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●吉士(きし)とは何か?
「古代朝鮮において「王」・「首長」を意味する称号「於羅瑕」(「鞬吉支」)が渡来人の称号として日本で用いられ、やがてそれが姓となり、また氏ともなったらしい。本居宣長の『古事記伝』によると、新羅の17等の京位(中央役人の官位)中の14位である、「吉士」に由来するとなっており、「稽知」、「吉之」、「吉次」とも表記されている(金石文によると、新羅の官位制は6世紀初頭には成立していた)。」 Wiki吉士



百済人と高句麗人は言語がほぼ同じで、人種的に扶余(ふよ、夫余、부여(Buyeo)、中国語:扶余(Fúyú)))語つまり高句麗系言語族に分類される。内訳は扶余(夫余)、高句麗、東濊、沃沮、百済、濊貊の言語が含まれると考えられ、日本列島の一部まで含むとする説さえもある。百済王は代々「(夫)余」を姓とし、自らが高句麗系扶余族出身であることを名乗りにしていた。その百済余氏の王の称号が「おりこけ、おりけけ、おりく、おりくく」などと音読される「於羅瑕」でこれは百済王の自称であるが、民衆は「鞬吉支 こにきし」=軍君と呼んでいた。その最後の二文字を使ったのが吉士である。つまり百済の王の一族を自称した渡来人が吉士であり、難波、調、日高などの住み着いた地名を頭に持っていた。

『周書』は、百済王の姓は夫余で、自ら「於羅瑕」と称していたこと、一方民衆はこれを「鞬吉支」と呼んでおり、どちらも王の意味だということを特記している。
「魏の延興二年(=472年)、その王余慶、その冠軍将軍駙馬都尉の弗斯侯、長史の余礼、龍驤将軍帯方太守の司馬張茂らを遣わし始め、上表して自ら通ず。云(いは)く、「臣と高麗、扶余に源(みなもと)を出し、先世の時、篤く旧款(きゅうかん、=古くから通じてきたよしみ)を崇(たっと)ぶ。その祖、  =故国原王)、隣好(りんこう、=隣国の友好)を軽廃(けいはい、=軽んじて止めてしまう)し、親(みずか)ら士衆を率ゐ、臣境(しんきょう、=我が国の領内)を陵践(りょうせん、=侵し踏みにじる)す。臣の祖、須(=近肖古王の子・近仇首王)、旅を整へ、電邁(でんまい、=勇み行く)し、機に応じて馳せ撃ち、矢石を暫(しば)し交(まじ)へ、,亮鵑鰮罅覆気蕁砲兄造襦爾自以來(それよりこのかた)、敢えて南を顧みること莫(な)し。」— 『北史』列傳第八十二(百濟傳)

渡来系氏族が多く、日本では難波周辺を本拠としていた。

この姓を持つ氏族としては
1.大彦命を祖とする。のちの難波吉士で、この一族に難波日鷹吉士(なにわのひたかのきし)・大草香吉士(おおくさかのきし)がある。
2.百済人努理使主(ぬり の おみ)を祖とする。のちの調吉士(つきのきし)
3.新羅王子天日槍(あめ の ひぼこ)を祖とする。のちの三宅吉士(みやけのきし)
の3つの流れがある。

1の難波日鷹吉士は当初は紀州和歌山県南部の日高郡を名乗るから日高郡に住まっていた日鷹吉士を、難波へまとめて難波日鷹吉士と呼ばれたのではないかと考えられるが定かではない。のちに一括して難波吉士と呼ばれる集団になり、大阪の岸部に住んだと考えられる。

2の調吉士も調も地名であろう。
調(つき)とは一般に租庸調の調をまかなうものであり、それを名にしているわけだから、調の地名は全国どこにあってもおかしくない。さらに何を献上するかを前につけた人々(井調など)もいて、必ずしもすべてが渡来系吉士だとは言えないケースもある。ただし、記録では継体紀に毛野臣の使者として登場しており、近江の毛野臣の家臣であったとしたなら滋賀県にいたとも考えられる。しかし今でも調のつく地名は多く、滋賀県にはないので、決めがたい。
調地名一覧http://kakijun.com/kanji/chimei/8abf.html
https://blogs.yahoo.co.jp/kmr_tds/47024842.html?__ysp=6Kq%2FIOWcsOWQjQ%3D%3D

しかも調は「つき」と読むので、のちに月を名乗ったり、地名に変えたケースがあるからなおさらややこしい。さらに同音の「槻」まで入れると特定は無理である。調 淡海(つき の おうみ)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族だが、百済系としてあるから、おそらく吉士出身とすれば、飛鳥時代から大和にいたのだろうが、名前が淡海(滋賀県)であり、大宝元年(701年)9月18日に文武天皇は紀伊国に行幸し、10月8日に武漏温泉に着いた。調淡海がこれに従ったことが『万葉集』に採録された和歌から知られる。とあるので、和歌山の土地事情に通じていたのであろう。とするなら和歌山にも可能性があり、継体紀の、先の日鷹吉士堅磐(かたしわ)と同一人物ではないかとする説がある。

3の三宅吉士だけは新羅の王子を祖としていて新羅系らしいが、日本での新羅の使用例についてはいちいち解説がめんどうなので、ここでは扱わない。百済系などもいたかも知れないが、とにかく屯倉ができはめてからそれに関わってか三宅と名乗っていたらしい。いまは不明。いずれ分析したい。



1と2を同じ百済系吉士としてまとめて考えよう。
つまり同族だとしておく。

日鷹が単なる地名ではないと見えるのは、普通なら「ひだか、ひたか」地名は太陽が東から昇る地形地名であるので「日高」でよいわけで、わざわざ動物の鷹を使った意味が知りたいわけである。(蝦夷地名の日高見国との関連は日鷹吉士が渡来人であるならないと言える)

日向国にも日高氏がたくさんあるらしい。
「宮崎県、鹿児島県、福岡県。和歌山県日高郡発祥。奈良時代に「氷高」の表記で記録のある地名。宮崎県日南市では1051年(永承6年)から1062年(康平5年)の前九年の役の際に日中に鷹が兜に留まったことが転機となって戦功があったことから「日鷹」と称しており、1063年(康平6年)に地名から改姓したと伝える。佐賀県唐津市浦の日高城は推定では戦国時代の日高氏による築城。鹿児島県鹿児島市城山町が藩庁の鹿児島藩士に江戸時代にあった。鹿児島県肝属郡南大隅町佐多馬籠に江戸時代に門割制度の日高門があった。門名は推定では人名から。」
https://name-power.net/fn/%E6%97%A5%E9%AB%98.html

もっともこれは人名である。人はどこへでも動くので証拠にはならない。中世の鷹伝承には、当然その氏族間にはもっと古くからの言い伝えがあってできる話だろう。それは神武東征での鷹の登場からわかることである。
 
また北海道の地名は新しい移住者が出身地地名をつけたケースが多く参考にはできない。

埼玉県の高麗郡に日高があるが、これは今来の渡来人が集団移住した場所だからで、高井などと同じく高句麗由来かも知れない。北関東にはむしろ調地名と人名が多い。
兵庫県の日本海側、豊岡や城之崎に日高町がある。ここは三宅吉士氏が祖とするアメノヒボコの本拠地で、百済系吉士はあとから入れられたのだろう。
想像でしかないが。

●日高地名のある土地
群馬県日高町
大分県日田市日高
高知県高岡市日高村
宮城県 登米郡 日高村
茨城県 多賀郡 日立市日高村
新潟県刈羽郡日高村
愛媛県越智郡日高村


しかし郡名まで日高だったのは和歌山と日田市だけである。
日田はつまり古くは「ひたか」郡の日高だったことがわかる。
広島県安芸郡に日高の荘という荘園があったらしい。
これでは地名の決定打が見つかりにくい。
すくなくとも、和歌山県日高郡日高、大分県日高郡日田日高が優良な震源地であろうが、日鷹地名表記ではない。なぜ最初は日鷹なのか?


