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特に、集会の責任者やブラザレンの中で有名な説教者の信
徒の発言は、大きく影響を与えます。また、そのキリスト集
会の代表者が『聖書的である』と考えている内容が、その集
会の考え方として定着していく傾向にはあると思います。
これは、この運動に大きな影響を与えたジョン・ネルソン・
ダービーの時代からそのような傾向はあったようです。とい
うよりは、ダービーの聖書理解の影響は非常に強く、未だに
影響しているように思います。
なお、本人は悪気なく、自分の解釈は多分そう考えたほう
が良い、と思っているので、自分の考えを『聖書的だ』とし
て話すと思います。それは悪いことではないと思います。私
もそんな風にして話しているかもしれない、と思うと説教者
の責任は重たいなぁ、と思っています。
ところで、何が『聖書的』であると考えられる解釈が複数
並立して存在するだろうと思われるものの代表例として、日
曜日の服装、信徒の髪型、子供のしつけ(特に、子供のキリ
スト集会への参加のときのあり方(静かにおとなしくしてい
ることが良いとされる)、わかっても分からなくても親と一
緒に集会に参加することが望ましいとされる(これはかなり
子供にとっては負担が大きい)、子供への関与のありかた、
贅沢を極端に避けること、日曜日の扱い、日曜日における仕
事の扱い、町内会などや他の社会的グループのとの関係性の
あり方などがあげられます。個人的には、これらについては
自己の判断で動いていい内容だとは思いますし、他者がある
方の判断に何らかのことを言う必然性のないことだと思いま
す。
ところで、2世信者の最大の『強み』は、キリスト集会に
子供のときから通っていることで、大人たちのないげない
会話、両親の会話、そこでメッセージされている内容を繰
り返し繰り返し聞くことで、集会一般として、そして参加
している集会では、何が『聖書的である』と判定されやす
いのか、何が『聖書的でない』と判定される可能性が高い
のか、結果としてどのように振舞うと、最も問題が少ない
のか、というナレッジベースをその人の中に作り上げてい
ることです。
つまり、キリスト集会の中で、言ったり行ったりしたら
批判される可能性のある言動を熟知しているという側面は
あると思います。
しかし、こんなナレッジベースは集会の外の教会や、よ
り広いキリスト教会の世界では、通用しないこともあると
いうことを、個人的には経験しました。(紹介状の件で)
ブラザレンの多くの信徒は、自分たちの考え方が望まし
い、聖書にしたがっていると正統な根拠を十分確かめずに
思っているので、自分たちの理解(聖書的であるとするこ
と)が通用しない状況やそういう信者に直面した時に、自
分たちにも課題があるかも、とは思わず、他に課題がある
のだ、と思い込みがちです。この他者への無理解による批
判は誰しも、やらかしてしまいやすいことですし、私もし
たことがあるので、他の方を批判できません。なお、この
ような行動については、私自身は反省することが多いです。
このような他者に課題を押し付けるというあり方は、一
時期のアメリカ通商代表部のありように似ていると思いま
す。アメリカ製品が売れないのは、日本の不合理な流通慣
行にあるのでは、という思い込みにとらわれ、『海外製品
(その実アメリカ製品)』に対する市場開放すべきだ、な
んて議論がありましたが、アメリカ製品が売れないのは、
日本製品に比べて、品質や精度の面で問題が多いことがあ
るような感じもします。特に工業製品は、そう思います。
信仰の面で、アメリカ通商代表部と同じようなことをし
ていないかどうかを自己反省する強さと考える力を大切に
したいと思っています。
以前お聞きした学びでは、「伝統などに縛られているの
で、他のキリスト教会(教派)は間違っている、とはいわ
ないまでも、教派の教会では一部真理が抜け落ちている」
というお話を年長のある信者さんからお聞きしたことがあ
ります。ブラザレンの信徒の中には、こう信じておられる
方も少なからずおられるようなのですが、その批判は、ご
自身の経験に基づくものではないことが多く、伝聞情報や
文脈から切り離された他のキリスト者グループの信者の行
為の断片的観察の結果によることも多いと思います。個人
的には、ブラザレンだって、完璧ではないし、変わったと
ころがあるのだから、他人に対する寛容な目があってもい
いんじゃないかなぁ、と思っています。
直接聖書が明言していない部分に関しては、個人にゆだ
ねられているといっても、所属しているキリスト教会の他
の人の大半がある考えの方向性に従っている場合、それと
違うことをするのは大変勇気がいることですが、この勇気
というのか、個人としてしっかり考える、ということが、
カルト化を防ぐ第1歩だと思います。
カルトといえば、ブラザレンの群れから出たグループで
カルト化した信者のグループが少なくともひとつ、それ以
外にも、カルト化したと判定されるかどうかの境界線に近
いグループがいくつかあるように思うので、やはり、個人
個人が真剣に聖書に向かって取り組み、間違っててもいい
から、真剣に考え、間違っていると思ったら、権威という
ものを疑ってみること、闇雲に権威と呼ばれる人々に従う
のではなく、正しいと思うことを適切に主張することが大
切かなぁ、と思います。そのための発言する機会が教会内
(集会内)で確保されていることは、大切だと思います。
とは言いながら、女性には、発言を認めてめていないキリ
スト集会は多いので、個人的には、女性にも、もっと発言
の機会を保証してもいいのかなぁ、と思います(『聖書的』
出ないと批判される方も居られるでしょうが、私は、発言
をお控えいただく、ということが全て『聖書的』だとは思
っていません。。特に、クリスチャンカップルでない女性
の信者の方は、非公式の発言ルートすらない場合があるの
で、そのあたりの配慮というのは必要かなぁ、と思います。
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貴兄の考え方は、とてもよいと思います。
そういう慎重かつ柔軟かつ客観的な見方や考え方がキリスト教界には必要だと思います。
2008/12/15(月) 午前 0:15 [ psa*m8*3* ]
ダビデさん こんにちは。
自分の心の闇には厳しく、他人には温かさを忘れない。大変ですが、イエスの歩まれた道でもあるので、そのあり方を守っていければ、と思っております。
2008/12/15(月) 午後 10:07 [ kaw*muk*ih ]
>自分の心の闇には厳しく、他人には温かさを忘れない。
含蓄が深いですね。
2008/12/15(月) 午後 11:49 [ psa*m8*3* ]