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今回も「救乃泉」の創刊号(昭和16年)から藤本さんが書かれた記事を
ご紹介したいと思います。 ------------------------------------------------- 勝れる犠牲 「信仰によりてアベルは勝れる犠牲(原文かな:いけにえ)を神に捧げ、 之によりて正(原文かな:ただ)しと証せられたり」(へブル11章ノ4) 人は皆、アベルの如く罪人である故にその罪を贖う為の勝れる犠牲が 必要である。勝れる犠牲とは何であるかはキリストの来る迄そして彼の 十字架に付けられる迄は明白でなかった。けれど彼の死は確かに罪 のためのなだめの供物(原文かな:そなえもの)(犠牲)なりし事が証 明されたのである。(ロマ書三ノ廿四 廿五)。 出埃及(記載社註:エジプト)記十三章に驢馬(原文かな:ろば)の初 子(原文かな:ういご)は皆羔羊(原文かな:こひつじ)をもて贖うべし、 もし贖わずばその頸をおるべし。と会って驢馬の初子はどうしても贖 いなしには存在を許されなかった。それと同様性来(原文かな:せい らい)のままの人間は誰しも神の御前に平然と立つ事は出来ない。 それ故「信仰(犠牲を捧げる)なくしては神に喜ばれる事能はず」 (へブル十一ノ六)で、信仰によって人は舊き己に死に、新しき生命 に活くる者となる。即ち主イエスがニコデモに申された如く「人新た に生まれずは神の国を見る事能はず」(ヨハネ三ノ三)である。 多くの人は信仰とは信念力か大悟徹底であると思うている。しか し、これらは人力の産むところのもので、腹と頭脳の働きである。 人間がいくら努力しても人間である。鉄は如何に磨いても銀には ならない。銅を金に変える事は不可能である。斯如く人は信念や 悟りで人生を変える事は出来ない。これは人の為し能はざる事で ある。故に神がこれを為し給うのである。すなわち神のこのイエス・ キリストの十字架上の御業がこれを完うし給歌のである。そして神 は我らに要求し給うている事は、イエスを神の子キリストなり、汝等 の罪の救主なりと信ぜよで、かく信じるものに永遠の生命を与えよ うと約束されたのである(ヨハネ三ノ十六、廿ノ卅一)。 我らは神の子キリストを信ずるによりて我らの罪が潔められるば かりでなく、新しき生命(原文かな:いのち)すなわち神の子となる生 命を頂くのである。これは何と驚くべき音信(原文かな:おとづれ)で あり、かつ賜物(原文かな:たまもの)ではないか、これをうくるに我 らの方に何の価(原文かな:あたい)も努力も要しない、只有難く感 謝を以て受ければよい。信仰とはこの幸いな賜物を頂くための手な のである。速くあなたの手を出されよ、そして受け取られよ躊(原文 かな:ためら)いは禁物(原文かな:きんもつ)である。受けねば永遠 の悔を生む、受くればあなたはパーロ(記載者註:パウロの事)と同 様、「言い尽しがたき神の賜物につきて感謝す」(コリント後九ノ十五) と心から云い得るのである。(藤本生) ----------------------------------------------------- この文章を読みながら、最初からアベルを持ってきているのは、か なり無謀だなぁ、と思いました。というのは、アベルを知っている人が どの程度いるかなぁ、と思ったからです。ある面で、自分たちの聖書 知識を前提に議論が進んでいるような気がしてなりません。驢馬の初 子との並行関係が、人間の救いとの並行関係と持ってくるのも、少し 無理があるかなぁ、と思います。その事の並行関係も普通の方には 理解しずらいものだと思います。 ミニストリーという最近、キリスト新聞社が出し始めた雑誌の第2号 か第3号で、香山リカさんが教会の人をあっちの人、と見えてしまう、 と書いておられましたが、まさしく、そのような事を感じさせる論理展 開かなぁ、と思いました。 とはいえ、論理展開は明白で、簡にして要、というお話しとなってい ます、。 ただ、この話で最も気に入った部分は、最後のあたりに出てくる、信 仰とは、手を差し出すことである、という部分です。信仰と手の関係と いう事は非常に深いものがあると思います。ナウエンの本に「両手を 開いて」(サンパウロ社刊、但し著者名はアンリ・J.M.ヌーエンとフラン ス語読みになっていますが)がありますが、そこでのメッセージとよく 似ていますし、マクグラスの講演会のDVD「聖餐」(キリスト新聞社刊) でも、聖餐において両手を開く意味、のような事が言及されています。 この事は意外と重要かもしれません。なお、マクグラスの聖餐は講演 自体も面白いですが、本文テキストで触れられていない質疑応答の 部分が一番重要だと思います。高いですけれども、それだけの事は あるように思います。 話がずれてしまいましたが、ストーリーのきっかけには、タイトルの 「勝れる犠牲」が出てきますが、後半になると、かなり関係が薄い論旨 の展開になっているので、このあたり、自分が聖書メッセージをすると きにも時々やっているような気がするので、気をつけないなぁ、と反省 しております。 |
ブラザレン
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