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嵯峨とは、山に高低があって、険しい様子。山がぎざぎざしていて不ぞろいな様子をさす言葉。
https://dic.nicovideo.jp/a/%E5%B5%AF%E5%B3%A8

佐賀とは 4佐嘉川(現在の嘉瀬川)が逆流する地名。
http://chimei-allguide.com/41/000.html

「河川特性 嘉瀬川は、山地部に降った雨が一気に佐賀平野に流入し、災害をまき起こす暴れ川であったため、古くから治水、利水事業が行われており、その中でも成富兵庫(1560-1634)の石井樋が有名です。 また、河床が堤内地の平野より高い天井河川であるため、ひとたび堤防が破堤すれば、佐賀市街地をはじめとする流域市町村は、大きな被害となる要素をもっています。 主な洪水の記録」国土交通省九州
http://www.qsr.mlit.go.jp/takeo/kasegawa/

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嘉瀬川で検索すれば、まず氾濫とか水位とかの単語がくっついて表示されるほど、暴れる川である。なぜか?
「上流部が急峻な山間部. 佐賀平野を囲む脊振山地は急峻であることから、ここを源流とする川の多くが大雨の時などは降った雨が集まり一気に下流へ流れるので、洪水が起こりやすい地形になっています。」上記同サイト
天井川である理由は有明海から大量の土砂が逆流するからである。そこへ雨が降ると、そばにある背振山地の急峻な崖から大量の流れ込みが起こり、容易に氾濫する。そういう険しいところだから「さがしき土地」でさが。


「さが」は要するに「さか」。
往古は日本語の濁音は濁らない。
さかは坂、逆である。佐賀県の佐賀は、逆流する川の名前から来たというのが最もよそうである。栄える、坂は選べない。佐賀県は坂がないし、風土記の楠があったから栄える、とは思えない。西日本で楠は珍しくもない樹木。ただし生命・宇宙の樹としてよくクスが登場する。けれど往古日本でクスと言えばむしろ正反対の棺に使う香木だった。そのわけは腐敗を防止する樟脳がクスから作られるのでわかるはず。


一方京都の嵯峨野の嵯峨は、地形。でこぼこしてとがっている荒れた土地。まさに秦氏入植前の嵯峨野=葛野郡はそういう野放し状態だったはずだ。
ただし、ぎざぎざしているとは、つまりは「さがしき」状態であるから、そういう地形の表現そのものは「逆」に始まるだろう。ならば地名としては嵯峨も佐賀も同じだったことになる。

「さがし」とは?
険しいこと。傾斜が激しい。
「さしもさがしき東坂(ひんがしざか)」平家二・一行 阿闍梨之沙汰

ちなみに濁らずに「さかし」だと賢いこと。
大分方言に「さかしい=賢い」がある。


さて、佐賀と嵯峨には共に険しい地形と言う共通点があった。そういう視点で、ぜひ、あなたのお近くの「さが」地名の地形をごらんになってください。避難しなくていいですか?おたくのさがは。

①佐賀県佐賀市発祥。平安時代に「佐嘉」の表記で記録のある地名。青森県下北郡風間浦村下風呂(大字)、福島県耶麻郡猪苗代町磐根湯達沢で伝承あり。
②茨城県かすみがうら市坂(サカ(旧:佐賀郷))発祥。平安時代から記録のある地名。
坂も語源は逆と同じである。逆方向の傾斜。
③大分県大分市佐賀関発祥。鎌倉時代から記録のある地名。地名は「坂関」とも表記した。
坂の多い半島である。
④京都府嵯峨野
⑤神奈川県相模原
⑥各地の相良
さがらも相模原も元は荒れ果てた原野地名である。

ほかにありますか?



ちなみに佐賀県の吉野ヶ里。
「よしの」という土地はだいたい全国的に「悪し」が逆転した地名。
筑後川が逆流ないしは暴れる。ただおかげで肥沃な田園地帯にもなれた。
ゆえにここに大きな遺跡がある。
「よしのがり」なぜさとではなく「り」と音読み?
渡来人が多く入ったから。朝鮮でも里地名が多い。

神崎郡は?
「神がいる城」
かなそな国か?違う。「かなそな」
金鑚神社(かなさなじんじゃ、金鑽神社)は、埼玉県児玉郡神川町字二ノ宮













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日本には太平洋とか大西洋とか日本海とか瀬戸内海といった、おおきく海をくくった言葉・地名は明治時代までなかった。それらはすべて西洋地理学が名づけている。

瀬戸内海に名前はなかった。日本では海は、自前の海=灘としか言っていない。●●灘は狭い範囲で、陸から見渡せる程度である。そういう灘の集まりであり、ばらばらである。近隣が寄ってきてすべての海域をナンと呼ぶかの必要がなかったということなのだ。つまりそれは過去の日本人の越境しない性格、生き方そのもを表していることになろう。それは地形が複雑で容易に隣近所の国々とつきあえないからだ。だから方言が山ほどある。


幕末来訪した西欧地理学者たちは、瀬戸内を内陸海と言い始めていた。明治になって政府が対抗してオリジナルな「瀬戸内海」を決めた。それまで瀬戸内海には名前がない。

外海とか内海とは言ったかもしれない。それはすべての海に対しての漁師たちの考え方だ。瀬戸内では瀬戸内海は「せと」の集まりである。瀬戸とは狭い戸である。戸とは海峡である。瀬戸内海は島々が山ほどあって、狭い海峡だらけである。そこを海流が通り抜ける。だから非常に航海が難しい。

一口に海流と言ったが、海流は黒潮の流れなので、瀬戸内では潮流というのが正しい。瀬戸内海では海水はほとんど流れ出る、流れ込むの現象がない。回流しない海で、わずかに四ヶ所の出入り口しかない。関門海峡、豊後水道、鳴門海峡、紀伊水道である。すべて狭い。狭いから潮流はすごく早くなり、無理に通ろうとして渦潮が起こるのである。(神武天皇が豊後水道=早吸瀬戸を越えて宇佐に入れたはずはないんだよ)


だから瀬戸内海は出るのも入るのも古代には難所だった。しかも途中の島々の間や、陸地と島の間を急流が抜けていく。

それだけでない。


●潮流はなぜ起こるか?
潮の満ち干は月と太陽の引力が引き起こす。風も影響する。
太陽よりも月のほうが近いから引力は大きい。
月が地球の裏側にあるときは太陽が影響する。

大潮は新月と満月のときに起こるが、間の上弦・下弦のときには小潮になる。このときの潮の干満が潮流を動かすのだ。しかも地球の標準の潮流時間と、日本の時間ではだいたい6時間の時間差があるし、そこから動き始めると、満潮が干潮になるまでにはまた何時間もかかる。ゆっくりと動くのである。するとそれが島の間の流れを激しくしたり、横風によってそれが左右にぶれたりが起こってしまう。

だから瀬戸内航行は今でも難しい。カヤックの選手が、とにかく瀬戸内は怖いと言う。乗って櫂をたぐっていると、カヤックの左右の潮の流れが違う気になるそうだ。実際、そうなのだろう。右は東へ向っているのに、左は西へ向っているとしたら、とても船は漕ぎ難いだろう。へたをするとくるくると回転し、あげくに渦潮に呑まれるかもしれない。


