ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

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Tim GrassのGathering to His Nameの中p.176からブラザレン文化に関する部分、The Emergence of Settled Patterns of Assembly Life and Worship(集会生活と礼拝のパターンの成立)の中のA Typical Sunday(典型的な日曜日)についての記載を紹介しながら、考えてみたいと思います。

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 しかしながら、少なからぬ信者が、福音集会を重視しないという苦情が割と早い時期から出ているようです。この福音集会に参加しないという苦情が出る背景には、外部からの参加者の一部がより低い社会階層に属する人であるがゆえに、参加しないという選択がとられたのかもしれません。社会の外部とのネットワークをより幅広く持つ信者たちは、日曜日に一回だけ参加する人々から受けるより広範な影響を考えたからなのかもしれません。


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こういう記述を見ていると、今では信じられないほどの社会的階層の分離が19世紀のイギリスにはあったようです。要するに低い社会階層の人々と事前以外で付き合うとなると、その人自身の社会的階層が下がったり、社会的信用に悪影響が出るということがあったようです。一応、身分の高い人たちが身分の低い人たちと交流するのは、慈善事業の一環であるとして理解されることが多いようです。まぁ、実際にはそうでなくてもですけれども。
 この辺は、シャーロックホームズのシリーズにも露骨に出ていますし、それ以外にも、ミス・ポッターという映画や、ジョニー・ディップ主演のネバー・ランドにも、その片鱗が出ています。

 そういえば、このあたりの違いについて、日本人の観察では、会田 雄次という作家の『アーロン収容所』で士官クラスと下士官以下のイギリス陸軍の中で、体格や行動パターン、しゃべる英語からして違っている、ということが記載されています。

 日本には、イギリス人は、ブリティッシュジェントルマンという印象がありますが、これが当てはまるのは、イギリスの大学卒(一応社会的にはエリートとされる)までで、そうでない人たちにそうであることを期待するのは、現在でも無理のようです。ちなみに、ジェントルマンは、正確には新興階級を示すことが多く、本物の貴族にジェントルマンだというと、表面上はにこにこして聞いていますが、彼らは内心でそういう発言をする人々を馬鹿にして、笑っていることが多いようです。日本型の民主主義や社会階層の構造とは少し違う国のようです。

また、オックスフォードとケンブリッジ(いわゆるオックスブリッジ)の出身者は、大卒の中でも使う英語が違うことで、同窓生かどうかがわかるという意味では、かなり特殊な意識が生まれるようです。

Tim GrassのGathering to His Nameの中p.176からブラザレン文化に関する部分、The Emergence of Settled Patterns of Assembly Life and Worship(集会生活と礼拝のパターンの成立)の中のA Typical Sunday(典型的な日曜日)についての記載を紹介しながら、考えてみたいと思います。

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聖餐式後の学び(Ministry)が持たれた集会は常に少数派であり、このような運営は、次第に他の集会に広まっていった。しかしながら、学びが、準備によるものか、その場で臨むべきものであるのかに関する見解の不一致が見られた。

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聖餐式の後、学び会や聖書研究会を持たない集会は北米では意外と多いようです。というのは、大抵、聖餐式が1時間から2時間続くため、午前中はすべてそれに費やされてしまうため、というのが一つの理由ではないか、と思います。また、このグループの聖餐式では、聖餐式自体が長時間にわたることもあり、聖餐式の中で、学びが語られる場合もあるからだと思います。2時間の聖餐式に1時間以上の聖書の学び、というのでは、さすがに厳しいのではないかと思います。

北米のキリスト集会では、午前中聖餐式 午後 自宅に戻って、他人を招いての交わりや休息 夕方7時くらいから福音集会というところが多いようです。割と近いところの人が多いので、自宅に戻って一息入れて、という感じのようです。日本の集会で多いと思われるのは、午前聖餐式、午後福音集会と詰めてしまうタイプのようです。遠方から信者が来る関係上、仕方がないと思うのですが、これだと、結構疲れる方も多いようです。最近は、隔週で、午後福音集会、というパターンもあるようですけれども。

聖餐式の途中に、聖書を読むことはもちろん、建徳の学びとか、聖書の解説(といっても5分から25分まで、いろいろあります)がもたれるというのがおそらく、聖餐式の後に学び会がない第2の理由でしょう。その意味で、非常に長い聖餐式が行われているところが多いようです。

特に、聖餐式の中で、建徳の学びとか聖書の信者向けの話が語られることもあり、それが、あまり長いものでないこともあるようです。その点で、準備をしなくても、聖霊に導かれて、語れるため、準備が必要はないのだ、というご意見をお持ちの方もおられるようです。

