|
第3回目(午後の前半の講演)のまとめをしたいと思います。
まず、この記事でお示しする記録は、あくまで、私が当日取得したノートに基づくもので、ここでは、私に聞こえてきた話、ということであり、発話者のご本人の意図とは違う可能性があることをお断りしておきます。そのことを十分お含み置きの上、お読みください。なお、いずれの話者の方には、いろいろお世話になっていることがございまして、まったく個人的な怨恨等は、ありませんし、批判的な部分があるとすれば、お考えそのものについてであり、個人攻撃のようなつもりは、まったくありません。攻撃しているとすれば、記者が不明であることについて、より深い理解に達するために、自己批判や自己攻撃しているだけです。くれぐれも誤解されませんように。なお、このパラグラフのように太字になっているのは、私の意見です。
ここでは、「神の国」と「新天新地」というテーマでお話がされる、ということでお話を始められました。
「御国とは何か」・「神の国にふさわしい人生」というテーマでお話になられたようにお思います。神の国の前にあるもの(漸進的 or 前身的?)な神の国として、神の支配があるところという意味では、教会はその一部という理解を述べられたと思います。1000年王国(イエスがダビデの王座につく)が神の国、その後に新天新地がある、という理解が述べられたように思います。
時代というか対象 主なプレーヤー
漸進的御国 教会
千年王国 イスラエル
新天新地 上記2集団の合体
という構造で、理解されているのかなぁ、と想像しました。
個人的には、上記のような理解について、どうかなぁ、と思う部分があります。このような神の国を分断的に理解することが適切なのだろうか、という思いが私にはあります。この部分は、見解の相違ということでとりあえず留保しています。
さらに新天新地は、すべての人々が祝福されるところである。ということで、お話になられました。黙示録21-22章は、教会のみを扱うものでない。というご理解だったと思います。
さらに、マタイ13章が、詩篇などにも見られる表現に関する特殊な形式構造(交差配列法)の一部を形成していることに言及した上で、最初の地上降臨と再臨との間の神の支配(御国)の話をしておられました。あの解説でわかる人は少ないのでは、と思いましたが、他の集会の皆さんはよく学んでおられるので、会場におられた高校生を含め、大多数の方々にとっては当然の知識なのでしょう、としておきましょう。
なぜ、御国が実現するのか、ということについて、神への渇きをあげておられました。4種類の渇きの解説から提示しようとしておられた。
その4種類とは、創造における渇き、レビ記(ヘブル書)における渇き、十字架における渇き、エペソ書における渇き、をあげておられました。
最初に、創造におけるアダムの配偶者への渇きをアダムが動物をつがいで見せられ名前をつけていくシーンの紹介から、配偶者への渇きがあったのではないか、ということを主張してされておられました。渇きがあったからこそ、「これぞ骨からの骨、肉からの肉」といったという主張だったです。
うーん、これはどうなんでしょう。と思いましたね。神が「よい」とされた創造のうちに、渇きがあったとするならば、それは、おそらくトゥーブというヘブル語で示される状態ではなかったはずなので、どうかなぁ、と思いました。また、 アダムのわき腹から、骨がとられた(そして血が流れたはずである)ということと、イエスのわき腹が刺され、そこから血が流されたということとの類似性を後に主張しておられたが、着想としては面白さがあるものの、これは、やや言いすぎかなぁ、という感じはしました。
その上で、神の人に対する高い信頼があると説明したあと、その信頼を裏切った人間の回復のためにイエスを遣わしたのは、罪のないアダムから罪なきイブ(配偶者としての教会)の姿に戻すためであった、という主張をパウロがエペソ書でしている、と主張しておられました。これも、ちょっと厳しいかなぁ、と思いました。
