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ブラザレンの持っている聖書に忠実だろうとするあり方は、悪いものとはいません。ルターもそうであろうとしたし、カルビンもそうあろうとしました。また、イギリスで言えば、ウェスレーもそうあろうとしました。すべてのクリスチャンがそうあろうとした、またそうあろうとしているという意味では、カトリックも、プロテスタントであろうと、すべてのクリスチャンが持つべきあり方ですし、また、それを求めてきたわけです。
ただ、聖書に忠実であろう、聖典である聖書に忠実であろう、それも純朴に、純粋に、というあり方は、下手をすると頑固なあり方となりかねません。聖書に忠実であろう、とするあまり、頑固さにつながり、それが自らの考え方が正しいというという意識につながる可能性があります。このあたりは人によりますが。
この結果、他者の受け入れ、他者の聖書理解の受け入れに支障をきたす人物が出てこないとも限りません。その意味で、この聖書に忠実であろうというのは、両刃の剣みたいなところがあります。忠実であろうとする対象が、微妙に信者一人一人違う、忠実であろうとするポイントが人によって微妙に違うので、建設的な対話ではなく、無意味な神学論争(正確には言い争いと自分の聖書知識の誇りあい)と言う形の結末をとることも少なくありません。個人的には論外と思いますが。
自らが正しいというあり方を追求したその結果、頭から他者の考えを否定する、という場面にごくまれにではありますが、時に出くわすことがあります。日本の場合、多少深刻なのは、人格と考えが分離しているという近代としての個のありかたが確立していないので、聖書理解が異なって議論というか、論争になった場合、全人格的な否定ということにつながりかねず、そうなった場合、悲惨な思いされる方が出てくる場合もまったくないわけではありません。
目指しているものが正しくても、出てくる結果が必ずしも正しいとは限らない、というのは、マキャベリの君主論に出てきたような気がしますが、これは、信仰生活においても、その点だけは見あまらないようにしないといけないと思います。教会とはいえ、罪ある人間が集まるところですから。こんなことを言うと、集会(教会)の方に怒られるかもしれませんが。
個人の考えとしては、教会(集会)の無謬性ということは、完全には主張できないように思います。すべての組織と個人は、無謬ではありえませんから。
自らのあり方を含めて、自己批判をする精神を失わないようにしないといけない。自分のあり方が誤っているかもしれない、という立場を忘れないようにしないといけない、そのための対話を忘れないようにしないといけない、とは思います。
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