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ご紹介する本は、McGrathの「神の科学」という本です。
http://www.amazon.co.jp/gp/product//4764266520/ref=cm_rv_thx_view/503-2172743-0209569
この本は、McGrathという面白いおじさんが書いた、聖書理解と科学理解の対話が可能であること、もともと、諸科学は、聖書理解の一環として生まれてきたこと、その結果、科学(自然科学および社会科学ともに)は、ほんらい聖書理解や神学と対話可能であること、を明らかにしている本です。
この中で、非常に面白かったのは、ユルゲン・ハーバマスという人の提唱する公共性という概念に触れながら、もともと、神学も学問である以上、公共的なものであり、また、公共的なものでなければならず、その公共性を成立するための基礎が、対話であり、神学が諸科学と対立するのではなく、批判的な(いわゆるいやみではなく、正当かつ冷静な合理性を持つ合理性の観点から)対話することの必要性を明白に述べています。
個人的には、膨大な過去の神学文献を大量に読みこなし、それを整理・分析した上で、議論をしているこのMcGrathの立場は非常に優れたもので、個人的には非常に感銘を受けました。
この人は、若いときにマルクス主義に傾倒し、自然科学を専攻し、オックスフォードでの分子生物学の研究中に神と出会い、結果、神学と生物学ということを同時に勉強することで、神学と科学の相克を自ら直面したという意味で、非常に変わりだねの神学者のような気がします。
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放送大学大学院「異文化交流と共存」レポート
テーマ 「キリスト教とイスラームの神学対話の成果」(問題1)
キリスト教もイスラームも宇宙と自然の創造主である唯一の神を信じ、神にのみ絶対的権威があると考える点では一致している。ところが、その神に至る道がキリスト教では、神の一人子なるイエスを通してでなければ誰一人、父なる神の身元に行くことはできないと信じるのに対して、イスラームは、ムハンマドのみが最後の預言者であり、正しく神の元に導くことができる唯一の存在と信じているから、道が分かれる。この違いを乗り越え、お互いの間に神学的対話が試みられたが、キリスト論や救済論など信仰を基盤とする啓示神学の領域ではその溝は埋められなかった。理性を基盤とした対話のための解釈学が発展したが、そこでの大きな発見は、理性での反証可能性と反証不可能な事柄との違いであった。不毛の議論を避けるためには、この二つの違いの認知は重要である。信仰の事柄は、一人ひとりの心の宇宙の出来事としては真実であっても、人間性の神秘の奥深さを証明するように、多様な解釈によって構成され構築されている。
2009/10/2(金) 午後 2:53 [ エコビレッジ・コスタリカ共和村 ]
どなたかは存じ上げませんが、レポートの転載ありがとうございます。
ご指摘のように、実際には、原理主義的キリスト者と原理主義的ムスリムとの対話の教義上、あるいは、信仰上の理解に対する一致の到達は困難だとは思いますが、相互にその立場を理解しあい、他者としての理解を図る試みは、無意味ではないと思います。近年のように多様性を重視する思想背景の中では、その溝をわざわざ埋めるのではなく、相互にあるがままの他者として受け止めることが重要ではなかろうかと思います。
2009/10/2(金) 午後 11:19 [ kaw*muk*ih ]