|
ブラザレン運動関係者での聖霊論の理解としては、 炎や、火が聖霊のメタファー(比喩)となっている ことが多いようです。もちろん、これは伝統的な 聖書理解でもありますが、時に行き過ぎているお話 をお聞きすることがあります。 具体的には、聖書の中で、火とか、ともしびとか、 明り、炎という表現が出ただけで、機械的に聖霊と 結びつけて聖書理解をしようとする傾向です。 文脈から見て、必ずしも、こういう言葉が聖霊との 関係で理解されるとは限らないのですが、文脈を 無視したお話をお聞きしたこともあります。そんな ときには、かなわないなぁ、と思います。 また、日常生活でも、熱心さと聖霊の働きとを 関連させて考える方もおられ、外見から熱心さが あると思われる方が聖霊に満たされている、と理 解して、聖霊の満たしがあるとか、ないとか、と いった議論がなされる方もあります。この種の聖 書理解はオズワルド・J・スミスにも見られるも のです。しかし、個人的には、必ずしも外見的な 熱心さと聖霊の満たしが一致しているとは限らな いかなぁ、とこれまでの信仰生活の中で出会って きた方を見ながら思います。 というのは、熱心な方は、時々、ボキッとおれ るように信仰生活をやめられたり、教会(集会) 生活に疲れた、と一言残しておられなくなったり することがあります。 あるいは、信仰歴の若い信者に熱心に信仰生活 や奉仕に取り組んでいく様に語った結果、若い方が 信仰生活に疲れてしまう場合も全くないわけでは ないようです。 外見的な熱心さだけで判断せず、ゆったりと 神の臨在を味わうようにお勧めするのがいいか なぁ、と個人的に思っています。こんなことを書 くと黙示録3章に出てくるラオデキアの教会のよ うな「生ぬるい信仰」とご意見をおうかがいしそう ですが、外見的な熱心さだけが聖霊の満たしでは ないように思うのですが。 |
ブラザレン
[ リスト ]






「外見的熱心さ」が評価されるのは、いずこも同じですね。そのほとんどは「肉」の情熱と思います。それも成長過程のひとつなのでしょうが...。
2010/4/30(金) 午前 5:33 [ g_topspeed ]
武州の鳩様
コメントありがとうございます。人間は神と違うので、本当の例の働きかどうかをなかなか見わけにくこともあり、(肉的な)外見的な熱心さが、霊の(働きの)豊かさと混同されやすいというのはどうしてもあると思います。肉的な熱心さを追求しているうちに霊的な成長につながる場合もないわけではないのですが、肉的な熱心さを持っておられる方は、ほかの信者さんにもそうであることを求めたり、そうでなければ霊的な状態がおかしいと思っておられるかのようなご発言が見られることもあります。そうではないと思うのですが。
このあたりの話を聞くたびに、そういう発言をなさる方には、ロイド・ジョンズの「霊的スランプ」という本を読んでほしいなぁ、と思います。
2010/4/30(金) 午前 6:38 [ kaw*muk*ih ]