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今回がこの連載の最後です。2000年以降のキリスト集会の
信者とその信仰スタイルについて、思うところを書いて見た
いと思います。
1950年代が、思想の混乱からの脱出の援助としての信仰、
1960年代は、孤独からの脱出の援助としての信仰、
1970年代は、政治的経済的な不安からの脱出の援助としての信仰
1980年代が、経済的繁栄の陰への不安のなかでの霊的な不安から
の脱出としての信仰
1990年代が、多様化と多忙化の中での個人的な信仰の追求
として特徴付けられるとすると、
2000年代は、失われた10年の中など経済的な混乱の中での信仰
として特徴付けられるかもしれません。
1980年代のバブル、1990年代の大量消費時代からの脱却を経て
個人が中心になり、セーフティネットを含め社会構造がぐずぐず
に崩れ、変容し、それこそ小泉改革路線で、自己責任の追及が声
高に主張される中、個人は個としての不安にさらされるものの、
日本では、プロテスタント社会が300年ほどかけてきて構築してき
た個が成立しておらず、それが突然個人責任とか、個であること
を求められ、混乱を起こすと同時に、過去20年の社会構造の変化
のなかでの、規範意識が低下した個人が登場してきた時代です。
1970年代は、規範意識に抵抗したり、戦ったりしたものの、企業
人(社会人というよりは企業人)になった段階で、規範意識への
抵抗が薄れ、規範意識を受け入れた時代だったと思います。
しかし、1980年代、特に1990年代以降は、規範意識が大きく
損なわれた時代だと思います。1990年代に、茶髪にしてきた
日銀マンを人事部長が散髪バサミを持って追っかけた話を聞い
たことがありますが、茶髪が普通になり始めたのも、この時期
です。学校や幼稚園の先生などでも茶髪が増えましたし、幼稚
園の父兄会では、茶髪が当たり前、大阪府知事をしている橋本
さんも弁護士時代は茶髪だったです。茶髪ガングロとよばれる、
アフリカの方ですか、とお聞きしたくなる女子高生やその女子
高生もどきのお母さんが幼稚園などのお迎えで見られるように
なったのもこの時期です。
キリスト集会にこられる若い方に、従来の社会規範を期待す
ることができなくなったのもこの時期です。ただ、中高年は、
従来の社会規範のかけらが多少なりとも残っているので、対応
は可能ですが、生活習慣、勤労意識、キリスト集会等信者集団
への帰属意識を含め、相当に低下したのもこの時期だと思いま
す。ちょうど、ボーリング・アローンというソーシャル・キャ
ピタル関係の学術図書がありますが、その本などの分析にも見
られるように、個が比較的早く成立していた欧米では、20年位
前から社会集団への帰属意識が徐々に薄まっていたようですが、
日本では、個が成立する以前に社会集団への帰属意識と社会規
範が崩壊してしまったアノミー状態または、カオス状態になっ
ているように思います。
このような中では、キリスト集会での日曜日の聖餐式やプロ
グラムよりも個人的なイベントを重視することに全く抵抗感の
ない信者が現われたり、個が成立していないうえに慎重に体系
的でなく聖書を読んだ結果、自分の感性に合う部分だけ剽窃す
るような聖書の読み方をする信者の方が全くおられないわけで
はないように思います。
その意味で、集会の責任者が、若い世代に話すことがより難
しくなり、適切な聖書理解を伝えていくことが難しくなってき
たように思います。特にブラザレンが平信徒主義に立ち、歴史
神学の背景がないまま、素直に聖書に向かうことを進めていく
中で、過去の歴史上の誤った理解の再現や過ちの再現をしてい
るのでは、と考えたくなるようなお話が聞こえてくることもあ
ります。その意味で、日本国内でのブレーキ役を果たしてきた
神学的理解をもった聖書学校でのコースを押さえた宣教師(英
国や米国では、聖書学校という形でのブラザレン系の神学教育
機関が実在しますし、後に神学校に変化していったものもあり
ます)が激減する中、2000年の歴史の中で繰り返し起きてきた
誤った聖書理解の問題に対応するため、キリスト集会の指導者
の神学教育は本来急務のはずですが、それを企図したKBTCが
10年で閉鎖してしまう現状を考えると、将来のキリスト集会の
あり方について、考え込んでしまいます。
キリスト集会の教会運営のあり方は、多くのキリスト集会が
最近取り組んでいるスモール・グループ運動の先駆といってよ
いと思います。実際に、影響を与えています。ただ、欧米と日
本との差は、基礎的な神学理解へのアプローチのしやすさです。
欧米には、信仰者の世界(いわゆるキリスト教の世界 クリス
チャンドム)が存在するにもかかわらず、日本は、それが大き
く歪んでおり、おまけに幕藩体制のような分裂・分立状態にあ
るような気がしてなりません。つまり、信仰良書は未だに輸入
に頼らざるを得ず、さらに、教派教団間での連携がない、基礎
的な文献にアクセスしにくい(良書でもすぐ絶版になる、教会
図書という概念が弱いなどなど)、個人の聖書理解を深める機
会が限られるというのが日本の現状ではないか(特に地方部で
は)、と思います。