次にレビ記の構造を説明した上で、神とともに生きるために必要なことの単純化したモデルとして、いけにえ、大祭司、信仰というものを示していることを説明しておられた。レビ記とヘブル書の関係について触れたあと、いけにえについて(罪過のためのいけにえと全焼のいけにえ)、大祭司(アロン系大祭司・メルキゼデク系大祭司)についても説明されました。まぁ、ヘブル書とレビ記、創世記をそれなりによめば、この結論はある程度妥当性があるかなぁ、と思いました。
そのあと、ヨハネ17章3-4節や第1コリントの13章を取り上げながら、永遠のいのちの話をしていたが、神を知ること、神と一つになること、という話をしておられた。これは明らかにJ.I.PackerのKnowing God(日本語では、神について)の内容に影響を受けたものだと思われる。このあたり、参考文献なども紹介があってもよかったかなぁ、と思います。
十字架上での渇きに付いて、ヨハネの19章を引用しながら、神に捨てられた、という経験は、神の交わりが損なわれた、断絶した、という観点から説明された。これはおおむね妥当で説得的かなぁ、と思いました。
パウロは、エペソ人への手紙について、パウロが、異邦人が信仰をもつことの理解が欠かれていて、コリントにおけるわが民という表現から、神自身への信仰との問題を取り上げておられた。これは、使徒時代におけるパウロの表現を丹念に追うことで、もう少し明らかになるだろうなぁ(実は、その前の週、筆者の教会で1時間ほどかけて実施したが、本来的には、2時間以上が必要と思った)という印象を受けたました。
神の国にふさわしく生活する、ということであるが、マタイ13章から説明しようとされていたのだが、人を誘って一緒に教会に行く(種をまく)、最初からよい地に相当する人はいないので、一人ひとりに応じて人々に寄り添う(耕す)、われわれが操作できない部分があることを知った上で忍耐する(雨を待つ【この部分は言及が欠落していたので、筆者による補填】)ということを説明しておられた。
神の足台としてのセラフィムの反逆、また、サタンによって、いのちの木への道が閉じられたこと、主が漸進的(?)御国の中で、弟子の足を洗ったことから、人々に仕えていく必要がある、という話をしておられたが、イエスは見せるため(模範となるため)の行動ではなく、そもそもイエスの意図、下るためというイエスの目的にかなうものであったということを話された。おそらくこの部分は、上沼先生の「闇を住処とする私、闇を隠れ家とする神」やヘンリー・ナウエンの「傷ついたいやし人」や「ナウエンと読む福音書」などの影響があるのではないかなぁ、と思いました。
最後に時間切れとなり、あまり詳しい話がされなかったが、配布資料について、「遠山の金さん」なんかの時代劇ドラマの「ものがたり」構造との類似性から神に対する人間の認識状態の関係について触れられた。これも、どうかなぁ、と思いました。というのは、こういう直線的なモデルに潜む問題、例外の多さ、説明の荒さがあり、その副次的効果がかなり大きい、と思うからです。
最後に、ヤンキー牧師こと、水谷潔氏のブログ記事の悪魔からの卒業祝いの文章を読み上げて、終わっておられた。
ところで、一番疑問や残念に思ったのは、語り手の方が「御国にふさわしくいきる」というとき、語り手の方は、「御国」が何を指し示しているのかが明確でなかったことです。
つまり、
(A)「御国=この地上で存在している神との関係」なのか
(B)「御国=将来における千年王国」なのか、
(C)「御国=いわゆる【新天新地】」なのか
が筆者には、よくわからなかった。まぁ、筆者は、そもそも(A)も(B)も(C)もうっすらとつながっている連続体だと思っているので、あまり細かく区別する必要はさらさらないと思うのですが、あれだけ区別があるかのようにお話になられたのであれば、それぞれの場面で何を指し示しているのか、を説明しながら話さないと、聞くほうは混乱するのではないか、と思いました。実際に、この記事の記者は混乱しました。
特に、(B)や(C)の意味で、「御国」にふさわしく生きると、聞き手が理解した場合、単純化して説明されたように生きなければ、「御国」にふさわしくないものであり、「御国」を共有できないのではないか、と思い込んだり、挙句の果てに恐怖でいっぱいとなっても仕方がないかなぁ、と思った。これは、かなり残念に思ったことである。
