ここから本文です

書庫全体表示

記事検索
検索

全743ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


日本の製鉄と製銅史 1 阿蘇狩尾製鉄遺跡と古代製鉄の始まり「墳墓が変われば王朝も変わった」 著・そうだじゅん


狩尾遺跡群 かりお・いせきぐん
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/15863
熊本県阿蘇町狩尾一帯に点在する遺跡群。
具体的には沼鉄鉱の鉱床を用いた簡易的な製鉄遺跡で、弥生時代後期後半に九州各地に見られ始める薄い平造りの鉄鏃(てつぞく=やじり)が造られた現場遺跡。簡易な板鉄をやじりの形に成型したときに出る三角形の切りくずがたくさん出る。それが阿蘇では祭祀用土器が作られた生産遺跡から出てくるケースがあり、狩尾遺跡群はそれに当たる。

イメージ 2

イメージ 1

場所は内牧(うちのまき)温泉、鬼八伝説のある的石のある周辺の、背後の阿蘇外輪山に遺跡、平原部に朝日田、明神山、赤塚、灰塚などの鉱床群が存在する。

地名の狩尾は、民俗誌で解釈すると、かり=金属あるいは掘削して得られるおたから、尾は段丘の端っこで、周辺に赤・灰・黒などがつく地名、河川がもともと多い。狩尾地名は肥後熊本藩細川家の馬が放牧された馬牧だった土地でもあり、そちらは「まき狩り」の狩地名かも知れないと筆者は感じていた。内牧もやはり牧があった地名で、戦国期前後から阿蘇に馬牧場があったのだろう。

ここの沼鉄は多くがバーライトと呼ばれるもののようで、純鉄に炭化鉄が混じったもの。それはおそらくそもそも地層にあった純鉄が阿蘇噴火で噴出したマグマと化合したのかと感じるが科学的分析は筆者にはわからない。いずれにしても二種の要素でできた鉄で鋼(はがね)であると専門家は言う。薄い鋼製の鉄板なら、鏨(たがね)のような鉄製工具で容易に裁断できる。三角形の鉄片は、やじりを作るのに、鋼製鉄板を鋭く三角にするときに出たハツリ(切り)屑であることになる。実用には使わないそれらはごみで、祭祀する場所に一括遺棄したようだ。ただ、この鏃では薄すぎて実用品だったとは思えない。例えば後世の靫負(ゆげい)集団が背負っていた矢のような飾り矢や、墓に副葬するレプリカだった可能性が高い。貫通能力は低い。

※靫負は背中に弓矢を入れる靫(ゆぎ)を背負った古墳時代の門番・警備集団。実戦的武人の弓矢と違うのは、矢を入れるのに、一般的には羽のあるほうを上にしないと手を怪我するのが、彼らは逆に危険にもやじりを上にして入れており、彼らが実戦的集団ではないことを示している。つまり弓矢はかれらには威嚇、象徴だったのでその矢は飾り矢だったことになる。

イメージ 3

こうした鉄成分は、必ずしもすべてが鉄鏃のためだけでなく、鉄滓は祭祀用顔料にも使われた。つまりベンガラ製造が主な目的だったのではないかと思われる。沼鉄鉱は焼成するときに温度が高すぎるとヘマタイト(Fe2O3)の結晶が粗大化し、また鉄が含有する有機質炭素で還元され、結晶の一部がマグネタイトに変っる。ここの沼鉄はそれ含まれている。こうした黒い鉄は良質のベンガラにはならない。破棄したのであろう。

