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うーん、これを読んでいくと、なんとなくF.F. Bruceが女性教役者を認めた背景が少しわからないでもないような気がした。確かに、初代教会では、女性が預言している。教役であるかどうかは別として、姉妹たちも祈っていたし予言をしていた、と考えるのが普通であろう。それは、聖書主義を掲げるキリスト者であるブラザレンの信徒であれば、だれしも認めるところでしょうし、それを認めないとすれば、聖書主義を否定することになるようにおもいます。
使徒の働き時代の初代キリスト教会で女性が預言していたのであれば、キリスト集会(あるいはブラザレン派)のキリスト者が初代キリスト教、とりわけ、使徒時代のキリスト教を理想である、と標榜するならば、その時代に起きたこと、その時代の方法を認めるべきなのだろう、それが筋というものだろう、というのが、おそらくBruceの発言の背後にあったのでは、と思う。彼は新約学者であり、今なお、彼の著作と論文という文献は、現代でもなお基礎文献として読まれていることから考えても、Bruceの研究に基づいた発言は、ある程度参考にされるべきものだと思う。
しかし、ブラザレン派の人々は、公的に行われたものではないとか、そういう賜物は女性には与えられない、とか、与えられなくなったとか、不安に思う人々がいるとか、悲しむ人がいるとかいう理由で勝手な読みこみというのか織り込みをその聖書理解に付加していくことで、聖書主義を標榜しつつも、解釈によりその聖書主義を捨てているとはいえないまでも、相当変質した聖書主義になっているように見えてしまう。こう書いている私にもそう見える。預言や癒しであっても、その存在は完全に否定できないし、否定すべきでもないように思う。これらの女性の役割や、預言や癒しの否定といったことなどを訳知り顔に書くことは、主の主、万軍の主、王の王とよばれる神(YHWH)の領域に自らを置くことになるのではないのか、と反省している。
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