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ヤフーの地震情報を見ると、ここ最近、千葉沖が非常に頻繁にゆれています。
この場所は東京や相模にも影響を及ぼす可能性があるので、関東地方の方々は、ご注意お願いします。




千葉沖のスロースリップと位置移動と地震活動 
NHKは注意喚起継続

もちろんご承知のこととは思いますが、ちょっと本気になっておいて損はないでしょう。


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安倍晴明記事はしばらく後回しにして、少しのあいだ、地震や地盤のメカニズムや現象について書いておきたい。京都ディープは逃げないが、地震は今が旬である。急がなくてはならない。もっとも大地震で京都が消えたり、筆者が死んだりはあるかも知れないが・・・。まあ、それも地球スケールの歴史から見ればほんのささいなことであろうが。うたかたよ、所詮、人の歴史などは。









●大阪の地震は予知できたはず2018年6月21日Kawakatu(そうだじゅん)

以下は、このブログで以前から書いてきた豪雨・豪雪・温暖化による氷河氷解などが引き起こす大地震の地形学的メカニズムに関する一連の記事である。

予知とか大それたことを言うつもりは全然無いが、もう一度、温暖化がいかに災害を引き起こすかを確認しておいたほうがよいと思った。地震のしろうとである筆者ですら、大阪があぶないなと感じることができたのだ。専門家が感じないはずはない。大阪では、今回の地震の前にすでに関西地方では学者の指摘とテレビ発表があったと聞いている。そういう事前の地震研究部門や政府組織からの内部発表を、なぜマスコミは全国ニュースで大きく報道しないのか?狼少年になるのが怖いからか?

そこらへんに、日本人の地質・地形・環境への認識不足、不勉強がありありと感じられてはらがたつ。

さらに、地震関係の書物に、最近の大地震の前の豪雨・豪雪との相関関係を示すデータを見つけたので、これもあわせて、地形学からの警鐘の証拠品として掲載しておく。




まず昨年の記事で大阪湾で地震があるかも知れないと書いた記事から。

●大地震/国は千島海溝と言うがぼくは大阪湾が気になっている
「ニュースでは国が北海道東部の千島海溝に注目していると言うのだが、筆者はここ数日、大阪湾・淡路島・和歌山県北部での揺れの連続が気になっている。


淡路島北部が二度揺れたときは、またあの活断層か?とあやぶんだのだが、その後紀ノ川河口部に揺れが異動している。


ちょっと気をつけるべきである。なにしろあまり揺れない場所なので。」




次に今年の春に書いた、地殻の弾力性=ハイドロアイソスタシーと地震。
●ハイドロアイソスタシー 温暖化が引き起こす地殻変動とかいろいろ
2018/4/22(日) 午前 9:58

「地殻は外側からの荷重に対して、弾力的に動く。そのために地震が起きると断層ができる。
マントルは、地殻より粘性がある。だから、外側からの荷重に対してゆっくりと変動する。」Wikiハイドロアイソスタシー

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要するに、「地殻は上の画像のように動きやすいので、北極・南極の氷の溶解によって海水量が増加=海底の地盤が沈降=プレートテクトニクスを上から押す力が強くなる。」

列島の場合、いっそうその影響を受けやすく、島の断裂すら起こるだろうという。

これ以外に、以前「民族学伝承ひろいあげ辞典」で書いたが、地形学からの意見では、地上の大雪や氷河が溶けたり、豪雨で土砂が大量に流れ出すと、地上の浮力によって地下の能動的なマグマが盛り上がり、山が高くなり、噴火が増える。その結果、ついに大地震、大噴火が起こるという説もある。




●ハザードマップを過信しない/本当の日本人のふるさとは京都ではなく
2015/9/26(土) 午前 11:07
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/57142353.html
ハザードマップはあくまでも官憲からの危険地帯基礎知識でしかないと自覚し、居住地に住んだのは自己責任であると理解して、周辺の地形とその危険度、過去の記録などに当たっておくほうがいい。
たとえばこのサイトにいくと、全国各地の要所の縄文海進図を見ることができる。
これもおおまかに参考にはできるだろう。
温暖化で日本はこう沈没するhttp://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/special/267/



●豪雪地帯分布図とヤマトタケルと直孤文
2012/1/27(金) 午後 2:53
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54496288.html
豪雪を生み出す歴史的環境変動のダイナミズム
○日本海の拡大
 「海面が上昇する。最寒冷期の二万年前の海面は、現在より八〇〜一四〇メートルほど低下していたと考えられている。その後、一万八〇〇〇年前頃から上昇を開始し、晩氷期のアレレード期には、マイナス三五メートル近くにまで、上昇してきた。しかし、その後につづく新ドゥリアスの寒冷期には、再びマイナス四五メートル前後にまで低下した。そして、一万一五〇〇年前の新ドゥリアスの終焉を物語る温暖化を境にして、海面は急速に上昇を開始した。日本海には対馬暖流が流入し、日本海は拡大した。冬、日本海側に大量の雪をもたらすものは、日本海から蒸発した水蒸気である。その水蒸気がシベリアからの冷たい風によって運ばれ、本州の中央山地にぶちあたって上昇し、雪となって降る。対馬暖流の流入によって、日本海の表面水温は上昇した。このことは水蒸気の蒸発量を増加させ、日本海側の積雪量を増加させたとみることができるのではないか。
これらの低い場所は水没、洪水の危険地帯である。




●「活断層という視点では安全な原発は玄海のみ」渡辺満久
2017/6/25(日) 午後 0:00
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/57940870.html
「筆者が知る限り、活断層に係る問題が指摘できない原子力施設は、佐賀県の玄海原子力発電所だけであるように思われる。その他の施設に関しては、活断層の無視や値切りの状態にあり、発生すると予想される地震規模が正しく想定されていないと考えている。」地理学者、活断層・変動地形学 原子力規制委員会大飯原発調査外部調査委員・渡辺満久
(『土地の「未来」は地形でわかる』日経BP社 2014)



●昨夜の地震と地すべりと南海トラフ・マントルが動くわけ・地震も火山噴火も「あんたや、あんたのせいで地震が起きるのや」
2017/6/21(水) 午後 0:39
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/folder/1608006.html?m=lc&sv=%C9%E2%CE%CF&sk=1
地殻は温暖化で大量の根雪が溶け出したり、あるいは大雨で土砂が流失すると、浮力が軽くなって浮かび上がろうとする。そのとき地面にゆがみや山地を造ることがある。氷河期には、だから地殻は重たい氷をかぶっているから、地殻はマントルへ沈み込んでいたわけだ(下図の左図)。それが温暖化で軽くなり、マントルに押し上げられ始めていることになる(右図の(a))。すると豊後大野市のように表土の下の岩盤がひずんでくる。地割れや地すべりが起こるのである。ひどいときは山ができてしまうこともある。火山になって噴火もある(下画像と文章参考『土地の「未来」は地形でわかる』)。



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風呂敷を広げて考えてみると・・・風呂敷の真ん中に乗せていた品物がなくなると、当然真ん中は軽くなり、やわらかいマントルは膨張して競りあがる。競りあがろうとすると山ができはじめ、風呂敷の両端は当然、真ん中に向って引き寄せられる。するとそのはじっこの下に入り込んでいるもう一枚の風呂敷が一緒に引き込まれる。ある日、何かが引っかかるとどーんと落ち込んでトラフ大地震が起こる。というシステムである。


風呂敷の下から指を立ててみるとわかる。風呂敷のはじっこはみな、中央へ引き寄せられる。するとその下に敷いてある風呂敷も一緒に引きずり込まれてしまう。急に引くと急に引き込まれ、そこには無理がかかる。これが地震だ。





そして今回はじめて作った資料
●気象庁が命名した(=それだけ大きかった)大地震・火山噴火と豪雨・豪雪の因果関係が見える年表











このあたりまで台風はあれども、例年並みで、大地震の前兆すらなし。
平和な平成日本が始まるかに見えていた。
平成5年あたりから時代の風向きが変わり始める。
台風、豪雨、ゲリラ豪雨、豪雪、竜巻、ヒョウ・・・それまでなかった気象状況に。
平成5年 1993
台風第13号梅雨前線、台風第7・11号 ※台風第5・6号梅雨前線、台風第4号
9月1日〜9月5日非常に強い勢力で九州南部に上陸。
種子島で最大瞬間風速59.1m/s、宮崎県日之影町で日降水量540mm。
7月31日〜8月29日九州南部を中心に甚大な被害。平成5年(1993年)8月豪雨(7/31-8/7)
7月26日〜7月30日台風第5号、第6号相次いで九州へ上陸。
5月13日〜7月25日前線の活動が長期間活発、台風第4号四国に上陸。
九州南部で年間降水量に匹敵する大雨。


平成6年 1994    和歌山県南部に台風26号上陸し本州横断。紀伊半島で暴風雨。
               三重県津で最大瞬間風速48.7m/s、
                           奈良県上北山村で日降水量733mm。
               寒冷低気圧9月22日〜9月24日 仙台市を中心に大雨、
                           日降水量147mm。
               寒冷前線9月2日〜9月8日
                           大阪府北部から兵庫県南東部局地的大雨
                           大阪府豊中市1時間91mm

平成7年 1995 台風12号伊豆諸島・千葉県で暴風雨。
        三宅島で最大瞬間風速55.4m/s以上、
                        千葉県勝浦で日降水量232mm。
        8月9日〜8月11日 山形・新潟・鹿児島県で大雨。
                        鹿児島で1時間104.5mm。

平成7年 1995 兵庫県南部地震(通称・1・17阪神淡路大震災)震度7.9

平成7年 1995 7・11信越水害

ここまでは、いわゆる「地球温暖化」という言葉がマスコミを賑わし始めた頃だ。
次第に気象変動が激しくなりはじめる。中国やインドやブラジルが経済復興しはじめ、いよいよ地球の温暖化現象が活発化。




