閉じたという伝説あり。
景行 皇女 景行20 A.D.90 ? ?
伊和志真皇女(いわしま)
『斎宮記』、『二所太神宮例文』に名前のみ記されているが、実在した斎王かどうかは確認できない。 仲哀 皇女 雄略3以前 ? ?
稚足姫皇女(わかたらしひめ)
父: 雄略天皇
母: 葛城圓大臣の女、韓姫
雄略天皇の皇女。
別名:栲幡皇女(たくはたのひめみこ)
清寧天皇の同母兄妹。湯人の廬城部連武彦との関係を疑われ、身の潔白を証明するため自殺。無罪とわかる。
雄略 皇女 ? ? ?

清寧・顕宗・仁賢・武烈天皇の時代、斎王の記録なし
荳角皇女(ささげ)
父: 継体天皇
母: 息長真手王の女、麻績娘子
近江の息長系の皇女。
継体 皇女 ? ? ?

安閑・宣化天皇の時代、斎王の記録なし

※継体天皇前後で王朝の交代があったと考える説あり、また、継体天皇の後に即位したのは欽明天皇で、それを認めない勢力が欽明天皇即位の2年後に安閑天皇、次いで宣化天皇を擁立したとする説が有力。

磐隈皇女(いわくま)
父: 欽明天皇
母: 蘇我大臣稲目宿禰の女、堅塩媛
用明天皇の妹。推古天皇の同母姉。
別名:夢皇女
伊勢ではなく三輪山の麓で日神を祀っていたと考えられている。推古天皇の同母妹。
異母兄弟茨木(茨城)皇子に姦されて解任。
欽明 皇女 ? ? ?
兎道皇女(うじ)
父: 敏達天皇
母: 息長真手王の女、廣姫
用明天皇の妹。推古天皇の同母姉。
息長系を母系とする皇女。池辺皇子に姦されて解任される。
菟道磯津貝皇女とも記される。(古事記では宇遅王と記す)
おそらく、三輪山のほとりで日神を祀り、伊勢へは下向していないと思われる。
敏達 皇女 敏達7 578 ? ?
酢香手姫皇女(すかてひめ)
父: 用明天皇
母: 葛城直磐村の女、広子
聖徳太子の異母姉妹
用明・崇峻・推古の3代の天皇の治世にわたる斎王。おそらく磐余か他田の三輪山の麓、あるいは檜原神社のあたりで日神を祀っていたと考えられる。
初めて「日神の祀に奉らしむ」と明記される。
『上宮正徳法王帝説』では「次須加氏古女王」として聖徳太子兄弟7人の中に数えられる。
※在任期間については用明元年(586)〜推古30年(622)の37年間とする説がある。
用明〜推古 皇女 敏達14 585 推古33ー625 約41年間

大来皇女(おおくのこうじょ)
天武天皇の皇女・大来皇女。その就任は壬申の乱の翌年(673年)で、その翌年(674年)に伊勢神宮に向かった。その彼女のもとに、天武の有力な皇位継承者であった同母弟の大津皇子が訪れる。しかし、飛鳥に戻った大津は、天武崩御による政情不安定のなか、朱鳥元年(686年)、謀反の罪により死を賜る。父帝の崩御により斎王を退任した大来皇女は、父も最愛の弟もいない飛鳥に戻った。『万葉集』には、弟を想う哀切の歌が6首残る。

井上内親王(いのうえ・いがみないしんのう)
聖武天皇の皇女・井上内親王は、神亀四年(727年)に伊勢に群行した。華やな天平の時代に、都を遠く離れ、伊勢で青春の時を過ごしたのである。そして帰京の後、天智天皇の孫、白壁王と結婚し、異母姉の称徳天皇の没後、夫が光仁天皇として即位したため、皇后となった。二人の子で、聖武の孫である他戸は皇太子となり、将来の国母も約束されていた。しかし、井上は、天皇を呪詛した疑いで、他戸もろともに位を追われ、宝亀6年(775年)に揃って謎の死を遂げる。ところが間もなく名誉回復が始まり、ついには皇后に復位している。怨霊として恐れられたらしく、後世の史料には、その身は生きて竜となったと記すものもある。http://tokyox.matrix.jp/wordpress/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E3%80%81%E6%96%8E%E7%8E%8B/


コメントなし。

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 鯖江市上河内町にあるエドヒガン桜(市指定文化財(天然記念物))を「うすずみざくら」と呼んでいる。
継体大王が上河内の山の中に桜を植えたという伝説があるという。
現在ある薄墨桜がその孫桜とされ、地域のシンボルとなっているそうである。
http://www.eonet.ne.jp/~etizenkikou/keitai.htm

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奥美濃最高峰で、岐阜福井県境の能郷白山(1617m)
「根尾谷淡墨桜」
「樹齢1500余年、回生を図るべく昭和24年に近くの山桜の若根238本で根接ぎしたところすっかり元気になった、樹高17.2m・幹回り9.1mで花の盛りは4月上旬、更に伝説として、都での迫害を逃れてこの地に潜まれた男大迹(オオト)王が長じて29歳の時都に迎えられて皇位を継承し継体天皇と称せられたが、この地を去るに当たり形見としてこの桜を植えられたと言う。」
http://d.hatena.ne.jp/misakay/20030920/1209271593





エドヒガンには改良種以前の原種もあり、以前はスモモとされていたこともある。長寿の樹木で、神代桜という樹齢2000年にもなるとされるものすらある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%A3%E6%A1%9C

淡墨桜は樹齢1500年。しかしながら、1500とか2000年となると、本当なのかどうかは筆者は責任は持てない。その間、ずっと誰か一族が見てきたということでもないだろうし、生きている限りは切って年輪を見ることもできまい。伝承があるということは、一応信じるしかあるまい。まあ、それだけ接木されつつ、子孫の桜が生かされているという意味であろう。


鯖江市上河内町地係 標高約400M
アクセス方法/
(1)徒歩の場合・・・上河内町から北側山中へと伸びる登山道を歩いて約1時間
(2)車の場合・・・鯖江市尾花キャンプ場から林道を通り約20分