海賊や海人族は、そういう難所を勘と経験でたやすく行き来した。だからいくさや貿易で彼らははずせない。長く貴族も武士も、彼らに海だけは頼らないわけにはいかなかった。そして民間の舟も行政の舟も彼らに、セトを通る通行料を支払うしかなかった。往古は船にはかならず武器を携帯した。いつ海賊にぼられて争いになるか知れないのだ。戦国時代は鉄砲持参である。海賊は常は海賊だが、いくさになったら彼らは貴重な戦力であり、水先案内。だから無碍に滅ぼせなかった。やっかいである。

セトを瀬戸と呼んでいたのは彼ら海人族である。それで明治政府も瀬戸内、瀬戸内海としたのである。


瀬戸の花嫁のような、のんびりした瀬戸内風景は、単に海を横へ動くケースだけである。横断したり、海峡を渡る風景ではないのである。



そしてそのことこそは、朝廷が近畿にできてゆく要因だった。瀬戸内海という怖い海があったおかげで、近畿には外敵がやってこれなかったのだ。奈良盆地が筑紫平野よりも稲作に適した平地が多かったから移住したなんて昔は平気で教科書に書いてあったが、そんなバカなことはない。平地なら北部九州のほうが奈良盆地などよりよほど広い。あれは九州が三国志時代の戦乱の大陸に近すぎたことと、近畿が瀬戸内海の奥にあった要所だったからなのである。要するに、戦争が嫌でたまらないから彼らは逃げ込んだのである。弱虫なのだ。もちろんある見方ではそれだけ賢かったとも言えるだろう。じゃあ、九州に残った人々は勇敢だがおつむが弱いのか?そうではない。九州は大陸とのつきあいも古く、心が知れた中国や朝鮮を畏れずに過ごせたのだ。だから九州の土器は纒向で少ないではないか。いくさを畏れる必要がない。それどこ0ろか諸外国とつきあうことの利益は膨大だったのである。

どっちかおばかなのか、ようく考えてから歴史は見てちょうだい。

・・・まあ、結果として大坂のほうが流通の要所としてはふさわしかったんだけどね。ちぇっ。












































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地名しが、しかは安曇族と「鹿の海渡り」に深い関わりがある地名である。


●志賀島 しかのしま  福岡県
「志賀島(しかのしま)には江戸時代までたくさんの鹿がおり、黒田藩の狩猟場になっていたようです。志賀海神社には鹿の角がたくさん奉納されています。なんでも戦前まで数匹はいたそうです。

そこでピーンときましたか? ・・・・鹿がたくさんいたので・・・・「しかの島」
 実は私もそう思ったのです。が、しかし、残念でした!
そうではなく昔は近い島の意味で「ちかじま」と言っていたそうで、それが現在の志賀島の語源になっているらしいのです。」
http://www.yado.co.jp/sima/sikanosima/sikanosima.htm



日本書紀や古事記に綿津見神の祭主・阿曇氏、安曇族についての記述が見られる。
安曇族は海人族だが、海を渡る鹿を自分たちのステータスにしていたのかも知れない。

しかし上記の「近い島」から「ちかのしま」が「しかのしま」となるというのも、かなり目からうろこであろう。確かに志賀島は陸地と近い。


●志賀・滋賀
文字はあとづけであるので関係ない。音の意味である。

「昨日の京都新聞(滋賀版)に信楽の地名の由来が載っておりました。
 (中略)
信楽はもともと州処牧(シカマキ)で、 州処(シカ)が滋賀の語源で、 牧は古代の農林物産の供給地のことをいうらしいです。 現在も信楽の大戸川下流に牧という地名があります。
これに対し、上流のスカ(砂州)をスカマキと呼び時代を経て音韻変化した地名がシガマキとなり、さらに聖武天皇が都を築かれることになり、

 新しい都(アラ新+キ処)と定め、

シカアラキと呼ばれるようになったのがシガラキの語源との事です。
 要するに
 シカマキ
  ↓
スカマキ
  ↓
シガマキ
  ↓
シカアラキ
  ↓
シガラキ
 と変化したようです。
また、万葉仮名で信楽の事を紫香楽と書きますが、
 「紫雲たなびく香ぐわしい楽土」で
 ものすごく美しい地を想像させますね。
そして現在の信楽は、
 仏典に一心に帰依する意のシンギョウ(信楽)を当てた字らしいです。
 地名の由来を知って、あらためてここに都が建造されていたんだなあと実感しました。」
https://soutouen.exblog.jp/10165766/



1.滋賀県という県名の由来と「滋賀」の字の使用について
『角川日本地名大辞典 25』によりますと、「〔県名の由来〕滋賀郡の滋賀からきており、さざなみの志賀に通じるところから採用されたと思われるが、確実な史料はない。」とあります。また、『志賀町史 第1巻』によりますと、「「滋賀郡」の表記は、古代以来行政上の用例として主流であったものをうけついでいるのであり、それが県名にもなったのは、明治維新期の動きのなかで、明治五年(一八七三)一月、前年に諸藩が合併して成立していた大津県の役所、滋賀郡大津町にあったことから、滋賀県と改称したことに始まる。」とあります。なお、文中の「明治五年(一八七三)一月」は「明治五年(一八七二)一月」の誤植です。

2.「志賀」もしくは「滋賀」の字の意味について
『志賀町史 第1巻』によりますと、「「しが」または「しか」という郡名は、元来「音」で伝承された小地名ないし地域名であったと考えられ、漢字は中国文化の導入以後に、通音によって適宜あてたものであるから、さまざまな用例がある。『万葉集』は文学作品であるためもあろうが、「しが」の地名表記はより多彩で、「志賀」「志我」をはじめとして、「之加」「之賀」「思賀」「思香」「思我」「四可」「四賀」「然」など千差万別である。『万葉集』に「滋賀」の用例が見られず、六国史(りっこくし)などの正史上でも平安時代になって使用が安定する傾向が読み取れることから判断して、むしろ「滋賀」が用いられるのは新しい部類に属するようである。」とあります。一方『市町村名語源辞典』によりますと、「しが〔滋賀〕(中略)シ(石)・カ(接尾語)で「石の多い所」のことか。スカ(砂州)の転とも考えられる。」とあり、『日本地名大事典 上』には、「しが〔滋賀〕(中略)「スカ(洲処)」の転訛説は、他の「シガ」地名からして、あり得ない。「シカ(石処)」の意で、石や岩の多い所をいう。(後略)」とあります。なお、『京都滋賀古代地名を歩く [1]』によりますと、志賀あるいは志賀津などの「シ」は「日本語では古い代名詞のシ(其)で、「それ」と指し示す代名詞である。「それ、そこの何々」という意味である。(中略)それでは下のガは何か。場所のカ(処)であろうか。」とあります。
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000092351



 「一般に、東北地方の一部などの例外を除いて、律令時代から明治初期まで、郡はほとんど変動していません。 明治中期から大正期にかけて全国的にはかなり派手な郡の改廃離合があったのですが、滋賀県では大きな変動はありませんでした。
 