   日本のカタストロフィへの道はすべてはここから始まったと言える




平成7年から10年まで、毎年台風と梅雨と大雪。機関銃放射的な小災害が連発し始め、列島内部に災害ダメージが蓄積していった。

平成8年
台風第17号台風第12号前線、大気の状態が不安定
9月21日〜9月23日房総半島沖を北東進、関東南部や伊豆諸島で暴風雨。
銚子で最大瞬間風速51.9m/s、東京都新島で期間降水量が391mm。
8月11日〜8月15日熊本県に上陸し、日本海を経て東北へ。
南西諸島から西日本で猛烈な風、鹿児島で最大瞬間風速58.5m/s。
7月3日〜7月4日熊本・宮崎県で短時間強雨。山形・宮城県で落雷。

平成9年
台風第19号前線、台風第11号台風第9号梅雨前線、低気圧台風第8号
9月13日〜9月17日九州南部に上陸、九州南部や四国で暴風。
西日本から中部地方の太平洋側で大雨。宮崎県えびの市で日降水量688mm。
8月3日〜8月13日九州・四国地方や北海道などで大雨。長崎県平戸で期間降水量708mm。
7月24日〜7月29日四国東部に上陸、四国地方を横断、四国から東海地方にかけて暴風や大雨。
室戸岬で最大瞬間風速52.2m/s、奈良県上北山村で日降水量734mm。
7月1日〜7月17日西日本から中部地方で大雨、鹿児島県出水市で土石流被害。
熊本県旭志村で期間降水量1、495mm。
6月26日〜6月29日
九州北部に上陸後、本州を縦断。九州北部・中国・四国地方で大雨。
鳥取県鹿野町で日降水量311mm。





平成10年 

前線、台風第10号前線台風第8・7号台風第5号前線、台風第4号梅雨前線
10月15日〜10月18日九州南部に上陸、西日本縦断。和歌山で最大瞬間風速53.8m/s。
9月23日〜9月25日高知県で記録的な大雨。高知で1時間129.5mmの猛烈な雨。
9月20日〜9月23日台風第8号、第7号が2日連続して近畿地方に上陸。
三重県上野で最大瞬間風速56.4m/s。
9月15日〜9月17日静岡県に上陸後、北日本を縦断。関東で暴風、東日本から北日本で大雨。
千葉県銚子で最大瞬間風速45.7m/s、北海道広尾で日降水量346mm。
8月26日〜8月31日栃木県北部から福島県にかけて記録的な大雨(平成10年8月末豪雨)。
栃木県那須町で日降水量607mm。
8月3日〜8月7日新潟県(下越、佐渡)で記録的な大雨(平成10年8月上旬豪雨)。
新潟で日降水量265mm。


平成11年 1999  台風18号熊本上陸、中部地方大雨
         16号関東地方中心に大雨、神奈川県玄倉川で人的被害。
         長良川氾濫
         梅雨前線、西日本で激しい雨。
         福岡市で地下街に浸水害、広島県で土砂災害。

平成12年 2000 有珠山噴火
平成12年 2000 鳥取県西部地震
平成13年 2001 芸予地震
平成15年 2003 十勝沖地震
平成16年 2004・7月 新潟・福島・福井豪雨
平成16年 2004 新潟県中越地震

平成18年 2006 アル・ゴア『不都合な真実』(ふつごうなしんじつ、原題: An Inconvenient Truth)を言い始める。映画化。流行語、社会現象に。

平成18年 2006 東北・日本海豪雪
平成18年 2006 7月全国的な豪雨
平成19年 2007 能登半島地震・新潟県中越沖地震

平成20年 2008 岩手・宮城内陸地震
平成20年 2008 8月末全国的豪雨
平成21年 2009 7月中国・九州北部豪雨

平成23年 2011 3月東北地方太平洋沖地震(通称3・11東北大震災)震度7強
平成23年 2011 7月新潟・福島豪雨
平成24年 2012 7月九州北部豪雨
平成26年 2014 8月全国的に豪雨
平成27年 2015 9月関東・東北豪雨

平成28年 2016 4月熊本−大分地震
平成28年 2016 台風21号西日本から東日本、東北地方の広い範囲で大雨。全国的に暴風。

平成29年 2017 7月九州北部豪雨
平成29年 2017 大分県豊後大野市農地地すべり(熊本地震の影響?)
筆者付け足し(気象庁平成災害をもたらした気象事例より編集)
平成29年 2017 台風7・9・10・11号東日本から北日本を中心に大雨・暴風。
平成29年 2017 北海道と岩手県で記録的な大雨。

平成30年 2018 北陸地方の平野部を中心に日本海側大雪
平成30年 2018 関東甲信地方や東北太平洋側の平野部で大雪。
         日本海側を中心に暴風雪
平成30年 2018 大分県中津市耶馬渓地すべり(直前に豪雨なしで起きた。
        2007の豪雨と熊本地震の揺れとで?)
        東北海道地域に地震小頻発中(2017に大雨あり)
平成30年 2018 台風3号西日本から東日本を中心に大雨。
        5日から6日にかけて西日本で記録的な大雨。
平成30年 2018 6月18日大阪北部地震
 

参考資料
気象庁平成の重大な災害資料より

●『絵でわかる日本列島の地震・噴火・異常気象』藤岡達也 2018年2月9日発売からKawakatugaが気象変動を補足して編集(初心者でもよくわかる災害発生のメカニズムと地球気象が起こる原因を、多くの図説と平易で簡略な文章で書き上げた、ブログ筆者Kawakatuおすすめの一冊である。)



●地形学的地震・火山噴火のメカニズム
すでにこれはhttps://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/folder/1608006.html?m=lc&sv=%C9%E2%CE%CF&sk=1
で昨年解説した。上記記事にあるとおり。
地表はカンランセキのマントルがマグマの海に浮かんでおり、地上の重量の変化で浮いたり、沈んだりしている。だから豪雨の土砂災害、豪雪や氷河の溶解と流れ出しで、みな海へ流れ、沈殿する。すると地表は軽くなったのに、海底は重くなってしまう。というメカニズム。






このように、「地球温暖化が災害をもたらしている」ことはもはや否定できない。これは地球の因果応報であり、神=地球の摂理の、人類への罰である。




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西村卓也京都大准教授(測地学)の話
「今回の地震は地下の浅いところで起きたいわゆる直下型地震。大阪府北部から兵庫県・淡路島につながる『六甲−淡路島断層帯』で起きた地震であれば、平成7(1995)年の阪神大震災の余震かもしれない。また、神戸市北部から大阪府高槻市に延びる『有馬−高槻断層帯』が関係した可能性もある。震源周辺には活断層が多く、近年の観測で地下にひずみが集中していると分かっていて、いつ地震が起きてもおかしくない場所だ」
https://www.sankei.com/west/news/180618/wst1806180029-n1.html




 日本政府 地震調査研究推進本部
 「大阪府に被害を及ぼす地震は、主に陸域の浅いところで発生する地震と、太平洋側沖合で発生する地震です。

大阪府周辺のわかっている活断層と被害地震図
   大阪府とその周辺の主な被害地震   (図をクリックすると拡大表示)

ご注意!あくまでも現在わかっている断層帯である。まだまだ見えない断層帯が隠れているかも知れない。



大阪府とその周辺の主な被害地震  陸域で発生した被害地震を見ると、慶長伏見地震とも呼ばれる1596年の地震(M7 1/2)の被害は広範囲に及んでいますが、大阪府内では、堺で死者600余名とされています。1936年の河内大和地震(M6.4)では、府内で死者8名などの被害が生じ、地面の亀裂や噴砂・湧水現象も見られました。その他に、震源の詳細は分かっていませんが、1099年(規模不明)などにも被害の記録があります。

  大阪府は、太平洋側沖合の南海トラフ沿いで発生する巨大地震による被害も受けることがあります。例えば、1854年の安政南海地震(M8.4)では、大阪湾北部で高さ2m程度の津波が襲いました。また、木津川・安治川を逆流した津波により、船の破損、橋の損壊、死者多数(7,000名など諸説ある)などの被害があったとの記録があります。1707年宝永地震の時はさらに大きい津波に見舞われました。

宝永地震では旧大和川流域だった河内平野で特に倒壊被害が大きくなりました。また、1944年の東南海地震(M7.9)で死者14名、1946年の南海地震(M8.0)で死者32名などの被害が生じました。南海トラフ沿いで発生する巨大地震は安政や昭和のように東海地震と南海地震と二つに分かれて発生する場合と、宝永地震のように1度に全体を震源域として我が国最大級の地震が発生する場合があります。大阪府は、そのいずれの場合でも、地震動や津波による被害を受けることがあります。

  1927年の北丹後地震(M7.3)や「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」(M7.3)のように周辺地域の浅い場所で発生する地震や1952年の吉野地震(M6.7、深さ約60km)のように沈み込んだフィリピン海プレート内で発生する地震によっても大阪府内で被害が生じたことがあります。

  大阪府の主要な活断層は、北部に兵庫県から京都府まで延びる有馬−高槻断層帯と、それに直交するように京都府から延びる三峠・京都西山断層帯と奈良県との県境付近に延びる生駒断層帯、府西部に延びる上町断層帯があります。北部には兵庫県との県境付近から淡路島にかけて延びる六甲・淡路島断層帯と、大阪湾内に大阪湾断層帯が延びています。奈良県・和歌山県との県境付近には、紀伊山地北部から和歌山県北部に延びる中央構造線断層帯(金剛山地東縁−和泉山脈南縁)があります。

