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聖書を分割して考察する傾向 ということに関して、Bass
の次のように整理しています。
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聖書を分割して考える際には、人をグループ化して考え、
さらに、特定の聖書の場所は特定の時代の人物に対して語られ
たものだ、つまり、聖書の言葉とそのことばが対応する時代と
人物が一対一対応するという理解となります。
たとえば、ペンテコステまで教会はなかったことになります
し、福音書は、ユダヤ人に対して語られたものなので、クリス
チャンには直接的に関係がないこととなります。伝統的には
このような考え方は聖書解釈として見られなかったものです。
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Bassが指摘しているように、このように時代を分けて、
それぞれに対応する形で聖書を読んでいくことは、聖書の部
分的な重視ということにつながりかねません。もちろん、こ
のような考え方は、聖書の読み方として適切なものではない
のではないかと思います。ブラザレンの最近の信者さんの中
でこういう極端な読み方をする人はほとんどいないのですが、
時々、預言に関しては、預言理解をするうえでの対応関係を
想定した上で読みこんでおられる解釈をお聞きすることがあ
ります。同様の読み方は、他の教会でも牧師さんからお聞き
したこともあるので、ディスペンセイション説の影響の大き
さを感ぜずにはおられません。
さらにこのような読み方をしていくと、特定の時代の関係
者に発せられたメッセージを研究するために聖書を読むとい
う傾向につながりかねず、一種のユダヤ中心思想に彩られた
歴史書として聖書を読むという方向につながりかねないもの
をもっているように思います。聖書が扱っているのは、
主にユダヤ人とその周辺社会の歴史観であって、それ以外の
土地でも基本的に歴史的経過時間であるクロノス(時間的経
過が伴う出来事が発生する時)が存在したわけですから、そ
れはそれとしてとらえていく必要があるとおもいます。聖書
の中には、カイロス(特定の出来事で神の意志と人間が交差す
る瞬間と言うのか時があります。たとえば、信仰をもった瞬
間やある聖書理解が見えてきたとき、カイロスとしてとらえた
ほうがよいとおもいます。それがどれほど小さくても、神と
人とが交わる瞬間であるカイロスはあるように思います。た
とえば、エリヤが荒野で失意におちいっている中で神と出会
ったときや、サムソンが神の前に立ち返った時、ダビデが悔
い改めたとき、これらは結構大きなイベントかもしれません
がこういうカイロスが歴史上も、個人の歴史の上でも起きる
ようにおもうのですが。
ある特定の時代に完全に分けてしまう読み方は、聖書全
体が発するメッセージを読み間違える可能性が高くなるよう
におもうのですが。
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