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これまでTim Grassの書籍から、ご紹介してきたように、基本的にダービーは
聖霊の働きがあり、ペテロたちがそうであったように普通の学のない信者にも
聖霊が働くので、それを重視すべきであるという立場であり、ニュートンは
聖霊の働きは否定しないものの、きちんと聖書理解を進めていくためには、
それなりの準備と、きちんとした聖書理解、また聖書に関する関連知識もそれ
なりに重要である、という立場だったようです。
このニュートンの立場は、ともすれば聖職者主義につながり、一般の人々の
救いへとつながるメッセージが弱くなり、一部の知識のある人々のための説教
となりがちだということをダービーは危惧したものと思われます。
しかし、いわゆるイギリスで起きたリバイバルを経験したニュートンにして
みれば、改心して間もない、まともに聖書を読んだことの少ない人々が、十分
でない聖書知識に基づいて福音を語ることを目の当たりにしていたのだろうと
思いますが、十分でない聖書知識に基づいた、独善的というのか安心感を持っ
て聞いていることのできないメッセージをそのままにする危険性というのを、
感じ取っていたのだろうと思います。
ダービーとニュートンの分裂騒ぎの最終段階について、Tim GrassのGathering
to His Nameの74ページには、次のような記述が見られます。
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(補足:DevonとSummersetから)ダービーがプリマスに(補足:1845年)10月18日
に戻った時、ダービーは、ハリスに反省と祈りのための信徒大会を召集するよう働
きかけました。しかし、その目的は、実質的には、当時ロンドンにいたニュートン
はその呼びかけに応じませんでした。8日後、ダービーは、プリマスの集会は、キリ
スト集会を誤った方向に導く(堕落させる)ニュートンの考え方を持ち込み、その
悪しき(evil)考え方が十分判断されることもなく、また、誤っているということに
ついても悔い改めていないこと、金曜日の集会が、軽視されているという非難をし、
(補注:プリマスでの)聖餐式に参加しなかった。ダービーがプリマスから一線を
画す理由を、11月に開かれたキリスト集会の公開の集会で、ダービーはニュートン
が書いた「Clulowへの手紙」で触れた彼が言うところの4月におきた会談での間違い
が生じた責任(false account)と、ニュートンが出版した「5つの手紙」に変更を施
したこと、の2点に絞って、彼がプリマスから離脱するのだ、説明しました。この
「5つの手紙」は出版されるまでは手書き筆写の形で回覧されていた(訳注:新約時
代の手紙みたいに)のですが、ダービーの非難は、印刷された「5つの手紙」とは内
容的にずいぶん違うということで非難していたのでした(このニュートンが一部の印
刷された手紙において行った変更は、教会における教役者の権威についての議論の流
れを逆転させるような変更であった)。(訳注:なぜ、これが問題になるかというと、
この段階の前でのダービーのニュートンへの批判は、ニュートンが指導的立場の役割
を重視していたことによるものであるため、指導的立場の人の権威に関する議論の
あり方を変えることは、ごまかしとダービーの目には写ったようで、それゆえ、この
変更が行われたことをダービーは離脱することの理由としたものと思われます。)
印刷された「5つの手紙」の版では、二つの手紙が削除されていたり、付録に回され
ていたものもあった。(訳注:印刷版で、これだけの違う版(海賊版)がでた、とい
うこと自体、この手紙が多くの人々の関心を呼んだということの証拠だと思います。
今は、著者や出版社の権利や著者の権利が著作権で保護されているのですが、1840年
代にはかなり甘いものだったようです。)
以上和訳終わり
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この分裂を振り返りながら、日本でも戦後同じ様なことが起きたのではないか、と
このブログにコメントくださる方々からご教示された内容を思い返しておりました。
聖霊の働きも大事ですし、聖書知識が十分でない人々がまったく語るべきではない
とは思いません。聖書知識に限りがある方でもお話されることも、その方の訓練と
して大事だと思います。ただ、時に線を踏み外すこともあるでしょうから、そのよ
うな時に、そのお話のテーマを暖かく包み込み、深い聖書知識と知性においても解
き明かしをしていく聖書について深く学んだ方がさらにご自身の考えを述べること
で、様々な考え方や読み方が聖書でできることが、参加される一人一人の方に伝わ
り、いきいきとした聖書の内容がより豊かに参加された方に伝わるようなバランス
の取れた教会(集会)運営になると良いのになぁ、と思います。若い信者、信仰歴
の短い信者も証したり、聖書のお話をする、それをうまくカバーする形で聖書理解
をより深くもつ方がうまく補足する、という形でそのテーマを引き継いで語る、そ
して、参加された一人一人の方に全体として生き生きとした形で神の豊かさが示さ
れる、そんな教会(集会)運営ができたら良いのになぁ、と思います。
ただ、キリスト者とはいえ、罪ある存在ゆえに、どちらかに偏りがち。それが残念。
参考文献
Tim Grass(2006) Gathering to His Name, Milton Keynes, Paternoster.
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ペテロが学の無い普通の信者という論法で誰もが講壇から語れるという言い分を若い頃に受けました。
しかし、ペテロは学者ではなかったでしょうが、一定の期間をイエス様の下で過ごすという訓練を受けています。また、日本では漁業という職業は知的レベルが低いという先入観があるようですが、当時のガリラヤ湖の網元の知的レベルを検証しての発言ではなかったと思います。
訓練を受ける事は必要であるということは、ペテロとイエス様の関係からも理解できると思います。訓練されていない方のメッセージを聞くのは耐え難いものがあります。聴衆が犠牲者となることをお忘れなく!!!
2009/4/16(木) 午前 5:51 [ msq*x4*1 mikatarou ]
ミカタロウ様 コメントありがとうございます。
ユダヤ人一般の聖書教育のあり方を考えると、日本で言うほどの無学ではないように思います。
>訓練されていない方のメッセージを聞くのは耐え難いものがあります。聴衆が犠牲者となることをお忘れなく!!!
それはそうですね。そのようなものをお聞かせした過去がある私としては、聞き手になってくださった方には大変失礼なことをしたと、反省しておりますが。聞いてくださる方がいていただいたことで、訓練された部分もあったようにも思いますが。
集会だけに限らず、教会でも、時々、疑問を覚えるメッセージを聞くこともあります。その意味で、福音を伝える責任を持つことの主の前の責任の重さを自覚を忘れたくないと思っております。
2009/4/16(木) 午後 11:14 [ kaw*muk*ih ]