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『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』を読みながら考えたことの一つに、土着化、という表現(もとは、Localizationかな?)の中には、積極的な意味と注意すべき点が混じっているじゃないか、ととおもいました。ここは注意しないといけないかもしれません。同じようなことは、マクグラスの、『総説 キリスト教』を読んでいるときにも感じたことなのですが、この土着化の問題をどう考えればよいのだろうという問題意識を改めて強く感じました。
多分、『土着化』ということばの中に、『現地の文化と習合してしまい、キリスト教に似て非なるものとなってしまう』問題点と、『現地の文化でいきる現地のクリスチャンが主体的にきちんと聖書に基づき、自ら考え、福音宣教を聖書の真理からぶれずに取り組む』という積極的な意味が、並存するからだと思います。
マクグラスも、多様なキリスト教のあり方、現地に定着し、現地の信者が抱える問題と聖書がどう切り結ぶのか、その中で、ミッション系の教会、欧米系のミッション団体がこれまで当然としたことと違う部分があっても良いとしているようです。まぁ、ポストモダン、ポストコロニアルの視点からの論者であるマクグラスの立場からすれば、当然といえるでしょう。
聖書の基本ラインをはずさずに、聖書理解を深めつつ、日本人教役者が聖書を語ることが、現地化、土着化するのであれば、それはマクグラスが言うように可とすべきでしょう。しかし、この土着化というべきか、現地化というべきか、地域文化への対応ということに関して、『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』の中で触れられていることばを使えば、『世界の再呪術化』の問題、もっと具体的に言えば、日本の文化である祖先崇拝(祖霊崇拝)との習合の問題、日本文化が背景としてもっているものへの対応を間違うと、あるいは、日本文化との対応を間違うと、もともとは、聖書に基づくキリスト教の原点回帰運動であったものも、容易にキリスト教風の日本の新宗教となりかねないことをこの本は示しています。実際に、この本の中で取り上げられているものの中には、キリスト教とはもはや分類できなくなったものも含まれています。
なお、大半の日本人にとって、キリスト教は『新宗教』の一種、という指摘は非常に重要かもしれません。
ブラザレン運動が、日本で現地化していくのは、当然のことですし、それはそれで適切だ、思います。ただ、現地化していく中で、いくつかの点を留意すべきでしょう。
聖書を読むときに、どうしても、日本語の聖書を日本語で、あまり深く考えずに読む、ということはおきやすい。その時、日本の文化のバイアスが入った状態で聖書理解をする人々が出現することは避けられない。その場合、平信徒による聖書研究を中心としていくキリスト集会の場合、学びや聖書の深い理解に達しようとしたとき、この日本文化に基づく聖書理解や、日本語による聖書理解のバイアスが時に悪影響を及ぼしかねないのでは、ということを危惧しないといけないかなぁ、と思うのです。
そのバイアスの影響が小さいときは良いけれども、そのバイアスが大きい場合、また、それぞれの地域の集会で聖書を取り次ぐ人々や責任者、影響力の大きい信者が大きなバイアスをもって聖書を解釈するようなケースが出てきた場合、その影響をどのように最小化していくのか、という視点は重要かもしれない、ということを、この本は実例から教ええてくれるように思います。
この問題は、平信徒が中心的役割を担う信仰復興運動、キリスト教の原点回帰運動には、必ず付きまとう固有の危険性かもしれません。そのことを、この『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』は私たちに示しているように思います。『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』で取り上げられているものは、いずれも、キリスト教の原点回帰運動であり、平信徒にある程度の役割が当初与えられていたものが多いことは、私たちの運動と非常に近しいものを持っています。
現在、日本のキリスト集会と呼ばれるグループで、この種の『再呪術化』のような深刻な問題を抱えたキリスト集会は、ほとんどない、と思います。ただ、どの教会にも問題がないわけではないのと同じように、ちょっとした問題はあると思います。問題の深刻度は程度の違いはあるにせよ。
以前にも書いたのですが、巡航速度で順調に走っているときには、エンジンの回転数の調整とハンドルさばきだけで車のコントロールができるものの、トラブルが発生したときには、それに対応するためのシステムが必要で、それが今の各地のキリスト集会には十分あるのだろうか、という疑問です。つまり、防具としての神学、あるいは、異端的な考え方に対するブレーキとしての神学の必要性です。このブレーキとしての神学が、私たちのキリスト集会の一部の信徒、リーダーとなる召命を受けた信徒にとっては、今後必要になるのでは、問題がでる前に、対応しておくべきではないか、というのが私の基本的な問題意識です。神様が守られるから大丈夫。そうかもしれません。でも、個人的には、念のため、備えたほうがいいのでは、と思っています。
今後一層、宣教師や伝道者に依存できない多くのキリスト集会にとって、この異端的思考への対応と、集会の一部の信徒の暴走により、カルト化したり、「世界の再呪術化」するような動きが、キリスト集会に起きないようにするためのブレーキとしてきちんとした神学、または聖書理解が必要ではないか、ということを感じています。平信徒運動であるがゆえに発生しやすい問題が、どのようなものであるかを知るためにも、この『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』で取り上げられた事例は、私たちとの考えかたの類似性があることを踏まえると、これらの問題を避けるためのヒント、私たちがこれらかの集会のありかたを考える上での何らかのヒントを与えてくれると思います。
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