継体大王は担がれて大和の大王となるが、そのわけは、前の王朝であった河内王朝の男子子孫が断絶したからだとされている。河内王朝とは、始祖を応神大王として、巨大古墳群を持った河内の一族。仁徳天皇陵をはじめとする巨大そのもの前方後円墳を大阪府の泉州に作らせた。中国では倭の五王の時代に彼らは生きたとされ、次の飛鳥王朝の前にあった王権である。

応神の母は息長帯姫、いわゆる神功皇后である。

その治世の後半で、雄略大王(ワカタケル)は宰相に葛城氏と吉備氏をもって、外戚とし、大和西部で、東部の物部氏や和邇氏と対立的なふるい王権を保持してきた。しかし雄略は葛城も吉備も、滅ぼし、王権を男系で独占しようとしたらしい。その葛城王権は迫害された、最後の子孫だった市歯辺皇子も殺される。その忘れ形見がオケ・ヲケ王だった。のちの顕宗・仁賢大王である。飯豊青皇女は彼らが見つかるまで摂政。

この葛城をのちになのろうとしたのが蘇我馬子である。
蘇我氏は石川に入って石川朝臣を名乗るが、馬子・イナメ一族だけは宗岳に入り「そが」を名乗った。彼らが真実葛城氏出身だったかどうかは不明である。

いずれにしても氏族名の「そが」「いしかわ」「そがのくら」などはすべて地名名乗りで、もとから王族ではなかい豪族だったのだろう。

継体大王は越前から招聘されて淀川周辺の摂津にまず本拠を置く。そして河内の前王朝の嫁をもらって葛城と雄略の血をうけつぐことになったようだ。葛城は日本最古の外戚で、伽耶の鉄をほしいままにした大豪族。秦氏を連れ帰り、思うに日本府の王だった一族である。その血脈は雄略によって消されかかったが、継体がその末裔の姫を娶ることでかろうじて飛鳥と河内はつながった王権となるわけで、それは言い換えてしまえば、本当は切れているはず性器野の王権を、記紀8世紀のイデオロギーでつなぐための重要な存在である。もしいなかったとしても日本史が変るはずはない。

しかしいなかったとするには、百済武寧王との関係によって贈られた朱塗りの木棺などが、その実在性のあかしとして存在する。彼の葛城の入り婿としての意味は、のちの蘇我氏の、葛城の臣としての葛城地域要求の底辺にあり、蘇我氏は葛城に住んだだけであったにしても、葛城を氏族のステータスにしたわけで、継体の存在と蘇我氏は切って切れない関係を持つのである。

淡墨桜が、なぜ大和や河内ではなく岐阜県にあるかといえば、そこが東国と西国をつなぐ関門のあった場所で、東国と日本海が白山を越えることでつながる地域だったからにほかなるまい。あくまでも伝承ではあろうが、東海の尾張氏と日本海福井の海部氏が同族であることと、この往古のけわしい道の存在はかかせない。そういう背景から継体は日本史に登場する。その道、白山信仰の奥底にあるのは、応神がもっている限りなく朝鮮渡来の王子というイメージを共有する。

新羅の王子がそこには関わる。ゆえに記紀はわざわざこの渡来王子の前例を二度も書き残す。すべては継体のために。継体のためということは、前王朝と8世紀の王朝が正統につながっていることのあかしとなるからである。すべては8世紀記紀のイデーが日本史のはじまりにある。










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hisakatano
hikarinodokeki
harunohini

sizukokoronaku
hanano
tiruramu


For the first time in a long time
Quietly and quietly
Cherry blossoms were about to fall

久方の
光のどけき
春の日に
しずこころなく
花の散るらむ









うずもれて
春の桜の
その紅に














好日










もっと桜を見る
You want to see more Sakura






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桜奇譚

桜にまつわる奇妙な話を少々・・・。



地主神社「御車返しの桜」
「時は平安の世、嵯峨天皇を乗せた牛車は地主神社へと向かっていた。天皇が皇居からお出ましになることは国の一大事であり、もちろん多くのお伴を従えての「行幸」である。では、なぜ、嵯峨天皇は地主神社への行幸を決意されたのであろうか。

 薬子の変。それは、平安京を揺るがした最初の危機であり、嵯峨天皇を苦悩させた骨肉の争いであった。病のために皇位を退いた実の兄を、薬子らが復位させようと企て、平城京への遷都を謀ったのである。花を愛で、詩歌をよくする嵯峨天皇にとって、肉親が謀反にかかわったということは、ことのほかお辛いことであっただろう。
 幸いにして、歴史は嵯峨天皇に味方し、その謀反は失敗に終わった。嵯峨天皇がいかなる対処を施したゆえに、平安京を守ることができたのか、史実はそれを伝えてはいない。

しかし、地主神社には、ひそかに語り伝えられている物語がある。坂上田村麻呂との出会いである。このめぐりあいによって、平安京は都の姿をとどめ、様々な王朝文化を育んだのだ、と。」

「再び、京の都が落ち着きを取り戻しつつあった811年。嵯峨天皇は、伴の者を引き連れ、地主神社へと行幸されました。神代から鎮守の社として伝わる地主権現に、末永く都の平安を祈ろうとされたのでしょう。

 祈願を終え、帰途につこうとする牛車を、嵯峨天皇は二度、三度と引き返らせます。時は春。境内には、地主桜が今を盛りと、一重に八重に咲き誇っていました。」
http://www.jishujinja.or.jp/kigan/en_mikuruma.html

以前すでに書いたことがある桜の話。


嵯峨天皇はこののちに日本最初の花見の宴を思いつく。
いわゆる『日本後記』にある「神泉苑花見の宴」である。
そのきっかけが上記の地主神社(じしゅじんじゃ)での山桜との出逢いであった。
その故事を真似て、のちに秀吉が「醍醐の花見」をとりおこなうのかと思える。

嵯峨天皇は桓武の子。
京都では平安京開闢の祖である桓武よりも、花をめでるやさしさを持つ嵯峨を好む。
京の春の醍醐味が、まさに桜である。










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記事と画像は関係がありません。これは今日の近所のソメイヨシノ。