あともう一つ残念に思ったことを述べて終わりたいとおもいます。この方は、最後の引用の部分で明確に、「小さないのちを守る方の代表の方が書かれたものの引用だ」と断ったうえで引用しておられた。これは、まず評価したいが、じゃぁ、それを読みたいと思ったときに、何を見ればいいのか、ということの参照情報はまったく提示されなかったと思う。これは、非常に残念だと思う。かくいう、この記事の記者である私もこのキリスト集会というグループで長く暮らしているので、悪気なくつい類似のことはよくやってしまうのだが、このグループでは、誰のどの本からとった、ということを明らかに明示しない悪しき伝統がある。それは、あとから、より正確に理解しようとするためにそのオリジナルに当たりたくてもあたれないということが生まれる。一過性の漫談や落語であれば、それでもいいかもしれないが、少なくとも、どうやってそれにたどり着けるか、位を示す親切心があってもよいと思う。後で、個人的に聞いてください、ということかもしれませんが、それは不親切かなぁ、と思いました。キリスト集会で全体によく見られる傾向であるが、学び会や福音集会でのお話が、漫談や落語レベルとなりやすい原因は、この辺りにあるのかもしれない、と思いました。お勉強ではないから、というご意見もあるのでしょうが、学び会とタイトルを打たれるのであれば、やはり、このあたりの配慮を今後は望みたいと思いました。そんなに論文書くみたいにぎちぎちにしなくていいので。
後ほど聞く、って言うのは、批判と取られかねない、という日本の風土があります。また、実際に後で聞いたら、批判されたと受け取る人たちもいるようなので、その辺りの親切さはあったほうがいいかなぁ、と思いました。
また、この記事の中でも、おそらく話し手が影響を受けたと思われる書籍を記載したが(本人ではないので、誤りも多数あると思われるがそれはご容赦いただきたい。)大体自分が話したり、書いたりするときも出発点となった書籍などが念頭にあったことすら忘れていることが多いので、こうなることはわからないではないが、参考にするとよい書籍、などはいくつか照会したほうが親切ではないか、と思いました。かりに、学び会での話であるとすると。
この方の普段の学びを聞いたことはないのでなんともいえないが、パワーポイントが使えない、ということを嘆いておられたので、普段は、パワーポイントの最後に参考資料や参考になる本などは紹介されておられるのであろう。なお、この記事の記者は、それをするように心がけている。それをしていない方の場合で、おかしいなぁと感じた場合には、あとで、しつこく話した方に食い下がって、聞き出そうとするので、少しうっとうしがられるのではあるが。
全体に、納得できる部分もあったが、類比による比定や、御国がどのようなものか、であるということをある程度説明なく語られるなど、個人的にはどうかなぁ、と思う部分はいくつかあった。
|
ブラザレンと預言理解
[ リスト ]




学び会とはいえ一般的に、「学者・研究者」としての研究成果の発表の部分と、「教育者」としての教えの部分が混在していると感じますね。
「学者・研究者」が同業者に発表するときには参照情報を開示するのが慣わしですが、「教師」が生徒に教える場合はそこまでしないですね。
このセッションで良かったかなと思えるのは、諸集会の通説に対し検証・精査を試みるという姿勢がうかがえたことです。この部分は研究成果に分類されるので、語り手の結論に至るプロセスが「吟味」のために重要になると思います。
また、「御国はなぜ実現するのか」について「神の渇き」で説明されていましたが、彼の最近の切り口が「神の渇き」なので、むしろこの切り口で、「御国はなぜ実現するのか」を語ったということになるかと思います。
2012/1/21(土) 午前 11:52 [ Luce ]
「黙示録の21章22章には神の花嫁としてのイスラエル、子羊の花嫁としての教会、すべての聖徒たちがいると書かれている」と語られましたが、新天新地の住人として、「神の花嫁、イスラエル」はどこに書かれているのでしょうかね?
