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世界中どこへ行っても市場はある。日本のような近代化された国では、市場は「いちば」ではなく「しじょう」と呼ばれ、行政の管轄によって入荷生鮮品の価格管理がなされている。いわゆる「セリ」を管理するのは民間問屋ではなく、行政である。そうしないと相場と価格が自由自在に変えられてしまうおそれがあるからだ。つまり、生鮮品は
それほど市民の暮らしを左右する商品だということであろう。

主婦にも、流通に関係のない人にもわかりやすく生鮮流通のあり方を教えるならば、まず近所のスーパーマーケットの売り場構成を思い出してもらうのが手っ取り早い。

スーパーマーケットは、全国だいたいどこでも同じような売り場になっている。入り口を入ると必ず野菜と果物(青果売り場。江戸時代の呼び方では青物)があり、次に豆腐や漬物(日配品)、次が鮮魚・塩干(黒物)、となりが精肉、加工肉、乳製品、飲料、最後が惣菜(デリカテッセン)という並びになっている。これをスーパーの導線といい、それがそのお店の主通路になるので一番広くしてある。中央はグロッサリー・ステーショナリーなどの一般食品と雑貨である。世界中のスーパーがほぼこうなっている。そして店の最大の貢献品目が生鮮三品(青果・鮮魚・精肉)と惣菜である。スーパーマーケットは、この生鮮素材を鮮度よく、美しく、食欲を増すように見せること、買いやすくすること、品切れさせないことをメインにした、いわば寄り合い所帯である。

ところが市場に行くと、なぜか精肉と惣菜はそこになく、青果市場と鮮魚市場だけが並んでいる。では肉はどこで仕入れるか?肉には相場がない。だから精肉業者・問屋から自由に仕入れることになる(ここでは鮮魚中心の記事だからおおまかにそう捉えておけばいい)。惣菜は、そもそも昔は生鮮品の見切り品でスーパー自身が作っていた(つまり仕入れ価格がほぼゼロの一番もうかる品目)が、最近では人件費などを考えて外の業者が入ることが多くなった。


さて、都市には中央市場があって、その地域の相場を決定し、管理している。その始まりはかつての魚河岸(うおがし)と青物市場である。その前は「市 いち」である。あなたの地域にも「市」のつく地名はあろうかと思う。例えば奈良なら大市(おおいち)は、そこが首都大和の最古の市場があった地名。それが飛鳥時代に海石榴市(つばいち)に移る。聖徳太子・・・いや蘇我氏の時代である。

その理由は簡単である。大市は大和川沿い、海石榴市は初瀬川沿いにあって、ともに、まだ縄文海進のなごりで水位が高い時代は、奈良盆地の西をさえぎる金剛葛城山地のたった二箇所の切れ目で大阪湾とつながる二重の潟湖だった名残がまだあったからだ。

以前、そういうシュミレーション3D画像を記事にしたことがあるのを覚えておられる方もあるだろう。大阪湾は生駒山の麓まで広がり、そこに草香江(くさかえ)という港があり、葛城氏は巨大な通路を開発して大和へ商品を運び込んでいたらしいし、南下して大和川河口から小舟で大和へと物流を運ばせていたのだろう。


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また羽曳野丘陵には古市地名があり、竹の内街道が大阪泉州と大和をつなぐ物流道路になっていた。


大市も海燕市も、そうした葛城氏や蘇我氏、あるいは倭の五王歴代の王たちによった、運河や街道を利用していた。しかし縄文海進が退行してゆくと大和川の往来も難しくなる。盆地の最東奥纒向そばにあった市は、やがて西の斑鳩や古市へ移ってゆく。巨大古墳が有名な古市古墳群のある海岸部だった場所だ。

そしてついに川での運搬が不能になった結果、大和朝廷の主要鮮魚は海魚よりも川魚へと変わらざるをえなくなったと思われる。神へのニエも、日常食も、鮎やフナ、鯉が主流となって記紀などにそれだけが記録され、一切、古代大和で海魚の記録はないことになる。