小泉八雲『乳母桜』
「300年前(現在からでは400年前になろうか)伊予国温泉郡朝美村に徳兵衛という富裕な村長(むらおさ)がおった。
 
40になっても子供に恵まれなかったが、村の寺の不動明王に願かけて、娘を授かった。
露(つゆ)と名付けられた娘は、お袖という乳母に助けを借りて美しい娘に成長した。

お露は15の歳に、医者が見放すほどの大病を患う。乳母お袖の、21日間に渡る不動明王への祈願で、お露は快復する。その翌日お袖は息を引きとる。

実は、お袖は自身の命と引き換えにお露を助けてほしいと、不動明王に祈願したのだった。願いが叶えられれば、感謝の印として、寺の庭に桜の木1本を植えると約束をしていた。

徳兵衛夫妻は探しつくせる限り最高の桜の若木を植樹した。その桜は250年間毎年、2月26日に美事な花を咲かせ続けた。2月26日はお袖の祥月命日である。 」







梶井基次郎「桜の樹の下には」

 「桜の樹の下には 屍体したい が埋まっている!
 これは信じていいことなんだよ。 何故なぜ って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。

 どうして俺が毎晩家へ帰って来る道で、俺の部屋の数ある道具のうちの、 選 りに選ってちっぽけな薄っぺらいもの、安全剃刀の刃なんぞが、千里眼のように思い浮かんで来るのか――おまえはそれがわからないと言ったが――そして俺にもやはりそれがわからないのだが――それもこれもやっぱり同じようなことにちがいない。

 いったいどんな樹の花でも、いわゆる真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気を撒き散らすものだ。それは、よく廻った 独楽こま が完全な静止に澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻覚を伴うように、 灼熱しゃくねつ した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それは人の心を 撲 たずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ。

 しかし、昨日、一昨日、俺の心をひどく陰気にしたものもそれなのだ。俺にはその美しさがなにか信じられないもののような気がした。俺は反対に不安になり、 憂鬱ゆううつ になり、空虚な気持になった。しかし、俺はいまやっとわかった。
 おまえ、この 爛漫らんまん と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。

 馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな 腐爛ふらん して 蛆うじ が湧き、 堪たま らなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は 貪婪どんらん な 蛸たこ のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を 聚あつ めて、その液体を吸っている。

 何があんな花弁を作り、何があんな 蕊しべ を作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。

 ――おまえは何をそう苦しそうな顔をしているのだ。美しい透視術じゃないか。俺はいまようやく 瞳ひとみ を据えて桜の花が見られるようになったのだ。昨日、一昨日、俺を不安がらせた神秘から自由になったのだ。
 二三日前、俺は、ここの 溪たに へ下りて、石の上を伝い歩きしていた。水のしぶきのなかからは、あちらからもこちらからも、薄羽かげろうがアフロディットのように生まれて来て、溪の空をめがけて舞い上がってゆくのが見えた。おまえも知っているとおり、彼らはそこで美しい結婚をするのだ。しばらく歩いていると、俺は変なものに 出喰でく わした。それは溪の水が乾いた 磧かわら へ、小さい水溜を残している、その水のなかだった。思いがけない石油を流したような光彩が、一面に浮いているのだ。おまえはそれを何だったと思う。それは何万匹とも数の知れない、薄羽かげろうの屍体だったのだ。隙間なく水の面を被っている、彼らのかさなりあった 翅はね が、光にちぢれて油のような光彩を流しているのだ。そこが、産卵を終わった彼らの墓場だったのだ。

 俺はそれを見たとき、胸が 衝 かれるような気がした。墓場を 発あば いて屍体を 嗜この む変質者のような残忍なよろこびを俺は味わった。
 この溪間ではなにも俺をよろこばすものはない。 鶯うぐいす や 四十雀しじゅうから も、白い日光をさ青に煙らせている木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心は 和なご んでくる。
 ――おまえは 腋わき の下を 拭 いているね。冷汗が出るのか。それは俺も同じことだ。何もそれを不愉快がることはない。べたべたとまるで精液のようだと思ってごらん。それで俺達の憂鬱は完成するのだ。
 ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている!
 いったいどこから浮かんで来た空想かさっぱり見当のつかない屍体が、いまはまるで桜の樹と一つになって、どんなに頭を振っても離れてゆこうとはしない。
 今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が 呑 めそうな気がする。」





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春、桜満開
桜には奇妙な話がいくつもまつわる。
怖い花でもある。








願わくば 花の下にて 春死なん その望月の如月の頃   西行法師







如月の二月に咲く花は山桜である。
もちろん現代の二月ではない。
きさらぎは旧暦二月。

きさらぎとは、更に衣服を重ねねば最も寒い二月は過ごせないという言葉だ。

着更着

なんともゆかしき表現である。


現代、ソメイヨシノは弥生三月の花だとされるが、実際に満開になるのは、あたたかい九州でも四月初旬である。

ようやく花起こしの雨に誘われ、
近所の桜が咲きそろってきた。
ソメイは、すべてがいっぺんに咲かねば、
その美しさはわからない。

いちどきに咲き、いちどきに散る。そこがため息を誘う。





もし桜が椿のように首ごと落ちる花だったら、
これほどに日本人の心をつかむことはなかっただろう。







肩にひとひら 花の散る











まさに春。
日本の春。






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できるなら いくさに桜 持ち来るな

           
             その散る様は ゆかしさなれば























































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昨日はひとつ前の記事にこう書いた。

用明天皇 - タチバナノトヨヒ
推古天皇 - トヨミケカシキヤヒメ
厩戸皇子 -聖徳太子-トヨトミミノミコト
皇極(斉明)天皇 - アメトヨタカライカシヒタラシヒメ
孝徳天皇 - アメヨロズトヨヒ
文武天皇 - アメノマムネトヨオオジ
元明天皇 - ヤマトネコアメツミシロトヨクニナリヒメ
聖武天皇 - アメシルシクニオシハラキトヨサクラヒコ
仁明天皇 -ヤマトネコアマツミシルシトヨサトノミコト

「※ほかに天皇ではないが崇神天皇の子に
豊城入彦命(とよきいりびこのみこと) - 上毛野君・下毛野君等祖
豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと) - 初代斎宮
がある。母は遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)・・・・・紀伊国荒河戸畔の娘である。ここにもまた鮎=年魚がある。紀伊国もまた海人族紀氏の拠点だった。「め」はシャーマンの名前ゆえにこの女性も神功皇后のようなシャーマンだったのだろう。尾張目子姫もそうだし、神功皇后の九州香春神社での呼び名の息長帯姫大目命もそうだろう。目は魔よけでもある。