歴史上で考えられることは、弥生時代後期にここにいた人々は、朝鮮半島などとの交流から早期に簡易な製鉄、ベンガラ製造を知っており、阿蘇氏や阿蘇国造一族がここに来る前から祭祀用やじりやベンガラを造っていたわけで、古墳時代以後、豪族や国造家も、それを見越して利用するために阿蘇にやってきただろうということである。そして非実用的な鉄しかとれないために、それを靫負の飾り矢に利用した可能性もある。すると狩尾は九州の在地靫負集団発祥の地かとも考え付く。ただし、記紀に寄れば古墳時代にはもう畿内の靫負がやってきたわけなので、むしろ中央靫負集団、靫氏らがこれを利用したと考えるほうが整合だろうか?現代でも阿蘇のリモナイト(褐鉄鉱粉)は製造されていて、充分に簡易な製鉄やベンガラに利用できると思える。


イメージ 4
阿蘇の日本リモナイト工業さんのリモナイト置き場



なお、狩尾のベンガラは土器の彩色に使われたことがわかっている。阿蘇狩尾はつまり祭祀顔料と用品の工房だったことになる。

イメージ 6
宮崎県高千穂町にある鬼八の塚

イメージ 7
的石



しかし、阿蘇神社の阿蘇氏の祖神であるという建磐龍命(たけいわたつのみこと)は、馬飼いらしき鬼八なる従者を従えていたと言い、それはまるで記紀のスガルや武蔵国の羊太夫の従者にそっくりな伝承で、阿蘇氏がやはりずいぶんあとから中央から阿蘇に来た氏族であろうことを彷彿とさせる。阿蘇の的矢伝説では、命が放つ矢を拾いにいくのにあきた鬼八は、つい足で矢を蹴って返してしまい、命の逆鱗にふれ、しつように追いかけられて九州山地を越えて日向の高千穂まで逃げて祭られたという。過去、筆者も何度も阿蘇・高千穂往来で鬼八伝説を追いかけた記憶がある。ということは建磐龍の使っていた矢は実戦に耐えるものだったわけで、発掘とは矛盾した伝説になる。要するに阿蘇氏のこの祖神伝承そのものが、まったく阿蘇の沼鉄の性格を知らない発想で造られたことがわかるから、阿蘇氏は昔からここにいた氏族ではなかったと感じるわけである。もちろんその前にいたはずの国造家も、当然、古墳時代の王家が派遣した氏族である。ただそれもまた『日本書紀』の言うことであり定かではないわけだが。

イメージ 5
茨城県鹿島神宮でも建鹿島命となっている建磐龍命、関東ではなまずをおさえつける地震押さえの神になった。そのなまずの大本は阿蘇国造神社にある鯰社であろう。

建磐龍という神は、在地を支配していた阿蘇の神・神八井耳命の子だとなっていて、蹴裂き神話の神である。蹴り裂くとは開闢であり、阿蘇をあとから開墾しましたよという意味である。大分県湯布院町にも蹴裂権現が祭られており、それが大伴氏に関わる道案内の神だったことをすでに筆者は調査している。つまり阿蘇氏や国造家が阿蘇に来るのは大伴氏の古墳時代、河内王朝時代をさかのぼれないわけである。それが「宋書」倭国伝が言う倭五王であったとするなら、記紀の言う大伴氏が五王の連でもあるとなり、記紀の思惑通り、両者が同じ王家で、そのまま今の天皇につながることになるわけだが、まずそれは『日本書紀』のうそである。倭五王はあきらかに吉備にルーツがある氏族である。なぜなら古市や百舌鳥にある巨大前方後円墳と同じ規模の巨大古墳が吉備に二基もあるからだ。同じ巨大な様式の前期前方後円墳があるなら、河内と吉備は同じ氏族だったということになる。その前方後円墳の形式は、大和の三世紀の纒向の様式であるから、纏向遺跡の王も当然吉備の氏族の遺跡なのだ。そのとおり、纒向からはちゃんと吉備の特殊器台と弧文が出てくる。ということは河内にあった王朝は、三世紀の大和にいた吉備王家の、子孫ないしはそれを乗っ取った王家だと言える。だからといって筆者は、纒向が邪馬台国であるなどと言ってはいない。そう決まるにはまだまだ証拠が不足しているからだ。

