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ブラザレンの信者の方が個人研究で使う書籍の代表例は、伝道出版社の出している書籍がある程度の部分を占めます。
とはいいながら、注解書として使えるものは、最近、ビル(ウィリアム)・マクドナルドの注解シリーズがでましたが、それまでは、水色と黄色のデザインのC.H. マッキントシュの創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記(いいかもしれないけれども、ちょっと古色蒼然たる雰囲気が・・・)、F.F.ブルースのエペソ人への手紙、H・A・アイアンサイドのエズラ記、ネヘミヤ記、エステル記などの注解などが有名どころの注解ですが、他にもいくつか出ています。
これらを時に参考程度に参照する程度だと思います。
ブラザレンでは、連続講解のようなお話を一人または複数の人で続けてすることが、めったに発生しないことが、聖書以外の書籍が必要ない背景にあると、思います。もちろん、みんなで聖書の特定の書簡や歴史書、詩歌などを1章づつ読みながら、その場所からの聖書理解(『(聖霊に導かれて)教えられたこと」を男性信徒が述べる形の、学び会とか聖書研究会をしているところが多いのですが、そこでは、あくまで聖書が中心で『聖書から教えられたこと』の分かち合いが中心で、細かな聖書知識に基づく聖書の理解を深めていく、というスタイルの聖書研究会ではないことが多いです。そのため、事前に自宅で、注解書を読んでおられる方もいらっしゃるかもしれませんが、少数派だと思います。
なぜ、聖書研究として、連続講解のようなスタイルの聖書研究がブラザレンで行われない理由として、大きく分けて、3つの理由がある、と思います。
第1の理由、そして最大の理由は、聖霊の導きによって、学びのときでも話す人が与えられる、ということを前提としているので、学ぶ人を事前に定めておくことは、あまり好まれないこと。(もちろん、最近は、事前に話す人(メッセンジャー)が決められているところも増えてきました。
第2の背景には、一人の人がより多く学ぶことにより、その人の聖書研究のカラーがその教会(集会)に蔓延すること。
第3の背景には、日本語で読める注解書が普通に人が手が出せる値段ではなかなか手に入らなかったこと。
New International Commentary on the New Testament(NICNT) のような良質の注解書が、比較的低価格の日本語で読める形では、これまでなかったことによると思います。日本でもようやく、ティンデル聖書注解シリーズのようなシリーズになった注解シリーズがでるようになりました。
ティンデル聖書注解シリーズは、全体として非常に良いと思いますが、時にちょっと当たりはずれがあるような気がします。それまでは、こういったものがなかったので、聖書研究に注解書を使いたくても使えない状態だったように思います。
後は、聖書図書館刊行会やいのちのことば社からでている単品の書籍を読む、ということが一般的かもしれません。ただ、ブラザレンの集会(教会)には、聖書関係図書を貸し出し用などに設置しているところもありますが、ずらっと、信仰に有益な各種の図書をそろえているところはないと思います。
なので、結局、個人がどの程度それらの本を読むために、費用を用意できるのか、そこまでして聖書研究をする必要があるのか、という必然性に依存しているとおもいます。まぁ、細かな聖書講解をするのでなければ、注解書はなくて過ごせるといえば過ごせます。信仰があり、何度も読めば、聖書はわかるようになりますから。ただ、信仰歴の若いブラザレンの信者の方だと、カルヴァンやルター、アウグスティヌスが何百年も前に発見したことを再発見し、なるほど、という思いをされ、そのことをとうとうとお話になることもあるようですが(私も、大学生のころ、そういうまねをしたことがあります)。
私自身は、新教出版社や教文館などのものもよみますが、教文館のものなどは教文館というだけで、以前のブラザレンの信者の一部は避けていたように思います。
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