これでは仕方がないから、宮崎県に日高姓が多い理由を考えてみたい。
高鍋郡を昔は鷹の目と言ったことを谷川健一が書いている。

たかのめ→たかなめ→たかなべ

これは鷹狩りをする鷹匠が多かったからだと谷川は書いてあるが、神武東征で重要な場所になっており、五瀬命はこのあたりの出身らしい。持田古墳群があって、考えるに、この一族は記紀成立前後に日向へ入り、西都原古墳群を作った一族ではなかろうかと思う。つまり8世紀に記紀神武東征を裏付けるために、既存の大古墳群に天皇陵らしき前方後円墳を、無理な位置、窮屈な空き地に「割り込ませた」のではないか?それは男狭穂塚、女狭穂塚の二基の近畿的な大古墳である。どうみても二其は重なるような無理な位置関係にあり、重なっていることから夫婦の墓であるという伝説を生みもしているし、狭穂塚とは、どうもそこが狭苦しい空き地だったことを思わせるのである。

イメージ 1

彼らが古来の「才伎 てひと」であった難波日鷹吉士ではなかったかと思えるのは、彼らの近畿での先住地が紀氏の神武伝承に関わりのある熊野の奥地の日高だったからである。(つまり神武に逆らったのが三輪地域のナガスネ彦だったことはお忘れなく。纒向はニギハヤヒによって開かれた蝦夷の多かった地域だったのだと物部氏の史書は言うのである)紀臣は『日本書紀』成立時に編纂に関わり、藤原不比等とも盟友関係にあった。ならば自分たちの出自を神武伝承に託したのは当然で、九州に出発地を求めたのも無理からぬことだ。紀氏そのものが伽耶滅亡を経て佐賀県の基肄(きい)郡に入り、そこから南九州を経て豊後から瀬戸内海で愛媛、広島、岡山、讃岐、阿波、淡路島から紀ノ川河口部淡輪へ入った、そのままのコースを神武もたどるのであるから。そのときに日向の高鍋も、当然通過する。神武がここから船出したとなっているのだから。

このルート上にまさに日高、日鷹姓と地名は存在しているのである。

さて、日本の古代に渡来した氏族には、「ふるきのてひと」と「いまきのてひと」の二通りが記録されるが、ふるきとは伽耶滅亡時渡来した人々で「てひと」とは技術者であろう。いまきとは百済滅亡時のそれであろう。その中の王がいた。百済の場合はそれが百済王一族であることははっきり書かれている。余氏の子孫たちである。しかしふるきの王族、つまり伽耶由来の王族はよくわからない。継体前後の倭五王〜飛鳥時代に、百済は高句麗に攻め込まれるようになって、三々五々、王族の倭国筑紫島への逃避行は百済の史書にも記録はある。有名なのは昆支の弟余紀と東城王(末多王)の逃避行と、武寧の倭国筑紫の小島での誕生話である。

東城王は5世紀までには筑後川沿線に入っており、そのまま神崎郡に三田川地名が残るし、筑後川を下ると有明海瀬高には百済から七支刀(しちしとう)が贈られてきた痕跡(高野の宮)や武内宿禰を祭る高良大社や、天智白村江ゆかりの神護石(朝鮮式山城石垣)がある。また『日本書紀』には、雄略天皇の時代に呉から天皇に献じられた鵞鳥を三瀦郡の水沼、水間氏 水間君の犬が喰ってしまい、鴻10羽と養鳥人(とりかい)を献じて罪を贖い許されたとの記録があり、吉野ヶ里のある三田川地域はかつて米多(めた)と呼ばれていて三田川は「めた」地名がなまったものだ。そこの首長は米多君である。「めたのきみ」は東城王の別名「末多王」(めたおう)に近い。本来は双方共に「まった」ではなかったか。

水間君の犬とは、性格が荒々しかった、水間と隣接する米多の末多王のことを言っている可能性がある。筑後川河口部の瀬高町の高野の宮にある七支刀は刃が六つしかなく、一本は折れている。

百済を助けたお礼に王から倭国王へ贈られてきたこの刀を、受け取るとしたら米多君の支族であった物部阿遅古連の子孫である水間君ではなかったか?それに東城王の犬が噛み付いた(奪い取ろうとして刃が折れた?)?なぜ。本来それは物部氏ではなく末多王が受けるべきものだからだ。

イメージ 2
瀬高町太神の高野の宮、七支刀人形
玉名市のすぐそばである


筑紫の水沼君 つくしのみぬまのきみ
「旧事本記」に「水間君の祖、物部阿遅古連あじこのむらじ」とある。
日本書紀には 『即ち日神の生(あ)れませる三(みはしら)の女神(ひめかみ)を以ては、葦原中國の宇佐嶋に隆(あまくだ)り居(ま)さしむ。今、海の北の道の中に在(ま)す。號(なづ)けて道主貴(ちぬしのむち)と曰(まう)す。此筑紫の水沼君等の祭(いつきまつ)る神、是なり』 とある。

「末多氏居住地の筑後川を隔てた対岸が、あの水沼君(みぬまのきみ)の本拠地である。筑紫国造家は最初の居住地であった糸島半島から、やがて筑後のこのあたりまで南下してくる。そこには高良山や女山がある。継体の追っ手に追われて?次第に筑紫の玄関から有明海方面へと移動したのである。継体の先祖である意富富杼王(おほほどおう)同族には『古事記』に筑紫米多(めた)君、息長坂君(息長君・坂田君か)・酒人君・三国君などが記録がある。筑紫米多君は筑後の吉野ヶ里あたりに住まった渡来系で、末多(まったの)君と書訓するのが正しい。百済武寧の父親で末多(まった)王がある」https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/56811544.html?__ysp=5ZCJ6YeO44O26YeMIOS4ieeUsOW3nSDmsLTmsrwg5pyr5aSa546LIOawkeaXj%2BWtpuS8neaJv%2BOBsuOCjeOBhOOBguOBkui%2BnuWFuA%3D%3D

これは筆者の過去記事からの抜粋である。
筑後の筑後川沿線から熊本北部玉名あたりまではまた、往古は肥(火)の国であり、火中君(ひのなかのきみ)が治めていた地域でもある。玉名市に中という地名もある。

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さて、評価の低かった先の隅田八幡人物画像鏡解読記事にある鏡の銘文を再読していただきたい。

癸未年八月日十大王男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟

きびのとし(西暦503年?)の八月に、「부(ふよ)」大王の年に、男弟王(東城王)がオシサカ宮(奈良の桜井市のおっさかかどうか知らない。どうやってそう決めるのか?)におられたとき、私、甥の斯麻が長寿を念じて、※開田の中の肥=火の「あたい」の部民であるイマスリ(=今来の青銅技術者の通称か?)二人らを(肥後から)遣わして、上質な白銅鏡を作らせた。


いかがだろうか?
日十を一文字だと考えて、石渡たちは「早=そが」と読むが、筆者は自説で「부ふよ」だと推定した。


熊本県に「開き」地名はない。しかし鹿児島県最南端に開聞岳があって、ここに枚聞神社がある。「ひらきき」は「広く聞く」とも「広く開く」とも考えられるが、ここは隼人の乱で最後まではむかった女酋長「はず」がいたところである。また熊本県玉名市岱明町に開田(ひらきだ)がある。江戸時代に水田を切り開いた地名か?また玉名市には中地名がある。そもそも肥中君は火の直「あたい」であった。疋田神社がある。ひきたは引いた。おそらく菊池川で阿蘇石を引いた、その河口部が玉名だからではないか?