ただ、このことの背景には、このグループの多くの方が聖書の虫、見たいに聖書を詳しく読んでいる人が少なくないこと、初期のこの運動の関係者の指導者の中には、神学校での牧師としての正規教育を受けた人がいることが大きく影響しているのでは、と思います。

昔は、かなり、準備をしない方が多かったらしく、今はご逝去された伝道者の方は、「聖書の話をするのは、講壇にたってみりゃ、何とかなるんだから、あんまり心配しなさんな」とおっしゃってくださいましたが…。ちなみに、私はがっちり準備して話しています。パワーポイントのスライドを使いながら…。
UgoUgoさんから頂いたコメントについて、少し応答してみたいと思ったので、
追加の記事を書いてみようと思う。まともな応答になっているかどうかは、読
者の方(UgoUgoさんを含め)の判断にお任せしたい、と思います。

> >現在のキリスト集会(教会)に若い人々がいない。
> 育てませんからねぇ・・・
 
これはそうかもしれませんねぇ。となると、世代交代も進みようがなく、あとは、
信者の年齢の高齢化に伴い自然減が進んでいき、消滅するしかないのかも
しれませんねぇ。

> かろうじて残った人が、「集会の礼拝の仕方、運営の仕方」=集会の
> 教え=D主義=聖書ぐらいの認識しかないだろうし、しかも「集会の
> 礼拝の仕方、運営の仕方」で止まっている感もありますから・・・
> 「集会の教えは・・・」と言う言葉を聞いたことはあっても、「集会
> の教え」を聞いたことはないです。
 
聞いたことがないとは、ラッキーですね。まぁ、UgoUgo君がいる集会が
このあたりのことに気をつけていらっしゃるからかもしれませんし、時代が
変わってしまったところがあるのかもしれません
 
UgoUgoさんのいるところでは、あまりこの色が濃くないかもしれません
が、日本の非太平洋ベルト地帯(おもに、東海道新幹線・東北新幹線・上
越新幹線、山陽新幹線の沿線地域以外の地域)では、がらっと雰囲気が
変わるように思います。
 
なにせ、「集会の真理と行動」とは、とか「」といった文書が伝道出版
社からは出ておりますし。とくに「集会は"ブレズレン"か」は書店流
通させない、というちょっと変わった本です。まだ、入手しておりませ
んが。
 
> そりゃぁねぇ・・・昔ってどれくらい昔かわかりませんが、学生運動
> 華やかりし時の高校生・大学生なんて、ほとんど勉強していないって
> いうし。しかもそれをメッセージの時に自慢げに言われたりしたら、
> そんな人には悪いけど教えてもらいたくないわって思う。育てられた
> ことないのに、育てられるはずがありません。
私がいう昔は、聖武天皇などが御存命であったころではなく、、昭和
30年代ですから、10年ひと昔、とすると、5昔くらい前ですから、
UgoUgoさんには大昔でしょう。我が息子に言わせると、めっちゃ昭和
といわれてしまいます。
 
> 優秀な若い人は失望して去るか、東京じゃ他に生き場のない僕み
> たいな人が奇跡的に残るかしかないでしょって思っちゃいます。
 
あと、もう一つのブログでしているネタでいけば、神様と化した
親の目が怖くて、親との人間関係のために抜けられない私のよう
な車幅感覚ならぬ社会感覚のない人間かでしょう。社会感覚がな
くて、残念!(ハタヨーク風に)

> ところで、D主義や集会をカルトだ位の勢いでおっしゃって危険
> 視する方がおられますが、私が所属する集会ではD主義や終末論
> なんざ、まともに語れる人は、つい最近までほとんどいなかった
> し学びでも殆ど聞きませんでした。
 
だからこそ、まずいんだと思いますよ。ただ、「あの人は信仰的で
ない」とか「悪魔の手に落ちた」「信仰の破船にあった」という
神様目線の表現が頻発するほうが、私にすればもっと怖いです。
D主義は、恐怖で人間を縛るという点で、DVなどと同じ構造ですし。
1970年代の終末論のテープいま、MPEG3にしながら、聞いているの
ですが、批判的にみれば、まぁ、トンデモ発言オンパレードかな、
と思います。

実は、古い信者の娘さんから、預かったので、この際MPEG3にして、
著作権の切れたものから、集会の音声ファイルのアーカイブとし
て公開しようかなぁ、と思っています。
そのテープにねぇ、石濱さんたら、「途中からつまらん」とか
書いてあるんですよ。本当に石濱さんたら、とおもいました。
 