後年は諡号がなくなったのでこれだけだが、かなり多い。
なにより、用命〜仁明までの期間だけに豊は集中しており、豊がこの期間に、尾張や九州の豊前豊後(大分県・福岡県東部)だけでなく大和にも適用されている地名であると気がつくだろう。まさに7〜8世紀は「豊王朝」だったと言ってもよいだろう。

とにかく天武天皇周辺には海人、豊、鮎、目に関連した人物があふれているのである。」



そのあとでさらに考えこう付け足した。

「ちなみにある古代史研究家は「武は男系、豊は女系で祭祀者の色合いが強かった」などと書いている。http://prozorec.hatenablog.com/entry/2016/10/06/094906
関裕二らしい。

「著者は「元興寺伽藍縁起並流記資材帳」の「大大王」と「大王」を「推古天皇」と「聖徳太子」に比定し、本来叔母・甥の関係にある両者を親子だったと論じている。そこから推古天皇穴穂部間人皇女を同一人物と仮定するとつじつまが合うと説く。更に、先代旧事本紀に登場する物部鎌姫大刀自連公も同一人物だとする。その結果、推古天皇の子供である聖徳太子蘇我入鹿と同一人物だと主張するのだ。
 更にである、舒明天皇には三人の皇子(古人大兄皇子、中大兄皇子大海人皇子)がいるが、古人大兄皇子と大海皇子は同一人物だと結論付けている。」とあった。



トヨは豊かで、豊かな土地の意味がある。天皇にこれがつけば美称となり、豊かな人となるだろう。女系は前に書いたように元明ひとりであり、その子孫の元正や文武は豊=女系というのは当たらないだろう。そもそも元明を除く天皇のすべてが男系なのだから、そういう仕分けに意味があるわけがない。この人は女系と言う意味がわかっていないようだ。それよりもやはり豊は、海部地名であり、海部一族に養育された天武との系列で考えるべきだ。」





 



もう少し詳しく一覧を作って置こう。


用明天皇 - タチバナノトヨヒ橘豊日天皇 6世紀 欽明と蘇我堅塩姫の子。推古兄弟
     厩戸皇子の父
推古天皇 - トヨミケカシキヤヒメ豊御食炊屋姫天皇 同上 厩戸の伯母
厩戸皇子 -聖徳太子-トヨトミミノミコト 用命の子
皇極(斉明)天皇 - アメトヨタカライカシヒタラシヒメ天豊財重日足姫天皇
孝徳天皇 - アメヨロズトヨヒ天万豊日天皇

文武天皇 - アメノマムネトヨオオジ倭根子豊祖父天皇
天之真宗豊祖父天皇

元明天皇 - ヤマトネコアメツミシロトヨクニナリヒメ日本根子天津御代豊国成姫天皇
聖武天皇 - アメシルシクニオシハラキトヨサクラヒコ天璽国押開豊桜彦天皇
勝宝感神聖武皇帝

仁明天皇 -ヤマトネコアマツミシルシトヨサトノミコト日本根子天璽豊聡慧尊
(異称)深草帝 833年〜








その前後の天皇まで含めた一覧(太字が豊が諡号にある天皇。数字は第何代)
●飛鳥王朝
29 欽明天皇 きんめい 天国排開広庭天皇
30 敏達天皇 びだつ 渟中倉太珠敷天皇 妻息長広姫
31 用明天皇 ようめい 橘豊日天皇  息長系

32 崇峻天皇 すしゅん 泊瀬部天皇   蘇我系
33 推古天皇 すいこ 豊御食炊屋姫天皇 蘇我系
− 厩戸皇子 うまやと-聖徳太子-豊総耳尊 蘇我系

34 舒明天皇 じょめい 息長足日広額天皇 田村 ここから息長系
35 皇極天皇 こうぎょく天豊財重日足姫天皇 
36 孝徳天皇 こうとく天万豊日天皇
37 斉明天皇(齊明天皇) さいめい (皇極に同じ)

38 天智天皇 てんじ(てんぢ) 天命開別天皇 母方息長系
39 弘文天皇 こうぶん  諡号記載なし

●藤原京王権 
40 天武天皇 てんむ 天渟中原瀛真人天皇 大海人  
41 持統天皇 じとう 大倭根子天之廣野日女尊 高天原廣野姫天皇 鸕野讚良 天智娘
42 文武天皇 もんむ 倭根子豊祖父天皇 天之真宗豊祖父天皇 天武と持統の孫。草壁の子 天武系
43 元明天皇 げんめい 日本根子天津御代豊国成姫天皇 天智系  
44 元正天皇 げんしょう 日本根子高瑞浄足姫天皇  天智系
45 聖武天皇 しょうむ 天璽国押開豊桜彦天皇 天武系
46 孝謙天皇 こうけん 宝字称徳孝謙皇帝 天武系
47 淳仁天皇 じゅんにん (改称前)淡路廢帝 諡号なし 天武系
48 称徳天皇(稱天皇) しょうとく (孝謙に同じ)  天武系
天武系断絶。ここから現在まで母方息長で父方天智系
49 光仁天皇 こうにん 天宗高紹天皇
50 桓武天皇 かんむ 日本根子皇統弥照尊
51 平城天皇 へいぜい 日本根子天推国高彦尊
52 嵯峨天皇 さが (異称)弘仁帝皇 諡号なし
53 淳和天皇 じゅんな 日本根子天高譲弥遠尊
54 仁明天皇 にんみょう 日本根子天璽豊聡慧尊(異称)深草帝  桓武の孫、嵯峨の子



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こうしてみると、豊の系譜は最初

1蘇我氏が母方だった推古と聖徳太子に受け継がれるが、乙子の変・大化の改新を前にして、聖徳太子隠棲と山背遭難で一度断絶する。

ところが今度は

2息長氏の広姫の娘の皇極がなぜか豊を名乗ることで、母方が息長系の別系統に受け継がれた。

それは皇極の兄弟である孝徳(軽皇子)も受け継ぎ、
間に息長系の長子である天智をはさんでしばし切れてしまう

ところがなぜかは知らぬが、壬申の乱で政権を兄天智→弘文から奪った
3天武の孫文武で又復活している。

文武は妻が藤原不比等の養女で海人出身だった宮子である。
やはり豊諡号は海人氏族のものなのか?