開中費直とは「火の国のひらきだの中にいる肥の直」ではなかろうか?これなら扶余大王=東城王が最初にいた筑後川吉野ヶ里に非常に近い。それがどうして和歌山県紀ノ川の隅田八幡に?まあ、お待ちあれ。おいおい見えてくる。なお今城塚古墳には阿蘇のピンク石が見つかっている。熊本県宇土の石だが、宇土には火葦北国造アリシトがいた。彼は吉備王の子孫だと考えられる。また一説では新羅のツヌガアリシトではないかとも言う。




東城王の百済王在位は479〜501年である。つまりキビの年が503年なら、すでに東城王は他界していることになり、斯摩は武寧王になっているはずである。武寧の父・昆支が死ぬのが477年で、翌年武寧王は即している。しかしこれは百済での話である。もし東城王が死んだのではなく、生きていて、百済史から消えただけで実は、三田川から大和の桜井市に移住して부大王と呼ばれていたとしたら?つまり銘文の日十大王は一文字で「부 ふよ」大王だとしたら?石渡たちの言う「そが 蘇我」大王ではなかった?いや、東城王=蘇我満智ないしは稲目だったとしたら?

『日本書紀』は雄略のあとに武烈をはさんで継体を、息長氏のために「近江ないしは福井三国から」登場させている。その息長氏の系統樹の筆頭に置かれていたのは筑紫末多君であった。それが百済東城王だったら?そもそも継体が近江や三国出身ではない可能性は非常に高い。紀州のほうが確実性があるだろう。しかも紀氏の伝説の王だ。

もう少し遡ろう。
『日本書紀』河内王朝の大王は10人もいる。しかし中国記録の倭王は五人。それ以外の記録には倭王旨や倭王弥という名前も見える(水野祐ら)。しかしそれでも7人。『日本書紀』はこれらを日本の天皇に置き換えるのに、人数を水増ししている。さらに武烈を入れて、継体まで登場するので、神功皇后の持っている息長の血脈王は12人もいたことにしてあるわけだ。

そしてその息長の血統は継体が引き継ぎ、さらにその血脈を引いたのが天智・天武・持統・桓武以下の現在の天皇家なのである。しかし倭王が五人だったなら、『日本書紀』のそれらの天皇のうちの7人は水増し天皇だっことになるまいか?それは誰だろうか?

武は雄略、これは鉄剣銘文からまずはよしとしておこう。では応神〜武烈までの天皇は武以外の倭王四人でいいのか、いいのなら誰が誰で、誰が水増し天皇かである。武烈は雄略の分割された空想王でいなかった。応神は祖人「祖禰」としての存在感しかない。しかもその東征譚は神武そのままであきらかな紀氏伝承の始祖王であるに過ぎない。次の仁徳からが讃だとすると、珍は、済は、興は誰だろうか?四人の天皇がいるが一人は水増しである。そして別系統で市歯辺の子孫にオケとヲケという同じ名前の二人の天皇が挿入されてこれも嘘だろう。清寧もいない。雄略のあとはすぐ継体であろう。継体は雄略の弟だろうが、これが蘇我稲目である。満智=東城王=雄略と武烈である。継体の子供二人は蘇我馬子と弟だろう。欽明以下の飛鳥の天皇はいない。馬子のあとはもう蝦夷と入鹿で蘇我氏五代の大王時代だったのだ。その実態は東城王の子孫たちである。

これは百済系大王家。
しかしその前に伽耶系大王家が日本には渡来していたはずである。それが崇神以下仲哀までであり、つまり『日本書紀』は伽耶王家=4世紀葛城大王家を消してある。さらに3世紀吉備王家=邪馬台国も消してあるのだ。卑弥呼は神功皇后にするためである。なぜ?初代の近畿の大王が女帝であることに正統性のために神功皇后を卑弥呼として置くがためである。だから時間を水増しする必要があった。卑弥呼は3世紀の人だからだ。そのためには子供の応神河内王家の始まりは3世紀の後半でなければならない。すると飛鳥時代最後の藤原京時代の8世紀前半までは、なんと400年以上期間ができてしまう。そこに水増し天皇を当てはめる必要がある。それが干支一巡とか二巡とか、さまざま喧々諤々されてきた『日本書紀』天皇創作の実は正体ではないか?

伽耶王家は4世紀に日本に逃避してくるはずである。それを三輪王家だとする。しかし6世紀には東城王が登場するから、200年の開きは神功の前に景行やヤマトタケルや仲哀という三輪つまり纒向王家とは関係なさそうな筑紫の王家の話を入れて穴埋め。直後の5世紀から神功と応神が新羅をにくしとする王として登場。そりゃそうである、彼らは百済王家だからだ。三輪王家=吉備王族は伽耶系であり、葛城王家も伽耶系であり、それを滅ぼす雄略倭王は、もう百済系である。だから『日本書紀』は百済ばかりを守ろうとしてある。それが東城王の余王家の故郷だからにほかならない。その王統こそが東城王=末多君=息長氏の正体である。息長の子孫だけを天皇にしたいのである。しかるに東城王の子孫は蘇我氏だった。蘇我氏だけは大王ではなかったことにしなくてはならない。そこで、唐突に敏達天皇に息長広姫が嫁ぐことになった。つまり息長血脈をリセット、再構築したのである。その子孫が天智・天武・持統そして文武や桓武だった。

武寧王の死に際して、継体大王は日本や江南でしか成育できない、半島にはない楠木の棺を贈った。武寧と継体が兄弟だったからだ。

天智は百済王・余豊璋を日本で守ってやり、百済王にして新羅に対抗させた。みずからも軍船で白村江で戦った。天智と豊璋が親戚であり兄弟だったからだ。


そうでなければ、なぜ近畿王家はあれほど執拗に滅亡してゆく百済を援助しようとしたか?また飛鳥の蘇我王家も百済余昌らの仏教と寺院と技術者を受け入れたか?兄弟だったからだ。


ということは、息長系列筆頭だった末多君のあとを受けた筑紫国造家は当然難波吉士の言う大彦の末裔であって、新羅と結託することなどありえなかったことになる。


さて、持統天皇である。



天智天皇の娘。
母親は蘇我越智娘(おちのいらつめ)
倉山田石川麻呂の娘である。しかし妻の名は不明である。

持統は彼女の第二番目の娘である。
鵜野讃良皇女 うののさららのひめみこ。

鵜野・讃良は枚方市から四条畷市にかけて馬牧を経営していた渡来人、河内馬飼氏の馬牧のあった地名である。河内馬飼氏は百済系で、持統の「乳母=ちちぶ」だった。

持統女帝はなぜか母方のそのまた母親がわからないのである。
そんな天皇がありえようか?
一説では茅渟王の娘つまり斉明女帝の娘ではないかという説もある。
しかしそれならなぜ記録に残さないのか?
石川麻呂が斉明の子である天智に殺されたことにしてあるからか?

藤原不比等はなぜ持統を担ぎ、なぜ『日本書紀』を予定変更してまで女帝であることを正当化したか。つまり神功皇后まで創り上げて息長氏=東城王子孫であることは隠しつつも、息長氏血統にこだわり、天智にこだわり、蘇我氏のまねをして百済を守ろうとした天智を祖人とあおいだのか?卑弥呼を利用し、アマテラスや宗像の三女神までを利用してまで、なぜ持統女帝を正当の、しかも初代の天皇という蘇我氏ではない新しい大王家にしていかねばならなかったのか?それはただ藤原王家のための傀儡天皇だっただけなのか?違う。



そこには持統の出自の最大の謎である蘇我氏の娘のそのまた母親・・・それが藤原不比等に関与した、誰かだったからではなかったか?




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いずれにせよ蘇我氏の持つ扶余大王の血脈は持統に受け継がれたのは間違いない。その結果文武も聖武もそれを受け継ぐことになっている。そしてそれは蘇我大王家の血でもある。そして百済滅亡の結果、百済を受け継ぐことになったのは日本の天皇と言う意味にもなった!