逆に、明示されていれば、教会だけだという説は出てこないわけで、この部分は説明を省かないでいただきたかったです。
>信頼を裏切った人間の回復のためにイエスを遣わしたのは、罪のないアダムから罪なきイブ(配偶者としての教会)の姿に戻すためであった、という主張をパウロがエペソ書でしている、と主張しておられました。
この部分、
>世界の基の置かれる前から彼にあって選び(エペソ 1:4)
の「彼にあって」を「キリストを」に言い換えてましたが、どうなんでしょうか? 私たちを選んだのではなくてキリストを選んだのだ、と言っていたことです。
みことばに対して、説明なしに変更を加えた、と聞こえてしまいましたが。
2012/1/21(土) 午後 0:42 [ Luce ]
>アダムのわき腹から、骨がとられた(そして血が流れたはずである)ということと、イエスのわき腹が刺され、そこから血が流されたということとの類似性を後に主張しておられたが、着想としては面白さがあるものの、これは、やや言いすぎかなぁ、という感じはしました。
ミドラッシュはそういう見方をするようですね。
ヘブル的な読み方をするとそうなるのだと言われると反論のしようもないのですけど。
だいすけさんのところのモリエルでは結論に至るステップ・方法を新設に説明していますが、ブレザレンでは結論だけしか言わないので、あたかも聖書に精通しているような、霊的なような受け取られ方になるのではないでしょうか?
2012/1/21(土) 午後 6:07 [ Luce ]
マタイ13章の「良い地」の箇所を引用して「耕しなさい」と勧めるメッセージ、時々聞きますが、この聖書箇所の趣旨ではないことを断らないと聖書の読み方をミスリードすると危惧します。
蒔いた種は結果として4種類の地に落ちたのであって、種(=みことば)のその後の成り行きはいろいろだということが書かれていることです。
そしてそこから学ぶべきことは、蒔く場所を選びなさいとか、耕してから蒔きなさいとかよりは、まず蒔く、種の成長は主の主権によるのだ、主は多く実を結ばせる良い地を用意しておられ、それによって福音(または御国)は前進していくのだ、というほうがふさわしいと思います。
2012/1/21(土) 午後 6:32 [ Luce ]
Luce様
すみません。昨日、うちの集会所を会場に、この記事の話者が最後に触れておられたブログ記事をお書きになっておられる水谷先生をお招きし、ANRCafeという帰国キリスト者の交流会をしていた関係で、お返事ができませんでした。本日まで私の我が家に宿泊中ですので、帰宅後コメントいたしますので、しばらくお待ちください。
2012/1/22(日) 午前 7:09 [ kaw*muk*ih ]
>一般的に、「学者・研究者」としての研究成果の発表の部分と、「教育者」と
>しての教えの部分が混在していると感じますね。
>「学者・研究者」が同業者に発表するときには参照情報を開示するのが慣わし
>ですが、「教師」が生徒に教える場合はそこまでしないですね。
とはいえ、参考にしたら、というような書籍は宿題をしたい場合にはあったほうがいいと思うのですがねぇ。高等学校でも、これはだれが言っている、とかいうくらいのことは行っていると思います。ただ、私どもでは、こういうお勉強風のものは嫌われる、という伝統にしたがっておられるのかもしれないなぁ、と思います。
2012/1/22(日) 午後 6:09 [ kaw*muk*ih ]
>諸集会の通説に対し検証・精査を試みるという姿勢がうかがえたことです。
>この部分は研究成果に分類されるので、語り手の結論に至るプロセスが
>「吟味」のために重要になると思います。
確かに。大幅にこれまでの枠を超えた、論理矛盾を起こしかねないSlippy Slopeというかトリッキーな解釈だったと思います。だからこそ、もう少し丁寧な説明がほしかったと思いました。ただ、一番最後のセッションを担当された方は、従来枠から外れていることとその意味に気づいておられないようでしたが。
>「御国はなぜ実現するのか」について「神の渇き」で説明されていました
>が、彼の最近の切り口が「神の渇き」なので、むしろこの切り口で、「御
>国はなぜ実現するのか」を語ったということになるかと思います。
なるほどー。
なるほど。
2012/1/22(日) 午後 6:13 [ kaw*muk*ih ]
>「黙示録の21章22章には神の花嫁としてのイスラエル、子羊の花嫁としての
>教会、すべての聖徒たちがいると書かれている」と語られましたが、新天新地の
>住人として、「神の花嫁、イスラエル」はどこに書かれているのでしょうかね?
