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キリスト集会は、外部の方からは、プリマスブラザレンと呼ばれる
ことが多いですが、この呼称自体、連結型(閉鎖型またはエクスクル
ーシブ)ブラザレンと独立型(開放型またはオープン)ブラザレンの
両方を含むのですが、この2つのグループへの分裂を起こしたのがプリ
マスとい町にあったきりスト集会です。プリマスの集会は、この両者
の性質を含んでいたようです。この両者の性質を含むということは、
両方のグループの考え方を含みながらも、ある段階までは、一体とし
て運営ができていたということでもあり、様々な動きを内包した動き
であったということを示しているように思います。
このプリマスの両義性について、Coadの本を引用しながらの記述が
Tim GrassのGathering to His Nameの68ページには、見られます。
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プリマス集会をオープンブラザレンからエクスクルーシブブラザレ
ンの間のスペクトルのどこに位置づけるのかということは非常に難し
い問題です。これについて、コードは次のように書いています。
プリマスにおける指導者の中での大きな問題は、グローブスとブリ
ストル(ミューラーたちの動き)に反対するかどうかの合意の問題で
した。ニュートンとダービーは、教会が腐敗している(機能していな
い)という点やクリスチャン時代(ディスペンセイション)における
使徒(聖徒)の役割の考え方では、同じような方向性を持っていたの
です。彼らはともに、(真の)キリスト者は既存の(教会)から分離
し、シンプルな形で集まるように呼びかけていました。彼らの考えの
中では、使徒時代のようにな聖書を中心とすることと、彼らの集会運
営の中心に教会論を設定することでは一致していたのです。しかし、
ニュートンは、教会論では、ダービーよりもクレイクとミューラのい
たブリストルに近かったということを後になってから理解したのでし
た。
以上和訳終わり
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キリスト集会では、集会論というのか、教会論というのか、キリス
ト集会の運営のあり方について、さまざまな考え方があり、人それぞ
れが理想とするキリスト集会のあり方がことなり、それぞれが重要視
する『集会の真理』とか、『集会の真実』について、共通認識が形成
されることなく、また、それぞれの方々の考え方がどのようなものか
があまり明らかされないまま、現実の課題(具体的な方法論、伝道と
か、説教のあり方)を焦点として議論が起きるばあいもあり、これが
時に深刻な議論や最悪の場合、分裂に近い問題を引き起こす可能性が
あります。実際に、プリマスだけでなく英国でも日本でも、過去に分
裂と行かないまでも、深刻なキリスト集会のあり方に対する議論がお
きたキリスト集会もないわけではなかった、と認識しています。キリ
スト者の一致、聖書的な教会運営を目指すがゆえに、集会論というの
か、教会論が議論になった時に、大きな問題になりやすいという傾向
は、避けられないのかなぁ、と思います。
この種の議論や深刻な意見の不一致がおきやすい原因は、それぞれ
の信者の聖書理解を明らかになっていないまま、それが他の方にも
っ共有されているという思い込み、聖書的とか、聖書の理解における
教会の理想が一種の共通の前提として共有されているはずという暗黙
の前提、あるいは自分の聖書理解が、他の人にも当然共有されている
という思い込みにあるのではないか、と思います。それぞれの方のお
話をよく聞いてみると、理想の集会像というのは、かなり人それぞれ
違っているように思います。相手を受け入れる余裕なく、また、共通
理解を構築する努力なく、この種の議論をすることの危険性というも
のがあるように思うのは、私だけかもしれません。
参考文献
Tim Grass(2006) Gathering to His Name, Milton Keynes, Paternoster.
