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古墳様式の分析の前に、鉄剣を忘れないように書いておく。
 
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邪馬台国を銅鏡から考察する研究は山ほどあるが、「魏志」倭人伝が一緒にもらったと書いてある鉄剣二口から考察する人はまれである。鉄剣はさびやすく、伝世も多い品なので、これがと特定するのが難しいからだろう。しかし・・・。
 
 
■象嵌銘文入り鉄剣出土地一覧
銘文入り鉄剣は全国で8例、金象嵌のしかも紀年銘入りはそのうちわずかに5例
さきごろ新たに発掘された元岡古墳のものを入れると古墳時代の銘文を持つ刀剣の出土例は全国で8例ある。
そのうち金象嵌の紀年銘を持つ刀は5例である。そのほとんどは国宝や重要文化財に指定されている。
 
1●奈良県 東大寺山古墳出土鉄刀、金象嵌 「中平年」(184年〜189年)
2●奈良県 石上神宮の七支刀、金象嵌 「泰和四年」(369年)
3○千葉県 稲荷台1号墳(5世紀中盤)出土の「王賜銘」鉄剣、銀象嵌、5世紀
4○熊本県 江田船山古墳出土の鉄刀 約75字 銀象嵌(6世紀)
5●埼玉県 稲荷山古墳出土の鉄剣銘、金象嵌、辛亥年(471年)
6○島根県 岡田山1号墳出土の鉄刀 「各田了臣」、銀象嵌
7●福岡県 元岡古墳群G6号墳(7世紀の古墳) 金象嵌、「庚寅」(570年)
8(●兵庫県 勝福寺古墳の刀の柄の模様、金象嵌、6世紀前葉)刀の身ではないので()付にした。
●=金象嵌 ○=銀象嵌
 
 
 
解説
1 天理市和邇・東大寺山古墳出土飾環頭太刀銘文
 
 唯一無二の純金象嵌銘文入り鉄剣
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銘文紀年は2世紀で、卑弥呼が若かりし頃の時代に当たる。
古墳は奈良県天理市の和邇(わに)氏のものと考えられ、築造年代は4世紀後半とみられる。
 
 「中平□□五月丙午造作□□百練清□上應星宿□□□□」
                   支刀    剛      下辟不詳 
と銘文が刻まれている。
 
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中平は後漢の年号で、184〜188年を示す。
ちょうど黄巾の乱が始まったのが184年。いわゆる「倭国大いに乱れ」た時代の作成になる。
「百練」とは百回鍛造したという意味で、特別な太刀であることを表しているが、稲荷山鉄剣も百練、江田船山鉄剣は八十練 と表現される。環頭部ははめ込み式で取り替えがきく造りであるので飾りそのものは古くないとされる。

なおこの古墳からはほかに三振りの長寸環頭太刀と六振りの素環頭太刀が同時に出土しているが、これらはみな形式的に飾環頭太刀よりも時代があとのものであることがわかっている。
従ってこの被葬者は、2世紀以降から一族に伝世されてきた大切な太刀が副葬品として入れられるだけの権威と評価があったことになるだろう。
 
 
この剣がほかと異なって重要なのは、まずは年代の2世紀ということ。
この時代は朝鮮半島北部に公孫氏朝鮮(燕)が存在しており、東大寺山被葬者ら大和北部の豪族は公孫氏と主として通じていたと思われる。公孫氏は中国が属国としてきた半島の駐屯管理地である楽浪郡を滅ぼすほどの実力者で、単独で楽浪より南部に帯方郡を置くほど、中国も一目置く存在だった。そして女王卑弥呼はそれまで深くつきあってきた公孫氏が滅びるとすぐに、今度は後漢に直接朝貢したのである。
 
東大寺山の和邇氏の祖先がもらったこの剣は、だから和邇氏が卑弥呼以前の邪馬台国の中心人物として公孫氏を通じて、後漢ともつきあっていたと見ることも可能である。鉄剣そのものは公孫氏が後漢から頂戴していたものを、和邇氏の頭領に下賜したものだとされている。
 
