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この3月20日で、オウムが起こした地下鉄サリン事件から15年がたった。 ようやく、事件をもう一度ある程度冷静に見直せるようになった。 オウム事件が突きつけた問題は、非常に多くある。国家とは何か、信仰 とは何か、ポストモダン時代における幸福とは何か、真理とは何か、様々 な問題と断面を先鋭化して切り出したのが、オウム事件であった。 そして、Aum Shinrikyoということばは英語にさえなった。 オウム真理教がまだ、一風変わった宗教団体とみなされていた1990年 ころから、オウムの姿をかなり追ってきた。別冊宝島で新興宗教系のム ック本を何冊も読んだ。他の本も読んでみた。九州で道場を作る、作ら ないでもめているころ、殺害され亡くなった坂本弁護士が脱会者の裁 判にかかっているころから、彼らの動きを視線の隅っこのどこかで捉え ていた様に思う。 その根源は、チベット仏教の影響を受けた、あるいは仏教の一派である といいながら、新約聖書に出てくるハルマゲドン(黙示録にでてくる) の概念を主張していたからである。 そして、彼らの石垣島セミナー事件(終末を予期し、石垣島に集団 避難した)の姿を見たとき、あれ、と思ったのである。どこか自分の 持っている過去の遺物と彼らの姿が重なって見えてしまったことがある。 終末思想、あるいは末法思想自体、過去の仏教者集団は持ったし、 たいていそういう思想の裏側では、現状の不満分子とつながりやすい ので、伝統的に国家からはあまりよく思われなかったし、弾圧という のか、少なくとも圧迫は受けた。国家や社会システムが転覆されると いうことを社会システム事態にとって問題であるからである。 しばらく、オウム事件を参照例にしながら、終末思想とディスペン セーション説の関係を考えてみたい。 ちなみに、オウム真理教(現アレフ)とブラザレン、または、キリ スト集会は直接関係はありません。そのことだけはまずいっておきた いと思います。 |
そのほか思うこと
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