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以前にも書いたとは思うのですが、ブラザレンが活動を
始めた生まれたのは、19世紀中庸、ビクトリア朝時代、非
常に倫理観、ドレスコード(服装や髪型のあり方)やしつ
けの厳しい時期でした。未だにこの影響はブラザレンの信
者の行動パターンの中に、残っています。個人的には、時
代の文化や特定の時代背景の中での行動パターンであり、
どのような行動を取るのかは、基本的には、信徒の判断に
ゆだねられている部分だとは思うのですが、それにしても
特定の行動パターンがあることは事実です。
ブラザレンの信徒は、聖書を大切にします。聖書に書か
れていることを大切にします。ここまでは、議論の余地が
ないので、それを重視することは大事だと思います。適切
なあり方だと思います。しかし、聖書から読み取られるこ
とも『聖書的』と称して大切にします。何が『聖書的』で
あり、何が『聖書的でないか』の判断は、最終的には、個
人個人このクリスチャンの判断であり、それを第三者にあ
てはめることは、望ましくないと思います。
しかし、学び会や福音集会の場で、前に立って、多くの
人々に対して自信たっぷりに話している信者(伝道者、宣
教師、説教者、長老、普通の信徒)から『○○であること
が聖書的である』と語られてしまうと、一般の信徒はそれ
に反する考えを持ってはまずいのかもしれない、という疑
問を持つ場合があります。実は、これが危険だと思うので
す。ある人にとって、特定のあり方が『聖書的』であると
思えるからといって、それが他の人にとっても思えない場
合もありえます。
基本的に、『聖書的である』というのは価値判断の問題
であるので、並存しうるものではないか、と私は個人的に
は考えています。それをある特定の考え方が『聖書的』で
あるということで、その考え方一色で塗りつぶしていくこ
とは、聖書の基本的な立場でもある多様性の原則に反する
ように思います。旧約聖書自体は、実に多様性を謳歌して
いるなぁ、と個人的には思っています。
ただ、人間は弱いものです。権威と称される地位を持っ
ている人や自分よりも聖書を知っていそうな人から、集会
の中でも有名な方から『○○であることが聖書的である』
といわれてしまうと、そうかなぁ、と思い込み、それにあ
っさりと従うことが少なくないようです。
つまり、なんとなく、そのキリスト集会の責任者の考え
やその集会で話した説教者(伝道者や宣教師、または別の
集会の信徒)が、話した内容がその集会の構成員にとって
『聖書的』であるということで、広く受け入れられていく
傾向はまったくないとは言えないと思います。
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ある集会から「アナクリ」という小冊子を送って頂きました。特集は「集会」でした。集会の歴史と現状と危惧、これからの展望?が記されているように思いました。何が聖書的か、みことばをどのように聞くかどちらも難しいことですね。
2008/12/12(金) 午前 0:22 [ jjs*rul ]
jjs*rul様。お返事が送れて申し訳ありません。
ご指摘のとおり「聖書的」は『聖書』そのものではないので、グレーゾーンの部分だと存じます。解釈との分離は非常に困難なので。ただ、聖書に記載されている事項でも、普遍的なものと、時代背景を含むもの、ということを考え始めると、そのあたりの切り分けもむづかしいので、厳しいのかなぁ、と思います。
2008/12/14(日) 午前 7:45 [ kaw*muk*ih ]