しかしそこには息長氏同族である東城王の末多君の血も当然まじっているわけである。ゆえに息長氏血脈は天皇家のバックボーンなのでもあるから、結局は天皇とは、百済王の子孫だとならざるを得なくなってしまうのである。そのことを不比等は息長氏だけをクローズアップすることにより、百済王家や曽我王家とは、持統は違うのだと言いたいのだろう。しかしながら息長氏そのものには実態がない。百済扶余大王=東城王との関係を切られているから実態がなくならざるを得ないのである。

持統には蘇我氏の血が入ったが、天智の息長血脈のほうが大事だったから、母親遠智娘の母親についても消した・・・不比等や紀臣にとっては都合が悪かったのだろう。

春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干したり 天の香具山・・・


天の香具山は物部氏の祖でもある。

夏、紀にけらし・・・白=百済=扶余の大王か。

わからない。










蘇我氏が百済王子孫ではなく、伽耶葛城王の子孫だったとしたら、日本の近畿の王家は、伽耶由来、百済由来、また伽耶由来になって蘇我氏を殺した藤原氏が、物部同族中臣系列としての王家を取り戻したと見るのもあるか?そうすると持統の祖母は中臣氏の娘だったのか知れない。不比等の妻・娼子が蘇我の娘だったという例もあることだし。仲良く王権を交替していれば、なにも入鹿を惨殺する必要もなかったのだろうに。もし持統の血に中臣か物部の血も混ざっているとすれば、天皇家は百済系と伽耶系とそして倭人の三位一体と解釈できて落ち着くのだが。













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憂歌団 イコマ(女町エレジー)         

続いて出てくる吉野さくらさんの熱唱もお聞きください。

それではみゅーじっく、ぷりーず〜〜〜〜





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隋書「わかみたふり」



『隋書』倭国伝
原文
 王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子為[利歌彌多弗利]。無城郭。内官有十二等:一曰大、次小、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數。有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。
 
 
大意
 王の妻は雞彌と号し、後宮には女が六〜七百人いる。太子を利歌彌多弗利と呼ぶ。城郭はない。内官には十二等級あり、初めを大といい、次に小、大仁、小仁、大義、小義、大禮、小禮、大智、小智、大信、小信(と続く)、官員には定員がない。 軍尼が一百二十人おり、中国の牧宰(国守)のごとし。八十戸に一伊尼翼を置き、今の里長のようである。十伊尼翼は一軍尼に属す。




和歌・彌多・弗利   

wakaーmitaーhuri

わかみたふり



若・末多・降る


若き
三田に降臨した

=百済東城王


「隋書」の舞台は吉野ヶ里。



以上。


























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隅田八幡伝世・人物画像鏡銘文(本文は縦書き)
癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟

(大意)癸未(きび、みずのとひつじ)の年八月 日十大王の年、男弟王が意柴沙加(おしさか=桜井市)の宮におられる時、斯麻が長寿を念じて(斯麻念長人名説あり)開中費直(ひらきの・ひのなかのあたい火中直すると阿蘇氏であるかも?)穢人(漢人)今州利(百済コウロ王はかすりのきみ)の二人らを遣わして白上同(上等の白銅)二百旱をもってこの鏡を作る。


イメージ 2




読み方には諸説山ほどあり。これは一例に過ぎない。
「日十」は「十日」とも説あり。
人名の読み方、どこで区切るかは、規制の説はすべてが推量に過ぎない。
「斯麻」を百済王武寧だとするには「斯摩」が正しいとも言えるし、王とも書いていない呼び捨てだし、まったく決定的証拠がない。 
つまり既成の諸説で、なにか説得力のあると思える説は一切ないと言える。
すべて否定したほうが、よく見えてくるだろう。




関係年表

372 百済王、倭王に七支刀をおくる(石上神宮七支刀)
 
391 倭国、海を渡り百済・新羅を攻める
 
400 この頃以降、中国・朝鮮から多くの渡来人、大規模な前方後円墳が造られる
404 倭国、高句麗と戦い敗れる
 
413 倭国王、東晋に使いを送る
  
421 倭王讃(仁徳天皇か)宋に使いを送る
 
438 倭王珍(反正天皇か)宋に使いを送る
 
443 倭王済(允恭天皇か)宋に使いを送り「安東将軍倭国王」の称号を授けられる
 
462 倭王興(安康天皇か)宋に使いを送る
 
471稲荷山古墳、出土銘文鉄剣(辛亥年)一説531年
477 百済王昆死す
478 倭王武(百済武寧王?)宋に国書を送り「安東大将軍倭王」の称号を授けられる
 
499  1 25武烈 小泊瀬稚○○尊(おはつせのわかさざきのみこと)泊瀬列(なみき)で即位 
 
 
502  4 倭王武、梁の武帝から征東将軍の称号授受 倭王武=武寧王?即位
503 斯盧国、国号を新羅と改める
503 隅田八幡鏡のキビ年号説での該当年B
   この頃記録に初めて蘇我稲目登場
507  1 26継体 継体元年。大伴金村、応神五世の孫男大迹(おおほど)王を即位させる

512 大伴金村、任那四県割譲で批判受ける
 
513 百済から五経博士来朝(儒教伝わる)
  

523 百済、武寧王没
524 百済、聖明王(聖王)即位
526  20 磐余の玉穂に遷る
527  21 継体21年11月、筑紫国造磐井の乱
528  22 継体22年11月、物部大連、築紫の御井郡で磐井を切り、乱を平定
534  武蔵国造の争い(屯倉増加)
531  25 継体天皇崩御、勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)即位 攝津藍野陵に葬る
532 記事なし
533  記事なし
534  1 27安閑 都を大倭国の勾金橋(やまとのくにのまがりのかなはし)に遷す
   百済国より朝貢使、来朝する 
535  2 安閑天皇崩御、武小広国押盾尊(たけおひろくにおしたてのみこと)即位 
536  1 28宣化 都を檜隅の廬入野(ひのくまのいおりの)に遷す 
537  2 新羅が、任那に侵入したので大伴狭手彦を遣わし任那を助ける 
539  1 29欽明 天国排開広庭命皇子(あめくにおしはらきひろにわのみこ)即位し、都を礎城郡(しこのこおり)の礎城嶋に置く 
541  2 百済に任那復興を命ずる
  
 
552  13 百済国から高麗、新羅との戦いへの援軍要請あり 
   蘇我稲目と物部尾輿が政治的(百済援軍問題か?)に敵対?崇仏論争ではないはず 
553  14 欽明14年百済国から、対高麗・対新羅抗争へ援軍要請 
554  15 欽明15年5月内臣(うちのおみ)、軍船を率いて百済に向かう
554 百済聖明王、新羅に殺される
556  17 欽明17年1月、兵士1000名を送り百済を救援する
557  18 欽明18年3月、百済の王子余昌、王位に就く(威徳王) 557年、百済の王子余昌、王位に就(威徳王)
 
562  23 欽明23年、任那日本府、新羅に滅ぼされる
  新羅討伐の詔下る 
  大将軍紀男麻呂宿禰(きの・おまろの・すくね)新羅討伐へ派遣 
  大伴連狭手彦(おおともの・むらじ・さでひこ)を高麗討伐へ派遣

 
570  31 蘇我大臣稲目死去 (欽明32年) 蘇我本宗家頭首は馬子へ
   高句麗の使節、国書を携え北陸に漂着 
571  32 新羅に使を派遣し任那が滅びた理由を問責する 
572  1 30敏達 敏達天皇即位 
  百済大井(奈良県広陵町百済)に宮を造る  
  王辰爾(おうじんに)欽明31年漂着高句麗使節の国書(烏羽の表)読み解く
583 丁未の乱、物部守屋死す。隅田八幡鏡のキビ年号説での該当年A
584  13 蘇我馬子、石川の宅に仏殿を造る







