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ダービーの持った考え方について、Bassはその著書
Backgrounds to Dispensationalismという本で、次
のように指摘しています。
他にも面白い記述や関連する記述があるのですが、
ここでは、そのエッセンスだけにとどめます。
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P120 Darby's Doctrine of the Church(4章)の中の
The Unity of the Churchという節の中の表現
ダービーのもっとも一貫した主張の一つは、教会(キリ
スト集会)の一意性(一つしかないことOneness)、一体
性(一つのものをなすことあるいは一致:Unity)であり、
天における教会の見えない一致性のことではない。
(つまり、現実世界に存在する教会(キリスト集会)も一
つでなければならないし、一体でなければならないとす
る考え方となる。)
P122 Darby's Doctrine of the Church(4章)の中の
The Unity of the Churchという節の中の表現
集会の中での一体性(一致Unity)は、信者の責任であり、
悪を強く避けることによって達成される。(この結果、悪
とされる他のグループを排除する思想につながる可能性を
持つ)
P123 Darby's Doctrine of the Church(4章)の中の
The Unity of the Churchという節の中の表現
集会間の一致は、集会観の相互関係の中で構築され、そ
れは聖霊の導きと聖書のことばへの忠実さによって達成さ
れる。聖書の中には独立した集会群というものはない。
(したがって相互につながっていなければならない。)
P127 Darby's Doctrine of the Church(4章)の中の
The Unity of the Churchという節の中の表現
ダービーの教会に対する考えは、神学的な側面よりも、
実際面を考えるならば、現在においても重要なものである
ことを認めなければならないだろう。
真理にたいする分離派的かつ排除的な態度は、ダービーの
教会論がもたらした悲劇的な側面の一つである。その精神の
重要性に比べ、その運動が教会の歴史にもたらしたものが同
様に重要だというのはいいすぎといったら厳しすぎるだろうか?
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もともと、ブラザレン運動自体、多様な教派が並存的に存在する
ことの問題への意識から、自由にキリスト者として一つであること
の国家のほうや文化などの様々な枠組みを超えた自発的表現として
キリスト集会運動を発展させていったのであり、その意味でその
精神は間違っていなかったと、私は思います。しかし、その運動か
ら生み出されていったものが、真理追究を厳しく言い、一つの聖
書解釈への偏重の結果、悲惨を生み出したのではないか、という
Bassの127ページの批判は、甘んじて受けなければならないと思い
ます。
この一つでなければならない、という考え方が、教会の一致とい
う表現とあいまって人間的な努力による「一致」や信者が同一で
なければならないという考え方へとつながり、大東亜戦争時代の一
億層火の玉的な考えになり、信者のマクドナルド化あるいは金太
郎飴化を要請するとすれば、悲劇としか言いようがありません。
聖書はそんなことはいっていないと思うのですが。信者のマクドナ
ルド化や金太郎飴化は、信者の思考停止につながり、神が与えたも
うた才能を無にしているように私には思えますし、それは、教会
のカルト化の始まりだと思います。
あと、このOneness(一つであること)と教会(キリスト集会)の連携
と協調の理解から、ダービー派のブラザレンの中では、一つの都市に
ひとつのキリスト集会(教会)であるべきである(一つの教会しかあっ
てはならない)という概念が生まれます。たとえ、それが形の上の一致
であるとしても、かなりの無理をして一致を保つことが続けられる
ような傾向にあると思います。この一都市一教会という概念が、ウォッ
チマン・ニーとその後継者群に影響し、そのグループの教会形成に
影響しているようです。このグループとは、交流がないので、交流しよ
うとしても、私のような偏った考えは悪であるので、その悪から離れる
べきだ、として私は排除されるのではないか、と思っています。
最後に、一つとか一致について、Bassがいっていることを次回ご紹介
して、この連載を終わりたいと思います。
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>信者のマクドナルド化
double meaningとして面白い表現だと思います。
また、「真理」ということばが日本や韓国のブラザレンで doctrine の意味で使われているということには意識を向けている必要があると思います。
聖書で「真理」と訳されているアレセイヤは truth だし、一般的には真理は principle(原理) の意味も含むので、これらを混同すると誤解や誤誘導の虞があると思うからです。
2010/1/23(土) 午後 0:09 [ Luce ]
ウォッチマン・ニーは懐かしい名前ですね。彼の人間論は3分説であったと思います。私は彼の本を読み影響を受けましたが、今は2分説です。どちらが正しいか?という捉え方をするよりも、自分の聖書読解力からすると2分説の方が安全と見たからです。自分の好む説よりも安全と思われる説に傾くのは年老いたからですかね?
(この場合、『年老いた』とは善い意味で捉えていただきたい)
少し的外れなコメントが多い老人より。
2010/1/23(土) 午後 7:29 [ msq*x4*1 mikatarou ]
Luce様
コメントありがとうございました。ご理解いただき、ありがとうございました。『真理』が幅広い言葉として使われていて、その上で語られる学びの言葉がご指摘の通り、誤解や、ご誘導を生みだしている場面もないわけではないように思います。
『真理』をどのようにとらえるのか、それを現実世界において、考えていくのか、ということの重要性を改めて感じました。
コメントありがとうございました。
2010/1/24(日) 午後 5:11 [ kaw*muk*ih ]
ミカタロウ様
コメント、ありがとうございました。
ウォッチマン・ニーは、ダービーの書いた本をかなり真面目に独自に入手して読み込んでいく中で、彼の聖書観や人間観を作りだしていったようです。その中で、中国人として生きる中で、持っていた彼の背景が融合し、独自の聖書理解や東アジア的な聖書理解になっていたように思います。そういう意味で言うと、「メード・イン・チャイナのキリスト教」に近いものがあると思います。内村の信仰スタイルが、「メード・イン・ジャパンのキリスト教」(このタイトルの本があります。)と云えるとすれば、ですが。
聖書理解の多様性はあってよいと思いますし、その自由度はありますが、それがある説の一つであるという態度は持ち続けたいと思います。
コメント、ありがとうございました。
2010/1/24(日) 午後 5:17 [ kaw*muk*ih ]