  また、大阪府周辺に震源域のある海溝型地震はありませんが、上述のように、南海トラフで発生する地震で被害を受ける可能性もあります。

  大阪湾沿岸や淀川の流域周辺では地盤がやや軟弱なため、周辺より揺れが強くなる可能性があります。

  府内42市町村(北端の能勢町を除いた全府)は、南海トラフの地震で著しい地震災害が生じるおそれがあり、「南海トラフ地震防災対策推進地域」に指定されています。 」
https://www.jishin.go.jp/main/yosokuchizu/kinki/p27_osaka.htm

※この政府関連サイトには、近畿地方の主要各活断層や海溝の地震が近畿に及ぼす影響と発生確率、さらに過去の近畿で起きた主な地震の一覧と結果などが一覧表で示しており、役に立つ。

この地震本部トップページから全国の同様のデータにアクセスできる






今回の地震は、図で見る限りでは、枚方市・高槻市近辺で合流する二つの活断層(生駒断層帯と有馬−高槻断層帯)の、ちょうど合流地点である淀川北河内・北摂での発生と判断できるだろう。実に不思議なのは、そこはちょうど淀川の三川合流地点である八幡・大山崎に隣接する淀川の真ん中である。





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淀川の三川合流地点
左・京都府八幡市男山、その奥が枚方市
右・大山崎、その奥が高槻市
中央・背割堤(せわりてい)


河川は
手前右・桂川(保津川・鴨川合流後)
中央・宇治川
左・木津川
最奥が三川が合体した淀川

筆者は都合10数年、ここに住んだ。知り合いも多い。
中規模地震だったとは言え、どんな被害が今後出てくるか?
これがさきざきどのようなカタストロフィの引き金になるかも知れないのだ。



枚方市は筆者も住んだ場所で、淀川をはさんで対面する高槻市や茨木市には大学時代の友人や妻の妹夫婦、あるいは歴史愛好者の知人など多数の知己が住んでいる地域。今回、最初の地震速報後に、京都、高槻、枚方、堺のそれぞれ知人にネットサイトアクセスによる状況確認した。

するとおおまかに、大阪の北部と南部の被害状況に大きく相違があるのが見えてきた。堺の人の言うには今回の被害は北大阪方面に集中し、南部ではたいした被害がないことがわかった。また京都市内の人は、数度目の揺れの際、外にいたが、気持ちの悪い揺れ(横揺れか?)だったと言う。また高槻市の人は、揺れは大きかったが食器が割れた程度との話だった。

阪神淡路大震災のとき、筆者はすでに前年に京都から大分に戻っており、地震を肌で感じることは運よく無かったが、兄が神戸にいて、マンションの上階が一階まで、床ごと落ちて、上階にいた兄と息子は這い出して、歩いて大阪の事務所まで避難した旨聞いている。

それと比べると今回はかなり軽度の地震だと言えるが、古い住宅地のある京阪地域や、もともと淀川河川敷平野である北摂で、死者も出る被害が出たようだ。高槻市には有馬―高槻断層帯の東端が景勝地として露出する摂津峡がある。地形も、仕事で、よく箕面から丹後へ抜ける道を使っていたので地形もよくわかる。また古代史探訪でも、茨木・高槻は数年前によく訪れている。継体大王の今城塚古墳や藤原鎌足の阿武山古墳、土師氏の埴輪窯跡、筑紫津神社など、貴重な遺跡が多い。枚方市も継体大王や滅亡百済王家のゆかりの土地である。それら遺跡が今回どれくらい影響を受けたのかも気になる。

歴史的には、過去、大阪では上町断層帯の変動が縄文時代以降頻発していた。今回は、過去の地震では慶長年間の慶長伏見大地震のような、今回地震と同様に、北河内や北摂津でも大きな揺れを引き起こしたであろう二つの断層帯での動きであった。地震考古学的にはこの地震では高槻市にある今城塚古墳などが大きく被害を受けたと思われる。http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/rekishi/rekishikan/daio/kodairekishikan/imashirozukakofun/1327498932196.html

今城塚古墳の伏見地震による地震被害状況



慶長伏見大地震
文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)子の刻
現在の京都・伏見付近で発生した大地震
京都では伏見城[注 1]天守や東寺、天龍寺等が倒壊し、死者は1,000人を超えた。

この大地震は、京都だけでなく、今回揺れた北摂地域(摂津三島と呼ばれた三島郡・・・現在の茨木・高槻・箕面・吹田一帯と豊能郡豊能町の一部(高山)や京都に隣接する島本町まで含む淀川北西岸地帯)にも大きな被害をもたらした。その痕跡は京都市、長岡京市、向日市、高槻市などに存在する大古墳の発掘から地震考古学で明らかにされている。

規模としては、テレビ画像でしかわからないが、地震の大きさは熊本―大分地震に近い規模だろうが、被害はそれより少なそうだ。おそらく阪神淡路大震災以降、近畿地方では全国に先駆けた地震対策が根付いてきたためであろう。しかし、一方で、いずれも崩壊したブロック塀などの、鉄筋のない付加部分が壊れ、不幸にも少女が死ぬことも起こった。おそらくこの二箇所の死者を出したケースは、人的な事件になる可能性があるのかも知れない。幼稚園の塀に限れば、崩壊したのは最近付け足したプール隠しのための工事で、鉄筋がなされていたかったように見えた。古い下部ブロックにこれといった崩落が無く、そこまではちゃんと鉄筋してあるのだろう。すると幼稚園側の園児のための付加工事が裏目に出たとも考えられ、手抜きだった可能性、園が金を惜しんだといった人的要因の可能性をおそらく警察が疑わないはずがないだろうと思える。するとこれは事故ではなく事件になるかも知れない。

これでよくわかるのは、外に出るのはよいが、塀やビルの付加物落下による副次的な死亡事故が非常に危険だということである。つまり総括的に言うなら地震対策の見落としが大地震を経験したはずの関西でもまだまだあるということだろう。ならばそれは東北でも、熊本でも、鳥取でも、まだあるだろうという憶測を生む。行動的には人工の建造物は、頑強に見えても近寄らないということになるだろう。非難は極力広い場所へである。

北摂・北河内で起きた今回の大地震が、今後、どのように列島各地に影響してゆくかは筆者にわかろうはずもない。これが阪神淡路の余震であるという地震学者の意見も出ている。とするならばなんという長い時間の余震だろう。大分耶馬渓で起こった滑落事故もあり、日本はいつ何が起こるかわからないことになってきたという観が強い。広い視野では、環太平洋を一周するリング・オブ・ファイアーでは、今後なにが起きても不思議ではない。対岸の火事と思わずに、世界の災害や噴火に注目しておいたほうがいいのは言うまでもない。災害は隔たった地域にも影響を及ぼす。研究はテリトリーや国境や県境をはるかに越えてやってくるを、肝に据える必要がいよいよ高まった。千葉沖地震との関連をただ「ない」と言っていいのかどうか、研究者はもう一度子供になってよく考え直していただきたいものである。


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さきほど7時58分頃、大阪市のど真ん中で震度6弱、M5.9の地震があったらしい。

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そのあと8時8分と18分にも震度2程度の小さな余震が二度来ている。

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大阪が揺れたのは実に去年の11月以来の珍事だ。


震度6弱は、古い家屋ならかなり損傷する揺れだ。



読者の中にも関西在住の方がいる。
大丈夫だっただろうか?

和歌山沖には注目していたが、まさか大阪に来たとは・・・

政府は西日本の原発再稼動にルーズだが、そろそろ見直したほうがいいのでは?

東日本の原発は軒並み停止・廃炉させているくせに、西日本ではどんどん稼動させている。矛盾した政策ではないのか?










転載元転載元: Kawakatuの、ニュースを料理してしまえ

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一条堀川の晴明神社(堀川今出川下る)



現在の晴明神社はちょうど安倍晴明が天文(陰陽道)を上賀茂神社神職だった賀茂忠行親子から学んだその賀茂氏の、もうひとつの神社・下鴨神社がある今出川の二川合流地点の河合から、今出川通りで真西にある。知らぬものは少なかろう。京都の河川や堀川の流れは、ずいぶん往古とは変わっているが、創建当初はWikiの言うようにかなり広大で、今はやや南にある一条戻り橋を渡るとすぐ鳥居があったように聞いている。今はやや北にあって、社域は小さい。境内に小さな戻り橋のレプリカがある。大学生だった頃の雰囲気は今はあまりなく、晴明恋しの女性向けにすっかり変わってしまった。観光地化して、神秘性は見る影も無い。土産物屋と晴明ギャルのオンパレード。羽生君や野村万斎 さんのおかげで、ますますそうなったようだ。



晴明神社(せいめいじんじゃ)
「1005年に晴明が亡くなると、その時の天皇一条天皇は晴明の遺業を賛え、晴明は稲荷神の生まれ変わりであるとして、1007年、その屋敷跡に晴明を祀る神社を創建した。当時の境内は、東は堀川通り、西は黒門通り、北は元誓願寺通り、南は中立売通りまであり、かなり広大であった。しかし度重なる戦火や豊臣秀吉の都市整備などにより次第に縮小し、社殿も荒れたままの状態となった。幕末以降、氏子らが中心となって社殿・境内の整備が行われ、1950年には堀川通に面するように境内地が拡張された。」Wiki晴明神社


一条戻橋がかかっていたのは、堀川へ流れ込む支流と堀川の合流点で、今とは様子がずいぶん違う。橋は今よりもずっと小さく、それでも鬼が住むと言われて、三善清行(みよしのきよつら・ゆき)と息子・蔵浄貴所(ぞうじょうきしょ)の、一条戻り橋・清行よみがえり譚や、渡辺綱の鬼女退治で有名だが、今もそこがある種のアジ―ルだったことを教えている。絵図を見ると、戻り橋が見える別の橋のそばには料亭?があり、酒盛りをしている。戻り橋は堀川に架かっていたのではない。

