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■ベトナムは南越、呉越の流れであるか?
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■百越
「百越(ひゃくえつ)または越族(えつぞく)は、古代中国大陸の南方、主に江南と呼ばれる長江以南から現在のベトナムにいたる広大な地域に住んでいた、越諸族の総称。越、越人、粤(えつ)とも呼ぶ。

非漢民族および半漢民族化した人々を含む。日本の現代の書物において「越人」「越の人」と表される場合、現在のベトナムの主要民族であるベト人(越人)、キン族(京人)とは同義ではない。
現在の浙江省の東海岸が起源と見られる。言語は古越語を使用し、北方の上古漢語を使う華夏民族とは言語が異なり、言葉は通じなかった。秦および漢の時代には、「北方胡、南方越」といわれ、「越」は南方民族の総称ともなっていた[1]。贛語、呉語、閩語、粤語は、百越の百越語と関連が深いといわれている[1]。

周代の春秋時代には、呉や越の国を構成する。秦の始皇帝の中国統一後は、その帝国の支配下に置かれた。漢代には、2つの越の国が確認できる。1つは中国南部、すなわち現在の広東省、広西、ベトナムにかけて存在した南越、もう1つは、中国の閩江(福建省の川)周辺の閩越(びんえつ)である。この時代、中国の南方を占めた越人は、北方民族による力の支配とぶつかり、しばしば反乱がおきている。チュン姉妹の乱は、現代に伝わる当時の反乱の1つである。

その後は、徐々に北方からの人々の南下とともに、越人の一部は彼らと混じり、また他の一部は山岳の高地や丘陵地帯などに移り貧しく厳しい暮らしに身を投じる人々に分かれるなど、越人の生活圏には変化が起こっていく。北部ベトナムは中国王朝の支配が後退すると、939年に最初の民族王朝である呉朝が呉権により成立している。」
「文化面では、稲作、断髪、鯨面(入墨)など、百越と倭人の類似点が中国の歴史書に見受けられる。現代の中国では廃れたなれずし(熟鮓)は、百越の間にも存在しており、古い時代に長江下流域から日本に伝播したと考えられている[2]。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E8%B6%8A
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ひとことで言えば日本の縄文後期から弥生早期に水耕稲作を九州に持ちこんだ長江文明人の一画
ちなみに倭人が儋耳朱崖の風俗と同じと書かれた儋耳朱崖=海南島は今のベトナム北岸の目と鼻の先にある。
現在のベトナムは北部と南部でそもそも文化開始に大きな相違がある。北部(かつての北ベトナム地域)はドンソン銅鼓文化で、中国の百越の南越の影響を受ける。


■春秋時代(紀元前6前後)の呉越(紀元前7。 3世紀の東呉、10世紀の呉越ではない)
中国歴史年表→http://www.geocities.co.jp/SweetHome/4737/d.htm
呉越春秋年表→http://7th.jakou.com/rekisi/syunjyuu/nenpyou.html
 ●越
「越(えつ、紀元前600年頃 - 紀元前334年)とは、春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国。首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の諸民族とは異質な、百越に属する民族を主体に建設されたといわれる。」
 ●呉
「呉(ご、拼音:wú、紀元前585年頃 - 紀元前473年)は、中国の春秋時代に存在した君国の一つ。現在の蘇州周辺を支配した。君主の姓は姫。元の国号は句呉。」
『史記』によると北朝周の長男太伯が長江流域に南下して建国。そこにいた百越の民をまとめて建国した。
つまり為政者は北朝出身でも呉越を構成する主力人民は百越=越人だと言える。


■南越国 BC203〜BC111
南越国(なんえつこく)は、紀元前203年から紀元前111年にかけて5代93年にわたって中国南部からベトナム北部にかけての地方(嶺南地方)に自立した王国(帝国)である。南粤とも記す。

嶺南地方は古来異民族の百越の活動地域であったが、紀元前221年、秦始皇帝が斉を滅ぼして中国を統一した後、嶺南地方の攻略に着手した。

南越ももともと百越がいた場所にできた国家。民は百越すなわち越人である。

■ベトナム考古年表


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■南越からベトナムになったかどうかの考古学的な検証
文献上では越南=ベトナム(ベト=越、ナム=南)北部が南越国=ナムベトから支配を受けた時代があったと書かれてはいる。しかし考古学的にはどうなのか?中国は現代に至る歴代がみな南越、その後の南漢を厳しく批判し、なかったものとしてきた。しかし1983年、広州市で南越王墓が発見され、文化大革命も落ち着いたことで南越は再評価され始めた。
1983年の王墓発見はそれに拍車をかけた。さらにかつての春秋呉越、南越国の中心地であった浙江省からは、ベトナムのドンソン文化の銅鼓や甕棺に描かれた「羽人乗船図」とほとんど同じ図柄を持った”百越羽人船文銅斧”が出土。

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南越がその後建国した南漢も、ベトナムの土豪と交渉し、その後呉権によって撃墜されたことが記録にある『白藤江の戦い』。さらにずっと下った明清交代期にもベトナムと国交を存続していた記録もある。
ベトナム・トンキン湾沿岸では南越王朝製作の印章が発見。
ハノイ近郊では南漢の紀年銘入り梵鐘が見つかる。
南明の各種印章も雲南や広西から出て、清朝にいたるまで、南越朝からの北部ベトナム王権と中国北朝が競合関係にあって対立していた事実が明白となった。要するにわれわれは中国北朝の歴史だけしか知らずに来たのである。それは歴代中国政府の歴史観の強い影響があったためか、あかされてこなかった事実である。

したがって南越、南漢、南明といった広州からベトナム北部にかけた広範囲な中国南部王権(三朝という)が、ベトナムの黎朝を形成したことは各国研究者の認めるところとなっている。(吉開将人2001)

つまり南越から越南(北部ベトナム)が始まり、中南部の異人種とは、ベトナム戦争時代のついこのあいだまで、文化と人種の長い歴史の大きな壁があったことがわかったと言えるだろう。

■ベトナムの遺跡と文化の分布図
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参考文献
岩波講座『東南アジア史1』岩波書店 2001
世界の教科書シリーズ『ベトナム中学校歴史教科書 ベトナムの歴史』明石書店 2008
ハ・ヴァン・タン 菊地誠一訳『ベトナムの考古文化』人類史叢書 六興出版 1991

その2、その3へ続く


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    ( ´ー`)y─┛チァーパーボェー

    海を越えたら上海〜♪
    ですから 大量移民はこのルートでしょうかね。

    傑作&ランクリ

    にっぽに屋にっぽん

    2011/4/4(月) 午後 10:53

    返信する
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    台湾もルートのひとつですね。

    kawa**tu

    2011/4/5(火) 午後 8:40

    返信する

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