次に文武の子供の
4首皇子(おびとのみこ=聖武)へとそのまま受け継がれている。


最後はずいぶん間が開いて、桓武血脈である嵯峨天皇の子供の仁明で終焉している。
これは息長母方系だった天智の直系となる。

豊諡号は、蘇我も息長も、そこから別れた天智、天武も、共通して使われたということになるのか?


そこになんらかの法則は?



海人族を管理した氏族は、まず
1 海部氏
2 尾張氏
3 物部氏
4 紀氏
5 壱岐氏
6 息長氏
などが考えられ、海人族には
1 安曇
2 宗像
3 木部
4 船木
などが考えられる。


そこで継体大王に一度戻ってみる。
継体の出自は諸説あるものの、父方を息長氏、母方を越前九頭竜川の三尾氏とするのがまっとうな説で、では息長を遡ると神功皇后までいくことになる。神功皇后は母方が葛城氏で、父方が息長氏枝族の山城南部の大筒木氏、遡って日子坐(ヒコイマス)王である。



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かなりややこしいとは思うが、簡潔に申せば、神功皇后は新羅の王子の血脈と近江のやはり渡来系だっただろう海人族・息長氏の子孫が婚姻して生まれた人となっているわけだ。この系譜の末端に、応神大王の何代も離れた孫だという継体が生まれている。まあ、そういうふうに「創ってある」わけだ。


海人族である限り、息長氏も海部に管理されるものだったと言えよう。しかしこの系図で見る限り、メビウスの輪である。


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もし河内王朝の始祖として創作されたのが応神で、息長系譜の中興の代表として創作されたのが神功皇后だった場合、まあ、継体が生まれてくる現実性は皆無となっているわけである。

言い換えれば神功皇后とも、応神とも、継体はまったく関係がない、日本海の息長氏と言う貿易商人の子だったに過ぎないことになる。そうすると今の天皇家もまた、継体の血を受け継いだ息長系王家である限り、父方は商売人だったということになりかねなくなってしまう。じゃあ母方はと言うと、河内王朝最後の皇女ではあるが、ならば、母方だけが天皇で、父方は入り婿となり、そもそも継体子孫からすでに全部女系じゃないかとなってしまうから、継体には応神という、渡来してきた?いもしなかった?河内の皇祖の?子孫であってもらわねばならないのである。

継体がいなければ飛鳥の欽明は生まれていない。すると今の天皇家もないことになる。だからここは絶対つbながねばならなかった。

ところが、実際には、欽明がだれの子孫かわからない。


いたかどうかさえ、決められない。


しかし蘇我王家は確かに存在した。その時代の方墳や階段墳がいくつも飛鳥にある。その蘇我氏もまた、しかしどこから登場したかも確定していない。稲目の前がうそだらけの系図なのだ。

考えられるのはやっぱり豊の系譜しかない。海人の系譜である。


蘇我氏が葛城王家に入った証拠はない。蘇我は石川が本拠地だが、そこにいたのは蘇我倉石川氏である。馬子の蘇我氏と石川の蘇我氏の血縁は証拠がない。

倉とは、鞍だとすると、それは司馬氏の名前になる。蘇我入鹿は鞍作大臣だった。名前は林 太郎。林は中国系姓だ。「りん」である。司馬も中国の姓だ。じゃあ、蘇我氏本家は中華だ。

そんなことだって言い出せて仕舞う。


どこからからやってくるなら船が要る。船を手繰れるのは海人族だ。つまり豊なのである。






























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話題の天皇の譲位に関連してもうひとつ用語解説を。


譲位
日本の歴史上の記録では、生前に譲位した大王、天皇は54人存在する。
記紀最古の譲位は五世紀、河内王朝終末期の飯豊青皇女からヲケ大王への譲位記録がある。ただし記紀成立の8世紀より200年以上前の大王家の話であるから、事実かどうかはわからない。次の記録が蘇我飛鳥政権下の推古女帝から舒明天皇への譲位。一般に推古は日嗣を決めずに崩御したことにされているが、実際には推古20年ころまでは聖徳太子という「皇太子」が存在している。太子という尊称は、まだ天皇称号がなかった時代の皇太子に当たる。

次が皇極女帝で、これは定説では確実な最初の譲位である。

(ちなみに卑弥呼は譲位していない。死んでからしばらくして宗女臺與が立つが、娘ではない。宗女とはたぶんシャーマンとしての卑弥呼の後継ぎだろう。譲位だけでなく、血脈による王権交替=世襲は、まだ存在しない。そのはじまりは倭の五王時代からか?崇神時代は記録そのものが作り事の可能性が在る)

なぜ20年あたりで彼が太子ではなくなったかと言えるかと言えば、『日本書紀』に推古と蘇我蝦夷があとつぎをだれにするかなどを話し合っており、太子はその後大阪のアスカに別の住まいを作り、蘇我氏・推古とは疎遠になってしまったからである。推古20年の記録には、すでに厩戸皇子を太子扱いにはしておらず、諸皇子を呼んだとある。その中で有力だった皇子は、推古がじきじきに病床に呼んであとを託した田村皇子と山背大兄王の二人である。このとき推古は田村には「まだまだ経験不足だから意見をいろいろ聞いて職務を果たせ」といい、山背には「おまえはまだ若い」と言った。それだけしか言わずに、日嗣は決めないままに推古は死ぬ。

これを豪族たちは忖度(そんたく)し、田村が太子にふさわしいと決めたのだった。しかし皇位から言えば、蘇我血脈である聖徳太子の長男である山背のほうが、蘇我氏と縁がない押坂彦人大兄皇子と息長広姫の子である田村とでは、明らかに山背のほうを蘇我氏の娘である推古も蘇我大臣も選んで当然だった。田村はアスカ王朝の祖である欽明の子孫で敏達の子である押坂彦人大兄皇子の子で、天皇には充分な血脈だったが、権力者蘇我氏とは無縁の人だった。蘇我入鹿は記録では山背の名は出さずに「諸勢力には注意すべきだ」として結局山背上宮王家を排除したとされている。田村は舒明天皇となり、それゆえに押坂彦人大兄は「皇祖大兄」とのちのちまで尊称を与えられた。現在の天皇家につながる「息長系王家」のこれが始まりである。蘇我氏の血統は、大化の改新以前から、こうしてからめてから崩されていたと『日本書紀』は書くのだ。蘇我氏も天武も、その血脈は消されていったのである。