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都名所図会・一条戻り橋




現代の戻り橋は堀川に架かっている



都名所図会の戻り橋 水路というよりまるでただの下水管の水口のよう。絵の描き方がへただ。狭い水路だったことがわかる。橋が小さいのも当たり前か。
向かって左右に流れる堀川に流れ込む水路に戻り橋は架かっている。
一方、現代の一条戻り橋は堀川用水に架かっている。


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そういう事情もあってか、晴明神社には往古の小橋としての戻り橋の模型が置かれている。
小さな播磨屋橋といった風情。




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橋はあっちの世界とこっちの世界の架け橋である。修験道では無明の橋とも言う。
それは芸能では、歌舞伎の花道や能狂言舞台の花道に意味は同じである。ハレとヶ、彼岸とうつせの通り道。冥界への入り口でもある。一条天皇らしい選択地に晴明神社はあったのだ。

戻り橋というのは、清行がヨミガエッタ橋だったのでこの名前になったけれどこの橋の下には鬼というよりも、異界の人々が住んでいたのだろうと思われる。いわゆるセンミンである。しかし絵図で見る限り、どうにもそんなスペースもない、狭い水路である。おそらく疎水同様、こういう細い水路は農業用水として角倉了以らがつくったものなのだろう。治水王だった秦河勝(はたのかわかつ)よりもずっとあとの話だ。


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角倉稲荷の晴明墓所


さて、晴明神社の裏側に角倉了以を祭る角倉稲荷(すみのくら・いなり)があり、今はここに晴明墓所第一候補が置かれているが、晴明の最初の墓所はここではなかった。詳しい調査は先達に譲るが、おおまかに言って、最初は五条の中洲、宮川町あたり、往古、鴨川は川幅が非常に広く、というか秀吉の護岸工事がなされていない時代には、氾濫川で、流域面積が一定ではない。鴨川沿いの宮川町は、今の通路で言うなら、京都国立博物館から南座へと抜ける大和大路に面しており、四条の川原からでも、晴明の塚上にたっていた松の木が見えたと記録にある。ちょうどそこが中州で、五条大橋の北東である。鴨川の氾濫を抑えるために、花山天皇が依頼し氾濫を止めるよう言われて晴明は呪文、シキガミ(式神・職神)を駆使して鎮撫し、そこにあとから晴明自身が法城寺という寺を建てた場所である。今、建仁寺と恵比寿社のあるあたりが山崎町だが、往古も山崎町であり、恵比寿社の裏側あたりに法城寺があって、あとから晴明をしのぶ信者たちが塚を造った。この場所が五条橋中島と呼ばれた中州だった。「法城」とはさんずいが水、去が去るで、洪水が去る。城は土を盛って成すで、五条橋中島の中洲を治水・安堵したという寺名になっている。晴明の呪の言葉である。



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新改洛陽并洛外之図
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五条大橋右上の鴨川川端にある三角地帯が五条中島区域。大和大路の建仁寺左に夷とあり、そこが今の恵比寿社で、その裏が晴明塚と記入されている。ここに法城寺と晴明の墓があった。


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その後、応仁の乱もあり、秀吉の区画整理と治水で、鴨川も現在の流れになるのだが、それまでは三条大橋から南は松原橋も団栗橋も四条大橋も架かっていなかったと思われる。四条通りはまだ狭い道でしかなく、今のような三条をしのぐ大繁華街とはほど遠い。小さな橋が架かっていただけである。今でも五条通のほうが非常に巾が広く、なぜ?かと言えば五条大橋は清水寺の入り口だったからだ。五条通全体が清水の参道なのである。特に、五条通が河原町通りと交差するところの広さは、最初筆者が、五条の骨董市でそこに行った時に、どうしてこんなに広いの?と感じたほどの広さである。義経と弁慶がなぜ五条大橋で出会い、その翌日また清水寺で出会うかというと、それだけ平安末期の京では五条通は繁華街だったからだ。



そもそも鴨川は秀吉以前は橋が架けられるような状況に無く、水が少ないときは、大きな中洲がいくつも点在するような状態。大雨で氾濫するとすぐにも橋は流される。法城寺も晴明塚も、おそらく秀吉時代にはすでに流されてしまっていたに違いない。だからここに空也を祭った平清盛の時代には、松原橋を渡った宮川町一帯は六原と呼ばれるような異界であった。えた・ひにんたちのたまり場であろう。そこに清盛は六波羅探題を造り、六波羅と呼ばれるようになる。いわゆる京都のニンピ人どもの管理・監視も重要な役目であった。ゆえにこそ空也を祭ることも重要だったのだろう。せん民たちの信仰を集めていた彼を置くことが、にらみになったのだろう。そもそも仏教が言う六道(ろくどう・りくどう)とは異界のことである。かつて宇治にもその入り口には六地蔵という異界があったわけだが、六道の辻というように、古代には庚申さまが置かれたような辻や三叉路に六地蔵が置かれる。網野義彦の甥っ子の哲学者中沢新一などは特にY字路の別れを、どちらかの道を選ぶ場所として、死生観の象徴であり、記紀などは八岐=やちまたとも言う。天之八衢(あめのやちまた)。いずれにせよ、木の股神がいたのは樹木の股やムロであり、洋の東西を問わず、股には黄泉とこの世の境目があるとされた。六波羅もそんな住民がいたのであろう。そしてそこは河川のすぐそば、湿地で、雨が降れば氾濫し死の世界になり、そういう場所で動物が解体され、トサツと皮革なめし屋の横行した川原なのである。今でも七条塩小路通り(京都駅前の通り)には靴屋が多い。

筆者の通学路だった。あやかしの出ていた路である。当時、大学生の筆者は今熊野に住まったが、そこはちょうど東大路塩小路東イル。すぐそばに京都国立博物館、京都女子大、日吉ヶ丘高校、智積院、妙法院、三十三間堂、大和大路、泉涌寺、赤十字病院、東福寺などなど・・・まあ、どこかしら死の匂いのするような?そんな場所だった。新幹線が音も無く、トンネルをぬけてやってくる・・・トンネルの向こうは米原、岐阜羽島といったそれこそ京都から見れば異界の東国への入り口だった。だから熊野信仰がめばえたのだろう。その今熊野神社の西が伏見稲荷へ通じる本町通、旧日本軍ゆかりの師団街道だった。
 

実はこの晴明塚こそ最初の墓ではなかったか?という説がある。しかしそうした墓所は実は日本各地にいくらでもある。筆者も福井の敦賀に遊んだときに晴明神社があって驚いたことがある。宮川町にあった晴明塚は、記録で民間信者によって土が盛られたとあるので、そういうもののひとつではあろうが、なにしろ晴明が建てた法城寺境内だったわけなので、そういう伝承地である各地の晴明塚や神社の、ここが発信地であったことには間違いない。


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現在の五条大橋から見た鴨川中州
これの数倍以上の規模の中洲が鴨川の東側にはあった。鴨川は広かったのだ。






Kawakatuの戯言、独り言
そもそも安倍晴明は安倍氏の出身だが、安倍氏と賀茂氏には深いかかわりがあったようだ。

そしてその賀茂氏は下賀茂で、松尾の秦氏と婚姻関係にあって、晴明は一時期、上賀茂神社に住んでいた。そこで賀茂忠行・保徳親子から天文を学ぶ。その後、お話では秦氏から出た蘆屋道満と呪術対決して勝つわけだが、伝説では晴明の母親は葛の葉と呼ばれた九尾の狐だとあり、まさかそんなことはないだろうが、葛の葉の生まれ故郷は大阪の泉州の信太の森。安倍氏の出身はやはり大阪市の阿倍野である。

堺市と阿倍野は隣接するが、いずれも秦氏や百済人らの居住地である。つまり筆者は安倍晴明は秦氏の血も引いていたと言いたい訳である。中島の晴明塚には稲荷の別名がある。晴明を稲荷神=ウカノミタマの血縁と、民衆は信じていた。五条中島宮川町と伏見稲荷大社は、本町通りで一本でつながっている。本町通りは深草から稲荷を経て祇園まで通じている。稲荷の秦氏はこの道を使ったはずである。今は疎水が通り、疎水に沿った川端通りへとつながっている。そして晴明神社もまた、すぐ西に太秦そして松尾があるのだ。面白いことに上賀茂神社の摂社・浮田社には晴明の先祖に当たる奈良時代の阿倍仲麻呂と晴明、そして渡来系の神であるスサノオが仲良く祭られている(藤木正直・上賀茂神社社家で、同じく社家・馬場義一の甥。 ばんばよしかず。馬場(ばんば)家は代々上賀茂神社社家で最高裕福な家柄。孫は歌手のばんばひろふみ(さちこ、いちご白書をもう一度)、その妻は歌手の平山美紀(真夏の出来事))。

晴明は五条鴨川を鎮撫とかではなく、実際に治水して、法城寺を建てたに違いない。だから中島の人々は彼を顕彰して塚を造った。その治水の技術とはいったい誰に教わったのか?母方だった秦氏からではないか?大阪阿倍野の秦氏はどこにいたのだろうか?母親がキツネであろうはずはない。それは伝説でしかない。おそらく葛の葉は阿倍野秦氏の娘ではなかったか?そもそも信太という地名や葛に、秦氏の影がくっきりと示されているのではないか?