百済王系図

イメージ 1

武寧王は余隆、昆支王(百済王余慶(蓋鹵王)の子、軍君くだらのこにきし、弟は余紀)の子供(蓋鹵王、東城王の子説もあり)。東城王は武寧の叔父で、末多君とも。めたはみたで、吉野ヶ里地方を末田と言う。そこの王であろう。武寧を連れて日本に来訪。雄略・武烈に似て残虐な王。百済は滅亡したので記録が錯綜する。『百済本記』も日本での改ざんがあって確かではない。その錯綜はそのまま『日本書紀』錯綜にも影響し、継体や稲目や欽明らの生きた時間枠も混乱して諸説ある。つまりあとの『日本書紀』はいくらでも改竄可能だった状況である。


「東城王(とうじょうおう、生年不詳 - 501年)は百済の第24代の王(在位:479年 - 501年)である。『三国史記』によれば、を牟大、あるいは摩帝とし、第22代の文周王の弟の昆支の子とする。名と系譜については以下の異説がある。
南斉書』では牟大とし、牟都(文周王?)の孫とする[1]。『梁書』では牟大とし、余慶(第21代蓋鹵王)の子の牟都(文周王?)の子とする[2] 。また、牟都を牟大の転訛と見る説もある。ただし『三国史記』百済本紀・東城王紀末文では、古記に基づいて牟都という王はいないこと、牟大(東城王)は蓋鹵王の孫であり蓋鹵王を牟都とは言わないことを挙げ、『南斉書』の記述に対して疑義を唱えている。『日本書紀』では、蓋鹵王の弟で日本に来ていた昆支の第二子の末多(また)とする。『三国遺事』王暦では、名を牟大または摩帝とし、先代の三斤王の堂弟(父方の従弟)とする。子に武寧王。 」
Wiki東城王

余紀とは兄弟の筈だが、そうした記述は見当たらない。同一人物か?


「523年の武寧王没後、百済王を継承したのは聖王(余明、日本では聖明王)であるが、『日本書紀』は514年に百済太子淳陀が倭国で死去したと伝える。武寧王の本来の太子は淳陀であるが、倭国で死去したために余明が代わって太子となったという解釈も可能である。この淳陀太子がいつ倭国に来たのか記載はないが、武寧王は41歳に至るまで倭国で生活していたとして、淳陀は倭国で生まれ、そのまま倭国に留まっていたと主張する説がある。」Wiki武寧王
倭王武(『日本書紀』では雄略・武烈に分割、改変してある)が武寧王(余隆)だったら。
蘇我稲目が日十王(日+十=早で「そか」)だったら。
蘇我氏と紀氏は葛城王家で同族である。

隅田鏡の漢文は縦書きであるから、離れている日と十は縦では上下にある。すると石渡の考えでは例として日下を一文字で表記することがあったから、隅田の日と十も本当は一文字「早」だったのではないかと。すると読みは「そう」「そか」である。また「早」は「草」の略字でもある。ここまでは筆者も辞書と首っ引きで調べて納得できた。

ただし日十を従来説にある十日と逆転してみても読みは「そか」と読めるのである。「そか」とは三十日を「みそか」という日本語である。十は確かに日本語では「そ」と読む。例えばイタケルの別読みが「イソタケル」で表記はどちらも五十猛である。「そ」が省略される例になる。

いずれにせよ石渡の説では「そか」は濁らない大和音で、本来は「そが」だから、日十大王とは蘇我大王だとするのである。そうなると「あ、そうか、なるほど」となる。

蘇我稲目が欽明即位の前、継体時代に記録に忽然と現れ、なぜか継体・安閑・宣化の三代にではなく、欽明に見出され大臣となると『日本書紀』ではなっている。しかしこの時代の切れ目のどさくさでの『日本書紀』系図はまったく当てにはなるまい。『日本書紀』が蘇我氏を悪として書かれている偽書だとする立場から考えてみると、まったく蘇我こそが継体〜欽明までを宰相として助けた内臣である祖人・武内宿禰だったことに気づかされる。『日本書紀』における景行・ヤマトタケル・仲哀・神功皇后・応神に付き従った武内宿禰こそは、蘇我氏や武内宿禰子孫氏族たちそのものだったのであろう。藤原不比等にとってそれは手本にしてよい最高の宰相である。そして隅田八幡のある紀ノ川の紀氏もまた、淡輪の王であり、武内宿禰子孫氏族なのである。

すると答えはおのずと見えてくる。隅田八幡人物画像鏡とは、元の3世紀頃流行画像鏡をコピーして、文字を入れるための隙間をつくって、はがした神獣その他を切り張りしてでも、蘇我氏が大王であった事実をそれとなく、わかるものにはわかるように日十大王などにして、どうにかして蘇我氏が天皇以前の大王だったことを残したい。秘匿の鏡・・・。

それはしかし藤原中央王権には知られては困る。するとどこかに隠しておく必要があった。隅田なら誰も用がないし、まだ小さな紀氏たちのほこらでしかない。そこを八幡社にすることで、武内宿禰も八幡神=応神天皇の家臣として祭ることが可能だ。それが黒男神として宇佐や紀氏が社家をする岩清水八幡、その他にも広がった・・・。すると八幡信仰には秦氏や大三輪氏だけでなく、紀氏も大きく関わるのだろう。

紀氏は一方で不比等と盟友関係を持ちつつ、一方では正反対に先の大王であった蘇我大王=スサノオ・イタケル・オオクニヌシ・オオナムチとの家臣関係も忘れていないのだ。それは紀直と紀臣の二つの紀氏での申し送りだったのかも知れない。蘇我氏が滅びると確かに紀直は歴史から姿を消し、変わって紀臣が藤原氏と結びつくのである。



紀氏系図
イメージ 3

では継体が仁徳だ、百済余紀だと言う石渡説の真偽はどうだろうか?
筆者は蘇我稲目こそが継体ではないかと見る。欽明もおそらく稲目ではないか?そして蘇我氏こそが百済余一族の中の東城王か余紀だとも感じている。そしてこれはもっと重大なことだが、『日本書紀』の応神〜欽明までの系図は、『宋書』倭五王記事と百済史書から勝手に創作した天皇であふれていると見るのである。倭王讃(賛)、倭王珍(珎)、倭王済(斉)、倭王興、倭王武を、それぞれ百済王の実態から作った応神〜雄略そして継体・欽明に置き換えてある気がするのである。そして『日本書紀』年代におけるすきまを埋めるために天皇の人数まで増やして、干支を水増している。
従来、推古を基準にしているとされる『日本書紀』干支年代は、持統が基準ではなければおかしかろう。神武も、九州から吉備、讃岐を経て熊野に至った紀氏祖先たち海人族の伝承を取り込んだものだ。応神にも神功皇后にも紀氏の伝承が垣間見えている。息長氏も紀氏ではあるまいか?

百済の王と王族の事績から天皇が作られた・・・つまり架空の記事である。天皇などいなかったのだ、葛城氏・紀氏・蘇我氏たちが大王だった時代があったのだ。だからこそ藤原不比等にはの本の正史の中では、蘇我氏はいなかった大王にしなければならなかった。ゆえに大臣だったと書いた。そしてその大王たちの血統を持統が正統に受け継いだ大王の血筋でなければならなかったのである。ということは、持統とはいったい実際には何者だったのだろうか?