縄文時代から九州・瀬戸内・日本海・太平洋沿岸東海地方などの海民たちが命を懸けて集めてきた海産物は、迅速に大和には入りにくくなったはずだ。結局、近畿の大きな市は勢い古河内湖に突き出した堤防である上町台地へと集まるほかなかった。蘇我氏から変わった孝徳の難波京には、政治的理由もあるが、そういう流通事情と言う必然もあったのだ。市場の近く、港のそばに寺が増えたのも、そこで生まぐさ物が取引されたからだろう。食品となる生物への慰霊や、危険な漁師たちの海での死が多かったのである。



さて、近畿よりも市が古くからあったのは、瀬戸内海から北部九州、そして出雲や若狭などの沿岸地域であろう。しかし、それらは地域流通の港として優秀でも、大和や河内の市のような、いずれ「天下の台所」として全国から品物が集まる「ハブ市場」には成長できなかった。それはそのまま、つまり3世紀後半からの大和中央集権化を証明しているわけである。

北部九州の奴国あたりは玄界灘に面し、琉球と並んで日本で最も大陸が近い場所で、当然、最古の市があったはずである。しかも魏志によれば、そこは「倭人」のメッカであり、宗像、安曇、宗、羽田、松浦というような海人族の最古の集住地である。彼らが日本最古の漁師であったことは疑う余地はない。そして彼らが増えることで弥生時代は玄界灘沿岸や筑後川沿岸でまず始まるのである。それまでは狩猟採集を中心とした縄文人の国内的な流通はあっただろう。しかし狩猟採集は、小集落内の消費が中心で、いつでも採集が可能な海産物ほどのバラエティがない。いつも手に入る食料は、稲作、コメ食を中心とした弥生人にはどうしても必要だった。なぜなら稲作は一年中手がかかる。農業は専業化するしかなく、採集の余暇が少ない。すると常に手に入るおかずには鮮魚、海産物はかかせない。そこで海の民の、日常食への期待はいよいよ増大する。それが流通と農・水産の専業化と、物流のための土地改良や運河建設を必要にしてゆく。それこそが現代の流通業の最初なのである。


さて、もっと古くは?
インドシナ半島のタイやベトナムへ行けばすぐわかる。船上市場である。古代にはそれは物々交換の場である。これこそが最古の市である。江戸時代でも、海人族は船を家とし、ほとんど陸にあがらないで生活している。板子一枚下は地獄・・・その生活観・死生観は、やがて幕府の命で陸上に市を作ることになった漁師・海の民たちの中に生き残った。その気風、生き様は、体に刺青をするとか、一心太助のような想像上の魚河岸の男の姿になり、宵越しの金はもたねえ、などのいつ海で藻屑となるかわらない海人族そのものなのだと中沢新一は言うのである。中沢は、今話題の築地市場移転計画のご意見番のひとりとして、市場そのものの歴史を遡る作業を続けている。


さて、いよいよ本題に入ろう。
築地市場は、明治時代に移転した公営市場である。その前は日本橋に魚河岸があった。それ以前はと言うと、実はなにもない。ないどころか、まだ江戸という街そのものがないのである。そこはまだ縄文の色の残る僻地の湿地帯でしかない。今の皇居=江戸城も、そういう芦原だらけの荒地に家康が作ったもの。家康は、おそらく信長から後継者と目されていた人物で、だから安土に招待された。有名な本能寺の変直前の、明智光秀饗応役をおおせつかるその時である。

信長は、内心家康を後継者にしようとしていたがゆえに、家康に大阪や京を見てくるようにうながしている。安土にあった楽市楽座の、大元の流通を見ておけということだろう。これが家康の江戸建設に、あとになって大きなヒントとなったのである。


大阪の市場と言えば、江戸時代は京橋である。ここに魚河岸があった。青物はあとで天満の市に生まれる。子守唄にもなっている「天満鶴市」「だいこ(大根)揃えて」の淀川沿い。現在もそこは天下の台所の名残「大阪マーチャンダイズ・マート(OMM)ビルが存在する。京阪電車からつり橋も見える。ここが大阪の台所の始まり。秀吉の残した産物だが、そこからあぶれた漁師もいた。商売の常で、縄張りが市場にはあり、彼らはなかなかそこには入れてもらえない。そういう連中は、西成の港である雑喉場(ざこば)に魚河岸をほそぼそと開いていた。たいした儲けもなく、困窮していた彼らの中に、見一(見市)孫右衛門(みいち・まごえもん)もいた。(のちみ森姓を拝命し森孫右衛門)。見市姓は現在も神戸あたりにある。