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信太の森神社の葛の葉廟



藤木さんは上賀茂社家の有力者は、代々西賀茂にある墓所に葬られてきたといい、西川照子はそこに晴明の本当の墓もあるかも知れぬと書いている。はてさて?
法城寺は最初真言宗寺院で、のちに浄土宗となって知恩院に属し、寺の名は心光寺となったという。古代山背葛野の秦氏は蜂岡にあった広隆寺で真言密教とカバラを成していた。だから晴明も真言宗寺院を建てたのだ。







さて、ところがなぜか晴明の墓所の記録は、五条どころかまった離れた嵯峨野の天龍寺裏(右京区嵯峨野角倉町(すみのくら・角倉了以の領地だったところ))にあったことが記録されている。晴明神社宮司の山口さんは「昔からそう伝えられてきた」とおっしゃるが、天龍寺が管理していたその墓所全域が、後世、土地ごと別の寺に売却されている。それを初めて聞いたとき、筆者は目を見張り、あぶり餅の串がのどにささりそうになるほど驚いた記憶がある。最近、ある書物でそれを再確認し、あのあぶり餅屋で聞いた話はほんまやったか!?と、再びびっくり。

その寺の名前はさいぜん戯言に書いた「心光寺(しんこうじ)」という。(瀬田勝哉『洛中洛外の群像 失われた中世京都』「失われた五条橋中島」1994年 発表は1988年「月刊百科」平凡社)

しかしこの寺もやがて場所を変え、山号だけにそのゆかりをとどめているのみ。号は法城山晴明堂心光寺である。今もちゃんとその山号で三条大橋東に存在するが住職が亡くなったそうだ。

心光寺とアクセス https://kyotofukoh.jp/report422.html

三条京阪ターミナルにある池田屋跡の、三条通をはさんだ北側にある。京都花ホテルの裏側あたり。

心光寺は晴明の法城寺の移転された寺であることは、亡き住職の子供の頃まで、寺で使われていた仏具や食器に、法城寺の名があったというので間違いないだろう。しかし今はそうした仏具はないそうだ。処分したのだろう。

宝井 其角の『花洛名所図会』1862に五条大橋東の晴明塚の記録がある。そこには「晴明社」とあって、塚のあったところが法城寺ではなく晴明神社だったと書かれている。寺の中に塚があり、それが江戸時代には晴明神社だったことになる。ということは、現在の晴明神社とはまったく場所が離れることになる。この伝承と晴明神社は、それぞれ洛中と洛北の二箇所で、別々にはじまることがわかる。要するに今の堀川通り一条アガルの晴明神社は、「あとから?」一条天皇が秦氏関係者などの進言?によって?、晴明の屋敷があったという?今の場所一帯に置かれた?
いくら寵愛されたとは言え、いっかいの陰陽師にそれほどの敷地が持てたのかどうか知らない。しかも御所の西と言う一等地だ。???

ついでだが、京都の条里制を見ていると、二条と一条はとんでもなく離れていることが気なる人もいるだろう。三条〜十条まで、まあまあの一定的間隔で並ぶのに、一条だけは非常に離れているのは不思議だ。

さて、宝井其角はもうひとつ書いている。
宮川町の清圓寺(せいえんじ)のそばに晴明社(塚)はあって、宮川町に新道を造るのにその土地を平坦にしたので、道観親王がそのおりに晴明大明神として晴明塚を建てた。塚には紅梅が満開だ。

道観親王とは有名な歌人でもあった蝉丸法師のことである。醍醐天皇の四之宮(第4子)。なぜ蝉丸が晴明の塚や社を建てたのだろうか?しかもその後、清圓寺も消えてしまう。やはりその後の氾濫があったのだろう。

ところが蝉丸はある場所で晴明とともに像として安置保管されていたのだ!
それはまたまたまったく場所が離れたビブレ京都の裏通り(裏寺町)にある誓願寺さんである。この裏寺町は筆者の学生から社会人の期間の、安息の裏道で、よく通った道である。


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寺町ビブレの横から道(図子)があり、まっすぐ京都花月劇場に出る裏道である。夜には往古は屋台が多かった。20円寿司のすみれ寿司とかよく通ったものだし、彫金の店などもあった記憶がある。寺が多いので寺町だが、繁華街の寺町京極、新京極とは並行の道なれど、人影少ないアジールでもある。西川はこういう裏辻のことを「図子 ずし」と言っている。広い大路に対して大路と大路を結ぶ小路,または辻のことである。別名 辻子、十字、辻、通子、厨子、途子などとも書く。御所、晴明神社そばには図子町がある。
 

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手前左が晴明、右が蝉丸、奥は妙法寺教円のそれぞれ木製坐像
なぜこの像が裏寺町誓願寺にやってきたかは次回のお楽しみ。


そしていよいよ晴明墓所もあきらかに?





ここでKawakatu、目がちらちらしてきたので、一旦切り上げて、明日以後続きとしたく思う。ご期待のほど。

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●超巨大地震(マグニチュード  9  以上)は沈み込み帯で起こる
●超巨大地震の発生を予測するには,弾性歪みが蓄積しているか否かを知る必要がある. 
●測地学的データは弾性歪みと非弾性歪みの両方を含むが,両者を分離する地球物理学的方法はない. 
●非弾性歪みは造山運動そのものであり,地質学的方法によって(のみ)評価可能である;    沈み込み帯のダイナミクスを真に理解するには,地質学的データと思考法とが必要. 
●沈み込み帯は個性に富んでいる;    今後,世界の沈み込み型造山帯について地質学的歪速度データを蓄積していくことが必要. 

必要な基礎科目: 構造地質学,地形学,地球年代学,地質調査法,測地学,地震学等; しかし,様々な地質現象について博物学的な広い興味をもつことが将来の独創的発見につながるので,”無駄な”  勉強を沢山しよう! 
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=d3foML63ApQJ&p=%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AB%E5%BF%85%E8%A6%81%E3%81%AA%E5%AD%A6%E5%95%8F+%E5%9C%B0%E8%B3%AA+%E5%9C%B0%E5%BD%A2+%E5%B2%A9%E7%9F%B3&u=www.eps.s.u-tokyo.ac.jp%2Fepenv%2F%25E6%25B1%25A0%25E7%2594%25B0%25E7%25A0%2594%25E7%25A9%25B6%25E7%25B4%25B9%25E4%25BB%258B.pdf#search=%27%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AB%E5%BF%85%E8%A6%81%E3%81%AA%E5%AD%A6%E5%95%8F+%E5%9C%B0%E8%B3%AA+%E5%9C%B0%E5%BD%A2+%E5%B2%A9%E7%9F%B3%27





Kawakatuのたわごと

 筆者なんぞが今一番知りたい情報はなぜ地震は、どこで、どのようなシステムで、どのような地形で、どのような地盤で、どういう岩石基盤で、・・・起こるのか?であり、そういう専門番組が毎週のように人気があってもいいはずの日本であるにも関わらず、番組の多様化時代の中にあって、いまだにそういうレギュラー番組がないのが不思議でしょうがない。世界で最も大地震や火山の多い日本なのに、専門家も、マスコミも、民衆も、ほとんど無関心である。こんな不思議な国民はない。

 もう10数年、古代史だけをやってきたが、結局たどり着いたのは人間の歴史ではなく、災害の歴史が最重要であり、それを引き起こしてきたテクトニクスなのである。なぜ歴史と災害が関係してきたのか?災害が敗者を作り、敗者は記録に残されず、闇に葬られてきたからである。災害は気候変動によって起こり、気候変動と災害は環境を変え、そこに住む人類はよりよい場所を求めて移住してそこで戦闘状態を引き起こした。それが歴史である。人類が動く理由、それが環境変化、気象変化、災害なのである。つまり災害は歴史を作っている。

 ということは、地球環境のデータベースである地質や地形の歴史を知れば、災害を避ける知恵が見えてくるはずなのだ。

 せっかく歴史をやっていても、人類ばかり見ていて、そこに気がついてない人が多すぎる気がする。まるで大災害がやてくるのをあきらめて待っている?念じてばかりいたのは古代人なのだ。まるで現代人も古代人のまんまに見えてしまう。災害を避けるにはスサノオ=ヒーローが来ればいいのではない。防災ノウハウと危機認知が一番重要なのだ。


番組誰かやって欲しいね。日本の政治家にとっても、災害管理と防災は最重要な宿題のはず。政治・経済・貿易・外交・メンタル・・・どれをとっても日本人最大の課題は災害列島日本に住んでいることそのものだろう。ただでそういう勉強させるバラエティを作るべきだ。池上あたりがもっと勉強してやってほしい。


 図説や動画をうまく使えば、絶対今の日本人は観るはずである。自分の今いる場所は安全なのか?安全でない理由。そういう問題意識を、たとえ今は無知な民衆にも、わかりやすく広めることは、そのまま防災につながる。危機意識につながる。意味のある税金の使い方なのだ。NHK!!そういうことのために国民はあんたらに金を出してまで、わざわざ生かしているんだぜ。


レギュラー番組でよろしく。



   

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スロースリップ


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四国でスロースリップが起きている!サイトより https://fusitan.net/0211/

プレートの滑り込みの速度は状況によってさまざま。
遅い滑り込みもあれば、速い滑り込みもある。
また滑り込む側のプレートで滑り込みが起きれば、当然、かぶさったプレートの、その反動による「かぶさり」現象も起こることになる。


両手を重ねてみたらわかりやすい。
片手の手のひらをもうひとつの片手の手の甲に乗せて、左右に動かしてみよう。
だいたい感じがつかめるはず。

そのすべりの中で、なんらかの地中の障害などで滑りが遅くなるのがスロースリップだ。するといっぺんに大きな揺れにはならず、小さな揺れが数日間続くことになる。
先日の千葉県東方沖でも、やはり数回の小さな揺れが続く状況があった。その後、昨日の早朝に大き目の揺れになった。



千葉県房総半島東方沖にはプレートの合わせ目がある。つまり日本海溝である。
ところがこの海溝は相模トラフを挟んで、南海トラフにもつながっている。当然、影響しあう。

実は直前に鹿児島県の太平洋側で、千葉よりも大きな地震が起きていた。昨日、ニュースブログのほうに、筆者は中央構造線の両端で天秤作用があったのではないか?旨記事を書いていた。しかし、それもあろうけれど、今朝の東大地震研究所の意見ではプレート同志のスロースリップであるとしていた。そしてすでに数日前の数回の小さな揺れを見て、会見で千葉県東方沖の危険性を喚起する情報を流していたと。

