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ブラザレンと預言は密接な関係がある、ということをお話してきましたが、預言への興味は、ブラザレンだけのものではなく、当時のキリスト教会一般に広く普及した関心であったことは、以前もお話したとおりです。
ブラザレンは、艱難前再臨説に立つ信者さんが多いのですが、これは普遍化できることではありません。艱難後再臨説に立つ信者さんもおられます。それは人それぞれです。
また、このグループの代表的な論客(指導者というよりは、論客、著述家)であったダービーは、ディスペンセーション説(天啓史観とか時代区分説と呼ばれます)を生み出しました。
基本的に、ディスペンセーション説は、今は恵みの時、といった聖書の表現に基づきながら、過去様々な時代を聖書の関連で区分して、それにしたがって、歴史を見ていく特徴があります。
このブログは、終末論のブログではないので、深入りはしたくありませんが、あくまで聖書の中に記述された対象について、時代を区分していきます。(個人的には無理があるかな、と思っています。だって、マヤや南米の歴史、あるいは日本の歴史をどう考えるのか、ということに関してこの説は無力です。)
で、このディスペンセーション説の特徴は何でしょう。それは歴史展開が直線的なところにあります。
このことについて、Callahan, J. M.(1996) Primitivist Pietyでは、
As we shall see, the Brethren were well aware of history, historical progression (they called it Divine providence) and the constraints of historical circumstances which mitigated against any attempt to restore the circumstances of the church of apostolic days. In this sense, the Brethren held a linear view of history, rather than cyclic one.(p186)
後に見るように、ブラザレンの人々は、歴史について、歴史の進行(ブラザレンが呼ぶところの神の配慮)、歴史的な条件、とりわけ使徒時代の教会の状況へ戻すための努力を無にするような歴史的条件があることに気付いていた。この意味で、ブラザレンは、歴史は繰り返されるというよりは、(訳者注:後戻りができないという意味で)直線的な歴史観を持っていた。
同書の中で、次のような文章も見られます。
James Harris reminded his reader that the problem with each successive dispensation rested upon human failure. But human failure in the dispensation of the church can not be reversed or remedied.(p198)
ジェームスハリス(ブラザレンの雑誌 Christian Witnessの初代編集長)は、彼の読者に、それぞれの連続する時代区分の問題は、人間の失敗によるものであることを思い起こさせた。しかし、教会時代の人間の失敗は、それを逆行して正すことができないと主張した。
その意味で、この歴史観は、マルクス史観や進化論的な歴史観と非常に親和性の高いものです。マルクス史観も、直線性の強い歴史観ですし、進化論も、ある一方向に向かって進化しているという意味で、非常に強い歴史性をもった仮説(あるいは信仰)です。
意識しているか、していないかは別として、このディスペンセーション説は、マルクス史観とどうようの思想的背景の影響の下生まれてきたような気がします。
どなたか、このような指摘をしている方をご存知でしたら、ご教示ください。
ただ、時代的には、ばっちり符合するのですね。
マルクスが資本論の基礎を考え始めたのが、1840年代。
ダーウィンが進化論の最初の書物を書いたのが、1859年。
近代哲学史はまともに勉強したことがないのですが、多分、時代の雰囲気がこうさせたのだと思います。その意味でも、ブラザレンは時代の申し子だったと言えましょう。
マルクス主義歴史学は、時代の経過とともに、どんどんよくなるというのがその基本線。
ディスペンセイション説では、人間がどんどん堕落するので、悪くなるが、最終的に神が地上に王国を作るので、最終的にはよくなる、というのがその基本線。
歴史の段階論、線形的な展開の点では似てはいても、結果随分違ってくるのですね。
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マルクス主義に詳しいわけではありませんが、資本主義社会の破綻と革命が、聖書でいう終末に、そして共産主義社会が新天新地に符合しないでしょうか?
「共産党宣言」には各国共産党への手紙があったかと思いますが、形式的には新約聖書の書簡に似せたようには思えないでしょうか?
名前もマルコのドイツ語読みのようですし。少なくとも聖書の知識はあったでしょうしね。
「書かせるコメント」になったかどうか分かりませんが…。
2008/8/21(木) 午後 11:49 [ Luce ]
Luce様 こんにちは。
ここのところ、締め切り前の作業に追われておりましたので、ブログへの対応が遅くなり申し訳ありませんでした。失礼しました。
ご指摘の新天新地と終末に関しては、実態としての符合、ではなく、考え方としての類似性であると思います。何せ、共産主義自体、変質してしまいましたから。共産主義自体は、アジアアフリカ、南アメリカに変質してしまった形でしか残っておりませんので。
私も、マルクス主義は高校生程度の知識もありませんが、マルクスもキリスト教文化にどっぷり影響を受けた西洋社会での著作者ですから、そのような影響は当然考えられると存じます。ただ、歴史の単純化の仕方は、マルクスもブラザレンの初期のリーダーたちも似たようなものだったと思います。
2008/8/25(月) 午後 0:11 [ kaw*muk*ih ]
kaw*muk*ih様 おそれいります。
もちろん「考え方」ですよね。
受け売りみたいになりますが、資本論的終末論は、自由経済信奉者が富の再生産による拡大を強調するのとは逆に、時間とともに搾取も「成長」していくというもので、今日の方がむしろ説得力を持って受け止められるのではないでしょうか?
しかし、共産主義信奉者が地上に楽園を造れるとはもはや誰も思っていないでしょう。
ところで、ディスペンセイション説に対し「歴史の単純化」というのは、批判的な意味をこめているのですか?
2008/8/25(月) 午後 11:04 [ Luce ]
Luce様 書く気にさせるコメントありがとうございました。
すぐに、という話ではありませんが、預言、ディスペンセイション説についての補足をおいおいしていくつもりです。
> 資本論的終末論は、自由経済信奉者が富の再生産による拡大を強調するのとは逆に、時間とともに搾取も「成長」していくというもので、今日の方がむしろ説得力を持って受け止められるのではないでしょうか?
これに関しては、現在の経済社会での富の再配分機能が不具合を起こしているのであって、個人的には、修正自由主義経済システムの候補がない以上、これをうまく運用して行くしかないのではないかと思っています。
2008/8/26(火) 午後 8:58 [ kaw*muk*ih ]
Luceさま
ブログ管理者で、好き勝手なことを書いております川向と申します。
> ところで、ディスペンセイション説に対し「歴史の単純化」というのは、批判的な意味をこめているのですか?
ディスペンセイション説だけでなく、資本論であれ、ケインズの一般理論であれ、モデルでは、単純化は避けられないのですが、ディスペンセイション説は、あまりにキリスト者中心主義なものの見方のような気がしています。ディスペンセイション説も時代の申し子なので、仕方のない部分があるのですが。その意味で、「歴史の単純化」という意味で、批判的です。ディスペンセイション説は歴史を分かりやすくする部分があるとはいえ、他民族とのかかわりのあった旧約の世界での他民族をほとんど無視していることや、旧約と新約の世界の関係性の見方などの点で、ちょっと乱暴じゃないかなぁ、と思う点があります。
ディスペンセイション説は説として、一つの考え方でしかないと思っています。ただ、これを「終末を自ら演出する」道具として、使われたり、終末が来ることを願う人たちがごくまれに出てくるのが、困ったもんだ、と思っています。
2008/8/26(火) 午後 9:23 [ kaw*muk*ih ]