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なぜ、日本でキリスト集会が家庭集会としてひろがって
いったのかということが少し疑問になります。
既存のキリスト教会が、海外からの支援などで、どんど
ん教会の建物が建ってていく中、なぜ、キリスト集会は家
庭集会という形やぱっと見て教会と分かる建物にしなかっ
たのか、それには理由があると思います。
一つは、太平洋戦争、あるいは15年戦争中の他の教会の
行動への反発と戦争期の行動に関する自負というのがある
と思います。太平洋戦争中、教会堂を持つような教会から
なる多くの教団、教派と呼ばれるグループは、国家総動員
体制に意識的にせよ、無意識的にせよ、巻き込まれていっ
た歴史があります。教会と戦争の歴史に関しては、
古屋 安雄 著
なぜ日本にキリスト教は広まらないのか
中村 敏著
日本キリスト教宣教史 ―ザビエル以前から今日まで
富坂キリスト教センター
十五年戦争期の天皇制とキリスト教
ロバート・P ・エリクセン著
(古賀敬太・木部尚志・久保田浩 訳)
『第三帝国と宗教 ヒトラーを支持した神学者たち』
(風行社 7,200円+税)
などが参考になります。
話を元に戻しますが、多くのキリスト教会が15年戦争に巻
き込まれて行く中、天皇遥拝の否定を貫き(これは事実であ
り、事実として大きい)、非戦を貫き(と言いきれるかどう
かは疑問、実際に徴兵された人物があります。参戦者があっ
たことのデータソースは、石浜義則著 「私の歩んだ道
主イエス・キリスト」)他の教会の戦争協力的態度、生存の
ためとはいえ、天皇崇拝的態度に立った教会と一線を画した
ことは事実であるので、多くのキリスト教会との違いを強調
するために、そして、宗教でないことを強調するため、より
内的なキリスト信仰を強調する象徴として、明白に意識する
ことがなかったかもしれませんが、家庭集会というありかた、
通常の教会建築と異なるあり方を選択した、ということがい
えるかもしれません。つまり、建物に象徴されるキリスト教
のイメージの排除を家庭集会というスタイルをとることで、
狙ったものと思われます。もちろん、十字架を掲げることは
キリスト集会と呼ばれるグループでは、ほぼ、ありえません。
集会施設の考え方は、ワシントン州のキリスト集会と日本の
キリスト集会では異なっていました。
ワシントン州のキリスト集会では(2か所で調査済み)大人
数を収容するという必要から、若干、民家とは違う構造になっ
ていました。小さめの窓が多数配置されること、奥行きが深い
建物の構造になっていることと入口が建物の短い面に配される
こと、(通常の民家の場合、人の動きの移動(動線)を考え、
建物の長い面に入口が配されることがおおい)ことなどから、
明らかに教会系の建物であることが分かる構造でした。
このあたり、結構、日本のキリスト集会とアメリカのキリス
ト集会では、違う建物の構造となっていました。
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ご無沙汰しております。
1970年代〜1980年代の頃のことではありますが、高崎の植杉先生(教師でしたので感覚的にそう書いてしまいました。)は片岡町の自宅に集会所を建てていたと思います。詳しい事は聞いていませんが自費で立てたものだと思います。懐かしく思い出しました。
また、高崎にはベッコン宣教師(アメリカ)が、大橋町と言う処に伝道館を立てて宣教活動をしていました。
当時の大橋町には職場の上司が住んでいてベッコン宣教師の評判が良い事は知っていました。植杉先生は元ベッコン宣教師の弟子でしたので伝道館の構造に似た建物であったと思います。
この時代は家庭集会から自費で教会堂を建てたり、建物を借りたりする集会が現れた時代だと思います。
教会(集会)活動には永遠に変わらない真理と時代や地域性により変えた方が良いものがあると思います。
2009/10/13(火) 午前 7:25 [ msq*x4*1 mikatarou ]
ミカタロウ様 コメントありがとうございました。
高崎の植杉先生懐かしいですね。娘さんのお一人が集っておられた同じキリスト集会にしばらく集いました。
>高崎にはベッコン宣教師(アメリカ)が、大橋町と言う処に伝道館
現在の下小鳥キリスト集会(高崎キリストチャペル http://kotori-chapel.com/)の前身ですね。ちょうど1985年ころ建て替えられて、現在の建物になったはずです。献堂式にはお邪魔したことがありますので。
>教会(集会)活動には永遠に変わらない真理と時代や地域性により変えた方が良いもの
ご指摘の通りと思います。柔軟性を持ちつつ聖書を基礎に考えることの大切さ、ということを感じます。
2009/10/13(火) 午後 1:30 [ kaw*muk*ih ]