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神学教育を受けていない普通の信者が聖書を話し、学ぶと
いうことは、ブラザレンと他の多くのキリスト教会との違い
の一つです。この考え方は、ブラザレン運動が始まった当時、
非常に画期的な、革新的な考え方でした。当時の多くの教会
では(今でもそうですが)、牧師、神父と呼ばれる方々がお話
しするのが、普通だからです。なぜ、牧師、神父と呼ばれる
方だけが聖書から話す教会が多いのか、には理由があります。
キリスト教会が成立していく時代の中で、聖書は貴重なもの
でしたし、聖書の文字や聖書に関して書かれている書物の文
字を読ンで、理解できるというのは、特殊な才能でした。
特殊な才能だからこそ、その才能を持つ人だけが、比較的正
確にその意味を提示できる、ということから牧師とか神父と
呼ばれる方が、聖書からお話しすることになったといえます。
丁度、今で言うと、通訳者となれるのは英語をしゃべれる人
である必要がある、といったような意味で、聖書の専門家で
ある専門家としての教役者が求められたといえます。ただ、
フランス史に関する歴史書を読んでいると、神学教育を受け
たとされる人たちのラテン語能力はかなりあやしく、教会の
奉仕者の社会的地位は、乞食より増し、という程度だった
ことが記載されていたように記憶しています。
一般人が聖書のお話をするといったあり方をとったのは、
ブラザレンが初めてではありません。ウェスレー主義また
はメソジスト系教会でも初期の段階では、普通の信者さん
が聖書のお話をしています。なお、メソジスト教会につい
ても、これまたジョン・ネルソン・ダービーがその考え方
を批判というよりは、私からすれば攻撃と評したほうがい
いような印象を与える書物が残っています。この書物を
日本語に翻訳した方から、送っていただいて読んだ記憶が
あります。ダービーという人は優秀な方かもしれませんが、
その後の影響を考えると、良い面、悪い面を含めて、影響
力の大きい人物だったと思います。)
また、フレンド派(クエーカーとも言われる)でも、神
学教育を受けた牧師は特に必要とされていませんし、無教
会派でも神学教育を受けていない方がお話しするところが
多いようです。
実際、ブラザレンの初期のころには、ブラザレンのグル
ープにクエーカーと呼ばれる人が活動した記録が確認され
ています。詳しくは、The Growth of the Brethren Movement:
National and International Experiencesの中に出てきま
す。
神学教育を経験していない普通の信者が、聖書の解釈を
する考え方は、ブラザレンだけの行動ではありません。
まぁ、ブロードベントの信徒の諸教会には、そういうグル
ープの歴史が書かれているので、そのことは記憶した方が
よい、とは思いますいます。ただ、もともとは聖職者と呼
ばれる人たちを置かない運動をしたキリスト者のグループ
の中にも、ある段階から、神学教育を受けていない信徒に
よる聖書解釈や説教というあり方をやめ、神学教育を受け
た牧会者をおくところが増えてきました。アメリカやイギ
リスのブラザレンでは、神学教育を受けたpastor(牧師と
いうよりは牧会者)をおくところも増えてきました。そし
て、日本のブラザレンでも、神学教育を受けたpasterに
あたる責任者をおいたりするところも増えてきました。
イギリスやアメリカでも、信者が集る建物の呼び方を伝統
的なGospel Hall(福音館)やChristian Asseblyなどから、
Churchに変更するところも見られるようです。
個人的には、そのほうがいいかなぁ、と思っています。
なぜか?ブラザレン運動が始まった時代と、いまとでは
社会環境(英国国教会のような政治と一体化した教会が
ないこと)がことなること、神学教育には、マイナス面も
あると同時に、プラス面もあり、プラス面まで否定する
のはどうか、と思っているからです。また、高学歴化し
た社会に対応していく中で、これまで多くの信者たちが
培ってきた聖書理解について、整理された背景を持つ教
役者の必要性があると考えるからです。異端化を防ぐ
ブレーキ役として。
神学が不必要とされた背景には、聖書の各国語訳が確立し、
各国語訳されたものを読むかぎり、普通の文章を読める感覚が
あれば、ある程度の理解に達することができる。それで、福音
を語ることにそう問題はない(時には問題が起きますが)。そ
の通りです。福音の中核部分を語るのに神学はいらない。これ
また事実。神学的背景がない素人ならではの感覚を大切にしな
がら、普通に人に向けた福音を分かりやすく語ることができる。
不必要に神学的知識に振り回されることがない。また、その分、
初めて聖書に触れる方に不必要に神学用語を振り回して、不必
要な混乱を生み出すこともないからです。その意味で、神学は
福音宣教に必要ないという発見とそれをもとに、教会運営を考
える上では、革新的な動きだったといえると思います。この聖
書をもとに一人一人が考えるという立場は大事だと思います。
そして、素人っぽいを視点から、福音を分かりやすく、不必要
