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Facebook上で、非常に面白い文書を見つけ、日本語に翻訳 or 和訳 or 日本語変換したいと思い、試しに日本語で読めるようにしました。かなり雑な翻訳の続編です。今日は、第6章です。前回から手紙の本文の続きです。内容としては、かなり厳しい表現となっていますが、ある面の事実を示していると思います。 なお、次の記事で、英文も載せておきます。【】で囲った部分は、変換者の意見・コメント・注釈です。 ----------------------------------------------------------------- キリストへの愛 → キリストが神であることを受け入れる → キリストがかしらであることを認める → 被り物をかぶる 被り物をかぶるか、集会を去る → あぁ、そういえば、被り物は、主が「かしら」だったからですよね。 → そういえば、それはキリストが主であるから、でしたよね。 → キリストへの愛?あぁ、そういえば、だれもそんなことは言わなかったですよね。それってそんなに大事でしたっけ? -----------------------------------------------------------------
この文章を読みながら、まぁ、こういう風に言う信者さんは日本では、あんまりいないと思いますが、語り手の側は、聞いている相手が知っているものとして、勝手に前提を置いて話をすることが多いようです。特に学びでは、概して、キリストへの愛は、既知の事実として触れないことが多く、むしろ、キリストの愛を大前提として、その結果として生まれること(例えば、被り物とか、幕屋とか、そのほかのこと)だけを語るところがまずいんでしょうねぇ。まぁ、集会では、それを体系だてて学ぶという習慣がそもそもないので、それが大きな問題を生み出しかねない、ということのようです。 私自身、振り返ってみても、確かに、学びと称される時間に、非常に基礎的な教理の部分というのか、信仰の土台となる部分について、話すのは、どうかなぁ、と思い、わりと細かな解釈論的なお話しをすることが多いように思いますが、しかし、いろいろなレベルの信者がいるとき、特に若い世代の人たちがいるときに、若い世代の人たちがわかっているつもりになっていることについて、基礎的な聖書理解についての解説を、していくことが重要かもしれませんし、細かな聖書理解を解説するよりも、骨太の聖書理解を、時に振り返りつつ、話していくのが大切かもしれません。最近、信仰とは何か、神の忍耐とは何か、聖書を読むとはどういうことか、聖書とは何か、救いとは何か、ということを改めてまとめながら、聖書から話す努力をしてみていますが、結構、面倒ではあるものの、大事かもしれないと思っております。 |
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