|
久しぶりに昭和16年に出版された「救乃泉」からの伝道に用いたと
思われる文書を取り上げ紹介したいと思います。 おそらく、この文章を書かれたのは、藤本善衛門さんだと思われま すが、当時の福音メッセージのスタイルを見ることができると思いま す。 基本的に、信仰者と不信仰者の比較の上で、信仰者の優位をとき、 優位となる信仰者となる意味を聖書を使って説き、聖書から信仰者と なることの意味を読みだしていく、という論法となっています。 もともとのオリジナルの福音メッセージを詰めたものか、若干論理が 飛躍しているところがあるように思います。また、この論法でいくと、 常に信仰者は世間的にも結果としての優位を確保できるか、のような 印象を聞き手または読者に与えるので、誤解を生むのではないか、 という危惧を持ちました。 あくまで、信仰者の優位性は、神によって永遠のいのちを得ている というところにのみあり、世間的な富とか名声、結果としての優位性を 求めていくのであれば、ご利益宗教、あるいはボストン運動と似たよう な信仰のずれとおかしさにつながることを読みながら懸念しました。 まぁ、無理やり長めの原稿をつめていった結果ではないかと思いま すが、論理としては時に今でも集会で語られる福音メッセージで似て なくはない論理で語られる方もごく稀におられるようです。 --------------------------------- 鵜の真似をする烏という言葉の如く時折不信仰者が信仰者の真似を して豪い(すごい)失敗を演ずる場合がある。信仰は常識や人智以上の 不可思議な力を持つものである。 聖書に示されある例を挙(あ)ぐれば、使徒行伝十九章の使徒パウロ はエペソの邑(原文カナ:まち)で神の福音を伝うるとともに信仰により 尋常(原文カナ:よのつね)ならぬ能力ある業(原文カナ:わざ)を行った のであった。すなわち病を癒し、悪霊出しなどをしたのであった。それを 見た諸国遍歴の呪文師数名が、パウロの真似をして「イエスの名により て」悪例を追い出そうとしたが、彼らは反って(原文カナ:かえって)打拉 (原文カナ:うちひし)がれ裸にされ、傷つけられて逃げだしたのであった。 又旧約聖書に記されているイスラエル人の歴史をみるならば、彼らはエ ジプトから解放されて旅を続け紅海にまで達した時、彼らは眼前に海を 見、のちに敵の大軍を見たのであった。全く袋の鼠の如くであったとき、 モーセは信仰によりて神の偉大なる力を頼み、人々に「静まりてエホバ の救を見よ」と叫んだのであった。その結果、神は紅海の水を割って彼 らの渡り行く道を開き給たのであった。いつも人の行詰ったとき、神は 働き給うのである。信仰とは神の働きにゆだねることである。信仰なき 「エジプト人は然(原文カナ:しか)せんと試みて溺れ死にたり」(ヘブル 十一ノ二十九)。又「信仰によりて七日の間廻りたればエリコの石垣は 崩れたり」(同十一ノ三十)と記されある歴史に於いてもイスラエル人は 只エホバ神の命のまま七日間エリコ城の周囲を廻っただけで驚くべき 神の能力を拝したのであった。これは彼らの働きでなく、エホバの御働 きなりとは誰しも知るところであった。エリコ城内の人々はイスラエル人 の為し居る事を見て稚戯(原文カナ:ちぎ)事として嘲笑したであろう。な れど結果は彼らは呆然とし、かつ滅びねばならなかった。 後来、ネヘミヤの時代にもエルサレムの石垣修理の際、敵は彼らの仕 事見て嘲笑した。けれど後敵は皆、驚き且つ恥じねばならなかった。 かくのごとく今もパウロの云うた「十字架の言は滅ぶるものには愚なれ ど、救わるる我らには神の能力なり」(コリント前1ノ十八)の通りである。 尚パウロは「我は福音を恥とはぜずこの福音は…すべて信ずる者に救 を得さする神の力たればなり」(ロマ書一ノ十六)とも申し居るごとく「信仰 によりて遊女ラハブは平和を持て間者(福音)を受けたれば、不従順のも のと共に亡びざりき」(へブル十一ノ三十一)エリコの人皆滅ぶる時、彼女 のみ救いを得たのであった。その理由は?「信仰によりて」であった。 「信仰なくては神に悦(原文カナ:よろこ)ばるることあたわず」(へブル十 一ノ六) 君よ、本当に喜びの人とならんことを望まるるや、然らば先ず神に悦ばる るものとなられよ、信仰者となられよ。(藤本生) ----------------------------------------------- このような伝道方法というのは、一つの方法ではありますが、やや問題を 含む様な気がします。 |
ブラザレン
[ リスト ]