な概念に振り回さずに素朴な信仰を語ること、これは大事だと
思います。これを追求した結果、神学に対して否定的な視線を
もってしまった、という逆効果ももったようです。
このブラザレン運動の一番の革新性は、「普通の社会人が普
通に話して、牧師と呼ばれる偉い人がラテン語やギリシア語な
どを多用し、普通の人の感覚からずれた話を延々語る教会では
なく、普通の人にわかりやすい、抵抗感のないスタイルで聖書
から神についての話を聞ける」ことを目指したところだろうと
思います。そして、日本のブラザレンでは、現在でも、この一
般信徒による宣教と聖書研究という方法をとっておられるとこ
ろが多いです。高等教育が普及する以前の経済発展途上の社会
であれば(職能の高度専門化が進む以前の社会であれば)、神
学教育の不在は大きな問題を持ち得なかったかもしれませんが、
現代の社会のような職能の高度化、分離化が進む社会の中にお
いて、神学教育の不在の欠点をなんらかカバーすることの必要
性を少し感じています。
また、ブラザレンの信徒のグループでは、福音館、伝道所、
キリスト集会所、という名前を堅持しておられるところも多い
ようです。それはそれで、一つの見識と存じます。一度、公的
に看板を出している以上、軽々しく名称を変更することはしに
くいのも事実ですし。それと同時に、最近では教会を名乗ると
ころも、出始めたようです。それはそれで一つの見識だと思い
ます。こういうキリスト集会もぼちぼち出てきていますが。
キリスト集会と自らを呼ぶことで、他のキリスト者の方々のグ
ループとの差別化(違いを明確化)を図るための方法論の一つ
としている部分もあるため、結果として、社会のある程度の人
々には、不必要な誤解を生んでいるように思います。ラベルは、
分かりやすさと印象が重要。正確でも一般の方に分かりにくい
ラベルは、いかがかと思います。内的なこだわりは大事にしな
がら、キリスト集会も社会にある存在であることを、私は忘れ
ないようにしたいと思います。社会におもねるのではなく。
明治期にキリスト教が定着し始めて、150年前後(琉球で
はもう少し前から)。戦後、様々な教会のグループの活動がは
じまって40年前後。個人的には、もう、日本社会に、キリス
ト教会という概念がある程度定着し始めた現段階では、教会を
名乗ってもいいかなぁ、と思っています。これは、所属キリス
ト集会の公式見解ではありません。個人的感想です。ブラザレ
ンの信徒の方にしてみれば、ほとんど、革新的な感想かもしれ
ませんが。
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現在の日本で集会(教会)が伝道して行くためには、最低一人若しくは二人以上の神学を学んだ長老か教師が必要であろうと思います。福音を語れば、三位一体やキリストの二性は避けて通ることができない時がきます。今は高度の学習能力がある人もいます。反面、学習能力が非常に問題な人もいます。
それらのニーズに応えられる集会形成が望まれます。
神学用語は学習に必要ですが、福音メッセージ(伝道)では必要ないでしょうね。
私は聖書神学舎のセミナーを聴講させていただいた時期がありましたが、その中で神学の必要性を自覚しました。また、私には専門的な神学の才は無いことも自覚しました。しかし、何が異端なのか見分ける目はある程度養われたと思っています。私が集会で教わった三位一体論やキリストの二性は異端的でした。本当にイエス様を信じているはずなのに、そのキリストを否定する教えになっているのではではと危惧されるものでした。その様な状態ではブラザレン運動を提唱しても牧師達から警戒されるだけであろうと思いました。教派のある教団は異端の侵入に組織的に対策をとっている所もあります。
2008/12/29(月) 午後 8:20 [ msq*x4*1 mikatarou ]
私は個人的には神学校に行っていない兄弟が長老になっても良いと思っています。(その基準は聖書に書いてあります)逆に神学校を卒業したとしても、新神学の方や聖霊派の神学では神学とは言えないと思います。最近、聖霊についての本が再度ブームなのかなとキリスト教書店に入って思いました。以前の『第3の波』などは苦笑しましたが
最近立ち読みした本は判断が難しいなというものがありました。(書名は忘れました)諸集会の場合、新神学は侵入してこないだろうと思っていますが、聖霊派は入っていると思います。私が住んで居る地域は半径50キロ以内に諸集会と思われる集会が6ヶ所あります。
もっとも、この地域は教派の教会も20ヶ所以上あります。
それも、この20年で大分増えているのです。その中でブラザレン運動がどのような展開をして行くのかお手並み拝見であります。
教派から評判の良い集会が3ヶ所あります。
2008/12/29(月) 午後 9:58 [ msq*x4*1 mikatarou ]
こんにちわ、↑のかたのご意見には疑問があります。
アタナシウス派が正統とされるまでは三位一体もくそもありません。
第一マルコ伝などの福音書自体がそんな神学で書かれていないでしょう。
三位一体説が出る前のパウロやペテロもクリスチャンでないことになってしまいます。
