ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

ブラザレンと儀式

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 幼児洗礼は、日本のブラザレンでは実施していないのですが、ヘンリー・ナウエンの「差し伸べられる手」三俣 元訳 女子パウロ会 105−106ページに次のような表現があります。

 『教会はおそらく自分の近い家族ではないが、大きな家族の一員だと思える人々に会える残り少ない場所の一つだろう。子供と一緒に外に出て、洗礼を受けさせに教会へ連れて行くことは、少なくとも生まれた子供が恐れることなく育ち熟成できる自由な空間を提供してくれる、家族よりも大きい共同体を思い出すための重要なよすがなのだ。』

 幼児洗礼に関しては、私個人としては非常に否定的なのですが、新しく生まれた子供をキリスト教会という共同体の中に受け入れる儀式と思ってしまえば、なるほどねぇ、とおもいました。

 家族での信仰の継承を考える時、信仰を個人の問題として捉えるのではなく、子供たちをどう集会(教会)に受け入れていく方法を考えないといけないのかなぁ、と思います。

 そもそも、バプテスマはイエスの死と復活につながることを形としてあらわすことは、イエスとの共同体を形成したことを表す儀式でもあることを考えると、やはり共同体ということとバプテスマとの関係を個人的にはもう少し考えようかなぁ、と思いました。

 一応、バプテスマについてはここらで一休みしようと思います。

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何時も楽しみながら読せてもらっています。
バプテスマについてとても広く丁寧に書かれていますのでとても参考になります。ただバプテスマについて疑問があるのは信じていてもバプテスマを受けていないと聖餐式に預かれない。紹介状がないと駄目というところもあるそうですが。それと施す側に主体があるということです。律法学者が神の前に忠実に歩むことを促していると同時に罪人と言われる人たちを神から阻害していた。儀式は時にはそのようなものではないだろうか。ナウエンの「コンパッション」での共に生きる。「イエスの御名で」の低くなられたイエスさまとは何処か違うような気がしますが? 諸集会でやっていることを否定するのではないですがこんなこともあるのではと…。

2008/10/14(火) 午前 1:41 [ jjs*rul ]

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jjs*rul 様

いつも読んでいてくださって、ありがとうございます。川向でございます。コメントありがとうございました。

バプテスマをキリスト集会で受けている証明(紹介状)がないと、信者であるとしても聖餐(パンと杯)にあづかれない、これは私にもすごく違和感があります。
あと、内部で書いたものとしてはないにしても、現実には一応の基準が内部的に存在するにもかかわらず、どういう基準でバプテスマとなっていくのかも明らかでない、というのも問題だと思います。不必要な疑念を生みかねないと思うので。
この間、ロイドジョンズの『教会とは何か』を読んでいたのですが、そのなかに「組織は、当初の目的としたことの反対のことを達成する」という表現がありましたが、儀式にも、そういう面があると思います。多分、儀式が習慣化していくなかでも、似たようなことがおきるのだろうと思います。

jjs*rul様がおっしゃるように、ナウエンのイエスの御名で」の低くなられたイエス様とずいぶん違う印象を受けたことも、個人的に経験しました。元々ブラザレンの出発点では、低くなられたイエスの姿を目指したはずなのですが。

2008/10/14(火) 午前 11:23 [ kaw*muk*ih ]


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