しかし、この話はどうもあとの時代の『日本書紀』編集者の政治的意図が隠されているようで、入鹿は山背を追討はしておらず、むしろ厩戸も山背も皇太子と考えていた可能性も在る。つまり蘇我氏を排除したい反対勢力・・・物部氏・中臣氏らの暗躍を、物部氏の下部組織だった中臣氏つまりのちの藤原氏が、蝦夷・入鹿に冤罪をかけるための書き方ではなかったかと見えないこともないのである。


飯豊青皇女については、前にも書いたが、この時代が雄略大王までの河内王朝から飛鳥王朝への切り替わり時期であり、王朝の交代があったことを隠すための劇場型記録になっており、確かに飯豊やオケ・ヲケ大王が存在したかどうかわからない。だから記紀ともに彼女を即位した天皇だとは明記していない。もし実在していたなら、彼女が日本最初の女帝、譲位した天皇、卑弥呼以来のシャーマン女帝だったことになる。
彼女は巫女であるから、伝統的に夫は持たないはずで、ところが記録は「私は男の味も知った。もはやすべて経験した」と、奇妙な告白をさせている。それで彼女を男狂いの好色家として記紀は貶める「ふくろうの皇女」という名に作ったのではという意見すらある。いいとよ=ふくろうは今は金運の神だが、往古は夜泣く鳥で=夜這いするはしためを指していた。青も当時では不吉な色で、死者の色になる。この世のものでない女ということなので、つまり存在すらしていなかったのでは?と言う向きもある。


水谷千秋は日本の大王・天皇の譲位、殺されて交代、追放されて交代、そして最後まで天皇をまっとうした人の割合を出している。

応神大王〜孝明天皇までの交代劇のうちわけとその割合
全112人
終身天皇だった人・・・44 (40.1%)
殺害された天皇・・・・3 (2.7%)
失脚・追放・・・・・・11 (9.8%)
自発的譲位・・・・・・54 (47.3%)


また中国の始皇帝から溥儀までは
全190人ほど
終身・・・・・・・・・101 (53%)
殺害・・・・・・・・・39  (21%)
失脚・・・・・・・・・38  (20%)
自発的譲位・・・・・・12  (6%)
となっている。
以上『女帝と譲位の古代史』


このように日本の大王・天皇の譲位は世界的見ると異常に多かったことが見えてくる。英国やオランダやタイの王室ではどうなのか。誰か調べてみては?

日本では、終身即位していた王よりも、なんらかの理由で交代させられたり、殺されたり、自発的に譲位した人のほうが圧倒的に多いのだ。明治以来規定された典範は譲位を禁じている理由はおそらく、あまりに過去そういう交代が多かったせいだろう。もちろん記録は記録である。それに中国では王権の交代は易姓革命・・・王族そのもの交代が頻繁に起きている。しかし世界の王室もまたそれが当然だったはず。こういう数値からも、記紀記録が政治的に出来事をつづってあるものだとわかるはずである。少なくとも水野祐は、王朝は三回は交代したはずだと考えている(三王朝交替説)。

崇神以後の三輪王朝、応神からの河内王朝、そして欽明からの飛鳥・奈良王朝である。思うに、崇神〜仲哀までは大和の中における地域王権と、景行などの九州王朝の合体で創っており、それらのエピソードは各豪族の口伝・伝承から考え出されたファンタジーであろうかと見えるし、応神〜武烈までは、河内に大古墳を持った渡来王朝だったのではないかと見える。そしてそれぞれが外戚や残存王妃と外来王家との婚姻をを通じて血脈を無理につないだと見るのである。さらにそれぞれのつなぎめに、神功皇后とかつなぎの皇女による即位なきつなぎの王を挿入。武烈のところでは、なんとはるかに遠い日本海からの招聘豪族と雄略の最後の子孫(手白髪皇女)との結婚でつないで見せてある。

ところがこの継体大王が死ぬと、いきなり息子の安閑・宣化の兄弟大王は殺されてしまうのである。継体大王の今城塚古墳には赤い阿蘇ピンク石の石棺があった。それは推古と息子の竹田皇子の墓にも置かれていた。安閑・宣化も竹田も、ともになぜ死んだのかわからない部分があり、これは当時の政権争いの中で、暗殺されて闇に葬られたとしか見えないのだ。記紀は一切、彼らの死を語らず、一書に曰くとして欄外扱い。竹田などは、まったく突然に記録が書かなくなる。そういう意味では、厩戸・山背の消息不明と実によく似た状況で葬られているといえる。


さて神武からの9代はすべて始祖伝承でできていて、神武の冒険譚などはアレキサンダー大王の遠征譚をそのまま映したような内容になっていて、とても実在したとは認められず、全学者がこれを不在としてある。



皇太子・皇太弟
皇太子のことを日本史では「日嗣皇子 ひつぎのみこ」と言う。「ひつぎ」とは継嗣のことで、太陽崇拝の日本なので「日=皇孫」のあとつぎという意味。ただし『隋書』俀国伝には、推古・蘇我氏時代の王のことは

「開皇二十年 俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言 俀王以天為兄以日為弟 天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰此大無義理 於是訓令改之

王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子為利歌彌多弗利 無城郭 内官有十二等 一曰大 次小 次大仁 次小仁 次大義 次小義 次大禮 次小禮 次大智 次小智 次大信 次小信 員無定數 有軍尼一百二十人猶中国牧宰 八十戸置一伊尼翼如今里長也 十伊尼翼屬一軍尼」

