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ディスペンセーション仮説に関する本を読んでいて
わかったことですが、この説はこの説が出るまで、
それまでのキリスト教会での伝統的な聖書解釈のなか
に見出すことができないということです。
その意味で、かなり特殊な聖書理解であるといって
よいと思います。ブラザレン運動の関係者の信条は
文書化されたものはないのですが、基本線は、ウェス
トミンスター信仰告白ほど精緻化されていないものの、
使徒信条とほぼ同様のものであり、他のグループと大
幅に違う聖書理解や信仰に関する考え方を持っている
わけではありません。ただ、それを文書化することや、
文書化したものを基礎としたバプテスマ準備クラスの
ような公式の養成期間を持つところが少ない、という
点でことなるようです。
では、他のキリスト者グループと何が違うか、と
いえば、このディスペンセーション説とそれに依拠
した伝道方法といえます。その意味で、ディスペン
セーション説をとる福音派の教会との違いは、毎週
パンと葡萄酒(またはぶどうジュース)をともにす
る聖餐式をするかしないか、姉妹の被り物という
形式論だけです。逆に言うと、これらのことだけが
違うために、そこに妙なこだわりが生まれてしまう
のも事実で。割とオープンな考えをお持ちの方でも、
ここが崩れるとかなり表情が変わることがあり、
びっくりしました。筆者自身も、他の教会での礼拝
に参加する際に乗り越えるのが難しかったのは、
この2点でした。
とはいえ、ダービーの考えが、スコフィールドに
影響し、スコフィールドがスコフィールド版聖書に
スコフィールドの預言に関する特殊な聖書理解が付
いて回り、それが19世紀から20世紀初頭の福音派の
かなりの部分に影響を与えたため、ブラザレン運動
の関係者とその他の福音派を区別する線がぼやけて
しまっています。しかし、比較的多くのブラザレン
運動関係者は、自派以外のキリスト者集団を「教派
・教団」としてひとまとめにしてしまい、それらと
は自分たちは違うと主張しておられるように思いま
す。中には、違う方もおられますが、少数派だと思
います。現実は、かなりあいまいなのですが。その
意味で、福音派の中に、ブラザレン運動は含まれる
といってよいとおもいます。ブラザレン運動の関係
者からはおしかりを受けるかもしれませんが。外見
的な基準で行けば、福音派に分類されると思います。
このディスペンセーション仮説を特徴づける要素
として、Bassは聖書の文字通りの解釈、literalism
を挙げていましたが、聖書を重視する観点から、ブ
ラザレン運動の関係者は、伝統的にこの理解方法を
とり、象徴的解釈を忌避するということとなりまし
た。しかし、相矛盾はしないとは思いますけれども、
複数の解釈可能性を含んだ微妙な表現があるため、
ブラザレン運動関係者の中でも、預言解釈には、い
くつかのバリエーションがあります。
ブラザレン運動の信仰の基本スタイルは、異端的で
はないが、預言解釈を含む部分の聖書解釈には、問題
を含む理解に至る人が皆無ではないようにおもいます。
典型的には、預言の裁きや神の正しさ(神の義)に重
点がやや大きいと感じられる聖書理解です。
このあたりの経緯を、この項では次第に明らかにし、
その課題とその課題の克服策を具体的に考えていきた
いとおもっています。
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毎週日曜日にパン裂き集会を行なう。姉妹の被り物。確かにこの二つのことは日本の諸集会に共通していたと思います。
パン裂き集会では多くの兄弟が熱心に感謝・賛美の祈りを捧げていたのが特徴であったと思います。私はどちらかと言いますとその様な熱気の中に溶け込むことが苦手でした。
何か自己満足の世界のようにも思えました。(ごめんなさい)
しかし、祈る前に集会(会衆)として聖書のことばの前にひざまずく方向性が欠けていたように思えます。
2009/12/7(月) 午後 8:33 [ msq*x4*1 mikatarou ]
『このあたりの経緯を、この項では次第に明らかにし、その課題とその課題の克服を具体的に考えて生きたいとおもっています。』という最後の3行に関心があります。
神の義については疎外してはならないという思いがあります。神の愛と義をどのように理解すれば良いか私の課題でもあります。