しかしマスコミはこの情報を全国に流していない。関東地方では流したのかもしれないが、地震を地域的な視線でしかとらえていないのであろう。

ところがプレートも海溝もトラフも、みなつながっているのである。鹿児島の地震と千葉の地震を、ジャーナリストたちはまだ、いまだに、縄文時代の人間のように、江戸時代の人間のように、原始人のように、いまだにつなげて考えられない人種。それが日本のジャーナリズムである。




なお南海トラフでも現在スロースリップが多発しているという意見もある。

今後30年以内の発生確率が高い南海トラフ地震について、気象庁は26日、定例の検討会を開き「2月下旬以降、四国中西部でプレートのスロースリップ(ゆっくりすべり)による地殻変動が起きている」と明らかにした。
スロースリップが観測されたのは、2017年7月以来、約9カ月ぶりだという。
四国の南から駿河湾にかけて伸びる南海トラフ沿いでは、100〜200年間のスパンでマグニチュード(M)8を上回る巨大地震が起きており、政府の地震調査研究推進本部は昨年12月、今後30年以内に70%の確率で発生すると発表している。



南海トラフ四国沖で近々、大地震は起こるだろう。
そして伊方原発と川内原発が大きな損傷を引き起こすだろう。
おそらく相模湾でも連動して揺れるだろう。
静岡の原発も損害を受けるに違いない。
高知県や宮崎県は海に沈むかも知れない。


今のうちに書いておくことにしよう。
もちろん予告は大げさにしておくほうがいいに決まっている。
そうじゃないと、誰一人動かないからだ。

いずれ来ると言うのは早いほうがいい。
たとえそれが百年後であって、自分がそしりを受けることになろうとも。
つまり予告・予知には、自分を犠牲にするリスクがあり、それを聞く側にはなんのリスクもない。ところが、そいつらはあらん限りの罵声・罵倒で彼を批判する。百年後、やっと彼の冤罪は許され、逆に英雄となる。


そんなような状況が昨日以後の千葉沖地震予告として、ネットでえらいわいわい持ち上げられている。烏合の衆とはそういうものである。











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旧石器時代の奇妙な穴の正体は?NHK首都圏ニュース 6月7日

神奈川県の三浦半島・船久保遺跡(横須賀市)は3万年前の旧石器時代の遺跡。
そこで不思議な竪穴が並んでいるのが見つかったそうだ。(発見は5月4日)

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神奈川・多摩地域タウンニュース横須賀版



 「三浦縦貫道路林入口至近にある「船久保遺跡」(林5の1659)から、約3万年前の旧石器時代に掘られた「陥(おと)し穴」とされる遺構27基が見つかった。神奈川県横須賀土木事務所の委託を受けて発掘作業を行っている玉川文化財研究所が発表した。狩猟用に掘られたと考えられており、日本最古級。長方形と円形の形状があり、前者の発見は全国でも例がないという。」

 船久保遺跡は三浦半島の西側、小田和湾を見渡せる標高30〜40mの丘陵地に位置。旧石器から弥生時代の遺跡で2013年の春から発掘調査が行われ、今年が最終年度となる。

 これまでに旧石器時代の遺構・遺物のほかに、縄文時代早期の「陥し穴」群と土器片や石器、弥生時代後期の竪穴建物跡2軒と土器片が出土している(小保戸遺跡)。
氷河期とも重なるこの時代の「陥し穴」は全国的に見ても稀であり、本州での発見は静岡県東部と船久保遺跡のある三浦半島西側の数カ所にとどまる。」同上タウンニュースより

相模原市小保戸遺跡縄文時代の落とし穴



日本列島に人類が登場するのは約3万8千年前説が有力。
相模地方はその当時から縄文時代にかけてよい猟場だったようだ。
落とし穴はある程度の数並べて掘り、周囲をブッシュで囲い込んで動物を誘い込んでいたらしい。形状は丸や四角があった。

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丸はイノシシ、四角はシカ用だったらしい。




相模の先祖は狩猟上手だったようである。









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●説教節「さんせい太夫」と森鴎外の「山椒大夫」
「岩城の判官正氏の御台所、その子安寿とつし王(厨子王)が、帝から安堵の令旨を賜るべく都へと向かう途中、人買いにたぶらかされて親子離れ離れに売られ、姉弟は丹後の長者「山椒太夫(三庄太夫)」のもとで奴隷として辛酸をなめる。姉の安寿は弟を脱走させたため山椒太夫の息子・三郎によって凄惨な拷問を受けた末に殺されてしまう。つし王は神仏により救われて出世し、山椒太夫父子に苛烈な復讐を行う。」

あらすじ
「平安時代の末期、陸奥国の掾であった平正氏は、上役の罪に連座して筑紫国へ左遷された。妻と、安寿・厨子王の幼い姉弟は、正氏に会いに行く途中、越後国で人買いに騙され、離ればなれになってしまった。安寿と厨子王は、丹後国の苛烈な荘園領主・山椒大夫に売られ、奴隷としてこき使われるようになる。やがて、成長したふたりは、荘園から脱走することを考えるようになった。そしてある日、安寿は厨子王に脱走をすすめる。厨子王は都への上洛を果たし、関白藤原師実の知遇を得て丹後に国司として赴任(実際は遥任であるが)、厨子王の脱走とともに入水した姉の菩提をとむらうとともに、丹後一帯での人買いを禁止。山椒大夫はやむなく、奴隷を解放し賃金労働者として雇うようになる。その後、母が佐渡国にいると聞きつけた厨子王は、佐渡にむかい、盲人となった母親に再会する。」

「世に知られた安寿・厨子王伝説をいかにして小説『山椒大夫』に仕立てたかを随筆「歴史其儘と歴史離れ」で鴎外自らが具体的に語っている。それによると、伝説の筋書きを基にしながら、登場人物の年齢から実際の年号を振り当て、そのうえで辻褄が合わない、あるいは鴎外の好みに合わない部分に小説的な脚色を加えていったと述べている[1]。鴎外は小説化にあたり、安寿の拷問や山椒大夫が処刑される場面など、原話で聴かせ所として具体的に描写される残酷な場面はほとんど切り捨てている。また、賃金を支払うよう命じられた一家が、その後むしろ一層富み栄えたというのも森鴎外のオリジナルである。」Wiki山椒太夫





「「いわき市」に「安寿と厨子王 誕生の地」という名所が、いつのまにやら できているそうな。

 「安寿と厨子王」の物語は、元々は 中世の「説教節」で丹後(現京都府)地方の伝説 『さんせい太夫』。それを 森 鴎外が 小説『山椒太夫』にし、映画にも なって広まった。

 森鴎外の『山椒太夫』では、二人が住んでいた所を「岩代国」としている。ところがどっこい「岩代国」と いう国は、明治2年になってできた国なのだ。 平安時代には無かった。平安時代は「陸奥国」一国。 江戸時は「陸奥の国」と「出羽の国」だった。そして、 戊辰戦争直後の明治2年、陸奥国は「岩代国、磐城国、 陸前国、陸中国」の4カ国に分けられた。しかし、それも わずか3年だけの ことだったのだ。

 福島県の西半分が「岩代(いわしろ)国」、東が「岩城(いわき)の国」である。

さて、「安寿と厨子王」の原点である「説教節」の『さんせい太夫』では、二人の父を「岩城(いわき)判官」と している。この「岩城判官」という名から、「いわき市」が安寿と厨子王の生誕地と 名乗りをあげた。

しかし『説教節』では、「岩城判官」は「奥州50郡を治める平正氏」とし、伊達の郡(こおり)、信夫(しのぶ)の庄の住人」というのだから、「安寿と厨子王」の住居は、
 「現在の福島市や三春町周辺」となる。福島県の中通り地方だ。そして、その近辺でも、あちこちに「伝説の地」の碑が建てられているそうな。そもそもは、この話は、まったく荒唐無稽な創り話なのだが。」
https://blog.goo.ne.jp/goo3360_february/e/b83936b4709d510eeb039abb2fb1bc79

福島浜通りと言えばあの大震災・大津波の震源地的な場所でもある。漁師町だが、古くは以前も書いたかと思うがそういうことがあっておかしくない地域だった。いやそもそも漁師町の、その地域の隔絶された場所・・・岬の突端や、山で囲まれた小さな海岸には、全国的に古いままのサンクチュアリ的場所がまだ多い。それは歩いてみたらすぐにわかる。津波はそういう場所に必ず来るし、そういう場所にはある種の特殊な近代施設も同居する。これはここを長く読まれた人や民俗学に詳しい方なら、暗黙の了解事項だろう。



安寿あんじゅと厨子王ずしおうの物語
「この母子像はあの有名な森鴎外の小説「山椒大夫さんしょうだゆう」にでてくる姉の安寿(万寿まんじゅ)と弟の厨子王(千勝ちしょう)、そしてお母さんの旅の姿です。

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今から約1000年の昔、いわき地方を良くしようとする仕事についていたお父さんの平政道たいらのまさみちは、小山田おやまだ(今の山田町)の桜を見物に行った帰り姥うばヶ岳たけ(近くの水道バックのところ)でおそわれ命を落しました。
 次の年、母と子は家来の大村次郎と召使めしつかいの小笹こざさをともなってお母さんの実家のある信夫しのぶ(今の福島市)に逃れましたが、途中大村次郎は追っ手と戦い戦死してしまいました。

 主従の一行はお父さんが殺されたことを訴えるためにさらに都(今の京都)へ向かいました。

ところが途中越後えちごの国(今の新潟)で悪者にだまされて母と子は別々の船に乗せられ、安寿と厨子王は丹後たんごの国の山椒大夫という人買ひとかいに売られ、お母さんは佐渡へ売られてしまいました。

