新、愛知限定歴史レポ

メインサイト同様宜しくお願いします。記事中に誤りを見つけたり、誤字脱字を見つけた時は、予告なしで訂正しますので悪しからず。

庄内川渡し場跡

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 次のページ ]

庄内川渡船場跡地図

イメージ 1


渡船場シリーズ最終回

江戸時代より名古屋の主要街道には、庄内川を渡るため
渡船場があったので、それら渡船場を長らくフォトレポを
続けました。

庄内川の北から順に、春日井大留、守山志段味間の大日の渡し、
春日井野田、守山吉根間の野田の渡し、守山龍泉寺、春日井下津尾
の間の下津尾渡し、守山川村、春日井松河戸の間の川村の渡し、

守山幸心、春日井勝川の間勝川の渡し、名古屋成願寺、味鋺の間の
味鋺の渡し、名古屋稲生、大野木の間の稲生の渡し、
東琵琶島、西琵琶島の間、琵琶島の渡し、萱津、東宿間の萱津の渡し、
岩塚、万場間の万場の渡し、本前田、前田の間、前田の渡し、
下之一色、福田新田の間、福田新田の渡し。

以下、渡船詳細。
前田村渡船、船1艘、1人3文、馬9文、百姓自分渡し、船頭給なし。
福田新田渡船、船2艘、1艘は蟹江入船、1艘は下之一色渡、1人3文、

万場渡船、船、4艘、御召船1艘、船頭6人、1人2・3銭、馬5銭、
(川幅200間、内9間ほど川通、潮入)船頭給あり。

琵琶島渡船、船頭給あり。

稲生渡船、船6艘、うち2艘は稲生村船頭2人、2艘は上小田村同断、
1艘は大野木村船頭1人、1艘は比良村同断。1人2文、船頭給あり。

味鋺渡船、船1艘、船頭4人、1人6文、駄荷10文。

勝川渡船、船1艘、船頭4人、1人6文、駄荷10文。

以上庄内川にかかった渡船の概要である。この他矢田川を渡る下街道の
渡船場があった。

以上江戸期におけるおもな街道と、その渡船場について述べた。
これら街道は現在もなを、重要な道としてしようされている。
しかし、モータリゼーションの時代となると、道路幅の狭いことが
自動車交通の支障となり、拡幅やバイパスによって補完されている。

この項、1982,3 建設省
中部地方建設局・庄内川工事事務所発行
「庄内川流域史」渡船場よりそのまま引用しました。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

イメージ 22

イメージ 23

イメージ 24

イメージ 25

イメージ 26

イメージ 27

イメージ 28

イメージ 29

イメージ 30


庄内川下流と新川下流に挟まれた逆三角形の町下之一色町

3図中文字のアーチの明徳橋は南陽大橋、及び31図中、
庄内新川橋のアーチ橋文字も間違いで、南陽大橋で、
お詫びして訂正します。


下之一色地名由来
少し高い底をイーシキという、「シキ」は砂礫土の別名
また一種類の緒色の賦課のうち一色、つまり一種類の課役
また官物一色を納入する荘園の田地、一色田よりの由来。
また低湿地に住居を定めることを居敷(いしき)を定める
といい、それに由来する説もある(尾張地名考)
下之は北方の北一色に対する此方南方の為、下之が付き、
また単に海に近い低い下から。

前田下之一色城跡、庄内川下流の東岸にあったと
いわれるが、明和5年(1768)新しく河川敷となって
失われ、その規模ははっきりしてない。
現在の三日月橋下流辺り、元、青峰寺付近がその跡と
伝えられて、そこに「下之一色城跡石碑」があっがその
青峰寺が新川堤改修により、養護老人ホーム共愛の里に
移転、下之一色城址石碑は共愛の里西隣、正色小学校敷地
の東端に移設してあった。

正色広場や正色小学校の「正色」由来は下之一色文字の
「下ノ一」をちじめて「正」と「色」をつかって「正色」と
されたという。

前田氏の始祖仲利の子、種利が下之一色城を築き、その
一族が居城したという。戦国時代の初めに前田氏発祥の
前田村からから移り住んだのが始まりといわれる。
天正12年(1584)の小牧・長久手の戦の頃、豊臣秀吉方に
属した為、徳川・織田連合軍に攻められ落城し、その後
廃城となった。
愛知県郷土資料刊行会発行「中川区の歴史」では
「府志」には前田与十郎種定が城主であったとしている。

その子前田甚七郎長種のとき、蟹江合戦(天正十二年)
にて落城し、その後、城址は新川開削の折に川敷になって
今や忘失されてしまった。その跡は三日月橋下流辺りと
言い伝えらている。一般に前田城というとこの城を指す。
「志略」には「前田ノ城ハ今、下之一色也。然レトモ
城墟、今、川トナリテ跡ナシ」と云々。

船頭場地名由来
東福田新田のころ、この辺りから渡し船が出て、漁船のたまり場
もあったことから、船頭場とされる。
下之一色渡し、下之一色から庄内川を渡って福田新田にでる。
渡し船は新川の対岸と下之一色との間あり。

江戸時代著者 樋口好古の地誌1822完成「尾張徇行記」に
「渡し船一艘、是は枇杷島川筋(新川)東福田より下之一色へ
越自分渡し船頭なし、近郷よりといをとり自分渡し船也、使用者は
渡り賃銭三文づつ」とある。
明治期に愛知郡と海東郡を結ぶ両郡橋が掛けられ、渡し船は廃止された。