ナザレのイエスはキリストであり、我が主であると告白する人はなにも正統のお墨付きを貰う必要もないでしょう。
2008/12/30(火) 午前 5:03
三位一体説はパウロやペテロの時代にはなかったかも知れません。
三位一体説やキリストの二性は教会が聖書を学び、異端対策として打ち出してきたものであり、パウロやペテロの信仰と矛盾するものではないと思います。三位一体説やキリストの二性を理解できなければクリスチャンではないとも私は思いません。ただ、異端の働きに対して
牧師とか長老という立場の方は敏感であって欲しいと思っています。
『ナザレのイエスはキリストであり、我が主であると告白する人は何も正統のお墨付きを貰う必要もないでしょう』とのご見解ですが、私も正統のお墨付きとやらの必要はないと思いますが、聖書の全体をバランスよく学ぶ必要性を感じております。イエス様を『主よ』と呼んだ人が、私に福音を語り指導して下さった人が、聖霊運動に走り集会を頬りだし、パン裂き集会や学びよりも、癒しや奇蹟に重きを置いた事実を見てきました。私はその人からイエスの十字架の福音を何度も何度も聞いて育ちました。ですから、私は、言葉で『イエスは主です』と告白されても、それだけでは、その人物がクリスチャンか否か判断しない者になりました。
2008/12/30(火) 午前 8:04 [ msq*x4*1 mikatarou ]
msq*x4*1 mikatarou様
コメントありがとうございました。
高度化、細分化されていっている社会の中で、話し手にあわせるというよりは、聞き手に合わせる工夫ということも必要かもしれません。三位一体論やキリストの二性についても、きちんとした神学がないまま、どなたかが話した話が、一人歩きしていて、その情報がひずんでいることが多いのが、問題です。オリジナルにあたろうにも、お話の中で、オリジナルが提示されないので、なぜ、そんな理解になったのか、ということがたどれないことが多くて、困ります。
神学校卒業の有無がよい牧者かどうかの基準とはならないと思いますが、基礎的な知識ベースの獲得に有効であることはmikatarou さんのご指摘の通りです。
2008/12/30(火) 午前 9:44 [ kaw*muk*ih ]
いわゆる教派の教会は異端にこれまでも苦労しておられるので、異端的な教えにはブラザレンよりは敏感だとは思います。一種の基本的な知識とこれまで出てきた異端の考えをある程度ご存知の方が多いですから。ブラザレンは、免疫がないので、異端的な考え方は、自分達の伝統と違う、ということでしか区別がつかないので、危うさがあると思います。
それと、ブラザレンの集会は、よく分からない方からすると、一応十分の一献金を言いますが、有給の奉仕者を持たない分だけ、献金をあまりうるさく言わないこと、自分達だけが忠実に聖書にしたがっていると主張していることもあり、教会からの信徒の流出が発生することもあり、警戒されているようです。それと、既存のグループからブラザレンの流出し、さらにそこで問題が起きて再流出した後のフォローの手段が限られることも問題のようです(再フォローがしにくいために異端と誤解されることも多いようです)。
ご指摘の通り、目下の問題は、聖霊の働きの過度の強調の可能性(感情と聖霊の働きの区別がつかず、ずれていくことも多いので、)であり、それをどうバランスさせていくか、だと見ております。
2008/12/30(火) 午前 10:07 [ kaw*muk*ih ]
新神学は入りようがない(バルトとその後継者の影響は少し入っていますが)、しかし70年代から80年代に新神学が幅を利かせた結果、すべての神学が新神学と同一視されてしまい、その結果神学へのアレルギーが構築されてしまい、それが未だに口伝で引き継がれた結果、神学の内容を問わず、神学=悪、というステレオタイプな考え方が生まれたように思います。
mikatarou 様のご指摘の通り、正統かどうかの判断よりも、自分達がずれているかもしれないという視点を持って自分達を相対化するための手段として、神学が有効なのであり、自分達を正当化したり、正統と根拠もなく思い込んだりしないための手段として、そしてバランスの取れた信徒の成長をするための手法として、神学が有効だ、というのが私の立場でございます。
コメントありがとうございました。
2008/12/30(火) 午前 10:09 [ kaw*muk*ih ]
ヒロシ様
コメントありがとうございました。mikatarou 様がすでにお答えを返しておられるので、私としては追加してお話いたしたいことはございませんが、正統と異端という二項対立的な考え方をすることや、神ならぬ人間が他者を批判し、裁くという立場は、個人的に望ましいとは思っておりませんので、その点だけはご理解下さい(このことの不幸は十二分に見てきましたし、年をとってきましたので自身の中の闇の問題も感じるので)。そもそも、正統性の議論は、根拠なく自分達が正統だと思い込んでおられる信徒の方が多いブラザレンの方の議論をお聞きしてきたものとしては、慎重のうえにも慎重であるべきかなぁ、と思っております。
2008/12/30(火) 午前 10:14 [ kaw*muk*ih ]