社会が多忙化、多様化し、社会規範がぐずぐずになっていく
中で、ある程度適切な学びをしていくためには、適切な書籍に
アクセスしつつ、聖書研究を進めていくか、最も安全な策であ
る過去の伝統にしがみつき、19世紀の装いで、21世紀にいきる
人々の中で、少し変わった考えを持つ少数者の人々として生き
ていくことになろうかと思います。
少数者であることを誇り、山の上の町と化し、社会にあるべ
き姿と自分たちが主張するものを無言で示唆するのも、また一
つの方法ですが、社会に生きる人々に福音を語っていく為の研
鑽をするのも、また一つの方法だと思います。他にもいろいろ
な有方があるでしょうし、それを自由に追求できるのがキリス
ト集会の美点の一つだと思っています。
ただ、この連載を書きながら思ったことなのですが、現代と
いう時代を生きる人々にキリスト集会が何を提供するのか、と
いうことは一人ひとりの信者として考えたほうがいいかなぁ、
と一信者としては思います。そのためには、歴史理解、とりわ
け、近代史の理解と整理は意外と大事ではないかと思います。
以上10回にわたりこの連載で書いた文章は、個人的な思惟の
結果でありますが、感想文の域を出ないものなので、学術的批
判に耐えうるものではありません。また、多くの誤りや理解不
足を含んでいると思いますので、関連するご指摘、コメントを
いただき、よりよいものにしていければ、と存じております。
もちろん、内容に関することであることが条件ですが。
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神学の背景がないまま、素直に聖書に向かうことを進めていく中で、過去の歴史上の誤った理解の再現や過ちの再現をしているのでは、と考えたくなるようなお話が聞こえてくることもあります。
そうなんですか?歴史を語らないとそうなりますよねぇ・・・過去の過ちを総括しないで水に流したんでしょうね・・・
2009/9/16(水) 午後 4:56 [ ugougo ]
UgoUgoコメント王子様
コメントありがとうございました。最近、関西でも、この種の話がちらほらと聞こえてきます。
ブラザレンの多くの方々は、ダービー以来の伝統かもしれませんが、未来志向の方が多いので、過去や歴史にはあまり興味がないようです。とはいえ、戦争中の自グループのことに関しては、評価が高いのですが。
日本の歴史に関しては、石濱義則さんのご子息が、最近、個人研究書を子育てという視点からコピー印刷でお出しになっておられます。ただ、70年代後半からの預言運動については、触れられておられませんでした。このままいくと、その時代を通った人だけの自己反省だけになりそうですね。
2009/9/16(水) 午後 5:37 [ kaw*muk*ih ]
ほほぅ・・そうですか・・どんな内容を指しているのか、いまいちピンときませんが・・・・70年代後半の預言運動ですか?それとも戦争中の国家への盲従?
(都合の悪い近代の)歴史にはあまり興味ないから、やたら「戦争中の自グループのことに関しては、評価が高い」のではないでしょうか・・・?
2009/9/17(木) 午前 9:27 [ ugougo ]
UgoUgoコメント王子様
川向でございます。
関西でぼちぼち聞く内容は、前者の預言のほうです。
以下は、関西の某キリスト集会の福音集会のタイトルです。その集会のウェブサイトにのってました。そのサイトを見ていると、同様のタイトルの福音集会が開かれているようです。これを見たとき、私は危うくフラッシュバックを起こすところでした。
■ 9月10日(木) 最新の国際情勢と聖書預言
語り手 Tさん(伏せておきます)
この前関西のK集会の内部の学び会に行った時、年表に合わせるような聖書研究をお伺いしたので、あちゃぁ、でしたが。時間に関して、カイロスとクロノスの議論がごっちゃになっていたので、参りました。
続きます。
2009/9/17(木) 午前 11:18 [ kaw*muk*ih ]
続きです。
70年代-80年代の預言の反省(批判)をすると、集会内に傷つく人が多いからだと思います。75-85年の間にキリスト集会にいた人は、軽重は個人差がありますが、この問題を心に隠して抱えておられます。
この問題は、個人の交わりの中で、緩やかに解決していくほうがよいかなぁと思っており、ブログ型のメディアで、切って終わりにしないほうがよいのでは?と私は判断しております。神のからだの痛みをともに担うことが先決だろうと思っております。ですから、お考えいただくきっかけだけとして、軽い指摘にとどめています(この連載が厳しすぎないかと心配しております)。
ブラザレンは、アンブレラ型の組織(包括組織)がないので、この辺の反省が、現状で、全体として総括できないと思います。唯一のアンブレラ型の存在が伝道出版社ですので、「みことば」か何かで総括してくれるとありがたいのですが。一応の共通メディアですので。無理だろうなぁ。
ただ、この包括組織の不在は、私どもの欠点でもあり、美点でもあります。何らかのことを考えていくべきかなぁ、と思っています。
コメント、ありがとうございました。また、
2009/9/17(木) 午前 11:35 [ kaw*muk*ih ]