> なのに危険性が云々、本当の福音が云々といわれもねぇ・・・
 
内向き目線と内向きの論理のみの世界は、論理破たんを起こして
いても気がつかないのです。オウム神仙の会だったころの方々や
あるは、上九一色村のサティアンに立てこもったころのオウム
真理教の皆さんは、幸せだっとは思いますが、社会的な感覚が
薄れていたと思います。内向きの論理の怖さがここにあります。
学生運動の内ゲバも同じです。本人は大まじめだけど、社会的に
はおかしな行動になるのです。だからといって、グローバル
スタンダードと自称する論理のみが支配する世界を良しとはしま
せんが。

> 大阪の方には、おかしな事を言いだして離れて行った方もいる
> ようですが、彼=D主義じゃあるまいし。
 
彼の場合も、修正D主義ですから、基本、累計上はD主義という
大きな集合体の一要素ではあります。個人的には、やな感じー
を関西の信者さんの会話のはじはじに感じているので、やな
感じーと思っております。
 
> A集会が色々問題あったからって、A集会=全集会=D主義でもあるまいし。
 
実態は、予言理解だけでなく多くの聖書理解に関して、実は人に
よって微妙に理解が違っていて、集会の統一見解とはなっていま
せんし、群雄割拠状態を良しとする私ども外部からはブラザレン
(あくまで外が分類上呼ぶ名前)と呼ばれる信仰者群では、統一
見解など出ようがありません。しかし、ある特定の人物があちこ
ちで講演し始めてそれが聖書からの解説であるという定説のよ
うになってしまったのが、U野さんだったようです。山Mさんは、
本当に恐怖の大王=イエス・キリスト説をお話しされたと思います。

> D主義を理解していない上に、万人祭司=万人長老くらいの
> 理解の人たちが、みな教師になりたがって分裂してきただけ
> なんじゃないでしょうか。
 
この指摘は半分正しいとおもいます。前に立って話すと偉い、
と思える、その単純さは、かわいらしくを超えて、いとおしくさえ
感じます。評価の基準があまりにも質素。質素は質素で
結構なんですけれども。

教師になろうとしたことが問題ではなく、自分の考えが
正しいと思うがゆえに、他者の違う理解を受け入れられ
なかった狭隘な精神ゆえに分裂しただけだと、私は思い
ます。(大和里の小嶋さんのいう「またかー!」の構造
です。)

> え?そんなに簡単じゃない?
 
要は、意見の違う他者とのコミュニケーション能力
の欠如、ってやつだと思います。非常に単純な話だ
と思います。
 
> でも、そんなにD主義が嫌いで問題なら、集会相手に
> するよりもっと力強く大々的にあらゆるメディアを使
> ってそれに基いたメッセージを広めているところがあ
> るから、そこを相手にした方がいいと思いますが・・・
 
個人的には、D主義は嫌いでもありませんし、好きでも
ありません。それを唱える方も同様です。ただ、変形
D主義の影響をまともに食らった、被害者の方がおか
わいそうでねぇ。なかには、学校(大学)に行くのをや
めると言い出した方がいたり、個人の生活設計くるっ
た人はいっぱいいたと思います。老後の問題を含めて。
 
ある関西以西の集会の古い信者さんが、「昔はねぇ、
良かれと思って、集会が本当の意味での神様が求めて
おられる信仰者グループの姿あり方だ、と思って、ほか
の教会の信者さんを誘ってきて、出るように説得してき
たけど、今になって思うとねぇ、もともといた教会にいれ
ば、教会がしている老人ホームで幸せに暮せたかもし
れないのにねぇ。自分たちのしたことが他の人に影響
を与えると思うと、なんともいえない気持ちになる」とお
っしゃっておられた、という話を
聞いたときに、私は複雑な思いを持ちました。この
話をされた方は、古い信者さんのお世話をしている
熱心な方だけに、複雑な気持ちになりました。
D主義をぶっ潰したところで、また別のE主義やF主義
やら、G主義やらいろんな考え方が出てだけなのでね
ぇ。人の人生を狂わすような考え方には、やな感じ
ーと思って、観察はすれど近寄らず、を保ちたいと
私は思っています。

> その学びを聞いて目からうろこという兄弟姉妹が
> たくさんおりますからねぇ。危険ですよ〜。怖い
> ですよ〜(笑)
 