 但し、「市」になった部分は郡から除外されるため、滋賀郡と栗太郡は早い段階(戦後すぐ)から郡域が大きく減少していました。 具体的には、滋賀郡というのは、昭和大合併初期の1951年以降は仰木以北、1967年に堅田町が大津市に編入されてから平成大合併までは志賀町のみということになりました(2006年に志賀町が大津市に編入されて、滋賀郡は自然消滅)。 そのため、滋賀郡は「大津市の北の方」にある郡というイメージがあるかもしれませんが、実際には大津市の大部分(宇治川以東南の瀬田・大石・田上・上田上を除く地域)は、本来は滋賀郡に属します。 むしろ大津市の中心部こそが滋賀郡の中心なのです。
 
 では、滋賀郡の「滋賀」とはどういう地名なのでしょうか? 「市町村名語源辞典」(溝手理太郎/東京堂出版1992)には

シ(石)カ(接尾語)で「石の多い所」のことか。スカ(砂州)の転とも考えられる。
 
とありますが、仮説の域を出ないようです。

 「シガ」は「あっちがわ」という意味で、逢坂山を越えた向こうという意味があるという説も聞き及びますが、手元の資料にはありませんでした。


「滋賀」なのか「志賀」なのか
 最初に確認しておきたいのですが、固有名詞への漢字の当て方を厳格かつ固定的に考えるようになったのは、明治以降のことです。 例えば「三河」と「参河」などはどちらでも良かったようですし、苗字(姓)に関しては、同じ一族の中で格付けなどによって違う漢字を用いるなんていう芸当をしていたケースもあるようです。

 そういうわけで、「滋賀」でも「志賀」でもどちらでも良いというのが本来の形なのでしょうが、律令以来「滋賀」が公式の表記ということになっているようで、「志賀」は古称あるいは雅称として扱われてきたようです。

 ちなみに、「新編日本史辞典」(東京創元社1990)の付表には、律令以前の表記として「滋賀」「志賀」の他に「志何」「斯我」が挙げられています。


町村名としての「滋賀」「志賀」 
大津市の北に隣接して「志賀町」が平成大合併(2006年)まで存在しました。 「滋賀県滋賀郡志賀町」なので「何で最後だけ字が違うんだ」という声もあったのですが、多分「滋賀」を名乗るのは僭越だと思ったのではないでしょうか?

 尤も、志賀町が合併で成立する前に広域行政組合(複数の市町村が行政の仕事の一部を共同で行うために作る組織で、法律上は都道府県や市町村と同様に「地方公共団体」の一種)が作った中学校の名前も「志賀」だったようなので、直接的にはこれが由来なのかもしれません。 但し、中学校の名前を決めるときに同じような話があったでしょうね。

 合併して新しい市町村を作る際に、命名に困った揚げ句、 新市町村の範囲を大幅に越える広域地名をつけてしまったと思われる例は多いのですが、「志賀町」については、字を変えるだけ良心的だとも言えるでしょう。

 なお、湖西線に「志賀」という駅がありますが、これは志賀町の中心地という意味で後からつけた駅名です。 江若鉄道時代には、所在地の大字名を取って「近江木戸」駅でした。

 一方、明治22(1889)年から昭和7(1932)年まで「滋賀郡滋賀村」が存在(大津市に編入されて消滅)しました。 これは、合併前の6村の中に「南滋賀村」と「滋賀里村」があったということも影響していると思われます。 このあたりは、古代の大津宮の所在地に近いなど「滋賀」という地名の発祥の地とも考えられる地域なので、それほどの僭称とも言えないでしょう。 (「南滋賀」も「滋賀里」も京阪電鉄の駅名として残っていますし、付近には江若鉄道の「滋賀」駅もありました)
http://nanyanen.jp/ohmi/shiga.html


「志賀(しが、しか)とは、日本の苗字、地名である。古くは「滋賀」は「志賀」とも表記された。苗字としては東日本に多く、特に福島県に集中している。いわき市周辺に多い。西日本では大分県に多めに分布する。

古代には近江国志賀郡(現滋賀県大津市)発祥の豪族、志賀氏が存在した。後漢の献帝の末裔とされる渡来人系の一族。

豊後国には豊後国大野郡大野荘志賀村(現大分県豊後大野市)の武家、志賀氏が存在した。藤原北家の一族とされる。薩摩志賀氏も同系と伝えられる。

仙台藩医に志賀氏が存在した。陸奥国江刺郡大町氏の家臣だったとされる。細菌学者の志賀潔はこの末裔とされる。信濃国佐久郡志賀郷(現長野県佐久市)発祥の武家、志賀氏は藤原北家の一族とされる。

また、鹽竈神社の神官に志賀氏があった。」
https://dic.nicovideo.jp/a/%E5%BF%97%E8%B3%80




諸説あるようだ。
しかし忘れていることがないか?
滋賀県はもと近江国である。
読み方は「おうみ」で淡海とも書く。
近江は奈良から近い海という意味だが、淡海は淡水の海という意味表記である。
近江が古い。
ちなみに遠い海は静岡県の「とおとうみ」で駿河湾である。

近い海という意味は、福岡の志賀島の「近い島」と同じ使用法になる。だから本来の「しが」「しか」は「ちか」だったと考えられる。

しかし、滋賀県琵琶湖の西部には安曇川があって、安曇族がいたと考えられている。安曇族が鹿をステータスにしていたとするなら、記紀にも、鹿の海渡りが出てくる。海を渡る鹿を、海を越えて移動した海人族のステータスとすると、「しか」こそが由来?

福岡の高良大社は武内宿禰を祭る筑後一の宮だが、ここの神社社殿には鹿の角を持った竜?がいる。そして鹿が玄界灘を渡った伝説もあり、まさに安曇族は玄界灘の海人族である。

この二説を強く押したい。



紫香楽(信楽)は上にもあるように、聖武天皇が宮を建てようとしたから「しがのき」というのがよいように、一見見える。しかしあえて別の異説を唱えるなら、「しらき」は新羅地名で、「新羅の人が来た」で「しらぎき」。言いにくくなって「しがらき」。

いかが?