古墳様式の話を書いたついでだが、墓の様式が変るとき、当然、王朝は変ったはずである。例えば弥生墳丘墓が円墳になったのならそこで一度、次に前方後円墳や前方後方墳に変ったならそこで一度、またそれが縮小化されて方墳になったならまた一度、そして上円下方墳になりまた一度、最後に上八角系下方墳になってやっと天皇家という具合にである。

それぞれ記録にあてはめてしまえば、九州の墳丘墓は九州の王の墓、近畿の方形周溝墓は近畿の王の墓であるし、それぞれ各地に王家があった時代だとなる。それが方形周溝墓が圧倒的に全国化したのなら近畿王家が全国を支配し始める吉備王の時代なのであり、そこから纒向に前方後円墳が登場するなら纒向は吉備王が遠征し、葛城などの在地勢力がそれと合体した時代、つまり邪馬台国時代なのである。さらに吉備と葛城が乗っ取られると前方後円墳は超巨大になり、河内に「葛城氏」による倭五王が登場した時代」となって、方墳になったのは飛鳥の蘇我王朝時代、それが小さくなって上円下方墳になったのなら蘇我が藤原に消されてしまう儒教思想〜道教思想の天智〜天武時代、八角形になったのは道教思想の持統天皇の時代であり、最終的に今の上円下方墳で定着したのが桓武時代=天智・息長系天皇家であると考えるとわかりやすいか?

古墳が変れば、王家も、祭祀も変化した。当然であろう。文献に悩まされているからわからないだけである。考古学ははっきりしている。ほかの形状の古墳は?そりゃあなた全然別の民族の来た証拠品でしょう?

河内の巨大古墳は纒向の前方後円墳を踏襲しつつ、歴然としてばかでかい。旧来の王墓をふんだくって、しかも大きくしたもの。答えはすぐ出るでしょう。記紀のうそに振り回されているアカデミズム研究者たちだから、いつまでも決められないだけだ。違いますか?学者に決められないならわれわれが決めてあげればいいんじゃない?優柔不断な学界意見など時間の無駄ですよ。

さて製鉄にもどると、日本の鉄の使用はすでに縄文晩期に、水田の到来とほぼ同時に入ったことがすでに考古学では明確になっている。遺跡で言うなら縄文晩期の福岡県二丈町曲り田遺跡で板状鉄斧(てっぷ)が出たし、弥生前期初頭の熊本県天水町の斎藤山遺跡からも手斧が出ている。九州北西部は、日本最初の大陸の水耕稲作と鉄器と舶載品の入った中継地である。

そこから鉄製品は南部九州、瀬戸内、山陰へと広がってゆく。中期後葉になると近畿に伝わった。関東・甲信地方には後期に到着している。福岡と熊本の斧は双方ともに学者は鍛造品としたのだが、考古学者は形状から鋳造品としたいようだ。今のところ鋳造鉄が入った最古は山口県豊浦町山神遺跡の弥生中期の鏃となっているが、まだわからない。しかし輸入玄関であった北西部九州に最初に鋳造品も来ていると考えたほうが歴史的には整合ではあろう。

原料鉄の入ったのは(つまり地場製鉄の開始と言い換えてもよかろうが)、弥生中期福岡県春日市の赤井手遺跡で銑鉄及び鋼原料(分析ができるようになる以前は、多くの原料鉄が「不明鉄器」とされてきた)であったし、同時期に長崎県壱岐原の辻、唐神遺跡で中期板状鉄が、山口県下関綾羅木遺跡でも、棒状か板状原料が出ている。ただしまだそれと製鉄工房跡との合致がまだ見つからないようだ。