前田 速念寺

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12


前田氏発祥の前田城址 速念寺
名古屋市中川区前田西町1丁目904番地
 (2011,3,27フォトレポ済分)
 
                                        

速念寺は名古屋市立長須賀小学校の東隣にあり、
また、速念寺の北隣には本堂の基壇が高い圓盛寺があり、
ここに巨大な前田銘の石碑がある。

本題の
速念寺の辺りが前田城跡で、境内に「前田古城趾」碑がある、
また加賀百万石の前田利家の生まれた城とも伝えられ、
十五世紀の中ごろ築かれたれたとされるが、築城主が誰か
はっきりしない。

同じ中川区の荒子観音の南方、富士権現社に巨大な
「前田利家誕生之遺址」碑があり、この辺りが荒子城跡、

古い話ですが、
NHK大河ドラマ「利家,まつ」の時には利家少年時代、
荒子城周辺の山河風景を映したが、あの頃荒子跡を探訪ました、
荒子城周辺にあのような
高い山はないが、前田城付近と見れば西方に養老山脈が望める。
・・あの時の荒子城は前田城と見れば、それが正解です・・・

利家誕生は荒子城説があるが、一説では利家は前田城で
生まれ、七歳の時に荒子城に移ったとも言われている。

また、前田城は中川区下之一色の「下之一色城」が前田城と
いう説があり、次回取材済の庄内川・新川の下之一色町レポで
紹介予定です。



庄内川万場緑地より

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

イメージ 22

イメージ 23

イメージ 24


庄内川渡し場跡シリーズ
今回画像24枚
庄内川万場大橋緑地より、この付近から見える横井山
横井山緑地2006,12UP済のフォトレポ下記にリンク
http://blogs.yahoo.co.jp/area19192003/42952145.html

横井大橋、JR関西本線鉄橋、
近鉄名古屋線鉄橋、前田利家生誕の前田城址付近、新前田橋、
庄内川右岸、大螳螂(だいとうろう)町の各大学漕艇部艇庫と
大当郎橋、地名の「大螳螂」由来は熱田社の宮大工の棟梁から
出た地名。
しかしカマキリの漢字が「螳螂」だがカマキリには無関係です。
また、燈籠とも無関係です・・・・ほんとうに変な地名ですね。

庄内川左岸、松並木の松陰公園、松陰公園の松並木を行く
漕艇3隻。

以上2011,3,27〜4,9,庄内川堤3,9Kmフォトレポでした。




イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

 
万場、まんば・・この地名は尾張国地名考によると
馬場は神社の祭りのときに、馬場を設けたところと
いうとある。

今回は
江戸時代の万場渡船場と万場宿での悲恋の物語と
you tubeで万場渡船場と万場宿写真21枚をUPしました

まずは万場にこんな悲恋物語があります

昭和60,10.1発行「富田のあゆみ」より 

「万場の渡し」 
ある年の夏の昼下がりでした。
空は今日も太陽がギラギラ照り、佐屋街道の松並木も
さすがに暑さにたまらいようです。

丁度、万場の宿に、対岸の岩塚のほうから舟が庄内川を渡って
きたところです。
舟が着くと、さっさと西のほうへ行く者と茶店で一ぷく
する者にわかれましたが、どうしたことか一人の若者が
舟からおりよとしません。
船頭は「お客さん、着きましたよ、早くおりんせい」と
声をかけても、みるから疲れ切ったその若者は、
ぐったり舟べりにしゃがみこんでいるだけです。
船頭たちが肩をゆすっても、まるきり死んだようにです。
「やーい行きだおれだぞ」とあたりの人たちが大さわぎ、

そこへ宿屋の問屋をしている孫九郎という人がやってきて
若者の頭に手をやるとかなりの熱があり早速自分の家に
かつぎ込み看病しました。

二、三日たって、やっと元気になったその若者は東国より
親の敵をたずねて歩いている者で、路銀を使い果たし、
空腹と熱病でまいってしまことがわかりました。
孫九郎は仕方なく、当分、問屋で雑役として使ってやる
ことにしました。
宿屋の問屋というと、藩の許可を得て、今でいうと宿屋と
駅長をかねたようなもです。
若者の名を高義といって、雑役をよくつとめ、同僚の
評判もよい働き者でした。

それからまたたく間に数年がたち、孫九郎は一人娘の
お小夜という娘がいましたが、嫁の年頃なっていましたので
どこからか婿をとって家をつで貰うことにしました。
丁度、よい縁談があり娘にしきりにすすめましたが、
どうしたことか娘は承知しません。
よくよく聞いてみるると、高義に思いよせていることが
わかりました。
しかし孫九郎は問屋のあとつぎとなると、素性のわからい
者に婿をとっては藩の許しが出ません。やむなく、
高義に因果をふくめました。
高義は、命に恩人の頼みとあらばいたしかたないと、
後髪をひかれる思いのまま、夜のうちに何処となく去って
いきました。
お小夜はあとで知り、世をはかなんで、庄内川に身を投じ
ました。
それから、庄内川のこの辺りには片葉の葦が生えるように
なったとのことです。
片葉しかないのは風あたりが強いところで生えるためかも
知れません。


you tubeリンク さくらと一郎の曲にのせて贈ります
http://www.youtube.com/watch?v=5OnqRlRqATw

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 次のページ ]


.
歴史エリア
歴史エリア
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(2)
  • ねこコーチ
  • 加藤勝美
友だち一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
ふるさと納税サイト『さとふる』
お米、お肉などの好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
コンタクトレンズで遠近両用?
「2WEEKメニコンプレミオ遠近両用」
無料モニター募集中!
いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事