とあって、王は「あめのたりしひこ」で通称は「おほきみ」、皇太子は「わかみたふり」だとしてある。

「おほきみ」とはつまり「大王」であり、のちの大君である。いずれも「おおきみ」。天皇称号からのちは天皇で「すめらみこと」や「みかど」であるので、あきらかに推古時代までは今の天皇家の呼び方ではないことがわかる。「おおきみ」は天武時代でも宮廷歌人・柿本人麻呂らの歌に「おおきみは神にしあれば」があるので、通称はされていたようだ。

「あめ」は天。問題は最後の「たりしひこ」である。「ひこ」は男子でよいとして、「たりし」はタラシで帯になる。あめのたらしひこ。息長たらし姫などがあるので、タラシは息長系広姫が外戚だった蘇我王権では「天から降りてきた」という意味になる。つまり天孫である。この時代に、天孫という概念があったかどうかは定かではないが。

最大の難関が「わかみたふり」だろう。文字は「利歌」になってはいるが、中国おとくいの略字と見て「和歌」、意味は「若い」だろう。皇太子なら若いに決まっている。ではあとの「みたふり」とは?「み」はおそらく「御」で丁寧な語頭語であろう。「たふり」・・・思うに、往古、シャーマンは「はふり」である。「はふり」かも知れない。すると「ほうり=祝」ということになって巫(かんなぎ)を意味する。

わけがわからぬのは妃が「けみ」とはこれいかにで、しかも後宮の数が半端ではない。こういうのはまずは大げさが大好きな中国人の潤色だろう。しかし妻が「けみ」とは想像もつかぬ言葉。「きみ」だと王のことになってしまうので違うだろう。さて?


もっともはじめて日本語を聞いた中国の使者には、その音を正確に聞き取るのは難しいのは当たり前だ。卑弥呼のときもだからかなり怪しいはずだが、魏志は割りとちゃんと聞き取ったらしい。通訳が飛鳥時代にはいなかったのかも知れない。

いずれにせよ、その前の『宋書』では倭の五王の尊称がわからないし、大王の名前も中国式に一文字にしてしまってあって比較の仕様がない。

隋書に出てくるこの国王はいったいだれなのかがいつも取りざたされる。中国では女帝は存在しないこととなっているから推古女帝は使者の前では隠しておいたとしても、「おおきみ」が「たりしひこ」ではだれのことやらまったくわからぬ。九州の人たちはこれは九州王朝での尊称だとするが、真偽は不明である。記紀に沿って考えるとするならば、まずそのときの男子の大王は蘇我馬子か聖徳太子しかいなくなるが、太子は皇太子だから「わかみたふり」になるから聖徳太子は大王ではない。すると馬子しかいないことになる。向こうは知らないのだから誰が大王役を演じてもかまわぬし、蘇我馬子の力は、そこらの天皇より天皇らしかっただろう。

さて、現代の譲位でも、今上天皇のあとつぎの皇太子がどうなるかが話題だ。皇位継承順位では、まず天皇になるのは今の皇太子・徳仁(なるひと)親王=ひろのみや、であるが、そのまた皇太子となると一位は弟の秋篠宮文仁(ふみひと)親王(あやのみや)となる。その場合は兄弟なので皇太子ではなく皇太弟(こうたいてい)となる。前例は天智天皇の弟だった天武(大海人皇子)が皇太弟であった。ほかにもあろうが古代史ならまずはこの人である。

さて第二位は秋篠宮の長男の悠仁(ひさひと)親王となる。しかしまだおちいさいので、ひとまず秋篠宮で落ち着くだろう。もし不慮の事故などで今度即位する天皇が亡くなると、秋篠宮は即位するか、あるいはそのとき息子がもう成人していたなら摂政になる手も在る。
それはそのときまた法を改正すればいいことだ。


天智と天武が兄弟ではないという説があるのはご存知だろう。継体大王もそうだが、年齢がいろいろと記録される大王は、どうも少し疑わしいものがある。ならば天武はどこのヒト?と聞かれてもなかなか難しい。幼名が、兄の天智は、一族の本拠であった葛城を名乗っているのに、天武はなぜか海人を名乗っていて、身分として下にあった乳母に育てられた人だとは想像できる。それはおそらく海部が置かれていた尾張地方の豪族・尾張氏であろう。その意味で、継体も最初の妻は尾張氏の娘であった。そしてこの目子姫という妃は、亡くなってしまい、あとにのちぞえとして雄略の血を引く前の王朝の生き残りの娘である手白髪が嫁ぐ。つまり継体は入り婿なのであった。ますおさんである。ということは、その後すぐ一家が死ぬのだから、継体一族は王朝と王朝禹をつなぐただの一時的パイプ役とされているわけである。

では天武はどうか?
天武の死後、やはりほとんどの子供たちが、次から次に死んでゆく。かろうじて文武が聖武へと血をつないだが、最終的にあとつぎ不在に陥って、なんと兄天智のごらくいんの即位となり桓武につながる。クーデターまで起こして奪い取った政権を、もとのもくあみにされたのが天武である。しかも、文武までのつなぎの天皇はみな天智の娘である。持統・元明・元正そして皇極(二度重祚して斉明)。

この飛鳥最後の藤原宮時代の100年間に、実は女帝が四人も存在する。女帝は全部で8人(10代)なので、半分が天武死後に登場するのである。それ以前の飯豊と推古は、記録的に古い時代で、確実かどうか疑念もあり、あとの時代の女帝ははるかに江戸時代まで下がってしまう(明正・後桜町の二人)。残った一人は奈良時代のあの宇佐神宮神託事件を起こす孝謙女帝(二度重祚して称徳)である。

元正女帝を除けば、彼女たちは「女系天皇」とは言えない。女系とは母だけが皇孫の人で、父が外戚だった人なので、父が皇室の人ならばすべて男系天皇である。

元正は女性天皇だった母・元明の娘だが、母方だけが皇室なので史上唯一の女系天皇である。父親は即位せずに夭折した草壁皇子(天武の長男だが天皇ではなかった)。これ以前にも以後にも、ほかの王朝があったとしても記録には女系天皇はいない。