鉄滓が出る(つまり明らかに製鉄した)遺跡は、弥生前期末の京都府峰山町扇谷遺跡(持ち込まれただけかも?ベンガラ素材として?不明)、中期末の鹿児島県王子遺跡、中期末の春日市赤井手遺跡、後期後半の石川県七尾市奥原峠遺跡、古墳前期初頭の千葉県八千代市沖塚遺跡などが古い。奥原峠遺跡では鍛冶工房も一緒に見つかっている。こうしてみると古代王国があっただろうと考古学ファンが考えてきた丹後(丹後王国)地方や越前(越王国)地方や若狭地方、またまったくこれまで後進地帯と考えられてきた南九州鹿児島でも、それらの地域よりもかなり早い時間枠で見つかったわけである。
参考文献 佐々木稔編集著作『鉄と銅の生産の歴史 ―金・銀・鉛も含めて―』雄山閣 2002







この記事に

開くトラックバック(0)


「 高校の歴史教科書に載る用語が半分になる可能性がある。14日の朝日新聞によると、「大学入試で歴史の細かい用語が出題され、高校の授業が暗記中心になっているのは問題」だとして、高校と大学の教員らで作る「高大連携歴史教育研究会」が用語の精選案を発表。知識を入試で問う用語を現在の3500語程度から約半分にすべきだとしているという。

 「気候変動」「グローバル化」などの追加が検討されている一方で、日本史分野の削減対象にあげられているのが「坂本龍馬」「大岡忠相(大岡越前)」「武田信玄」「上杉謙信」「吉田松陰」だ。いわば歴史上の“スター”だが、なぜ教科書から消える可能性があるのか。」



ほう。


昔の教科書には、確かに坂本竜馬がなかったようで、これは小説家司馬遼太郎の超人気作の映画化やテレビ化の影響が大きい。いわば竜馬は裏方だし、竜馬に相当した影の功労者なら山ほど出てくるはず。

吉田松陰も、時代の中ではそれほど存在感が無い気もする。

信玄・謙信の川中島戦いも、そうした視点では確かに敗北者でもあり、通過点・・・



と、紋切り型に消し去ってしまわれると、われわれ世代は、「おっとそうなるか?」の感が強い。

例えば川中島は、地形・地理という視点で、古代から重要な場所にある。受験のためにコンパクト化するのが、果たして、本当に日本人のためになるのか?がある。


これまで、教科書は聖徳太子を厩戸王に変えたし、音楽では唱歌や名曲を切り捨てている。それが受験のためだけなら仕方が無いが、しかし教育はそれでいいのかとも思う。むしろ、人間の能力を信じるのなら、脳はいくらでも知識が吸収できる。簡略、安易、短縮の世の中か・・・。


学校の短い時間枠ではそうなるしかないのか?


だが歴史は長じてからもう一度学びたいもののひとつである。そうした若者の将来の学習意欲までも、それは消してしまうのではないかと危惧する。



無駄をすべてなくしたら、きっと人類は、真実の大切を忘れてしまいそうで怖い。



無駄のほうが大事ではないか?




何よりも困るのは、世代を超えた共感が喪失してしまうことだ。話題が断絶する。すると年長者を若者は別人種とますます感じ、言わせてもらうならビール瓶でなぐりたくさせてしまうのではないかなどと、つまらぬ老婆心が頭にもたげてくるんだが。もちろん逆も起きるだろう。日本人共通の知識まで、教育は分断したいのか?なのである。



















この記事に

開くトラックバック(0)

日本のアジール


久しぶりに民俗学的記事を。


アジール ドイツ語 asyl  フランス語 同じく 英語 asylumアサイラム

犯罪者、奴隷、負債者、逃亡者、不法移住者、不法渡来難民、などなどが逃げ込んだ場合に保護を得られる「聖域」、避難所、聖庇(せいひ)。
世界各地で、寺院や聖地、墓場、神社境内、河川沿岸、海岸部などにあるが、法体系の整備とともに失効したところがほとんど。

