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幼児洗礼は、日本のブラザレンでは実施していないのですが、ヘンリー・ナウエンの「差し伸べられる手」三俣 元訳 女子パウロ会 105−106ページに次のような表現があります。 |
ブラザレンと儀式
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こんにちは、ゲストさん
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幼児洗礼は、日本のブラザレンでは実施していないのですが、ヘンリー・ナウエンの「差し伸べられる手」三俣 元訳 女子パウロ会 105−106ページに次のような表現があります。 |
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何時も楽しみながら読せてもらっています。
バプテスマについてとても広く丁寧に書かれていますのでとても参考になります。ただバプテスマについて疑問があるのは信じていてもバプテスマを受けていないと聖餐式に預かれない。紹介状がないと駄目というところもあるそうですが。それと施す側に主体があるということです。律法学者が神の前に忠実に歩むことを促していると同時に罪人と言われる人たちを神から阻害していた。儀式は時にはそのようなものではないだろうか。ナウエンの「コンパッション」での共に生きる。「イエスの御名で」の低くなられたイエスさまとは何処か違うような気がしますが? 諸集会でやっていることを否定するのではないですがこんなこともあるのではと…。
2008/10/14(火) 午前 1:41 [ jjs*rul ]
jjs*rul 様
いつも読んでいてくださって、ありがとうございます。川向でございます。コメントありがとうございました。
バプテスマをキリスト集会で受けている証明(紹介状)がないと、信者であるとしても聖餐(パンと杯)にあづかれない、これは私にもすごく違和感があります。
あと、内部で書いたものとしてはないにしても、現実には一応の基準が内部的に存在するにもかかわらず、どういう基準でバプテスマとなっていくのかも明らかでない、というのも問題だと思います。不必要な疑念を生みかねないと思うので。
この間、ロイドジョンズの『教会とは何か』を読んでいたのですが、そのなかに「組織は、当初の目的としたことの反対のことを達成する」という表現がありましたが、儀式にも、そういう面があると思います。多分、儀式が習慣化していくなかでも、似たようなことがおきるのだろうと思います。
jjs*rul様がおっしゃるように、ナウエンのイエスの御名で」の低くなられたイエス様とずいぶん違う印象を受けたことも、個人的に経験しました。元々ブラザレンの出発点では、低くなられたイエスの姿を目指したはずなのですが。
2008/10/14(火) 午前 11:23 [ kaw*muk*ih ]