付録
過去記事から
長野県のO氏が調べてくれた全国「しが」地名全地名。

志賀:
・宮城県岩沼市志賀
・秋田県鹿角市八幡平(字下モ和志賀)
・埼玉県嵐山町(比企郡)志賀
・長野県佐久市志賀
・滋賀県大津市南志賀
・奈良県吉野町(吉野郡)志賀
・和歌山県かつらぎ町(伊都郡)志賀
・和歌山県日高町(日高郡)志賀
・長崎県対馬市豊玉町佐志賀
・大分県豊後大野市朝地町志賀
・大分県豊後大野市緒方町志賀

四賀:
・長野県諏訪市四賀

しか:
・青森県五所川原市沖飯詰(字男鹿)
・岩手県岩泉町(下閉伊郡)門(字湯沢鹿)
・岩手県岩泉町(下閉伊郡)袰野(字赤鹿)
・岩手県九戸村(九戸郡)江刺家
・岩手県一戸町(二戸郡)姉帯(字野馬鹿)
・秋田県鹿角市八幡平(字下モ和志賀)
・秋田県三種町(山本郡)大口(字中鹿)
・福島県福島市飯坂町湯野(字四箇)
・福島県田村市船引町門鹿
・福島県田村市都路町古道(字九郎鹿)
・千葉県栄町(印旛郡)四箇
・茨城県稲敷市四箇
・茨城県小美玉市栗又四ケ
・栃木県二宮町(芳賀郡)鹿
・群馬県みどり市笠懸町鹿
・新潟県妙高市大鹿
・石川県七尾市中島町笠師カ
・石川県津幡町(河北郡)竹橋カ
・愛知県岡崎市東大友町(字足鹿)
・愛知県一宮市南小渕(字虫鹿)
・愛知県豊根村(北設楽郡)古真立(字田鹿)
・愛知県音羽町(宝飯郡)長沢(字ハシカ)
・静岡県静岡市駿河区小鹿
・静岡県島田市佐夜鹿
・静岡県掛川市佐夜鹿
・三重県志摩市志摩町越賀
・滋賀県米原市大鹿
・奈良県東吉野村(吉野郡)鷲家
・鳥取県三朝町(東伯郡)西小鹿
・鳥取県三朝町(東伯郡)東小鹿
・島根県斐川町(簸川郡)原鹿
・山口県下関市菊川町大字吉賀
・山口県岩国市二鹿
・福岡県福岡市早良区四箇
・福岡県大牟田市四ケ
・佐賀県唐津市肥前町星賀
・長崎県対馬市上対馬町小鹿
・長崎県対馬市豊玉町佐志賀
・熊本県あさぎり町(球磨郡)免田東(久鹿)
・宮崎県都城市高城町四家




全国に「しが・しか」はあって、ほぼ海人族か鹿地名だろうと申しておく。
滋賀はシカ牧のあったところでもある。







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古代船の名称と構造




今回からシリーズで、海と船と古代の港について、船の構造や、海に関わる地名の語源、あるいは古代縄文海進残存時代の港湾のありさまなどなどについて石村智『よみがえる古代の港』から、いくつかを切り取って題材にした記事を書こうと思う。





まずは古代の船の構造と名称から。



●丸木舟


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Wiki丸木舟より


最も原始的な舟。
一本の大木を刳(く)り貫いて作る。
縄文以後の先史時代に最も身近で使用された。
浮沈構造舟であるため、大きな船とは違い、浅瀬や岩礁、海峡などで長期的に併用され続けた。


日本では丸木舟の遺物はよく出土するし、準構造船の船底としても発見されている。また千葉県などでは中に遺骸の入った舟葬(ふなそう)の棺として、海蝕崖の洞穴などからの発見もある。ただし、日本でポリネシアのような大小二艘の丸木舟をかけはしでつなぐアウトリガーボートの発見はない(もっともつなぐ棒はすぐにはずれてばらばらになるので、あった可能性は否定できない。)。しかし二艘を横につないだダブルボート(双胴舟)の使用は、地域によって近年まで存在したらしい。

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現役のアウトリガーボート。



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アイヌ明治20年 Wiki丸木舟より



古墳時代になると、丸木舟を前後につないで大きくした「複材刳舟(ふくざい・くりふね)」が作られた。



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大阪府鼬川(いたちがわ)出土の複材刳舟(複材式独木舟とも言う)。
杉材二本を前後につなぎ刳りぬいた舟、長さは11m、中央接合部の幅は1.4mもある。


飛鳥・奈良時代、続く平安時代でも丸木舟は活用されている。山形県鶴岡市藤島町では12mもの丸木舟が出土した。

その利便性は小回りの効くことや、さきほども書いたが浅瀬や瀬戸でも縦横に動けたためで、そうした地形の多いところでは、最近まで丸木舟が使われていた民俗学の例証がある(種子島や男鹿半島など)。また世界の島嶼地域では、現在でも実用舟である(台湾南部高山族のチヌリクランやポリネシア・トンガなどのアウトリガーに使用)。


日本では舟をつないで艀(はしけ)にすることは多かったようで、幾艘もつないだ様子は神話の因幡の白兎の渡ったワニが並んだようであろう。つまりあの神話のワニの橋も舟はしけのことかも知れない。記紀にも女帝が伊勢か尾張にいくのに、舟を並べたはしけを使うシーンがあったように記憶している。

丸木舟は瀬戸内のような島が多く、セトになった海峡が多い海では、かなり長期的に使われただろう。一方双胴船やアウトリガーは、大洋を渡って島々を往来した海人族、海洋民族には重宝だった。


なお、エジプト壁画や日本の装飾古墳の壁画(福岡県珍塚、鳥船塚古墳など)に多いのが丸木舟だが、たまに二重構造の準構造船らしき絵もある。丸木舟の上に前後が反り返る丸木舟を置いたのかも知れない。

なお古代には丸木舟は王族のもがり用として使われている(奈良県巣山古墳など)。
「殯(もがり)とは、日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること。 その棺を安置する場所をも指すことがある。」Wiki殯


ちなみに「もがり笛」虎落笛は冬に寒風が木立を通り抜ける音だが、藻狩り船とは水面で海草をとる船のこと。「もがり」とはそもそも悲しいという意味だろう。
「も(喪)あ(上)がり」の音変化 コトバンク
一方虎落笛は語源不肖。もあがりのように寂しい音か?





●準構造船

国立九州博物館に展示された一体成型型の準構造船。丸木船底のへりに、垂直に舷側板を立てる式の準構造船である。

丸木舟の側面に波除の舷側板を貼り付けた大型船。
弥生時代に登場したと考えられている。
最古は滋賀県守山市赤野井浜遺跡で出た弥生中期のもの。
大阪府蔀屋遺跡の古墳時代中期の舷側板出土もある。


二股船(二体成型船)という構造もある。


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画像は大阪歴史博物館に展示される2種類の船形埴輪である。 大阪市平野区の長原遺跡・高廻り1,2号墳(ancient Takamawari Tombs in the Nagahara Tomb Cluster)で発掘された 古墳時代中期・4世紀末〜5世紀初の埴輪である。説明書きによれば、 船形埴輪は5世紀前半の例が多く、いずれもが船底に丸木舟を用い、舷側に板材を組み合わせた準構造船となっていた。そして、 船の両端が二股に分かれる二体成形船(高廻り2号墳例、手前の埴輪)と、船底の突出をなくした一体成形船(高廻り1号墳例、右奥の埴輪) とが存在した。


この二体式成型船が上で書いた丸木舟が丸木舟に乗っかったものだったか、そうでなかったかは壁画からではわかりにくい。最初二重構造にしていたものが、二体式に進化したか?