日本では主に江戸時代に、「逃げ込み寺」のような一定の「追及の及ばぬ聖域」があった。民俗学的には広義に使用するケースがあって、法の埒外の無法地帯である。中世から職をなくした芸能民や宮大工、あるいはらい病などの特定の病人、鉱山鉱毒で汚染された患者などが集まった、集められた地区もアジールと呼ばれることがある。




イメージ 1


イメージ 2
福島県某所




イメージ 3

埼玉県某所の横穴墓群



ある理由から、例えば幽谷、山頂、あるいは古代の古墳や、廃れて使用されなくなった鉱山の間歩(まぶ)穴、トンネルなどをねぐらにして漂泊民などが住み着くと、そこはアジールとなる傾向にある。神社の境内などは古代からすでに遊興民らが集まる場所だった。



それはそうされたものから見ると「差別」だっただろうか?反対にそうする側からは「区別」だったのだろうか?差別と区別を、最近混同する意見が増えている気がしている。どう違うかを考えることは、実は歴史にとって非常に重要な考察かも知れない。そういうことをこれから少し書いてみたい。















この記事に

開くトラックバック(0)


聖武天皇の御世は、実に疫病が多かった。
その理由は大陸での気候風土の一時的悪化、それに伴う渡来人が持ち込んだ病原菌にあったことは間違いない。というのも、当時の日本列島の気候はまずまずで、そこには直積的な原因があったふうには見えないからだ。

『日本書紀』には数度の日照り記事、疫病記事、天然痘記事、その結果による藤原四兄弟の不審な連続死や皇后光明子の数度の不予(やまいがおもわしくない)記事があり、はたまたやたらに仏教関連施設や薬典・医院の建設、聖武の数度もの遷都、藤橘両家の政権対立によおる宮中内乱、はては東大寺大仏建立や宇佐八幡神の国家管理と祭神名変化、そして法隆寺東院伽藍を聖徳太子の居住地とした建設などなどが目白押しに並ぶこととなった。


イメージ 1


これらのすべてが事実であったかどうか知る由もないことだが、少なくとも、気候が異常に温暖化したために、真夏の日照がきびしくコレラや天然痘が蔓延し、農作物は枯れはて、民衆は飢餓と飢饉だったことは確かであろう。またそのために宮中も不穏な空気が漂い、藤原と橘のお家騒動や、藤原四家のつぎつぎの不審死が起きた。それが対立者のよる暗殺であったのは明白ではあるが、『日本書紀』はそれを菅原道真の怨霊のせいにして誤魔化してある。


