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武寧王は加唐島生まれ

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「加唐島は、百済第25代国王・武寧王の生誕地。「・・・百済の蓋鹵王の王弟昆支が日本に遣わされたとき、筑紫(九州)の各羅島で妃が子を産んだ。その子は嶋君と名付けられた。・・・百済人は、この嶋を主嶋と呼んでいる。・・・」日本書紀(雄略天皇5年(西暦461年)の条)

「各羅島は加唐島、嶋君は後の武寧王。武寧王はオビヤ浦で生まれ、産湯を使ったとする伝承が加唐島に残っている。」

「ところが、韓国の三国史記などの歴史書に武寧王が嶋君(斯麻王)と称したことや日本で生まれたとする記録がないなど、韓国の人々には書紀の記録は受け入れ難いものだった。」

「しかし、三十数年前(1971年)、韓国の広州市武寧王陵から墓誌石が発見され、解明が進むうちに状況は一変した。

”墓誌の記述から日本書紀の記述の正確性が裏付けられ”(””はかわかつ付記)、
加えて王棺は韓国に産しない高野槙で造られたものだった。」

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「加唐島は、百済、対馬、壱岐、筑紫(九州)の最短コース。古代における日韓の親密な交流や海上交通ルート、雄略紀の実年代等々も武寧王陵の墓誌石や木棺から明確になってきた。武寧王は、阿直岐(あちき)や王仁(わに)博士を日本に派遣して千字文や論語を伝えるなど日韓史に大きな足跡を残した大王だった。(伝王仁博士墓が大阪府枚方市に所在する。同市には継体天皇の伝樟葉宮や7世紀に唐・新羅の連合軍に敗退し、日本に亡命した百済王氏を遠祖とする陸奥守百済王敬福の氏寺百済寺の遺址がある。)
 平成14年1月には、日韓の学識経験者が参加し、「百済武寧王生誕海峡地国際シンポジウム」が地元鎮西町で開催された。平成16年6月には、「武寧王1500年ぶり 父(昆支)と巡り会うin加唐島」が開催されるなど、加唐島を架橋とした日韓の交流が進展している。
 オビヤ浦に下り立つと、昆支が嶋君母子を見送ったであろう情景が目に浮かぶようである。海は青く澄みきっている。生誕地と伝えられる海蝕洞や枯れることのない産湯の井戸が遥か千数百年の彼方に私たちをいざなう。オビヤ浦は険しい崖下にある。いま遊歩道の整備が進められており、まもなく難なくオビヤ浦に下り立つことができるであろう。
 本年6月、第4回武寧王生誕祭が加唐島のオビヤ浦で開催された。武寧王が眠る高野槙の記念植樹も島で行われた。加唐島の「斯麻王会」が中心となり、武寧王生誕記念碑の建立活動も推進されている。島を訪問される向きには、鎮西町の名護屋城址の近くに鎮西町観光協会があるので尋ねられるとよい。−平成17年9月−」
以上出典サイト「九州絶佳選」 http://www.k2.dion.ne.jp/~kisa/saga/saga_ka3.html

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■注目される生誕伝説

「昭和四十六年(一九七一年)、文教授が論文を発表する三十年ほど前、韓国の忠清南道公州市の宋山里古墳群で、新しい王陵が見つかった。
 それが、加唐島に生まれた武寧王の陵であった。この王陵の発見は二重の意味で関係者を驚かせた。
 その一つは盗掘を免れたため、(レンガ)を敷き詰めた美しい墓室や豊かな副葬品が残されていたこと。もう一つは、墳墓自らが墓主を明らかにしたことである。玄室につながる道に置かれた墓誌石がそれで、これは土地の神から土地を買い取った契約書「買地券」とされている。
 誌石には「斯麻王」の文字とともに、在位二十三年(五二三年)に、六十二歳で崩御したことが刻まれている。その数字から逆算すると、武寧王の生誕は四六一年。これは『日本書紀』の記述と同じである。
 少なくとも、この時代の『日本書紀』の記事は正確であったことが証明されたのだ。」

出典:百済王筑紫の加唐島に出生す(あっと九州サイト) http://www.atkyushu.com/InfoApp?LISTID=202&SCD=m200206

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●百済武寧王加唐島生誕説はこうして国際的に認められた。


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しかし、問題はそれでは終わらない。
斯麻王が加唐島で生まれたとき、そこには父母がいた。百済王昆支(こんき)の弟と言われる東城王と妃である。
東城王(とうせいおう。末多王。あるいは末多は記録違いで「未多」が正しく「めた・おう」と読むとの説もあり)
東城王→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%9F%8E%E7%8E%8B

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武寧王の出自についての記述は史書によって錯綜している。

「武寧王(ぶねいおう、462年 - 523年)は百済の第25代の王(在位:502年 - 523年)。
1『三国史記』百済本紀・武寧王紀によれば先代の牟大王(東城王)の第2子、諱を斯摩、分注では隆とする。
2『梁書』では余隆(余は百済王の姓)
3『日本書紀』雄略天皇紀5年条では、加須利君(かすりのきし、第21代蓋鹵王)の弟の軍君昆伎王の子、名を嶋君とする。
4 武烈天皇紀4年条では『百済新撰』の引用として、末多王(東城王)の異母兄の混支王子の子、名を斯麻王、としながらも、「末多王(東城王)の異母兄というのは不詳であり、蓋鹵王の子であろう」としている。
5『三国遺事』王暦では『三国史記』と同じく、諱を斯摩とする。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AF%A7%E7%8E%8B

なにゆえにこのように記録が交錯してしまうのだろう?
史書が歴史的人物の年齢をあやふやにするとき、そこにはどのような事情があるのだろうか?
想像したまえ。
そして彼と同時代の日本の歴史的人物の記述と照らし合わせてみよう。
どんな発見があるだろう?
ただいま筆者も年表作成中である。

*なお加唐島には神功皇后が応神天皇を生むときに締めた帯の伝説も残っている。
http://www.atkyushu.com/InfoApp?LISTID=202&SCD=m290206
また百済王の氏姓が「余」であったことも重要。「よ」。

画像は各サイトから借用。
上から
系図→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AF%A7%E7%8E%8B
武寧王陵
継体大王が武寧に贈った木棺
武寧王のクスノキ製木棺(日本書紀記述の正確さを裏付けた証拠の品)
以上三点は→http://inoues.net/korea/buneiou.html





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    「 少なくとも、この時代の『日本書紀』の記事は正確であったことが証明されたのだ。」という引用部分は、「日本書紀の対外事情に関する記事は」と訂正されるべきかも知れない。他国のことゆえに正確でかまわなかった。それは中国でも、前の王朝のことを書くのが史書の定めだったゆえに冷静に事実を書けた(それだけに信憑性が高い)という定説通りであろう。しかし記紀が自国の事情にもそうだったとは決して断定できない記事があまりに多いことも事実である。一時が万事などはあり得ない。同時期の雄略、武烈、清寧、継体、安閑、宣化などなどの年齢はあやふやで、事績も粉飾と虚偽に満ちていることは誰もが認めるところだろう。

    Kawakatu

    2008/12/8(月) 午前 10:29

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