いずれにせよへさきに反り返った波きり板がついて、これでは前が見えたのだろうかと心配してしまう形状だ。しかし、速度が出るから、外洋では反っていないと波が大量に入って沈没してしまったと言う。

二股船の遺物は大阪久宝寺遺跡(弥生末〜古墳初頭)で埴輪が出ている。
前後が二股になっていて、下に波はたまらず左右へ分かれる。下部はサーフボードのような波きり、波乗り構造である。民俗誌例ではインドネシアのアリスアリスという船がこういう様式である(写真なし)が、日本の古代船で実際にこれが出た例はなく、実用性が不明である。ただし先の巣山古墳のもがり船がこれだったとすると、この二股の二体成型構造は、もがりのための形であった可能性がある。つまり上部がそのまま死者を置く棺という風習で、下部がそれを運ぶ船の形になっていたと考えてみたら、なるほど、もがり舟とは過去からの船葬の風習から来ていたのかと目からうろこも落ちるだろう。


なお準構造船からは舟本体と舷側板をつなぐ手法が登場する。古墳時代まではまだ船釘が存在せず、縄文的な「ホゾ差し」手法でつないでいる。サクラの樹皮で作った紐で、板に穴をあけてしばった(守山市下長遺跡・古墳前期)。万葉集でも

桜皮(かには)巻き 作れる舟に  山部赤人 万・六ー九四二 とある。
「かには」とは桜や白樺の樹皮を乾燥させると赤茶色になる、その色を蟹の甲羅に見立てたか?あるいは「かにわ」で樺(かんば)の端っこ?不明。


あぢさはふ 妹が目離(か)れて 敷細(しきたへ)の 枕も巻かず
  桜皮(かには)巻き 作れる舟に 真楫(かぢ)貫き 吾が榜ぎ来れば
  淡路の 野島も過ぎ 印南嬬(いなみつま) 辛荷の島の
  島の際(ま)ゆ 我家を見れば 



後期の久宝寺遺跡ではホゾ穴、ホゾ溝を合わせて木くずの栓でうめる手法の舟の遺物が出ている。
こうした手法の舟はつい20世紀まで、東北地方北部にあった。




古代の舟にはこのほか、奈良時代の遣唐使船に使われるような構造船、また草で編んだ草舟、葦舟(まとこおふすま『古事記』)、ジャンク帆船、筏などがあった。古墳時代の松阪の宝塚古墳などで構造帆船らしき埴輪も出ているが、はじまりは遣唐使だといわれている。また船釘の使用は鎌倉時代からと言われている。いずれも考古学の今後次第だろう。




次回 地名瀬戸内、志賀、紫香楽を扱う。











































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ま、そういうことを今日の「英雄たちの・・・」は言ったが、まさか天武も天智もいなかったとまでは思ってはいないようだった。残念だ。せっかく持統こそが黒幕にまで行き着いたのになあ。惜しいことだ。

天皇とは持統から始まったのだ。それ以前は天皇はない。いない。別国家だったのだ。そして持統からこそが日本、大和朝廷のようやくの始まり。それまでの王朝はない。それまではすべて地方王権の乱立と並立である。『日本書紀』はそれらのことをすべて大和の手柄にしてある。それだけのことである。



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10/17(水) 18:31配信    

 「3万年前の航海再現を目指す国立科学博物館などのプロジェクトで、来年夏に台湾から沖縄・与那国島への航海に使う丸木舟がほぼ完成し、千葉県館山市沖で17日、報道陣に公開された。

 これまで航海実験を行った丈夫な草を束ねた舟や竹のいかだと比べ、かいでこぐ場合に1.5倍から2倍のスピードが出るという。

 日本人の遠い祖先は、大陸と地続きだった台湾から与那国島へ3万年前までに渡ったとみられるが、流れの速い黒潮を越えるのが難しい。今月3日には丸木舟に5人が乗ってこぎ、房総半島沖の黒潮分流を横断することができた。

 同博物館の海部陽介・人類史研究グループ長は「今まで草や竹の舟で(黒潮などに)流されたことに比べると、飛躍的な成果だ」と話した。」




台湾から琉球を経て日本本土へ向かうとき、大きな自然の障害となる海峡が二つある。ひとつは八重山諸島と沖縄の間にある広い海峡、ひとつは沖縄から鹿児島の間の広くてきわめて荒い海峡だ。このふたつはこれまで古代人類には渡航不可能ではないかと考えられてきた。上記プロジェクトにとってこれがまず第一の関門であろう。

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さらに、考古学の発掘による港川人の化石骨も、日本本土ではまだ見つかっていない。これが第二の関門である。

ただ、縄文後期から弥生時代には北部九州人の腕を飾った貝輪や、南海産の貝類は確かに海を渡って沖縄からやってきている。しかも沖縄にはそれらの貝殻を加工した工房跡も出土した。先土器時代の人類にも、そういう不可能ができなかったとは言えないだろう。

たとえ学説が丸木舟では渡れなかったと仮定したとしても、沖縄海洋博のとき、ポリネシアのプロジェクトが、簡単なトリガーボートで、見事に海峡を越えて沖縄の開会式に間に合ったという快挙もあるのだ。


反対にこういうネット上の意見もある。

「ところで、初めて海を越えて日本列島にやって来た、この時代の人々は初めて渡海を試みた訳では無い。アフリカを出てから舟を用いた渡海を何度か経験しているはずである。そうでなければ、朝鮮半島または北海道を経由した当時地続きのルートの方に迂回するはずである。たとえ、初めての試みでも無理しても渡海したいのであるなら、舟を台湾沖の海に浮かべて練習したはずである。

この練習で分かることは、例え大人数でオールを漕いだとしても、⒈ 速度が出ない、⒉ 黒潮に流される、そして⒊ 風があっても流されることである。何回も実験する間に、海流の方向と速度、風の方向と速度、それらの日変化や季節変化などの統計情報、そして日本列島の島々のことを知ったと考えられる。慌てて日本列島に向かう必要は無く、台湾あたりでゆっくり練習や実験・研究をしていたのである。現代のヒマラヤ初登頂と同じく、成功するまでに多くの遭難があったかも知れない。(注: 海の民の男性は海での死亡率が高い為、女系相続の制度もあった(参考))」


筆者も与那国の海峡はともかくも、沖縄と本土の間の海の荒さはかなり不可能に見える。ここでも港川人が日本人の先祖のひとつ足りうるかを扱ったさいに、無理だったと結論し、港川人は日本本土人の祖先ではないと言うしかなかった。弥生時代の貝の道を作るのは、むしろ逆に、五島列島の隼人のような人々だったと考えられ、逆のコースではトライがなかったとしておくほかなかったのである。

風と荒れる高波で、現代ですら、この海峡を渡るフェリーで人がいなくなった事故は起こったことすらある。へさきにいた人が突然消えていたのだ。海に落ちたのだ。

ただし、丸木舟では無理でも、トリガーボートなら可能ではないか?