年表でそれを見てみよう。

724 陸奥国に多賀城を築く
724 長屋王、左大臣。安宿媛が夫人となったのを機に、宮子を大夫人となし、初めて中宮識が設けられる。(→辛巳事件)
725 宇佐神宮一之御殿(比売神=アマテル)を造営
727 聖武に基皇子誕生(→皇后宮:元藤原邸で生むが1歳前に死去)
728 聖武に安積親王誕生(母は県犬養広刀自)。金光明経を諸国に配布
729 長屋王の変(一族滅亡)→武智麻呂、大納言。安宿媛、皇后となる。
729 厭魅呪詛する者は斬首。妖術妖言の書を持つ者は自首せよ
730 日照り、神祇官庁舎に落雷。諸国に盗賊。
730 皇后宮職に施薬院・悲田院をおく。興福寺に五重塔を建てる(皇后臨御)
731 皇后宮(旧不比等邸)の隅に角寺(海竜王寺)を建立
732 日照り
733 各地で飢饉。疫病。橘三千代薨去。皇后不予(不快、病)。興福寺維摩会復興。
733 宇佐神宮二之御殿(応神天皇)を造営。
734 大地震。皇后、法隆寺に施入(長屋王の鎮魂)(〜736)
734 興福寺の東金堂に対面する西金堂を造営(母・三千代の弔い)
735 凶作、天然痘流行る。阿倍内親王「法華経」購読
735 吉備真備・玄靴薺国
736 皇后、行信による法華経講読の法会。法隆寺に施入。玄靴持ち帰った五千余巻の経論の書写始まる(〜749)
737 藤原四兄弟死去(推定疫病死か暗殺死)。皇后、法隆寺に経函四合を奉納
737 玄靴砲茲蟲椹匈仞叩9長,隆曚派廖聖武と姉・宮子が会う
738 橘諸兄、右大臣。藤原房前一周忌に法隆寺に施入
738 阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が異例の女性皇太子として立太子
739 皇后不予(病気)。法隆寺の東院を造らせた(聖徳太子一族の斑鳩宮跡)。
740 藤原広嗣の乱。聖武、関東行幸(恭仁京遷都)
740 「一切経」の書写供養を発願「五月一日経」
740 国ごとに法華経十部を写して七重塔を建てさせる
741 国分寺建立の詔
741 藤原不比等の封戸三千戸を国分寺に施入
742 近江紫香楽に離宮を造営(聖武の大仏造営予定地)
743 橘諸兄左大臣
743 大仏造立の詔 (宇佐神宮が大仏建立費を東大寺に送る)
743 「一切経」の書写供養を発願
744 安積親王薨去(1/11 藤原仲麻呂に毒殺されたという説)
744 『楽毅論』を臨書(書写)。その奥書に「藤三娘」の署名
744 難波京に遷都(天武が双京の都とした地)。
745 平城京に都を復す。玄掘筑紫に左遷。天皇不予
747 東大寺大仏鋳造開始。皇后、新薬師寺を建て7仏薬師像を造る。
748 元正太上天皇崩御
749 天皇・皇后、東大寺礼仏。「三宝の奴」の詔
749 聖武→孝謙天皇即位------------------------------------
749 大仏鋳造完成。仲麻呂紫微令(紫微中台長官)
750 吉備真備、築紫に左降
752 大仏開眼供養
753 皇后不予(病気)
756 聖武崩御。夫の死後四十九日に遺品を収めるために正倉院が創設
757 橘諸兄薨去。橘奈良麻呂の変(旧勢力一掃)
758 孝謙→淳仁天皇即位---------------------------------------
759 淳仁の宣命:太保(恵美押勝)は「朕が父」、その子等は「朕が同胞」
760 光明皇后薨去。恵美押勝(仲麻呂)、大師(太政大臣)となる
764 恵美押勝の乱。淳仁→称徳天皇即位。


ご覧の通りである。
道真の怨霊が考え出されてのち、日本にはまさに祟り、怨霊思想が急激に広がり定着してしまうと言っていい。そしてそれは、わが国のやんごとなき世界に、二つの大きな死生観の変化をもたらす。ひとつは大王・天皇家・豪族が殺しあえば祟り神になってしまうので、表面上殺さない、正しく順に引き継がれていったという建前系図、王家は一度も途切れず続いてきたという皇国史観を生み出させ、表面上では、仏法を中心にした三宝への寄依しているという清純潔白な理想主義を産み、ひとつは、主に藤原光明子の、みずからの疾病や兄弟の死による、いわゆる無常観による理想の聖人創作の開始が起きたことである。

彼女が悲田院を造り、薬典をいくつも設けるその影で、夫聖武は、藤原広嗣の筑紫での反乱をきっかけとした数度もの遷都が始まっている。その理由は第一は宮中の政権争いへの厭世観であるが、第二は、やはり飛鳥藤原京での長年の疫病を恐れてのことでもあっただろう。もちろん自身の暗殺も考えたかも知れない。

光明子は特に、天寿国繍帳の作成や上宮法皇帝説の書き換えなど、しきりに聖徳太子の慈悲ある聖人・かさぶた病の浮浪者を看取った話などを、クローズアップし、もしかすると父・不比等の七光りを利して『日本書紀』推古・蘇我氏部分に強引に太子事績を突っ込んだ可能性すら感じられるのである。

