 
 

2 石上神宮七支刀(しちしとう)
 
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物部氏の石上神宮の伝世品であるので、考古出土一級史料ではない。
七支刀は、神功皇后の時代に百済の国から奉られたと伝えられ(神功56年=西暦250年代)、奈良県天理市石上神宮(いそのかみじんぐう)に保存されていた。千年以上もその存在が忘れられていたが、明治時代初期、当時の石上神宮大宮司であった菅政友が刀身に金象嵌銘文が施されていることを発見した。以来その銘文の解釈・判読を巡って研究が続いている。
 
七支刀(しちしとう)の名は、鉾に似た主身の左右から三本ずつの枝刃を出して計て七本の刃を持つ形に由来すると考えられる。主身に金象嵌の文字が表裏計61字記されている[2]。鉄剣であるために錆による腐食がひどく、読み取れない字もある。
 
『日本書紀』神功皇后紀52年九月条に、百済肖古王が七支刀を(新羅との争いに助力を求めて?)献上したという記事がある。「広開土王碑文」には、半島情勢悪化したおりに百済王と倭王が手を結んだとある。神功皇后紀の年代はこれに合わないので記事を操作して古い時代に移動させた
と見ていい。
 
異説では、この七支刀は当初九州に贈られてきたものを、その後大和へ移動させたとも言う。
ということは肖古王が救援を求めたのは隣接する九州の王へだった?それを大和政権が九州政権を奪取?して誕生してから強引に?さて?
 
 

3 稲荷台1号墳出土の「王賜銘」鉄剣
 
 
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稲荷台1号墳は,「王賜」銘という銀象嵌の施された鉄剣が出土したことで一躍全国的に知られた。この古墳の主は,鉄剣の他に鉄鏃,短甲などが出土していることから,畿内と関係のある武人と考えられている。また,出現期の古墳として知られる神門古墳からは畿内,北陸,東海の様相をもった土器群が出土していて,この地域の豪族がそれらの地域と行き来していたことが分かる。
 昭和62年,X線投射中に銀象嵌の銘文が確認された。畿内の大王が当地の豪族に下賜されたものと考えられる。
(表)「王賜・・敬安」(王・・ヲ賜ウ敬ンデ安ゼヨ)
(裏)「此廷刀・・・」(此ノ廷刀ハ・・・)
 今のところ「王」とはだれなのか,だれに下賜されたのかなど詳しいことは不明である。(倭王済か?とも)
 
 
 
4 熊本県 江田船山古墳出土の鉄刀
 
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この古墳はおそらくであるが火国造クラスの豪族のもの。おなじく火の一族の古墳としては井寺古墳があげられようか。火の国造といっても玉名周辺の「火中君」、南部の宇土〜八代・芦北の「火葦北国造」などもあり、全容はあきらかでない。年代を経て地域的な様変わりがあったようである。また佐賀県も往古は火の国であるので、ここの杵島なども火の君がいた可能性がある。

江田船山の場合、肥後中心部の山鹿・和町であるので、在地の海人系装飾古墳氏族を治めた管理者であろうか。
九州統治の宰相であった靫負大伴氏との関係は、葦北国造ほどにはわかっていない。6世紀の古墳。
古墳周囲に石人が置かれているので、年代的にも筑紫国造磐井と同年代くらいのもの。
台(治)天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人名无□(利ヵ)弖、八月中、用大鉄釜 并四尺廷刀、八十練、□(九ヵ)十振、三寸上好□(利ヵ)刀、服此刀者、長寿、子孫洋々、得□恩也、不失其所統、作刀者名伊太□(和)、書者張安也(読みは東野治之による)
 
 
 
5 埼玉県 稲荷山古墳出土の鉄剣
 
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(表)
辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比
(裏)
其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也
 
「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(表) 其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(裏)」
 
江田船山とともに「ワカタケル」銘が入るが、どちらの読みもそれで確定したわけではない。
もちろんそれが記紀が言う雄略であったにしても、そのまま五倭王の武になるかどうかもまだわからないと言える。