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家康との出会いがどういう偶然からかは明確ではない。しかし、その邂逅話は
サイトに記録が載せられている。


「魚河岸の歴史的史料を伝える『日本橋魚市場沿革紀要』(以下『紀要』と略す)には、森一族が江戸に渡るに至った経緯が、くわしく記されておりますので、要約してみましょう。 
 
 「天正年中(1573〜1593年)、家康公が上洛された折、住吉神社に参拝された。そのとき川を渡るのに渡し舟がなく難儀したが、安藤対馬守が佃村名主の孫右衛門に命じて、かれの支配の漁船で無事に川を渡ることができた。その際に孫右衛門の家に立ち寄りご休息なされたので、孫右衛門は古来より所持していた「開運石」を御覧に入れたところ、家康公は"この神石を所有することは開運の吉祥なり"と喜んで賞美し、差し上げた白湯を召し上がった。そして、屋敷内の大木の松三本を御覧になって、"木を三本合わせれば森となる。今後は森孫右衛門と名乗るがよかろう"と仰せになるので、ありがたくたまわった。

  その後、慶長四年(1599年)に家康公が伏見在城の際には御膳魚の調達につとめ、徳川軍が瀬戸内海や西国の海路を隠密に通行するときは命令があり、孫右衛門の漁船でとどこおりなく通行させるなどの手助けをしていたが、とくに慶長十九年(1614年)の大坂冬の陣、及び翌元和元年の同夏の陣では、付近の海上を偵察し、軍船を漁船に仕立てて毎日本陣へと報告した。

  この褒美として、佃村、大和田村の漁民に大阪城の焼け米を大量に下され、大坂表町屋敷地一万坪あまりを拝領される。しかし、この土地には持主があったため、両村の漁民らは困って、その旨を申し上げると"それはもっともなこと"となり、"何でも良いから他のことを願い出よ"とおっしゃるので、孫右衛門並びに漁民らは"江戸に出て末永く家康公にお仕えしとうございます"と申し出た」



美談としてやや潤色もあるだろうこの記録。いずれにしても孫右衛門は家康に見込まれ、やがて同族たちを江戸の日本橋へ送り込む。それで大商人、大魚河岸となったのである。


さて、その後、京では例の本能寺の変が起こり、信長が死に、天下は大変な状態に。有名な家康の伊賀上野越えである。

事変で乱れた中で、いつ殺されるかわからない信長方の徳川家康は、そのとき大阪から伊賀を迂回して、伊勢湾へ抜けようとする。その伊賀越えを援けたとされるのが、伊賀忍群・服部半蔵らの一族であると言われる。ところが、服部一族は海人族出身である。四世紀、秦氏を半島から運んだ海人族の子孫が杉の子服部一族であることは、世阿弥の『風姿花伝(花伝書)』の世阿弥出自記録が「杉の子服部」「秦うんぬん」とあることからわかる。伊賀上野の秦氏関係者と言うとこの服部、及び松尾がある。松尾芭蕉の松尾である。その姓名はもちろん京都の松尾大社由来の苗字である。

筆者は彼らが秦氏子孫というよりも、それと同族関係だった船の民・・・羽田とか波多氏だったろうと思う。これらの「はた」氏族は、渡来系秦氏とは違い、「新撰姓氏録」では皇別氏族とされ、つまり天皇家につながるほどの古い海人族であろう。要するに天皇家の太陽神・女神アマテラスといった信仰そのものが、世界的には海の民から派生したことを思えば、宗像の沖ノ島における太陽神崇拝もそうだが、天皇を出す氏族が海人族だったことを彷彿とさせてやまないのである。


纒向、大和は葛城王と吉備王の合体で始まる。その証拠品は、先日愛媛県でも見つかった弧帯文(こたいもん)から弧文への変化である。

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県内初、孤帯文の壺が出土 今治・新谷古新谷遺跡




このふたつの氏族が、どちらも海人族であろうことはがえんじえない。吉備には瀬戸内海人族のメッカがあり、葛城氏は朝鮮伽耶経営の記録がある。秦氏を連れ帰るのも葛城襲津彦である。その両者の婚姻によって大和の王家は始まったと記紀も書くのである。



後編へ続く































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