この記事に

開くトラックバック(0)


太和殿、中和殿、保和殿を案内した習近平氏。その様子を中国中央テレビは「両国首脳が『和』という伝統文化を体感した」と伝えている。中国側は相互尊重や、協力姿勢を強調する狙いだったのでは。専門家いわく、先代・胡錦濤氏の頃から「和をもって尊しとなす」といった考えが浸透している模様。「ソフト外交ですね」など説明された。中国が“脅威”でないとアピールしたいのかもしれない。(朝日新聞)


今回の習近平のトランプ異常待遇の裏に、そもそも共産主義が、ほかの哲学を語ってしまったところに違和感と、日本への意識変化を見るべきかも知れない。



論語
有子曰、禮之用和爲貴、先王之道斯為美。小大由之、有所不行。 知和而和、
 不以禮節之、亦不可行也。
 
 
 〔 読み下し 〕
 有子(ゆうし)曰いわく、礼の「和をもって貴しと為す」は、先王の道も斯れを美と為す。小大之これに由れば、行なわれざる所あり。和を知りて和すれども、礼を以って之を節せざれば、亦行うべからざるなり。



日本人のほとんどが「和を以って尊しと為す」(以和為尊(貴))を厩戸(聖徳太子)の憲法17条の日本オリジナル条文だと思っている。ところが実はそれはもともと外国の思想のまんまパクリである。しかも17条憲法ではそのうしろに「sからうことなかれ」ときて、意味は和どころか言うなりになってろ・・・とも取れてしまう内容。

極めて簡単に言ってしまうと、聖徳太子が作ったとされた憲法17条のほとんどが、実は中国の論語などを下敷きとして、もっと厳しく言ってしまえば、それは太子の時代にではなく、『日本書紀』成立期に、藤原不比等らの編者たちによって、書かれたということになる。

トランプ大統領を迎えた中国の習近平は、まさに、しかしながら、中国オリジナルである和の精神を以ってアメリカの為政者を迎えたのである。共同会見でも数度、「和」を口にした。そこには日本の飛鳥時代の憲法などは、所詮わが国の論語のコピーでしかないのだという、安倍政権のトランプ歓迎への皮肉と否定を込めたものだったと思うのがよかろう。しかしそれは、かえって、いかに習近平が、今回、日本を意識していたかを示すことでもある。

そして、トランプも習近平も、あきらかに韓国をないがしろにし、日本とアメリカの安保協力のほうに、重きを置いた。そのことはイヴァンカが韓国には立ち寄らず、日本だけで帰国したこと、しかも中国にすら寄らなかったことから、中国が日本をある意味見直している、安倍が只者ではないなと感じているからこその対応であったと言えるだろう。

このことから、韓国での文政権の落日が近いことも見えている。彼は八方美人で、チキンハート。世界は韓国をあきれた優柔不断国家だと、トランプの対応から感じ取っただろう。いずれにせよ、旧態依然の年寄りたちが強硬意見で邪魔をする儒教社会では、世界はますます半島両国を理解しなくなるであろう。あわれと思え、ではないか?


17条憲法が厩戸の時代になかったことは今では定説化している。あったとしても作ったとすればそれは蘇我馬子であったはずとも言われる。飛鳥時代、あの時代に、太子よりも推古女帝よりも極めて政治的な意味で「大王」だったのは馬子だけである。和を以って・・・の条文は、いわば今の日本国憲法なら第九条戦争放棄と同じくらい日本人に浸透してきた。しかしそれは儒教の礼の教え。


がっかりした?

だが『日本書紀』作文構造からも、前半を日本人が書き、後半は中国人が書いたものとなってきて、飛鳥の中ににわかに中華の用語や哲学が引用されていて、倭の古い言い回しやことわざが皆無だということから森博達があきらかにした。



次回、光明子時代の気候悪化と乱と聖徳太子の創作








この記事に

開くトラックバック(0)

全743ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事