大西洋のカリブ海の言葉でカノーという丸木舟がある。西欧人がこの言葉を持ち帰りできたのがカヌーである。日本の『古事記』仁徳天皇記には、「枯野」という極めて早い丸木舟が登場する。小学生のとき教科書で読んだ人も多かろう。(同様の記事は同じ仁徳記の大坂の堺の条にもあって、伊豆でも大阪でも舟の名を枯野としてある。つまりその時代には近畿では丸木舟をかのう、かのと呼ぶ慣わしが会ったらしい)この「かれの」はほかに「かの」と読んだ説がある。「かのー」という造船氏族が平安〜鎌倉時代に静岡県の伊豆半島にいた。狩野氏である。源為朝を伊豆に配流したとき謀反を起こしたのを押さえ込んだ在地武士である。その後、頼朝伊豆へ配流のさいには、正反対にこれを助け鎌倉幕府の礎になった氏族だ。のちに江戸の芸術家を生み出している。あの狩野派である。狩野氏にちなむ地名が伊豆には多い。天城山はもと狩野山であったし、狩野川などがそうだ。天城山の麓には軽野神社があって、狩野の前はここの地名は軽野(かるの)で、つづまってかのうになった説もある。狩野川は鮎で有名な川である。筆者、若いころに釣りをしたことがある。すると枯野も、『古事記』には軽野ともあるから、おそらく伊豆の軽い野原にちなんで「かの」が正しい読み方なのだろう。カヌーが日本語の狩野から出たのだとしたのは茂在寅男である。谷川謙一も支持している。



仁徳紀の記述でも、伊豆の人々に枯野を造らせたとあり、往古から伊豆狩野川、狩野湾には、そういう造船技能を持つ古代人がいて、その子孫が狩野氏になったかとも思える。
参考 石村智 『よみがえる古代の港 古地形を復元する』2017



カヌーが日本語の「かの」から出るかどうかは、太平洋と大西洋の違いがあってあまりに無謀な意見ではある。ただ、ボートを現す言葉カノーが、最初はインドシナやポリネシアにあった証拠があれば、むしろ彼らがアメリカ大陸を越えてカリブ海までいったことの証明になるだろう。

彼らはインドネシア・スウェラシ島に残されている世界最古級の手形壁画を描いた海の民ではないか?ならばカリブやフロリダにも手形壁画が出るかも知れまい?

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日本各地にポリネシアやニューギニアに多い犬祖伝説があるわけもそのときはっきりするかもしれない。飛騨の高山地名も台湾高山族からかも知れまい?天城山は木材の名所でもあったが、高山もそうである。よい木材がなければ舟は作れない。


海部氏の挑戦に期待しようではないか。
































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「このプロジェクトでは台湾の現地で当時手に入る材料と道具で作った丸木舟かそれ以下の舟に、帆は付けず、複数の人がオールを漕いで黒潮を越えて与那国島に渡ることを想定している。しかし、現在までの予備実験では黒潮に流されて失敗している(参考)。」




骨格の太い縄文人、弥生人が日本各地で出ている。舟を漕ぐと骨格が半端なく太く頑丈になることは、あの鉄腕稲尾投手を思い出せばよかろう。彼も別府湾の漁師の息子だった。日本シリーズでの不可能とも言える四連投の影に、子供時代に手漕ぎ舟を毎日漕いだことがあったことはわれわれ世代ならみんな知っている。神さま・仏様・稲尾様と呼ばれた超人を海と舟が作ったのである。海人に不可能はなかった。星さえあれば彼らはどこへでも行けたのだ。それだけは確かだろう。








 

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大部分が陸域を通る「パルーコロ断層」(赤線)がずれ動いた左横ずれタイプの地震



インドネシア地震津波は海底地すべりが原因か 日本でも中央構造線断層帯などで起きる可能性
 「活断層が引き起こす地震によって海底地滑りが起きて、大きな津波が発生する可能性は日本でも十分考えられるようだ。

 遠田教授は、近畿地方から四国北部を通って九州に延びる活断層「中央構造線断層帯(約444キロ)」を例に説明する。

 「中央構造線断層帯も紀淡海峡、鳴門海峡、豊予海峡といった海域を通る。インドネシア・スラウェシ島のケースで、大部分が陸域を通っている活断層が引き起こす地震でも、大きな津波が発生することが改めて分かった。国内でも同じようなことが起きて、ローカルな津波発生する恐れがある。中央構造線断層帯に限らず、日本には海域を通っている活断層は多く存在している。今後、津波防災を考えるうえで考慮する必要がある」」



その地すべりと津波が起こる中央構造線の場所は、インドネシアと同じ海底。
場所は、瀬戸内海の両端。
伊予灘か鳴門海峡しかない。


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言語
新羅しらぎ しらぎのぎとは何か?

昔、NHKの教育放送で朝鮮の歴史の番組を眺めていたら、韓国人学者が「なぜ日本では新羅をしらぎというか」について、極めて韓国人らしい解釈を述べていたことがある。
それは「「ぎ」はうさぎやさぎなど、動物につく蔑称だから、古代、日本人が新羅をしらーぎと呼んだのも朝鮮人差別なのだ」と。

その可否はともかくも、確かに新羅は地元ではシラ、シルラ、シンラであるのに、日本人は「しらーぎ」と呼ぶのが定着している。なぜ?

以前ここで百済を高句麗や中国は「はくさい」「ひゃくざん」、朝鮮地元では「くんなら」、日本では「くだら」と呼ぶことについて明快に、「朝鮮語のクンナラから」と答えておいた。クンナラは「大きな国」の朝鮮語読みである。ソウルも往古はクンナラとも言われていた過去がある。奈良県のナラも「国」である。と。


高句麗はコクリョが正しい発音だが、日本人には言いにくいので、「こうくり」。


では新羅はなぜ「しらぎ」なのか?
そして「うさぎ、うなぎ、さぎ」などの「ぎ」とは?




一説では新羅の城。
しらーき が訛った。というのが一番知られた説。

しかしそれなら「しらき」でいいだろう。白木、白城は確かに朝鮮由来地名として日本にあるのだから。それを「しらぎ」と濁る例はほとんどないではないか?
では本当はなに?

先の学者が言ったような動物と同等に扱ったという意味なのか?

では先に動物の「ぎ」だが、これもネットでも、辞書でも、書いているものなどない。なぜいちいち「ぎ」を語尾につけるか?「き」の場合もある。

うさーぎ
うなーぎ
さ ーぎ
こうろーぎ
たぬーき

いずれも小動物である。
可愛い生き物である。
すると愛称だろうか?


