新、愛知限定歴史レポ

メインサイト同様宜しくお願いします。記事中に誤りを見つけたり、誤字脱字を見つけた時は、予告なしで訂正しますので悪しからず。

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

イメージ 22

イメージ 23

イメージ 24

イメージ 25

イメージ 26

イメージ 27

イメージ 28

イメージ 29

イメージ 30


庄内川下流と新川下流に挟まれた逆三角形の町下之一色町

3図中文字のアーチの明徳橋は南陽大橋、及び31図中、
庄内新川橋のアーチ橋文字も間違いで、南陽大橋で、
お詫びして訂正します。


下之一色地名由来
少し高い底をイーシキという、「シキ」は砂礫土の別名
また一種類の緒色の賦課のうち一色、つまり一種類の課役
また官物一色を納入する荘園の田地、一色田よりの由来。
また低湿地に住居を定めることを居敷(いしき)を定める
といい、それに由来する説もある(尾張地名考)
下之は北方の北一色に対する此方南方の為、下之が付き、
また単に海に近い低い下から。

前田下之一色城跡、庄内川下流の東岸にあったと
いわれるが、明和5年(1768)新しく河川敷となって
失われ、その規模ははっきりしてない。
現在の三日月橋下流辺り、元、青峰寺付近がその跡と
伝えられて、そこに「下之一色城跡石碑」があっがその
青峰寺が新川堤改修により、養護老人ホーム共愛の里に
移転、下之一色城址石碑は共愛の里西隣、正色小学校敷地
の東端に移設してあった。

正色広場や正色小学校の「正色」由来は下之一色文字の
「下ノ一」をちじめて「正」と「色」をつかって「正色」と
されたという。

前田氏の始祖仲利の子、種利が下之一色城を築き、その
一族が居城したという。戦国時代の初めに前田氏発祥の
前田村からから移り住んだのが始まりといわれる。
天正12年(1584)の小牧・長久手の戦の頃、豊臣秀吉方に
属した為、徳川・織田連合軍に攻められ落城し、その後
廃城となった。
愛知県郷土資料刊行会発行「中川区の歴史」では
「府志」には前田与十郎種定が城主であったとしている。

その子前田甚七郎長種のとき、蟹江合戦(天正十二年)
にて落城し、その後、城址は新川開削の折に川敷になって
今や忘失されてしまった。その跡は三日月橋下流辺りと
言い伝えらている。一般に前田城というとこの城を指す。
「志略」には「前田ノ城ハ今、下之一色也。然レトモ
城墟、今、川トナリテ跡ナシ」と云々。

船頭場地名由来
東福田新田のころ、この辺りから渡し船が出て、漁船のたまり場
もあったことから、船頭場とされる。
下之一色渡し、下之一色から庄内川を渡って福田新田にでる。
渡し船は新川の対岸と下之一色との間あり。

江戸時代著者 樋口好古の地誌1822完成「尾張徇行記」に
「渡し船一艘、是は枇杷島川筋(新川)東福田より下之一色へ
越自分渡し船頭なし、近郷よりといをとり自分渡し船也、使用者は
渡り賃銭三文づつ」とある。
明治期に愛知郡と海東郡を結ぶ両郡橋が掛けられ、渡し船は廃止された。


全1ページ

[1]


.
歴史エリア
歴史エリア
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(2)
  • ねこコーチ
  • 加藤勝美
友だち一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事