またひとつ宿題ができた。






これは書いてはいけないことであるが、倭五王は百済王が兼任していた時期があって、それを藤原不比等が和製王家へ書き換えた、塗り替えたヒーローだったとしたら、あんたたちどう思う?ひひひひ・・・。筆者に百済への思い入れなど一切ない。私は純粋縄文系・海人系日本人ですので。



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から引用。

 「埼玉県稲佐(Kawakatu訂正稲荷山である)山古墳(5世紀末〜6世紀初め)から出土した鉄剣。剣身表裏の棟に115文字の象嵌銘文がある。 銘文の「辛亥」から471年に我が国で鍛造された剣と判明した。

大化の改新(645年)以前の我が国古代に関する文献資料は極めて少く、銘文にワカタケル大王=雄略天皇の名があり、115文字の内が我が国5世紀の姿を初めて浮かび上がらせた。(この部分は不確定事項である。Kawakatu)

 銘文の「利刀」はこの鉄剣が儀仗ではない証しだろう。左の「百練利刀」は銘の中の原字。丸みを帯びた文字である。

    http://ohmura-study.net/image/40407.jpg  
http://ohmura-study.net/image/40408.jpg

              錆試料の化学組成     ※錆片採取位置
成分CuMnCaMgAlTi推定炭素量
%0.350.180.0250.0060.018<0.010.2〜0.3
 
 http://ohmura-study.net/image/40409.jpg

仕様:全長73.5㎝、刃長58.0㎝、茎長15.5㎝、元幅3.15㎝、重ね0.43㎝、目釘穴2ヶ。元幅の断面を実測値に基づき図示した。

鋼材: 鉄剣の棟の象嵌銘の傍の黒錆片が新日鐵㈱基礎研究所で分析された。銅(Cu)が0.35%、マンガン(Mn)が0.18%と高い数値を示し、原料鉱石は含銅磁鉄鉱の炒鋼と判断された。刻銘鉄剣の例に違わず、棟金は0.2〜0.3%の軟鋼だった。残念ながら心金の試料片採取は不可能で、炭素量は判らない。造滓材は成分々析(表割愛)から貝灰漆喰に近似していた。

百練の意味: 「百練」の意味を確かめる為に二つの錆片の非金属介在物が検査された。一つは不定形で20μm位、他の一つは5μm位の薄く延ばされた介在物だった。   鍛錬回数で前者は5〜6回、後者で10数回と見られている。従って「百練」は鍛打の回数を意味するのではなく、上質の鋼を表現する意味に変わっている。
 それでは、中国の古代文献が説明する「百練」・・・「五十練」「三十練」は、文字通りの絶対的鍛錬回数を示しているのだろうか? 
鋼を百回も折返し鍛錬したらヘニャヘニャの鉄になってしまう。矢張り「白髪三千丈の国」の表現と解すべきようだ。

構造:剣身断面を検査出来ないので構造は判らない。ペルシャ短剣や日本鉄戈の構造を想定した。深錆で剥落した皮金部に心金が顔を出し、皮金が薄い事が確認された。刻銘出来る厚さがあれば良かったのであろう。焼入されたらしい跡が確認されている。実用鉄剣であった事を窺わせる。軟鋼の皮金が薄いのであれば、均質な硬・軟鋼の張り合わせで剣身の強靱性を図ったとは考え難くなる。心鉄は硬・軟鋼の練り合わせ材の可能性も想定されて然るべきではなかろうか。

復元: 昭和58年、NHKが企画して鉄剣を復元した。新日鐵が鋼材を造り、人間国宝隅谷正峯刀匠が造刀した。往時と同じ鋼が造れない為、真空加熱炉で銅とマンガンを添加して当時に近い電解合金が造られた。藤代松雄氏が研ぎを担当。苔日仙氏が象嵌した。日程の関係で象嵌は6文字で終った。構造は心金に硬鋼を使い、皮金は軟鋼の合わせとなっている」



 本ページの分析値及び図版は主に佐々木稔氏の各種著書、新日鐵日吉製鉄史同好会の論稿を引用して一部を加工した。
 その他の図版は筆者の作図に依る 」









鉄剣銘文には「百錬」とあるが、中国文献でも常套句的に使われる修飾的な美的表現である。例外的に三十錬と刻まれたものもある。


「錬」は古くは「煉」で、文字の通り「火を入れる」=焼成することである。煉瓦(れんが)にも使われる文字だ。

鍛冶屋さんに行ったことがあればわかるだろうし、TVでよく見かける日本刀の鍛冶でも、剣は何度かの焼きを入れながら鍛え伸ばしてできあがる。とんてんかんてんという、あの音である。

で、上記の佐々木稔の分析を詳細に書いているサイトをお借りすると、稲荷山の金錯目鉄剣は数回しか煉されていないことがはっきりとした。これはほかの鉄剣でもそうである。江田船山の八十錬も、そういう中国的なおおげさな常套句だと言える。

江田で八十錬で、稲荷山は百錬なのだから、多いほうが名刀だとか、その王が強いとかはあまり意味がない。その当時に流行った常套句が、たまたま中国の古代で三十錬、五十錬だったり、九州では八十錬だったり、最終的に新しいものが百錬と、どんどん美文がエスカレートしただけの話である。まさに大げさな表現が大好きな中国人の作った習慣。


現実には、多くて10回、平均5回程度の焼きでなければ、百回も火入れした剣なら、厚みがすごい巨大な鉄から鍛えることになる。不可能だろう。上にもあるように、それではへなへなになってしまう。ヒッタイトや欧州では、まさにそういうおんぼろ鉄剣の時代があり、ひどいお話では、勇者がへなへな鉄剣を指でひんまげたとか、体にぐるぐる巻きにして戦ったとかいう、すごい武勇伝すらあるが、まあケルティックな妖精伝説と変わりないホラ話だ。



紹介したこのサイトはヒッタイトの鉄についても、佐々木著書に忠実に書写して書き込んである。それはそれで大変な作業で、大変役に立つサイトである。鉄の産地の違いは、特にマンガン含有量である程度わかるようだ。マンガンを多く含む鉄を磁鉄鉱と言う。Fe3O4。日本の職人ではこれを「餅鉄 べいてつ、もちてつ」と呼ぶ。その他の成分から稲荷山の鉄剣の鉄に含まれていた成分は上図のごとくはっきりしている。科学はこういう顕微鏡的分析では群を抜いて決定打を出せるから素晴らしい。

今のところはまだ最古の鉄出土品であるトルコのカマン・カレホユック遺跡の鉄も鉄鋼だったことがわかっている。詳しくは佐々木の原文や上記サイトでどうぞ。納得できるはず。


ただし・・・今後もっと詳細な切断して内部の分析次第で定説はくつがえるからご注意。それが科学だからしょうがない。とにかく古い知識は捨てて、常に新しい分析情報に留意しておくほうがいい。気になっているのは稲荷山や江田船山よりも古い年号が入っていた東大寺山鉄剣の分析がなかったのが残念だった。


なお、ほかの遺物と比較して年代を決める編年法だが・・・
筆者はつきつめてしまえば墓は、特に横穴式石室になった時代以後の副葬品や遺骸は、あとから追葬可能であったので、あまり当てにはしていない。考古学だけでは、だから年代や被葬者はわからないと思ったほうがいいし、決定は化学でやってくれねば安心できない。筆者は、ですが。相対的年代ではなく、絶対的年代が知りたいのである。

銅鏡の例では、和歌山県隅田(すだ)八幡人物画像鏡などもそうだ。
あれはそもそもがボウセイ鏡(コピー)である画像鏡を、文字を入れるスペースを空けるために、デザインをばらばらに切り出して、文字スペースを作ってから、貼り付けてある。まるでコラージュだが、しかもその技法が実に杜撰で、もとの絵柄の神獣や神の位置がばらばらになってしまっている。


こういうことがわかると、どうもそこには何らかの作為があったことが考えられるのである。紀ノ川沿線の隅田にある、八幡神社・・・八幡神社の始まりが、果たしてこの人物画像鏡の流行った時代のことだったのか?また銘文にある人名の、あまり見たたこともない「日十大王」とか「開中直 かわちのあたい」とか、ほかの文献で出てこない、あるいはどうしたって「かわち」表記ではないだろう漢字の使用法、「斯摩 しま」が島大王つまり百済武寧王であるなら、どうして敬称も皇太子ともついていないのか?である。どうしてそのように読むことになったのかを、最初から発見時〜現在までをたどり直してみると、最初に読み下した学者は、欠損している部分を勝手に想像していたりしたようなのだ。時代を経てそういうことが行われて、次第に読み方や当てる文字が変わっているのである。そんなものが、一級資料だと言えるだろうか?金石文が最初から貼り付けたり、書き加えられているなんて、もう金石とはいえまい?そもそも金石文が信用できないなら資料として失格であろう。