2009/12/7(月) 午後 8:50 [ msq*x4*1 mikatarou ]
mikatarou様 コメントありがとうございました。
>私はどちらかと言いますとその様な熱気の中に溶け込むことが
>苦手でした。
集会ごとに違うのですが、2時間の礼拝は、いかんせん長い
とおもいます。個人的には、30分から40分が限界かなぁ、
とおもいます。
>何か自己満足の世界のようにも思えました。(ごめんなさい)
それは、素直なご意見の表明だと思います。祈りの中で
福音を語ったり、学びを語る方もおありのようで。
それはそれで別の時間があると思うのですが。
>祈る前に集会(会衆)として聖書のことばの前にひざまずく方向性が欠けていた
これは、集会独自ではなくて、教会でもみられることかもしれません。精子の時をもつとか持たないとかでなく、これは日常的な生活における聖書の位置づけかなぁ、と思います。ただ、集会は普通の信徒さんがかなり聖書をよく読んでいるのですが、思い込みによる読み込みの偏りが全くないというわけにはいかないかもしれません。
2009/12/8(火) 午前 6:45 [ kaw*muk*ih ]
神の愛、神の義、神の誠実、神の臨在、これらは普遍的な神のご性質でありますので、バランスを取りながら、語っていく必要があるというのが、基本的な回避のための方法かなぁ、と思います。神の義と裁きが90%を占め、神の愛が10%だとしたら、それは、ほとんど脅迫となりかねないと思います。ビリー・グラハムの初期の伝道は、そんな感じだったようですが。ロイドジョンズがグラハムを嫌っていた理由が推測されます。ところで、ロイドジョンズは、集会に一つの可能性を見出そうとしていたようです。
2009/12/8(火) 午前 6:49 [ kaw*muk*ih ]
ビリーグラハムの福音は日本の戦中派には恐怖の神と映ったかも知れませんね。聞き手(聖書の知識や信仰が無くても)が神の愛と義を如何なるバランスで受け止めて来たかを考慮して語ることも知恵なのかも知れませんね。1970年代であったと思いますがビリーグラハムの福音は印刷物となり様々の教派や諸集会の人々に読まれました。
そして、消えて行きました。
その様な中で諸集会の一部の若者の中で先輩達に内緒で密かに(?)読まれていたのがロイドジョンズの著作であつたと記憶しています。
(私は読んでいませんが、、、、。)
私が今関心を持つのはロイドジョンズやジョンストットなのですが
今更時間がありません。
ロイドジョンズが集会に一つの可能性を見出そうとしていたこととは如何なることなのでしょうか?
2009/12/8(火) 午後 8:50 [ msq*x4*1 mikatarou ]
ビリー・グラハムの神の裁き中心で語り、後でちょこっと福音というのは、戦後生まれの私でも、気持ち悪いものを感じます。典型的な米国中心主義の雰囲気を、グラハムは持っているようです。それが好きになれない原因の一つだと思っていました。
ロイド・ジョンズがブラザレン運動に一つの可能性を見出そうとしていたのは、ブラザレン運動が、聖書を読むことと聖霊の導きを非常に重視し、素朴な信仰をもっていたからのようです。実際に彼が、イギリスのキリスト集会を訪ねたりするなかでこの運動と軽くかかわっていますし、ロイドジョンズのリバイバルという本の中では、ブラザレン運動のなかに、聖霊の働きを見ようとしていたのではないかという表現があります(邦訳 200ページ付近だったと思います)。
2009/12/9(水) 午前 8:27 [ kaw*muk*ih ]
私の最近の見解
ですが、教会時代は聖霊の時代であり、聖霊は私たちを聖書へと導く。聖霊は私たちを子なる神、父なる神へと導く(礼拝へと導く)。と思っています。
特に聖霊は私たちを聖書に導くという見解は重要です。
聖書は教会に与えられた唯一の信仰基準であると言えます。
そこにダービー兄一派が割り込んで来たので諸集会は発足時から強い個性に引きずられるという憂き目に遭ってしまったと思います。
諸集会は純粋に聖書に帰るべきであろうと思います。
すでに、その様な流れになって来ているのではないでしょうか?
改めて、聖書を見直すことが集会(教会)に求められている時代だと思います。
2009/12/9(水) 午前 9:07 [ msq*x4*1 mikatarou ]
この件については、コメントでは書ききれませんので、私の考え方を書いてみたいと思います。ご回答になっているとよいのですが。
2009/12/9(水) 午後 10:08 [ kaw*muk*ih ]