儀、義、偽、技、妓などの相当する漢字がある。
その語意の中に「こと」「もの」「ものごと」「本質」「こころ」「わけ」「条理」がある。
その中の「もの」が「ぎ」の正体ではなかろうかと思っている。

およそすべての物象、事象に、人類は名前をつけたがる生物だが、命名することには、その物事・事象の本質を知ってからという前提がある。だからおしなべてすべての名前には本質が現されていることになる。相手が何者かわからぬうちに名前は付けられないからである。

つまり名前とはずばり、その対象物の姿かたち、性格のすべてが凝縮されていることになろう。

すると、動物の名前もそうだろう。
小さな可愛い生物に「ぎ」をつけたのは愛称であろう。


では新羅はどうか?
相手は国家である。
決して小さくも、まして可愛いと思うような対象ではない。

犠という文字がある。犠牲である。
犠牲とは供え物、いけにえ、事故で死ぬこと、そして「ある目的のために受ける損失」という意味がある。日本の朝廷から見て、百済や高句麗が失われたことによって生き残った国が新羅だった。そこで、新羅が成立した時代はと見ると、日本の飛鳥時代、天武天皇より少し前である。日本が新羅と国交を結ぶのは実は天武天皇が最も深い。その前の蘇我氏時代には、あいさつ程度だった。しかし天武の時代には朝鮮半島には新羅しかなかった。そこで朝鮮全体が新羅となったわけである。

それまでの朝鮮国家は日本では「あや」「くれ」「韓」などさまざまの総称であったのが、新羅というしかなくなったわけだ。ところが新羅には「百済も高句麗も新羅=朝鮮国家」という意味も持たされてしまった。だから新羅神などとは言っていても、百済神かも知れないし、伽耶神かも知れないという一面がある。

武士の時代に「−−ぎ」という敵をよぶときの見下げた言い方もあった。あるいは逆に弟に対して親近感をこめてーーぎ(あいつの意味)でも使う。人間に使う場合、そこには憎しみと、親愛の両面が出ている。仇に対しても「ぎ」をつけた。どちらかと言えば憎い相手につけるのが「ぎ」だった。

結論
しらぎのぎは、親愛なる百済を滅ぼし、高句麗も滅ぼし犠牲としてしまった憎いけれど相手にせねばならぬ痛し痒しの存在。(これはお互い様ですがね)






ちなみに季節柄コオロギが鳴くので、コオロギの由来は鳴き声、こおろ、こおろと鳴くかわいい虫。往古はキリギリスのこと。
人名の高炉木、香呂木は、「こうろき」で香木採集職人のこと。
かぐわしき職名だと言えよう。コオロギとは無関係。


うさぎは羽毛のう、サギのような小動物。
さぎ は「さやけき動物」
うなぎ はむなぎで、身が長い動物
さなぎ は「サヤのように中に身がある」あるいは「小さく鳴く」から

これらは蔑称と言うよりも「もの」「実態ある生物」ということわりある生き物を刺していて、小さいもののこと。

最終結論、「ぎ」とは知っている対象物全般。


なに?喘ぎだと?そりゃあおまえさん、あえぐの名詞です。
なに、いちごのご?
なぜ全部統一しないか?
自分で考えなさい、たまには。

あなたに文句を言われる筋合いはねえ!

ここは俺の解釈を目盛っておく俺のメモ帳だ〜〜。




間違いは あとから訂正できますいくらでも































































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●蔚珍郡
もともと北の蔚珍、南の平海に2つの行政官が置かれていた。現在の蔚珍郡の枠組みができたのは植民地時代に規模の小さな両郡が統合されて以降である。
古代には高句麗と新羅が争奪した。
朝鮮王朝時代には空島政策をとっていた鬱陵島を平海郡守が管轄した(鬱陵郡参照)。
朝鮮王朝時代・植民地時代には江原道に属していたが、1963年に慶尚北道に属した。

三国時代 - 高句麗により、現在の蔚珍に于珍也郡(のち古于伊郡)、現在の平海に斤乙於県が置かれる。
505年 - 新羅の領域に入り、于珍(のち蔚珍)と呼ばれる。
757年12月 - 溟州に属し蔚珍郡となる。
940年 - 高麗王朝により蔚珍県・平海県が設置される。
1413年10月 - 朝鮮王朝が蔚珍県と平海郡を設置。
以上Wiki蔚珍郡より

なるほどあちこちに侵害された歴史である。
これなら多くの現地人国外逃亡が起こりやすかっただろう。
日本に渡来遺跡ができ始める3世紀前半は、新羅地域にはまだ高句麗や百済ほどの規模の大きな国家が成立していない。辰韓からようやく斯羅ができ始めるが、秦氏の脱出はこの頃徐々に始まり、半島で三々五々したが、百済が押し込まれるといよいよ居場所がなくなったのだろう。渡来がほぼ終わったのは4世紀である。『日本書紀』など文献は、秦氏の来訪をその頃にまとめて書いたのだろう。だから記録上、渡来は4世紀というのが定説になったのだが、実際には3世紀前半から、少しずつ始まっていたのである。

●蔚山
「三韓時代には辰韓に属して、西南部地域には于尸山国があった。中部地域には屈阿火村が形成されている。新羅時代には中部地域の屈阿火県と西部地域の居知火県、西南部地域の于火県、東北部地域の律浦県、南部地域の生西良郡があった。統一新羅時代の757年に屈阿火県が河曲県に、居知火県が巘陽県に、于火県が虞風県に、律浦県が東津県にそれぞれ改称された。 」Wiki

「蔚山広域市は古代、新羅国の町であったが、さらにその前の3から4世紀末までの三韓時代は辰韓の国の中の于尸山国であり、後に成長する新羅国に吸収された歴史があった。この時期が神功皇后の三韓征伐にあたり、以降、秦氏の日本列島への渡来が増えた。」
https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12074417851.html

「進歩した古代の製陶技術から、窯. の形、通風装置、燃料の処理など鉄 ... 蔚山市達川( タルチョン)遺跡の鉄鉱石採堀. 場では甕、壺,高杯など弥生式土器 」
PDF 古代の鉄その2

こちらは考古学的に弥生式土器や鉄鉱砕石屈などが出て、またすてがたい場所である。



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蔚山捕鯨基地跡
捕鯨の歴史は新しい記録しかないが、始まるためには技術ある漁師がいる必要がある。ここにはいたのだろう。


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蔚山左兵営城
http://koreancastle.com/
三国時代にまず土城はあったが、石によるものは1500年(朝鮮燕山君6年)に初めて築かれた。壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の時に崩壊したものを1617年(朝鮮光海君9年)に再築城

韓国海女
海女(朝鮮語: 해녀:ヘニョ、英語: Haenyo)は、大韓民国(韓国)において、海に潜って貝類や海藻を採集する漁を(専業あるいは兼業で)職業とする女性である。17世紀の書物では「潜女(Jam-Nyeo)」として記述されている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%A5%B3_(%E9%9F%93%E5%9B%BD)


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蔚山海女


蔚山にも海女はまだいるのだ。
文献では済州島海女は17世紀を遡らないが、朝鮮の古代記録が度重なるアジア諸国家の侵略による戦火で全部消失したことを考えれば、古代から風習があったと見てよかろう。



こう見て来ると、秦氏の半島の居住地は、どちらでもありえそうに見えてくる。というよりも「ウル 蔚」という地名が秦氏が移動した結果両地方に残った可能性がある。

世界的に英国からの移住者が米国にボストンとかニューヨークのように、故国の地名をつけることはよくあることで、秦氏も故国の蔚山・蔚珍のどちらも捨てがたく「ウル」だけを「うづ」と日本語読みして太秦に残しただろうことは想像に難くない。文献が「禹豆満佐」と拝命したという記録は、朝廷側からは自らを権威づけられ、秦氏から見れば名誉になる話だ。つまりできすぎた話なのである。最初から山背葛野に入って秦氏自身が「蔚勝 うるまさー」と名づけていた土地を、太秦と表記する許可を得た、というのが実態ではないか?