 召使の小笹は船から身を投げ自殺しました。
 安寿と厨子王のつらい生活が3年ほど続きました。
 水がぬるみ草が萌もえる季節がやってきました。

ある日、安寿は自分の身を捨てて厨子王を山椒大夫のところから逃れさせました。
やがて立派に成人し朝廷に仕える身となった厨子王は、人買いを禁止してよい政治を行ない、父の仇あだを出羽でわ神社付近(東田町あずまだまち)で討ちました。
そして盲目もうもくになったお母さんと佐渡で再会をはたしました。
いわき市のこの金山町かねやままちの周辺には安寿と厨子王にまつわるゆかりの地が沢山あります。

 親子、姉弟のかたく結ばれた愛情を物語るこの母子像の姿は、永くのちの世まで伝えてゆきたいものです。」
 平成12年
 金山の昔を伝える会
(説明板より)

安寿と厨子王
「安寿と厨子王丸[1](あんじゅ-ずしおうまる)は日本の童話。『安寿と厨子王』とも言う。悲劇的な運命にもてあそばれる姉と弟を描く。
中世に成立した説経節『さんせう太夫』を原作として浄瑠璃などの演目で演じられてきたものを子供向けに改変したもの。ゆかりのある各地で民話化している。近世になり絵本などの媒体にて児童文学ともなっている。」Wiki安寿と厨子王
http://www.geocities.jp/bane2161/anjyutozusiou.htm





「山椒大夫」「安寿と厨子王丸」の話はもともと説教節など、全国各地に存在した話を森鴎外が脚色した話。だからそもそもどこの地域の話かどうかわからない。
どこからこういう「人買い」譚が出てくるのかと考えれば、古代から、坂上田村麻呂の蝦夷討伐や、アテルィの戦いなどで蝦夷が俘囚となり西日本各地へ連行移住させられるという、政治的な人種の均一化=同化政策があってのことではなかろうかと考えている。

東北には説教節の一種「お岩木さま一代記」という形でイタコの口承で伝わっていたらしいと西川照子は言う。

京都の南にある朱雀権現堂には、厨子王丸が背負っていた皮籠(かわこ)が残されているそうな。
http://webheibon.jp/sekkyoubushi/2014/09/post-19.html

朱雀は陰陽五行の南の方位で、京都では七条朱雀を言うが、七条大路と旧朱雀大路との交差点・七条七本松交差点あたりである。筆者が40数年前、塩小路東大路から大学へ通っていた道沿いにある。

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源為義の墓があるので有名らしい。









 「『三代実録』によれば、この地は「三災不動の地」といわれ、疫神祭がおこなわれる地であった。

 権現寺の寺伝によれば、実際に平安時代から鎌倉時代にかけて災禍に見舞われなかったという。

 保元の乱後、源為義(みなもとのためよし/源義朝[みなもとのよしとも]の父)はこの地で斬られた。

 『保元物語』には、為義が斬られたのを知った為義の妻がこの地を訪れたが、何の名残も見えなかったという記述がある。

 鎌倉時代以来、この地に祇陀林寺(江戸時代中期に「権現寺」に改称)があり、「朱雀権現堂」「朱雀地蔵堂」と呼ばれた。

 寺の前には源為義の塚と供養塔があった。
 権現寺は明治四十四(1911)年、梅小路貨物ヤードの整備に伴い、七条通と七本松通との交差点を下がった地点に移転し、源為義の塚と供養塔も寺とともに移転した。」
http://www.mutsunohana.net/miyako/oji-koji/shichijo-suzaku.htm?201708




しかし京都に平安京ができた頃までは、京の朱雀と言えば今の八幡市のあたりにあった巨椋池(おぐらいけ)のことである。いわゆる三川合流の大湿地が、平安京の南の鬼門。よく言えば守りの要(かなめ)だった。それで岩清水八幡宮が置かれたわけだろうが、四至(しいし)の守護に聖獣(玄武=船岡山・朱雀=おぐら池・青龍=鴨川・白虎=山陰道入り口老の坂か愛宕山)を置いた、中国の四神相応思想が元である。この思想は古くは5・6世紀古墳時代の筑紫にすでにあり、畿内では、確かなところでは7世紀の高松塚やキトラ古墳に描かれている。

で、その後今の七条通と旧朱雀通りの交差点が朱雀とされ、ここに権現寺が置かれた。中世には京都は小さくなってしまったのだろう。秀吉の頃にはおぐら池も干拓され、鴨川も治水工事されて、お土居も造られ、さらにコンパクトに様変わりした。

それが今の朱雀権現堂があるあたりか?聖徳太子ゆかりの寺院と言われる。ここのお顔が真っ黒な聖徳太子像が、なぜかはしらねど、「説教節」の金勝地蔵に重ねられ、太子像は厨子王の姿であるという俗説に。権現寺伝承にも同じことが書かれた。どうもそのあたりは後世の混乱があるようだが、厨子王のような人買いされた物語と聖徳太子伝説は、どうも結びつきやすいものらしい。

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西川照子『幻の京都』より 
往古から信者に触られて顔が真っ黒になった聖徳太子像


さんせい太夫そのものが、そもそも起源がよくわからぬお話だし、聖徳太子伝説は京都の秦氏の得意とするおはなしだから、ここに見事にそういう混成した伝承が残ったのだろうか?厨子王の名が、太子の玉虫厨子を思わせたからだろうか?ほんらい「つし王」と濁らないそうなのだが。厨子を背負っていたのは乞食坊主や阿弥といった厄払いの徒で、それをシャーマンとしての太夫とも呼んでいたのが中世から近世である。家康の父や、秀吉の父がともに阿弥であった。

「やっくはらいましょ」と年末の落語でよく出てくるのが風来の阿弥である。ほかの噺に、籠ではないが「いかき」などのざるを売りあるくものが出てくる。(「米上げいかき」)
年末年始に「しょうけ」「いかき」「ほうき」「みのかさ」「箕」あるいは正月の注連縄といった竹やしゅろで編んだ「あらもの」を行商するのは、主として「ちゃせん」「箕作り」「竹細工」などの埒外の賎民であったわけだが、結局のところ京都の南のはじっこの朱雀権現寺なんぞには、そうした人々が「駆け込む」「逃げ込む」サンクチュアリとしての機能があったのかも知れない。これは西川や師匠の梅原、あるいはそのまた師匠でもある柳田らも感じていたことではないか?

蝦夷俘囚にしても、出雲の阿国にしても、秦氏にしても、逃亡者、敗北者である。聖徳太子の大元である蘇我氏もそうだし、物部氏や和邇氏もそうであろう。そういうすべてを聖徳太子は救う存在だという、一種の現実逃避がそこにはありそうだ。すべての厄を、忘れさせてくれる救いが、民衆には必要だったのである。スケープゴート(みせしめ)の正反対の観念。つまり救世観音の救世とは、西欧で言う救世主なのではなかったか?

はてさて、古代は日本が狭かった。そして京都は懐が深い場所だった。どうやらそれは秦氏がそこにいたからかも知れぬ?


丹後でも岩木山でも、この人買い話の主役はもともと安寿のほうだった。安寿は神としてお岩木山の山頂の神として祭られている。






「ツィゴイネルワイゼン」予告編をひとつ前の記事に貼り付けた理由もそこにあるのよ。




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まったく関係がなさそうな離れた場所の、時代も違う謎の歴史をつないでしまおうという試みである。数回連続で、できることなら京都を拠点に、各地にジャンプしてみよう。いよいよ本編。






かつて貴布禰の社人には舌・鳥居・願などがあったと言う。
舌(ぜつ)氏は牛鬼(舌さん子孫は「うしおに」と読ませる)だったと言われる仏国童子の子孫を自称している氏族。貴船山の某所に磐座があって、そこに童子は降臨したと言う。かつて貴船神社宮司を代々世襲で務めてきて、やがて社家になったが、今は分家が一軒残るきりになり、近年、その子孫である舌勇治(ぜつ・ゆうじ)さんも亡くなったと西川照子※が書いている。



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貴船川源流・雨乞いの滝



このサイトの方がわざわざそこを訪ねた記事が見つかったので、画像を貼っておこう。
鏡岩というらしい。かなり山深いところにあるという。貴船の水の源であろう。

丑の年、丑の月、丑の日、丑の刻に、
貴船大神が天下万民救済のために、
仏国童子(牛鬼)を従者として
貴船山中腹の鏡岩に降臨した。「貴布祢雙紙」(きふねぞうし)
https://blog.goo.ne.jp/tabijinja/e/88b264eaae35788300803524d9d53075
 
「貴船神社に『黄船社秘書』という和綴の小冊子がある。表紙には「不許他見」と記されており、誰にでも安易に見せることは許されていない。社人・舌宗富により宝暦4年(1754)以降に著されたものと考えられ、内容に興味深いものが多く含まれている。そのなかに納められている「貴布祢雙紙」(きふねぞうし)は、社人・舌家の縁起を知るうえで非常に貴重なものである。
 
「貴布祢雙紙」によれば、貴船明神が天下万民救済のために、天上界から貴船山中腹の鏡岩に御降臨され、そのお共をしたのが仏国童子(牛鬼ともいう) である。ところが、この仏国童子がはなはだ饒舌(じょうぜつ)で、神戒をも顧みず、神界の秘め事の一部始終を悉く他言したので貴船明神の怒りに触れ、その舌を八つ裂きにされてしまった。そして貴船を追放され、吉野の山に逃げた。そこで一時は五鬼を従えて首領となったが、程なく走り帰って、密かに鏡岩の蔭に隠れて謹慎していたところ、ようやくその罪を許されることになった。舌家では、この鏡岩のところで「屈んで」謹慎をしていた岩だから、鏡岩を「屈岩」と書いて伝えている。この初代・仏国童子の子ができ、僧国童子と名付けた。
 