ISBN 1842272209
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以前にキリスト集会は教派ではなく、ブレズレン運動に賛同したクリスチャン達が各教派から分離集合した集会という認識を持たせていただきました。
そして、自分たちの聖書解釈の刷り合わせというか神学的な立場も確認しないまま集会活動をして行き、気がつけば互いの聖書解釈の問題を曖昧にしてきた負債を背負っていたと言えると思います。
そして、聖書を唯一の信仰基準としない集会や長老まで現れ始めたのが1970年代以降の日本の集会の姿ではないかと思います。
当時は集会が全国に60箇所位あったと記憶しています。
現在はどの程度増えたか知りませんが、それらを日本の諸集会とひとまとめにくくる事は難しいのかなと思います。
既にブレズレン運動からは離脱している集会もあると思います。
しかし、逆に意外な集会がブレズレン運動の兆しを現してもいます。
結論から言うと年齢に関係なく信徒の中に聖書信仰に目覚めた長老がいる所では聖書に従う(集会に従うのではなく)信仰の目覚めとブレザレン運動の血(?)が騒ぎだした集会群がありそうですね。
その様な集会はブレズレン運動の復興期を担うであろうと思われます。
2009/3/29(日) 午後 2:13 [ msq*x4*1 mikatarou ]
ミカタロウ様 コメントありがとうございました。
ブラザレンは、様々なグループから分離し、キリスト集会に参加されて形成してきた歴史がございます。日本でも、その側面はございます。信仰についての深い対話というか、聖書理解に関する深い対話をしないまま、集会活動をしていく中で、問題がでてくるようです。これの問題を大きくするのが、紹介状だけに頼った集会の移籍、所属の問題もあると思います。これも、分裂との関係で形成された制度なので、これについてももう少し後で、ご紹介したいと思っています。
現在は、確認されているだけで、100箇所以上(おそらく100−120程度)あるようですが、ご指摘の通り、一まとめにくくることは難しくなっています。都内にも、沖縄、関西でも、集会とは交わらない集会もありますし、分裂で集会から分離していった群れも相当数あるので、そのグループは離脱していると存じます。
つづきます。
2009/3/29(日) 午後 5:01 [ kaw*muk*ih ]
ミカタロウ様 続きでございます。
ただ、信徒の結婚や移籍の問題を考えると、他の集会との平和的関係を維持していくこともある程度重要なので、それぞれの集会のおかれた中で、自分達で聖書から考えることの重要性、それぞれの集会の独自性を尊重することの意味をできるだけ多くの兄弟姉妹が認識していただけたら、と存じております。
コメントありがとうございました。
2009/3/29(日) 午後 5:02 [ kaw*muk*ih ]
結婚や就職、私などは老後対策で移住などを考える場合に移籍の問題が出てきます。その場合、バプテスト教会や福音自由教会などの他に諸集会の中でも穏健カルバン主義的な所なら良いかなという考えもあります。ともかく、聖書を唯一の信仰基準とする牧会体制があれば
プロテスタントの枠内であると思うからです。
プロテスタント教会の多様性は主の豊かさの顕れだと思っています。
ただ、リベラル派とか聖霊運動派には疑問をもっています。
平和的なお付き合いが出来る範囲と枠外である場合の緊張はあると思います。
2009/3/29(日) 午後 6:43 [ msq*x4*1 mikatarou ]
ミカタロウ様 コメントありがとうございました。
様々な理由で、移動が困難になった際には、嫌いな表現ですが、『教派』と呼ばれる教会に参加することも、非常に重要だと考えています。というのは、キリスト集会に参加する、教会に参加することは、第一義的に個人と神との関係の表現のためであり、集団との関係は副次的なものだと思っているからです。何時間もかけて、肉体的にも無理をしてキリスト集会に通う、ということを良いとするような考え方がキリスト集会にあるように思いますが(日本だけでなく、アフリカでも北米でも経験しました)、どこまでそれを維持するのか、ということは良く考えたほうがいいかなぁ、と思います。個人的には、バプテストか、自由福音で考え方の近いところであれば、それに参加することも一つの可能性と考えております。キリスト集会がその地域で維持できないとすれば。神との関係を他のキリスト者と共に確認でき、福音が進むなら、それが一番と思います。
2009/3/30(月) 午前 8:09 [ kaw*muk*ih ]
確かに、聖霊の癒しや異言を強調するグループとか、聖書の一部だけを取り上げて考える方々のグループとは、神にあっての平和を維持しつつお付き合いすることは難しいですね。
健全な信仰を維持・発展していくことの大切さを感じます。
2009/3/30(月) 午前 8:12 [ kaw*muk*ih ]