そうですね。イスラエル中心だから、すべてはOK。という理解なのかも、と思いました。本当に、この部分、きちんと説明してほしかったなぁ、と思います。本当に。
>逆に、明示されていれば、教会だけだという説は出てこないわけで、この部分は
>説明を省かないでいただきたかったです。
激しく、同意いたします。ややこしいところを避けて通ったなぁ、その根拠は何、と聞きたくなりましたが、それ以上に、神の国理解の大転回をあっさりとやってのけたので、私はそっちの方に気を取られていましたけれども。
2012/1/22(日) 午後 6:23 [ kaw*muk*ih ]
>ヘブル的な読み方をするとそうなるのだと言われると反論のしようもないのです
>けど。
>だいすけさんのところのモリエルでは結論に至るステップ・方法を新設に説明し
>ていますが、ブレザレンでは結論だけしか言わないので、あたかも聖書に精通し
>ているような、霊的なような受け取られ方になるのではないでしょうか?
どこまで、ユダヤ背景をもつキリスト者の新約理解の普遍性があるのか、をぬきにして、彼らが言っているからこうだ、という論理展開は、伝聞情報でしかないので、再検証の可能性が著しく落ちるので、避けてほしいなぁ、と思いました。
2012/1/22(日) 午後 6:42 [ kaw*muk*ih ]
>あたかも聖書に精通しているような、霊的なような受け取られ方になる
>のではないでしょうか
意図的ではない、と信じたいのですが、そうなるだろうなぁ、と思います。集会の人々で、中間時代のユダヤ社会の研究をする人は、いないでしょうし、判断力がないと大変だなぁ、と思います。この方は、若い方々に影響力が大きいとお聞きしていたり、また、影響を受けている方を関東や中部地区で拝見したり、実際に、あの方がお話しされたことを受けて、従来の伝統の見直しが始まったり、ということことがあるようなので、本人の方の意図とは別の力学が動くことを懸念します。ご本人には、ほとんど責任がないこととはいえ。
2012/1/22(日) 午後 6:44 [ kaw*muk*ih ]
>世界の基の置かれる前から彼にあって選び(エペソ 1:4)
>の「彼にあって」を「キリストを」に言い換えてましたが、どう
>なんでしょうか?
> 私たちを選んだのではなくてキリストを選んだのだ、と言って
>いたことです。
そうですね。厳密な釈義の考え方にたてば、論理的飛躍といわれてもしかたがないかなぁ、と思います。話された方に好意的に解釈しなおせば、キリストと信徒が一体となる、と断ったうえで、と説明したうえで、この理解する観点からは、まぁ、そういう理解もあり得るだろう、ということとは思います。
>みことばに対して、説明なしに変更を加えた、と聞こえてしまいましたが。
確かにそう言われても仕方のない表現が、あちこちでありましたね。時間のなさが、ていねいさを失わせたのかなぁ、と思います。理由にならないとは思います。その意味で、盛り込みすぎ、という印象はいまだに残っています。
2012/1/22(日) 午後 6:56 [ kaw*muk*ih ]
>そしてそこから学ぶべきことは、蒔く場所を選びなさいとか、
>耕してから蒔きなさいとかよりは、まず蒔く、種の成長は主
>の主権によるのだ、主は多く実を結ばせる良い地を用意して
>おられ、それによって福音(または御国)は前進していくの
>だ、というほうがふさわしいと思います。
その通りだと思います。私どもの責任は、神の力、神の言葉に力があると確信してみ言葉をまくことだけですし、それを超えることは、神の領分を侵犯することになるのではないか、と危惧します。人間の判断で、あの人は荒れ地だからとか、道端だから、とか、耕さなければいけない、とかいうことがあるとすれば、負け惜しみ的な精神構造から生まれるとはいえ、キリスト者としての驕慢ではないか、と思います。ときどき、こういう残念な表現をお聞きすることがあるので。
Luceさま、本当に貴重なコメント、対論、ありがとうございました。私が見逃していたところを、ご指摘いただき、ありがとうございました。
2012/1/22(日) 午後 7:02 [ kaw*muk*ih ]