中国に皇帝になった女性はただひとり。武則天(則天武后)だけである。この人、持統女帝とほぼ同時代の人。同じ時代に朝鮮でも女帝が登場しているので、8世紀は東アジアは女帝時代だったこととなる。実権を持った女性なら二人。始皇帝の妻だった呂后と清時代の西太后である。中国は儒教が強く女性は蔑視された(男尊女卑)ので、女帝は登場しぬくかった。朝鮮も同じ。しかし日本だけは8人もの女帝が存在できた。これは儒教もあったけれど、それよりも時の権力者の傀儡として都合がよかったことが大きいだろう。後の平安の世ではこれが若年天皇に切り替わった。安徳天皇などはその代表。


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なぜ天武の時代に、このように集中的に女帝が出たのだろう?そこには天武の血脈封じがあったとしか思えない。つまり『日本書紀』史観が王権を完全に乗っ取っているのだ。結局、『日本書紀』は天智・鎌足いのちの史書、なのである。

ということは、『日本書紀』の最後の天武と持統王権すら、『日本書紀』イデオロギーの潤色をうけている可能性があるということになるだろう。だから、天智までの飛鳥と、天武からの藤原宮に、血脈的な分断があった?という見方は出てくるのが必然なのだ。

天智=中大兄は本当に蘇我氏を殺したのか?も出てくる。蘇我氏を大王家乗っ取りの張本人にしたかったのは誰か?それは次の執政者となる藤原氏である。その藤原氏は高祖としての天智を正当化したい。しかし正統なのはどう見ても血で勝ち取った天武王権。『古事記』も天武を持ち上げる書き方をしてある。これを天智中心に書き換えるのが『日本書紀』である。その首謀者は藤原不比等である。彼は身分の低い時代に持統天皇の補佐をしはじめていた。天武が死んだ瞬間にすりよったのである。

天武直系である草壁は夭折し、孫の文武も若くして病死、その子聖武は、不比等が養女にした海人の娘・宮子が母親である。そこですでに完全に天武と持統の血統が崩されているのである。うそでも聖武は藤原の子である。父の文武は草壁と阿倍皇女の子。阿倍皇女は天智の娘で、持統の妹で、のちの元明女帝である。文武の半分は天智の血。その息子の聖武は、父が文武で母は藤原氏。ここでもう天武の血はかなり薄まっている。

この「豊」がつく諡号の天皇たちは、つまり豊=海人族の名前を持つ。豊とは尾張や豊前・豊後と言ったかつて海部が置かれていた土地の地名である。(ちなみに豊臣秀吉もトヨを名にしいている)継体もそうだったが、なぜかこういうケースでなにかと尾張あるいは海部がからんでくる。さらに海人関係では天武の妻のひとりに筑紫の宗方君徳善の娘、尼子娘がいた。この息子が高市皇子である。彼も最年長の子で、継嗣の有力候補だったが、持統は息子・草壁の即位にこだわり、この有能で健康だった皇子を殺している。さて神功皇后は尾張で鮎をとって占っている。それで今そこは愛知県となっている。あゆち→あいち。


厩戸皇子=聖徳太子-トヨトミミノミコト
用明天皇 - タチバナノトヨヒ
推古天皇 - トヨミケカシキヤヒメ
皇極(斉明)天皇 - アメトヨタカライカシヒタラシヒメ
孝徳天皇 - アメヨロズトヨヒ
文武天皇 - アメノマムネトヨオオジ
元明天皇 - ヤマトネコアメツミシロトヨクニナリヒメ
聖武天皇 - アメシルシクニオシハラキトヨサクラヒコ
仁明天皇・・・日本根子天璽豊聡慧尊(異称)深草帝

※ほかに天皇ではないが崇神天皇の子に
豊城入彦命(とよきいりびこのみこと) - 上毛野君・下毛野君等祖
豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと) - 初代斎宮
がある。母は遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)・・・・・紀伊国荒河戸畔の娘である。ここにもまた鮎=年魚がある。紀伊国もまた海人族紀氏の拠点だった。「め」はシャーマンの名前ゆえにこの女性も神功皇后のようなシャーマンだったのだろう。尾張目子姫もそうだし、神功皇后の九州香春神社での呼び名の息長帯姫大目命もそうだろう。目は魔よけでもある。




後年は諡号がなくなったのでこれだけだが、かなり多い。
なにより、用命〜仁明までの期間だけに豊は集中しており、豊がこの期間に、尾張や九州の豊前豊後(大分県・福岡県東部)だけでなく大和にも適用されている地名であると気がつくだろう。まさに7〜8世紀は「豊王朝」だったと言ってもよいだろう。

とにかく天武天皇周辺には海人、豊、鮎、目に関連した人物があふれているのである。


王家交替劇にまつわる「とよ」。それは果たしてあの「臺與 トヨ、イヨとも」のことか?尾張氏、海部に臺與の血は関わるのか?面白いのは豊国(大分)と伊予国(愛媛)が隣同士だということだ。そして宇佐八幡と吉備津彦神社は兄弟神だとされることである。

ま、小説にでもしてみてちょうよ。いろいろあるでよ。






ちなみにある古代史研究家は「武は男系、豊は女系で祭祀者の色合いが強かった」などと書いている。http://prozorec.hatenablog.com/entry/2016/10/06/094906
関裕二らしい。

「著者は「元興寺伽藍縁起並流記資材帳」の「大大王」と「大王」を「推古天皇」と「聖徳太子」に比定し、本来叔母・甥の関係にある両者を親子だったと論じている。そこから推古天皇穴穂部間人皇女を同一人物と仮定するとつじつまが合うと説く。更に、先代旧事本紀に登場する物部鎌姫大刀自連公も同一人物だとする。その結果、推古天皇の子供である聖徳太子蘇我入鹿と同一人物だと主張するのだ。
 更にである、舒明天皇には三人の皇子(古人大兄皇子、中大兄皇子大海人皇子)がいるが、古人大兄皇子と大海皇子は同一人物だと結論付けている。」とあった。



トヨは豊かで、豊かな土地の意味がある。天皇にこれがつけば美称となり、豊かな人となるだろう。女系は前に書いたように元明ひとりであり、その子孫の元正や文武は豊=女系というのは当たらないだろう。豊=女系というのは当たらないだろう。そもそも元明を除く天皇のすべてが男系なのだから、そういう仕分けに意味があるわけがない。この人は女系と言う意味がわかっていないようだ。それよりもやはり豊は、海部地名であり、海部一族に養育された天武との系列で考えるべきだ。




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