ある時、仏国童子が貴船明神の御弓、鉄にて打った面二寸三分宛の御弓を取り出し、二張まで折ってしまった。余りの悪事に怒った大明神は、童子の手を鉄のクサリ七筋を以って括ったが、少しもひるまず引きちぎってしまう。大明神は今度は二間四面の大石を膂(背骨)に掛け置いたが、童子はこれも苦ともしなかったので大明神は心を痛めた。この童子、食べ物は一日三升三合食べたが、百三十歳の時カミナリに打たれて死んでしまった。

二代目・僧国童子は少年の頃から丹生大明神(貴船大神と御同体)に奉仕していたが、後に吉野の五鬼を従えて帰り、父に代わって神勤怠りなかったが百二歳でなくなった。僧国童子の子を法国童子と云い、その子を安国童子と名付け、以上四代目まで鬼の形をしていた。五代目よりは普通の人の形となり子孫代々繁昌して大明神に仕えた。そして祖先を忘れぬ為に名を「舌」と名乗った。 (以下略)」
https://ja-jp.facebook.com/notes/%E8%B2%B4%E8%88%B9%E7%A5%9E%E7%A4%BE/%E8%B2%B4%E8%88%B9%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%81%A8%E7%A4%BE%E4%BA%BA%E8%88%8C%E5%AE%B6-%E7%89%9B%E9%AC%BC%E4%BC%9D%E8%AA%AC/487935831259546/



ほかにも『黄船社秘書』の 「貴布祢雙紙秘伝之巻」に舌家の家紋に関する記載が見られるという。「舌」というものは、善用すれば理を弁じ、物を格し、道を講じ、和を謀るが、もし悪用すれば初代の如く秘を発き、密を洩らし、神を犯し、聖を汚すが故に、永く子孫を戒めるために、舌(ぜつ)と名のるようになった、という。

仏国童子は貴船の神が神代にここへ降りたときに、家臣として連れ添って降臨した。貴船の神は地上に降臨したら天上界のことは決してしゃべってはならぬ、ときつく言われていたのに、降りたとたんに人々にじゃんじゃん喋り捲ったものだから、貴船大明神はその舌を八つ裂きにしてしまう。

「ここにはもういられない」と恥じ入って、童子は奈良の吉野山に逃げ込み役の行者の配下の後鬼などの家臣を作り、隠棲。そのままおとなしくしていればよいものを、貴船恋しさに戻ってくる。で、この鏡岩に消沈して座っていた。大明神もさすがに哀れに思い三年後、これまた懲りないことに童子を家臣に戻してやった。(葛城の役の行者との葛城氏と鴨氏の婚姻関係をここに言っていると見る)

いつのまにかどこかの女性とちぎりを結んだのか子に恵まれる。それを僧国童子となづけたが、これまたおやじをしのぐ悪童ぶりで、大明神の大切な弓を二張、へし折ってしまう。大明神は怒って童子を七回りも鎖でしばるが、童子はものともせずにこれを引ききってしまう。どうしたもんかとあきれはてていると、百三十歳になった日に、落雷とともになぜか天上界へ去ってしまう。

仏国童子の子孫は五代目からは牛鬼の姿から人間の姿になり、姓を舌と名乗った。初代が舌香保登と言ったそうだ。家紋は菱形の中に八。舌姓はおしゃべりを戒め反省して、今後しゃべらぬように、菱形は口の形で、八は舌が八つ裂きにされた形だと言う。なぜ口が菱形かと言うと、舌氏百何代目かの舌佐衛門守(ぜつ・さえもんのかみ)の書いた「不許他見 貴舩人舌氏秘書」に、菱形は天地四方を表し、魔よけである。八は天地太平を表す」とある。

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舌氏家紋

2組の対辺は互いに平行で長さは等しい 2組の対角の大きさも互いに等しい 対角線がそれぞれの中点で垂直に交わる Wiki菱形

まれな形状である。自然界には少ない。
真ん中で切ると二等辺三角形、つまり魔除けである三角鋸歯文が二つできる。



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古墳の装飾、中国の墓の仏教壁画、武家の家紋、やくざの代紋、海人族の鯨面文身の幾何学模様などに使われてきた。花菱、剣菱、三菱、山菱などなど。


(ちなみに貴船神社の神紋は今は三つ巴と二つ葵葉だが、上賀茂神社は葵。おそらく徳川家のときにそうなったのであり(梶まつりから藤祭から葵祭りへの変化とともに)元は梶の葉ではないか?ならばそれはタケミナカタを祭る長野の諏訪大社も梶葉で同じとなる。梶は舟の舵に通じる。貴船末社に舵取り社がある。http://kifunejinja.jp/access/kifunemap/detail.html
ウカノミタマを祭ってある。諏訪は安曇氏やタケミナカタで海人族。貴船・上賀茂も海人族である。

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賀茂大神=高龗神(鴨氏貴船神)=アジスキタカヒコネをサンカたちは「かじすき」とも呼ぶ。そして紙漉き職人が梶の葉を家紋とし、「かじすき」を「かみすき」と転化している。)


なるほど、やっと菱形の意味がわかった。魔よけなのだ。すると中国や九州の壁画に描かれる菱形もそういう聖なる形状なのだとわかった。ならば▲△と同じ意味だ。鋸歯文・連続三角文と同じくサメなどの魔物よけだ。つまり舌氏も鴨氏もやはり海人族なのだ。海士の刺青(鯨面)に描かれていた絵柄と同じである。そういえばやくざの代紋にも菱形は多い。彼らも最初は大阪天満の海人族漁師中卸だったからだ。

仏国童子が牛鬼の姿だったという伝承は、牛鬼が吉備の児島湾・牛窓の魔物だったことを思い出させる。児島湾もおそらく賀茂氏などの海人族の盤居する瀬戸内交通の要所である。牛窓の地名は児島湾に出没する牛鬼が「まどって出てくる」に由来するという。かつては小島半島は島で、狭い海峡に関を設けて海上通交料金を取る四国海賊が巣食っていた。藤原純友は彼らとつるんで謀反を起こす。のちの村上・越智・九鬼・潤島などの三島神=闇淤加美(くらおかみ・大山積神)を奉じた瀬戸内水軍はその子孫である。そういう伝統が義経の弁慶なども作らせたに違いない。何事かにつけて謀反や反駁するときに彼らはいつも関わっている。

願(がん)氏という氏族も貴船にある。貴船大明神は水・船・雨乞い、雷神であり、賀茂氏は水の管理者である。ゆく先々で船で河川を上り、水の湧く聖地を探した人々だ。だから下賀茂の二川合流の出町にも住まい、京都の治水というところで氾濫が多かった葛野松尾の秦氏の堰造営、高野・鴨川の治水という部分で合体するのだろう。のちに秀吉が鴨川開発のさいに、魚行商の今宮供御人たちが八坂にスサノヲ=牛頭天王を祭ったのも、そういう牛鬼伝説が上流の水源である貴船にあったからだろう。今宮はえべっさんだ。今宮恵比寿とは事代主のことなのである。えびすとは異界のものども=異常出産児=異形の出自のものどもを指すのである。つまり渡来や蝦夷やあらゆる異民族。それがげい面文身の「倭の水人」にも適用され、賀茂氏のアジスキタカヒコネ=高龗神(たかおかみ・鴨氏貴船神)=賀茂大神がこれを管理したのだ。「氏、首、人部、部」という秦氏と同様の家人構成を持つ。上は貴族・豪族から下は部民・海民まで何層ものノット血脈一族で構成される。

葵祭で、賀茂氏の玉依姫は上賀茂から下鴨へ「里帰り」するのだが、貴船に入るときには黄色い船に乗って淀川から鴨川を遡り、下鴨へ嫁入りする。秦氏という「丹塗り矢」異形の一族に嫁入りするために。そしてどの氏族にもいたはずの玉依姫は、託宣するシャーマンである。その願いが氏族の名となったのが願氏だろう。

また鳥居は船を表すものという。いわゆる九州装飾古墳の「もがり舟と鳥」やエジプトにもある鳥のとまった生命の魂の船であろう。願氏も舌氏も、そして鳥居氏も卜占や託宣を行うシャーマンだったに違いない。すると鴨脚(いちょう)氏もそうなのだろう。しかし鴨氏の祖神アジスキタカヒコネはなぜ出雲からやってきたのか?彼らも秦氏同様、伽耶滅亡のときに葛城襲津彦につれられて葛城に戻った氏族だ。そのとき着岸した場所こそが出雲なのだろう。出雲はコスモポリタン的な公共港だったのだ。古志三国の九頭竜川の継体大王=古志のヤマタノオロチがそこを奪うまでは。

出雲はフリーダムだった。
北の縄文人、南の宗像や安曇、朝鮮のさまざまの人種が共有していた港=神門(かんど)だったのだ。そこを奪い、鉄の武器で平定したのはではスサノオだったのか?それはつまり新羅の人か?
山口県土井ヶ浜や鳥取県青谷上寺地には、スキタイ系渡来人の遺骨や痕跡があり、いくさがあった痕跡がある。騎馬遊牧民が立てていた中国北東部の紀元前6000年前の遼河には、環状列石を作る北方系文化があって、秋田や青森の縄文人と交流していた。では彼らウラル系遺伝子を持つ人々が出雲を奪ったのか?『日本書紀』はそれをあとから大和の手柄にしてしまったのか?






京都は奥が深い。
遡ると何に出くわすかわからぬ歴史がある。
新しい首都が古い首都のうそまで暴いてしまう。
そして日本人3万年の歴史まで、秘書として隠し持ち続けている。





次回、「安寿と厨子王」ゆかりの朱雀権現堂。
次に晴明神社。

おたのしみに。




※西川照子『幻の、京都 隠れた歴史の深淵を訪ねる』平成26
西川は梅原猛のまな弟子とも言える雑誌編集者。










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