ただし、火の国造とこのさきたまの武蔵国造らしきオワケも、かなり親しかった可能性もあり、やはり大伴と膳によって政治統治されていた?王朝の支配下のもので、国造というか知事クラスであることはまちがいなく、「オオヒコ」が崇神朝の四道将軍大彦であった場合は、江田船山。元岡双方の国造とある意味同族関係があった可能性もある。
 
 

6 島根県 岡田山1号墳出土の鉄刀 「各田了臣」、銀象嵌
 
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画像はレプリカ

1984年(昭和59年)、保存修理中だった島根県松江市大草町岡田山1号墳出土の鉄刀に銀象嵌(ぎんぞうがん)の銘文が見出された。大正年間に出土した時はには完全であったが、その後刀身の半分が失われたために銘文もわずか末尾の12文字しか残っているに過ぎず、しかもさびが進んでいて解読できる文字が少ない。確実なのは、その中の「各田了臣」の四字だけであった。「各田了臣」は「額田部臣(ぬかたべのおみ)と読む。
この太刀の出土した場所などから、額田部臣は出雲臣と同族であり、その地域の部民(べみん)の管理者であったと考えられている。(→部民制)
「額田部」とは大和では推古女帝の世話のための部民であることになっている。奈良では額田部氏が管理者。それがなぜ出雲にあるかは不明だが、おそらく額田部自体が出雲出身か?推古が大和由来でない王家の人である可能性と合わせて興味深い。
 
 

7 福岡県 元岡古墳群G6号墳金象嵌
 
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筑紫国造鞍橋(くらじ)君子孫の墓であろう。つまり祖先は伊都国王か?
百済王から窮地を救ってもらったお礼に筑紫国造に贈られた鉄剣である。(一応断言しておく)
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%B0%C8%B6%B6%B7%AF&sk=1
 
 

8 兵庫県 勝福寺古墳金象嵌
6世紀前葉
川西市・勝福寺古墳(しょうふくじこふん)は6世紀初頭の前方後円墳。40mで埴輪と横穴式石室もつ。詳細不明。
http://blog.goo.ne.jp/tommz_1938/e/4f254ef70a9efc7c618bc528e218d4cb
 
 
 
このほかに
 箕谷2号墳出土の鉄刀
1984年(昭和59年)兵庫県養父市(やぶし)八鹿町(ようかちょう)小山の箕谷(みいだに)2号墳から鉄刀が出土した。
 
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現存長68センチメートルほどの鉄刀の佩裏(はきうら)に「戊辰年五月□」の銅象嵌(どうぞうがん)で記されている文字が見つかった。おそらくこの刀が造られた年紀と考えられる。この「戊辰(ぼしん)年」は、西暦608年と推定されている。
がある。
 
・・・・・・・・・・・・・
 
これらの鉄剣はゆえあって被葬者たちに贈呈されたわけであるが、特に東大寺山、元岡、稲荷山、江田船山には、ある種の連合体と半島南部や北部とのえにしの歴史があり、なにがしかの関係を見る思いがする。
それがどんな連合で、東大寺山と九州・東国の双方では何が違うかである。
 
また同様に全国に少ない金鍍金鏡や銘文入り画像鏡、あるいは日田の鉄鏡のような、連合体だったからこその類似遺物の贈呈も同様である。
 
日本地図の上にこれらをひとつひとつおいていくことで、列島を二分した二大勢力の分布や、協力者のとりあいが時代によって起きたことなどが見えてくるような気がする。

 
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Kawakatu’s HP マジカルミステリーコレクション渡来と海人http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/
画像が送れる掲示板http://8912.teacup.com/kawakatu/bbs/
民族学伝承ひろいあげ辞典http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/
あさきゆめみし ゑひもせすhttp://blogs.yahoo.co.jp/hgnicolboy/MYBLOG/yblog.html/
心象儀館・旧Kawakatu’s Eye かわかつの眼http://red.ap.teacup.com/himajin0198/
 

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