紀氏が、『日本書紀』継体大王(おおど)の実在を証明したいがために、藤原不比等と一計を案じた結果できた鏡だった可能性はないか?なのである。

稲荷山や江田の刻印文字にしても、金石文だからといわれてきたが、その読み方と空白に当てた字にしたって、人間の勝手な思い込みである。ワカタケルと書いてあったかどうか、怪しいものだ。そうなると考古学のかっての偽造事件を思い出してしまい、古い時代の発掘品全部、近畿なら近畿、その土地土地に都合よく改竄していたっておかしくない時代もあったじゃないか・・・となる。あの広開土王碑文がかつて韓国学者によって「日本軍部の改変」であるなんて言う時期もあったのだから。


金石文なんてないんじゃないか?少なくとも政治が関わっていたらではあるが。しょせん人間なんか古代どころか太古から政治的生物だろう?群れをつくり、社会性を持ち、リーダーがいた・・・すごくえらいように見えるかもしれないが、高崎山のサルとおんなじである。ギリシアもペルシアもローマも始皇帝も卑弥呼も、しょせんサルに3本毛が生えたボスじゃないか。人間は信じないことだ。


























































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日本人の金属器の輸入
考古学からわかっていること

●縄文〜弥生時代
1 日本列島での鉄器使用(製鉄ではない、製品の輸入)が始まるのは縄文時代晩期である。これは水田耕作の開始とほぼ一致する。その鉄器の種類は農具である。つまり鉄と稲は、おそらく同じ人々が、同じ時代に、同じ場所へ持ち込んだ技術であろうと考えられる。同じ場所とは北西部九州である。例証として福岡県二丈町曲り田遺跡出土小型板状鉄斧(縄文晩期)、熊本県天水町斎藤山遺跡出土手斧(弥生前期初頭)などがあげられる。

(藤尾慎一郎は弥生中期説)
イメージ 1
北九州市立考古博物館・曲り田遺跡出土日本最古の鉄斧


2 北西部九州の人々は、これを列島各地へ伝えた発信源で間違いない。製品と輸入された原料鉄はまず南九州、瀬戸内、山陰へと持ち込まれ、中期後葉になるとついに近畿へ突如として爆発的拡大を見る。そこから近畿を第二の中継地として後期には関東・甲信越伝播した。(東北・南北海道へは、いち早く稲作とともに九州から伝播したと考えられる。)概して、近畿の鉄の輸入先は北西部九州だけでなく半島南部や遼東にも求められる(鉄成分の違う物があって、製鉄が始まったときにも羽口形状や炉形式に違いがある、後述)。

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弥生時代の鉄鍛冶工房分布図 Kawakatu


イメージ 7



3 これらの原料鉄に共通するのは、金属分析学的にみて、曲り田遺跡の斧が鋼の結晶を有しているので、鍛造品が輸入されている。鉄斧の輸入はそのままのちの製鉄のための炭材伐採の進化をもたらすことになる。ただし鉄斧の形状はのちの古墳時代に増えるインゴット(鉄鋌 てってい)の形状に近く、中国での斧の形状インゴットが、斧を意識したものだったことはありえるだろう。鋼は鉄鉱石の加工品であるから、この技術そのものは、最古の発見品であるトルコのカレホユックの製鉄法がインドを経て中国に伝わったであろうことを証明する。

鉄鋌の形状
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4 一部考古学者には斎藤山の斧は鋳造だという意見もある、また一部金属学者は退火処理品であるという意見も出ている。これを証明するには斧の断面分析が必要。しかし遺物の破壊になるため難しい。
「ところが出土した当初は鋳造品との見方が強かった斎藤山遺跡出土鉄斧は,明治大学工学部,川口寅之輔のスペクトル分析によって炭素量 0.3%の鍛造品と公表されたため[乙益 1961],近藤義郎のように日本の初期鉄器文化は鍛造品から始まると規定する考古学者も存在した[近藤 1962]。その後,潮見浩,長谷川熊彦などから斎藤山の鉄器の材質をめぐる疑問が投げかけられることとなり,その後しばらく,膠着状態が続くことになる。しかし 80 年代に入ると,中国 ・ 朝鮮半島の鋳造鉄斧の型式分類を行った川越哲志が,斎藤山の鉄器は燕国で作られ,鋳造品を熱処理脱炭したものという見解を発表した。その上で明治大学による分析は,表面に形成された脱炭層の部分を対象としたものなので,低炭素量になるのは当然だと結論づけた[川越 1980]。日本列島に熱処理脱炭された鋳造鉄器が入っているという川越説は,大澤正己が北九州市中伏遺跡出土の二条凸帯斧の破壊分析を行い,顕微鏡写真等によって,白鋳鉄の芯部に,焼きなまし熱処理によって脱炭された外表面をもつことを明らかにしたことによって証明されることになる[大澤 1992]。・・・」(上記藤尾サイトで全文が読める)


金属学の分析は錆を使っているが、鋳造と鍛造によった、いずれにせよ鋼製品であることはゆるがないだろう。

参考 佐々木稔・赤沼英男「鉄器と原料鉄の生産技術の進歩」弥生時代における鉄器製作と鋼製造の開始 


※鉄斧、銅戈(どうか)を上に書いたように、金属文化伝播の初期は、インゴットの代わりにしていた可能性は高い。奈良時代にはそれは銅銭などになっている。おsれら輸入製品の中のよいものを、日本では神格化することがあったと思える。

※銅鐸も銅剣も、最古の工房は佐賀県吉野ヶ里周辺だったと考えられ。弥生時代前期までの近畿は、北西部九州へ、これを物々交換に出向いていただろう。そしてやがて半島からも輸入し始めるのは、距離的な問題と瀬戸内海通行権での通行料の問題であり、やがて琵琶湖〜日本海〜出雲という経路を開発し、伽耶だけでなく高句麗からも技術や人や製品を独自に持ち帰り始めたであろう。





●古墳時代前・中期
古墳時代中期の鉄てい出土地
イメージ 4


活発な鍛造技術が関東にまで及んだ時期である。

1 5世紀初頭まで、製鉄の証である鉄滓(てっさい、スラグ)は北部九州以外ではほとんど出ない。近畿では5世紀中盤から工房跡が急激に増加する。それまでは、輸入した鋼製品を叩いたり、焼き直して再加工したり(村上恭通)していた。持ち帰りもう一度溶かして加工する工房は、九州では弥生時代2〜4世紀からあったが、近畿では5世紀中盤をさかのぼることはない。

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スラグ
鉄を溶解したとき出る不純物の塊である。
けっこう山に行くとどこにでもあるが気づかないだけ。
筆者は一度だが見たことがある。大分県豊後大野市三重町宇目
考古学の初期にはスラグや鉄片はゴミ扱いされていた。



2 それは歴史的には、倭五王の時代に相当し、前方後円墳最盛期に合致する。従って倭五王は近畿に入ったことが、近畿の製鉄加工の開始であると考えられよう。それ以前は2〜3世紀吉備や東瀬戸内地方である。

イメージ 5


イメージ 6
羽口と送風管様式の違い(下図)と炉様式の違い(上図)






鍛冶工房はだから、最古は弥生中期の北西部九州に始まり、瀬戸内・中国・山陰・北陸と増えて行き、5世紀半ばにやっと近畿にできる。このときからが、近畿に王家ができるための画期だったとなるだろう。稲作と鉄鍛冶を手に入れて、ようやく大和は「近代化」できた。九州の技術と、人、さらには伽耶、中国北東部国家の技術や人、半島百済や高句麗のそれらによって、近畿はようやく大王国家としてのとっかかりを手にすることとなる。そして列島における中心部にあるという地の利、瀬戸内海という「貿易道路」、琵琶湖・福井・出雲という貿易コース、遼東から入手した製品と情報と文献などなどによって、8世紀なりやっと朝廷を手にしたのである。

途中、飛鳥初期には蘇我氏によるそれはある程度完成しかかっていたが、蘇我氏を滅ぼし、王権を天皇氏へ無理やりのクーデターによって藤原氏が転覆させたことは、しかし大和朝廷がそこに始まること、蘇我氏の飛鳥朝廷という既製品を換骨奪胎、変革したわけでなく、そっくりそのまま藤原氏が簒奪、物まねしての朝廷だったことがわかってしまうのであった。





 次回、百練などしていない稲荷山鉄剣・煉とは何か?


