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オウム事件と終末論の問題を考えていくとき、これまでも多くの
著者や新聞記事などでも指摘されていることであるが、エリート と呼ばれる人々、いわゆる名門校の出身者だった人々、あるいは 名門校の在学生、医師や弁護士といった人々がそのグループに かなり含まれたことである。特に、いわゆる指導者層という大師と かいった称号の付いた弟子層に多かったことである。もちろん、 そうでない、普通の信者たちも多かったはずであるが。 彼らは、目に見える真理、あるいは体感できる真理としての麻原 の修行とその先にあるものに期待したのではないだろうか、と思う。 彼らの団体名に真理という名前が付いていることは、印象的である。 仏教的な思想の枠組みの中で、ここまで真理追求についての強調 点を持った集団はなかったのではなかろうか。それが、この集団の 特異性であると思う。 イエスは、自分自身のことを真理であると言った。非常に激しい 主張である。麻原自体は、自分自身が真理であるとは言わず、 自分自身が真理を知っており、真理へ到達する方法を知っていると 主張した人物であると思う。残された対談、当時の宗教学者や さまざまな人々が麻原と対談したものを読む限りは、彼自身真理そ のものである、と主張したことは、途中の段階までは少ないようで ある。 これと比べると、イエスの主張は非常に強烈である。自分自身が 真理そのものであると主張している。さらに、イエスを信じる者には、 真理の御霊が与えられると主張している。(ヨハネ福音書14章) この主張、キリスト者を長くしていると、あまりに当たり前であるが、 いったんこの枠組みをはずして客観的に見てみると、実は非常に 凄味を持った発言であることが分かる。 その点で、キリスト教と総称されるイエスに対する信仰とイエス 自体の発言は、ほかのものとかなり違っていると思うし、この点こ そキリスト教のもっとも大きな特徴かもしれないと思う。 オウム自体は、終末についての強調を置いた。しかし、イエス 自体の強調は、終末にあるのではなく、もっと広い意味での 神と共に歩むこと、神の国そのものであると思う。その意味で、 終末論に目を奪われることなく、イエスが主張しようとしたことを 再構成し、現代に生きる人々に伝えることの大切さを感じている。 そのことが十分できているかは、自分自身の姿と話している 内容を再検討するときに、まだまだではないか、と思うことが多い。 |
そのほか思うこと
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