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Bassの本の33ページから36ページには、律法と恵の区別と
神の取り扱いの違いについて以下の内容のような言及があ
ります。
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この問題(律法と恵の区別と多段階の神の取り扱いの
変化)以上にディスペンセイション説の前提となって
いることで否定されるものはないと思われる。多くのデ
ィスペンセイション説に親しんだ牧会者たちは、彼らが
これを信じているとは言わないであろう。
この法律と恵、イスラエルと教会の差についての前提
条件は、結果として救いの形態がいくつかあることを意
味し、人類が時代によって同じ方法で救われないことを
意味する。
ディスペンセイション主義者も、神の人類に対する
恵深い行為が向けられていることは納得している。
しかし、神の行為が恵深く人類に向かうということと、
人類が、キリストの死によって示された恵によって救
われると言うこととは異なる。この両者の違いは重要
である。律法と恵の違いがあることは重要であり、こ
の違いは救いの基礎が違うことを意味することになる。
スコフィールド聖書での救いと恵の違いは以下のよう
に記述されている。(以下Bassの引用の和訳)
恵は、常に律法の対比における対をなしており、律法
のもとでは、神は人類に正しくあることを求めておられ、
それに比べ、恵においては、神は人類に正しさを与えら
れるのである。律法はモーセとその働きに関係しており、
恵はイエスキリストと信仰に関係している。
恵の時代は、イエスキリストの死と復活によりはじまり、
試練の視点は、立法への従順ではなく、キリストの復活を
受け入れるか受け入れないかにかかっている。
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Bassのディスペンセイション主義についてのさらに次のよ
うな内容が書かれています。
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ディスペンセイション主義では、律法と恵は相互に対立
的に働き、合同して働かないことを意味するし、ディスペ
ンセーション(筆者注:時代区分)のコンセプトそのものは、
この律法と恵の違いがあることと深く関係している。ダー
ビー自身、この結論が律法と福音の混同、過去の仕組みま
たは時代区分と現代の混同の誤りがある可能性がある
としながらも、両者の違いを強調している。
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このような文章を見ながらかんがえているのですが、イエ
ス自身の発言を見る限り、律法は否定されるべきものでは
ないとしていますし、イエス自身、律法を尊重していたこ
とを考えると、このように切り分けて考える考え方は分か
りやすいものの、単純化に伴う問題、単純化した内容が独
り歩きすることの怖さを感じてしまいます。どうしても、
理屈は理屈の上に重ねていくところがあるので、理屈に理
屈を重ねる前に、オリジナルに戻って素朴に考える努力が
必要かもしれません。
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Luceです。
パウロは「律法の否定」を書簡のなかで熱心にくり返しましたが、それは律法主義者に惑わされる人たちが多かったからと考えるべきです。
律法と縁の無かった異邦人が過剰反応して「理屈の上に理屈を重ねていった」結果、割礼も食物規定も礼拝規定も知らないクリスチャンが「道徳律法とどう向き合おうか?」というレベルで恵みと律法について受けとめているというのが現状ではないでしょうか?
2010/1/8(金) 午後 11:43 [ Luce ]
Luce様 コメントありがとうございます。
確かに、パウロの福音の律法に対する優先は、当時彼らがシナゴーグを中心に活動し、シナゴーグの中心であった旧約聖書と形式的な律法規則の世界に振り回され、逆行することが福音の価値を損ないかねない懸念からだと思います。
現状については、測りかねているので何とも申し上げにくいのですが、ディスペンセーション説に立つ方々は、普遍的な概念としてこの預言の解釈論に基づいた説を語り、それがある一つの仮説であるとして語るのではなく、聖書からいわれていることである、という無理を重ねておられることがあるので、それっていいのかなぁ、と思っています。たまたま、最近、いのちのことば社から出版されておられたその手の本の一冊を見てしまいましたので。
2010/1/9(土) 午前 11:58 [ kaw*muk*ih ]