参考 同上 古墳時代前・中期の製造技術の革新


  

参考文献は多すぎるので最後にまとめて書きます。



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理屈ではわからない。
まったく理解できない。しかし
そうなったとき西郷どんに自分もなるだろう・・・
そういう矜持はよくわかる。

彼は果たして、いい人過ぎたのだろうかz?

なにげないやさしさが、かえって彼をして苦しめたのかも知れない。

いずれにせよ薩摩にせよ、会津にせよ、その理不尽な行動には、どうしたって儒教理論の理不尽さがある。あるのだq。あるのだ。ある。厳然としてである。どうしようもないのだ。


しかし、これだけは言いたい。
攻め込まれた側にとっては、西郷さんは「薩凶」と記録されたのだ。



これについて
これについて
薩摩よ、お前らに何がいえるのか、反対に聞いてみたい。







ヒトとはなんと愛おしいか・
それがわかってに上で、おまえの理屈なのか?を








あとのものは考えるべきなのだろう。





yousuruni
bunnsekisurukototo

kannjirukotoha

分けられてこそ、まともで理想的な思想になるということなんじゃないかZ?














すべては君たちにまかされいる。
ぼくのように
死ぬ前になってやっとそこに気がつくようじゃあ















人類は滅びるしかなくなるさ。


厳しい声を無視していると、ぼくらは間違いなく滅びるって
思うことが大事じゃないか?









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アルツハイマー病宣言

天才的な天啓がくる。
ものがどこかにいってしまいわからなくなる。
いつも探している。
いつもは平静で理論的なのに、何かの瞬間に突然切れて怒り出す。
ときどき異常行動がしたくなる衝動がある。
これらは昔の「キチガイ」に近い行動だと冷静に思える。
危険人物だと、自分で感じる。
ひとりで湯水のようにしゃべっている。
これって認知症です。

ぼくは従って、自分をアルツハイマー症であると認めざるを得ません。
ところが医者は、あんたは認知症なりすましじゃ、と申すのです。
なりすましてなどいません。

さて?
ほんとにぼくは認知症なんでしょうか?


今のうちに聞いておこうと思いました。







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この疑問の解明は簡単である。

高皇産霊神(たかみむすひのかみ)は記紀造化三神(ぞうかさんじん)の一柱だが、政治的には藤原不比等その人を意味している。

1持統=アマテラスは飛鳥蘇我王朝=スサノオを滅ぼし、長子草壁=アメノオシホミミを新しい大王=天皇にしようとする。

2しかし草壁は渡来大王天武の息子。不比等は天智直系を尊重して、草壁を抹殺して、孫の軽を後継者にする。


これは神話のアメノオシホミミが辞退してニニギが降臨するに等しい。

ゆえに不比等は『日本書紀』の神話ではタカミムスビである。影でアマテラスを動かし、天孫である天皇を決めると、アマテラスを前面に押し出して、みずからはフィクサーになる。タカミムスヒも静かに消えたとなっているに同じ。

そして元明女帝の頃に不比等が死ぬと、藤原氏には疫病による滅亡寸前の状況が起こって、政権が橘氏へと移行する。そのためにタカミムスヒは影響力のない高木信仰という道教古来の神樹思想でオブラートされた。




アマテラス信仰は持統が死ぬと宮中で立ち消えになり、アマテラスは巫女の監視下で僻遠の伊勢へ押し込まれてしまった。それは藤原不比等の影響力が消えたからである。その後、明治時代まで、アマテラスは忘れ去られていた。わずかに江戸の町人の中でこれを旅行の理由にしているが、歴代幕府に一切、アマテラスを特別扱いした様子もなく、天皇ですら参拝はない。わずかに親王らが代役として参るのみである。しかし明治の軍部がこれを皇国史観の題材に最適だと考え、浮上した。そのときからアマテラスは「天照「皇太」神宮」となる。「皇太」とは持統つまり皇太后である。以後、今に至る。









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 「(2016年)11月、ニュージーランド空軍が不思議な「島」を発見した。南太平洋の中央、トンガ西部の海上である。この「島」は長さ数十キロもある。

 この島は「パーミス・ラフト」(「=軽石のいかだ、軽石ラフト)ではないかと思われている。パーミスは軽石、ラフトとは筏(いかだ)やゴムボートのことだ。

 つまり、この「島」は軽石が作った浮島なのである。軽石は火山噴火のときに出る。地下深部からマグマが上昇し、噴火で減圧することで溶けていた揮発成分が発泡して多孔質になったものだ。軽いから水に浮く。大量に出れば、まるで島のようになる。

 2012年にも、ニュージーランド北方のケルマディック諸島近くの海域で、同じような軽石の「島」が見つかったことがある。その大きさは400平方キロあった。伊豆大島の4倍以上だ。

 そのときは「アーヴル」という海底火山が噴火して大量の軽石を出したことが分かった。過去の衛星画像を追跡して、噴火して海上に火山灰を吹き上げているさまが過去の画像で確認できたのだ。ほとんど知られていなかった海底火山だった。

 この軽石の島は、いずれは風や海流に乗ってバラバラになり、遠くまで漂う。この島もだんだん広がって、3カ月後には日本の2倍近い面積にもなった。

 だが、昨年見つかった島の軽石がどこの火山の噴火から来たのかは分かっていない。

 陸上では、こんな大量に軽石を出した噴火はなかった。島が発見される前の1カ月半までさかのぼって衛星画像を調べたが、海底火山が噴火した兆候は見つからなかった。もっとも、衛星からの観察は、海上が雲に覆われていれば見えない。たまたま雲に隠れているときに大規模な噴火が起きた可能性はある。」

■島村英紀(しまむら・ひでき) 武蔵野学院大学特任教授。1941年、東京都出身。東大理学部卒、東大大学院修了。北海道大教授、北大地震火山研究観測センター長、国立極地研究所所長などを歴任。著書多数。最新刊に『富士山大爆発のすべて−いつ噴火してもおかしくない』(花伝社)。
https://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20170224/dms1702241130012-n2.htm





まるで井上ひさしの人形劇・ひょっこりひょうたん島である。
海にぷかぷか浮かぶ島・・・。

この記事ほどの大きなものではないが、軽石ラフトはけっこう世界にあった可能性があるらしく、それは上記の島のように、火山で噴出した大きな軽石島が、結果的に細かく分裂してゆく過程で、もとの軽石島から分かれたものだったかもしれないが、『世界史を変えた50の鉱物』の中にも言及があって、それに乗って大陸間の海を渡った生物(あるいは人類も?)があった可能性を示唆している。それを原始人類がそれをヒントにいかだを考案したこともあったかも知れないですな。これなら容易にアフリカからアラビア半島、アラビアから中近東へ渡れたことだろう。そういえば北海度などに流氷に乗った北極グマが来たような話もあったかな?

歴史上、渡れなかったはずの海峡を越えた古代民族はいた。旧人であるホモ・フローレス人や、オーストラリアに到着したアボリジニなど、どうしてそこへいけたのかがまだわかっていない人類はある。太古に舟を知っていたよりも、むしろそういう偶発的イベントから舟が考え出されたとするほうが納得できる?もちろん島でも軽石でもなく、単なる流木だって充分に狭い海峡なら渡れる。







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