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Facebook上で、非常に面白い文書を見つけ、日本語に翻訳 or 和訳 or 日本語変換したいと思い、試しに日本語で読めるようにしました。かなり雑な翻訳の続編です。前回から手紙の本文の続きです。内容としては、かなり厳しい表現となっていますが、ある面の事実を示していると思います。
なお、次の記事で、英文も載せておきます。なお、【・・・】の部分は、この文書の変換者の補注です。 ------------------------------------------------------------------------------- われわれ、集会に集う人々は、外面を愛しているのです。なぜなら、それが簡単だからに過ぎません。「スカートをはいていますか?」「いいですね【言外に聖書的な生活スタイルをしていることを意味するのだ、と思います】」。「帽子【北米では、文化的にベールではなく、帽子が聖書に指示された正式なかぶり物だと思っている一部のキリスト集会がある。おそらくフランスを中心としたヨーロッパの貴族文化が英国文化に影響を与えた結果と思われる】をかぶっていますか?」「いいですね【言外に聖書的な生活スタイルをしていることを意味するのだ、と思います】。」しかし、心の内部の問題は?そう、それは別問題なのです。ほかの人が苦しんでいることを見つけるのは簡単ではありません。それは、霊的な豊かさがあることと、主と主の言葉と、聖霊の導きに従い、他者の霊的な必要に関心を持っていることが必要だからです。ある人が以前私に言ったことがあります。「人々は、あなたがそのことにどの程度の関心を持っているとわかるまで、どの程度考えているのかを知ることはできないのではないのですか。」ほかの人は、「行動は言葉よりも影響力がある」といいました。だとすれば、私たちはキリスト者の愛を実際に行動に起こしたらよいのではないでしょうか。そうすれば、多くの人々を失うことはないはずです。 若い人々を失うことは一つのことですが、しかし、そもそも若い人が集会に来ていないことにももっと関心を払うべきです。たとえば、私たちの集会に高学年向けの聖書クラスを担当している男性信者がいます。彼が担当している子供は、聖書の影響の少ない家からの子供で、学校でもいい成績というわけではありません。この兄弟は、子供たちがわかるレベルの聖書の翻訳【Today’s English VersionかNew IInternational Versionの子供向けの聖書だと思う想定されます。】を使おうとしていました。しかし、そのことは許可されませんでした。そしてその子供たちは、KJV【King James Versionの頭文字をとったもので、かなり以前の時代(シェークスピアの時代)に英語訳された聖書の一つ。日本語の感覚で言うと、文語訳(大正改訳とかイエズス会の戦国時代の翻訳・高校生程度の古文の知識が必要)を読んでいる雰囲気】を利用することになったのです。女の子と一人は、KJVを使うことを拒否しました。彼女はそれを読めもしないし、彼女は読んでも理解できないからです。キリストに人を引き合わせること【直訳風に訳せば、キリストのために人々を勝ち取ること】に関心があるのでしょうか。それとも、魂の救いよりも、どの聖書のバージョンを読むのかは重要なのでしょうか。我々の律法主義のために、われわれは、少女の聖書を学ぶ機会と救い主について学ぶ機会に壊滅的な打撃を与えたのです。このような律法主義が、若い人々を集会から離れさせるものなのです。【マタイ書23:23-24の言及を引用していると思われる】、あなた方は、ブヨは漉しているが、らくだは飲み込んでいる。大きなものは小さくされ、小さなものは大きな者とされるのです。この年長の兄弟は、そのことを認めることをしなかったのです。多くの若い信者は、この愚かしい律法主義に飽き飽きし始めているのです。【ここでは、愚かしい、と少し上品に訳していますが、原文では、ridiculousですから、ばっかばかしい、とか、実にくだらない、愚にもつかない、といった表現の方がより適切なんですが。】 ------------------------------------------------------------------------------- うーん、ここまで書くかなぁ。このメールの著者は、よっぽど頭に来ていたのだろうと思います。 ただ、最初に米国の西海岸の教会に行ったときに、まぁ、ワシントン州は、カジュアルな服装がかなり認められている地域だから、といわれてカジュアルな格好だけ(一応ネクタイだけは、持って行った)をもっていったら、いきなり、みんな黒服の男性信徒、姉妹は、大草原の小さな家に出てくるオルソン夫人の教会服(その教会でオルソン夫人のきていた教会服を着ていると、派手で浮いてしまうと思います。)のような紺の地味なドレスを着ているのを見て、あれ、話が違う、と思ったのでした。あわてて、スーツを日本に帰った際に持ち出し、何とか体裁を保ったものの、普段がカジュアルな服装の人たちばかりの環境の中にあって、19世紀的な服装を見たので、あれれ、この人たちは棺の中の人と同じ服装を着ている、と思ったのでした。 また、聖書も大時代風のKJV、それも特殊なリズムと抑揚のついた読み方でした。うわぁ、と思ったのも事実です。わたしは、米国での標準と聞いていたので、NIVをもっていったのですが、それは聖書ではない、とまでは言われませんでしたが、それに近い扱いを受けました。KJVこそ、由緒正しき、誤りのない神の言葉、という雰囲気が漂っていましたねぇ。 確かに、このメールを書いた方がおっしゃるように、外面だけで判断するのであるとするならば、キリストの言った愛を実践するということになっているかどうかを含めて、よく考え直さないといけませんねぇ。それは、このメールを書いた方にも言えることかもしれませんが。ほかの人たちの行動、そして、私たちの行動を批判的に考えると同時に、その内的な霊性とは何か、その原動力とは何か、なぜ、こうなったのか、ということをもう少し批判的に考える方がいいかもしれません。 |
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新改訳の第三版が世的だといういってはばからない集会もありますからねぇ
2011/7/2(土) 午後 10:32 [ のっぞん ]
コメントありがとうございました。
そうですね。でも、世的でなかったら、普通の人が読んでわかないような聖書になるんじゃないですかねぇ。しかし、新約聖書時代にいたら、コイネーグリークは世的だ、とか言い出しかねないですね。そういえば新改訳聖書が出た当初、最初は、新改訳とは疑いの目で見られていましたけれども、それはすっかり忘れておられる方も多いようですから。とはいえ、自派で聖書翻訳することはしておりませんしねぇ。このあたりの精神性って、どうかな、と思います。
2011/7/3(日) 午前 5:40 [ kaw*muk*ih ]