太秦という表記だが、おもしろいことだが始皇帝の秦や漢帝国ではローマ帝国を大秦としていた。偶然の類似かどうかは知る由もないが、太としたのは、蔚の文字に「鬱蒼とした」があって、大氏族となった秦氏にふさわしいように見える。まさに秦氏はうっそうと、煩雑な、混沌の氏族なのである。いずれこれらの発掘で、もっと倭人、倭国、海人族とのつながりの証拠品が出てくるだろうと思う。

さて、ではそれ以前の秦氏はいったいどこにいたのか?
それはまだまだわかろうはずはない。
中東・イスラエルといった目で見てしまえば、人類のすべてはアフリカを発してそこを通過して拡散したのであるから、何の意味もなくなってしまいかねない。彼らがユダヤ教徒であったなら、飛鳥時代に仏教を広めたことと矛盾してしまう。もし仏教拡散を朝廷へ近づく手段とし、実は影では摩多羅神としての人を食う神=障礙神 をユダヤの神として信仰したというのなら、あまりに証拠が希薄である。ユダヤの神は唯一神ヤハウェ(יהוה)(エホバ)であるが、われわれ日本人が知るところのエホバの神格や意味合いは、ほとんどがキリスト教の旧約聖書によって加工されたもの(三位一体や12使徒とその分離放浪、出アフリカなど)であり、本来の原子キリスト教やイエス直前の変貌したユダヤ教について、何も知らされてはいないのである。そこを取り違えてはならないだろう。

メシアを聖徳太子だとするのも逆である。『日本書紀』が聖徳太子を創作したのは、秦氏の海外知識からの創作であって、メシア的なイメージの産物でしかない。まして太子が厩で生まれたというのはキリスト教の伝承であり、ユダヤ教の伝承ではない。

摩多羅神というのは、まだら=混血民族のことであり、秦氏そのもののことである。まだらとは神仏習合神全部であり、その根本はインドのヒンドゥにあった障礙神 マハーバーラタ、シバのことである。そうした自然災害を神格化した神が、ユダヤ教にある必要がある。キリスト教が作り出したサトゥリヌス(やがて悪魔へ変化)のような時の神、災害神がだ。もしあったとしても、すべての原始的信仰には災害神はあるもので、なんら証拠にはならない。

災害神とは宇宙の摂理そのものであり、地球環境がなすわざを「たたり」とする考え方で、果たしの場合、それが摩多羅神だっただけである。そういう神ならアメリカインディアンでさえ持ちえている。特に秦氏が中東から持ち込むべき信仰だったわけではないのだ。日本にすら最初からそれはあったのである。ヤマタノオロチやスサノオやオオクニヌシはまさにそうである。

それでもなお、秦氏の関わった渡来知識には、あまりに広範囲な世界的知識がなければ無理だと思われるものがある・・・。そうかも知れない。それは彼らの中に、スキタイや中東人イランの商隊やが混じっていたからにほかなるまい。それらの故国まで追及するのは、大陸東西南北の混沌のすべてを答えろと言っている様なものだ。

ひとまぜ朝鮮国の東南部、新羅になった地域から彼らは直接やってきたとわかっただけでも充分だ。どこに?あちこちにだ。舟は海流でどこにも行ってしまう。豊前もそうだし、北陸もそうだし、出雲もそうである。最後に山背葛野に入った。そのルートは宇治から深草であり、河内から大和、山背南部でもあろう。そもそも彼らには本体というものがない。核となるのは葛野と稲荷と豊前なのである。あとはもうどんどんくっつき膨らんでいった。つまり混沌、つまり蔚なのである。大阪市の勝山や鶴橋や、豊前の田川に行くといい。まさに混沌である。東京の大久保でもいい。つくばでもいい。隅田川でも。

混沌の民族をひとつにできるのは障礙神信仰=マハーカーラだけだとすぐにわかるだろう。
それが日本の祟り神の始まりである。



 



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【悲報】精子が超減少する「スペルマゲドン」が発動中、人類滅亡へ! 原因多すぎて絶望的状況(最新研究)2018/10/9 18:57 TOCANA

 「人類の未来を脅かす不穏なニュースが報じられた。なんと、男性の精子量が年々減少する“スペルマゲドン”(スペルマ=精子とハルマゲドンの混成語)が発生、このままでは、人類が滅亡するかもしれないというのだ!(中略)

 すると、1500万以上の活発な精子量を持つ最も生殖力のあるアメリカ人のグループでは、年間1.8%もその量が減少していることが判明。そしてこの傾向はアメリカだけでなくスペインの被験者にも見られたという。(中略)

 さらに恐ろしいことに、「Daily Mail」(10月9日付)によると、無精子症の男性は早死にする傾向にあることが最新の研究で判明したという。2006年から2015年にかけて5万人のデンマーク人男性を対象に調査したところ、無精子症の男性の平均寿命は48.8歳だったというのだ! WHOの調査によると、同国の男性の平均寿命は79.3歳、無精子症の男性は30年も短命ということになる。


 日本でも精子の減少は著しく、2006年5月の読売新聞は、「精子の数、日本最下位『日欧共同研究 フィンランドの6割』」と報じているほどだ。このままでは、今後、不妊に悩むカップルはどんどん増加していくことだろう。人類に未来のためにも、一刻も早い原因解明が望まれる。」
ネタりか https://netallica.yahoo.co.jp/news/20181009-53986784-tocana

原因がジャンクフード過剰摂取と運動不足・・・。
ならばこれからますます若い人はそうなっていくわけだから、大変なご時勢である。
もっとも、そういう生理的なこと以外にも、若者の結婚離れも進んでいくのは?

根本的に、満たされた社会によってハングリーではなくなっていく精神が、性欲すら薄くしているってことかも知れない。それはもっと言うと生きる気力、生きる意味そのものの喪失した近未来だと思える。これが永続していけば当然、人類は滅亡してしまうはず。


小売店が仕入れる意欲を失うと、店内がやがてからっぽになるのと同じだ。「そして誰もいなくなった・・・」という映画のタイトルを思い出してしまった。「静かなるハルマゲドン=スペルマゲドン」は今も進んでいるのであろう。井上尚也みたいなハングリー精神、日本人はなくしているのは確か。

最近の日本のテレビなど観ていると、女性はどんどん肉食系へ向かい、男性はどんどん草食系へと、まあそれぞれがそっぽを向くようなジェンダーが目立ってきている。どうもそれはいまや世界的な話らしい。もっとも子供を生むのなら、すでに試験管ベビーなんぞは簡単にできてしまう世の中である。ってことは、男ばっかり無用の長物になりつつあるか?上等のスペルマだけが高額取引され、その他大勢のはエグゼ女子は見向きもしない・・アマゾネス社会だな。

どうやら本能的にも、人類はやがてくる滅びを感じているのかも知れない。

まあ、人口も増えすぎたし、ぼくはもう二人子孫作ったし、年も年だし、もういいわけですが。
オオカミ、ライオン系としてはちと寂しいとは感じてしまうのは否めない。人類下り坂か。しゃんめえなあ。





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