抵抗力がないというのか、まさしく神智主義がはや
った、聖書に出てくるパウロが手紙を書いたどこか
の教会みたいですね。教えの風に吹き惑わされる
ことなく、聖書のテキスト、全体を見渡しながら、
単に読むだけではなく深くお考えいただけたら、
と思ってしまうのです。
 
書く気になるコメントありがとうございました。
 
それでは。応答したい、と言いながら、自分の言い
たいことだけをここでもまた、言ってしまった。
ははは。笑ってごまかしておこう。
 
私がこのブログでくどくどと、ハープで同じ曲を弾くようにつまらない記事を載せているのは、ブラザレン運動の原点、キリスト集会の出発点とその精神性がどのようなものであるかを、だれも語ってくれなかったので、英文の参考文献と辞書を片手に、調べることにしました。そしてこれまでの人生の中で出会ってきた体験をもとに、自分自身の信仰とは、どのようなものでありたいのか、を考えるためです。この作業が、読者となっていただいた方にとって、多少の参考になったら、という思いからなのですねぇ。

どのような教派、キリスト者共同体であれ、歴史的経緯の中で、その運動固有のスタイルというものができていくのは仕方のないことであると、私は思います。そうであるからこそ、他のキリスト者共同体から、我々と違う、ということで、ラベルが付与されていくのだとおもいます。その意味で、歴史的経緯の中で、ブラザレン運動と他のキリスト者共同体から呼ばれるキリスト者共同体が身につけてきた精神性や行動指針、行動原理について、それがどのように形成されていったのかを海外文献を中心に探していくことは個人的に重要ではないかと思います。その上で、他の動きや文化的潮流、時代背景を合わせて、参照的に考えていくことで、自分たち自身の信仰のありようを、客観的に見直してみること(批判的になりすぎず)を考えていきたいと、私は思います。

このブログは、このブログの冒頭に書いてある通り、ブラザレン運動関係者の皆さんを誹謗中傷するつもりは毛頭ありません。それをすれば、ブラザレン運動の関係者と個人的に思っている自分自身を傷つけることにもなりますから。まぁ、キリスト集会の方々からは、当然、「変な奴がほえているだけ」と思われているでしょうが、それはそれでよいではないか、と思っています。

最後に、今年亡くなられた沖見さんというかたの懸念をお話ししておきたいと思います。沖見さんとおっしゃる方から個人的にお伺いした、その方の懸念は、現在のキリスト集会(教会)に若い人々がいない、ということでした。昔の諸集会と自称するキリスト者共同体には、大学生、高校生だらけだったのに、今は、ほとんどそういう年代層の方がいない、ということについての懸念でした。もし、皆さんが属しておられる教会の30年前、あるいは20年前の写真をご覧ください。いま、長老や責任者の方々の若い時の姿とともに、それらの方々の同世代の方々も、たくさん写真に写っているはずです。それらの方々がどこに行かれたのか、ということを考えることは意味のないことなのでしょうか。もちろん、地方部のキリスト集会からは、都会のキリスト集会に多くの信者が紹介状とともに、移動していきました。確かに、地方部の若年層は少ないです。それが、原因でしょうか。地方部でもロックコンサートなどに、若い人々が集まるのは、なぜでしょうか。そこに何があるのか、ということを考える視線は、罪なのかもしれませんねぇ。

今のキリスト集会の写真をご覧ください。どんな方々が写真に写っている方々の中で多いでしょうか。もちろん、すべての年代のキリスト者を満足させる教会は存在しえません。しかし、もし、若い人々が集会に残らないとしたら、その集会は、消えていくのです。私は、私が滞在したロスアンゼルス北郊外の南カリフォルニアでそのことを思い知らされました。4つくらいあった集会が、信徒の高齢化に伴い、結果として閉鎖されていったという事実です。もちろん、サンフランシスコの南郊外には、数多くの集会が元気で奉仕しているところもあります。これらは神の御心の結果なのでしょう。神の御業の結果なのだと思います。閉鎖した教会が霊的に劣っていた、とか、失敗であったとは私は思いません。神のご計画の一環として、キリスト集会というキリスト者共同体が、ある地域における一つの時代での果たすべき役割を終えた、ということなのだろうと思っています(将来、このことを考え直すかもしれませんが)。だとすれば、我々は、キリストの体の一部をなすものとして、それがどのようなものであるのか、どのように考えていくべきなのか、ということをもう少し考えていった方がよいのでは、と思います。

公共交通機関がなければ、そもそも通えないキリスト集会とは何か、2時間自動車を運転して初めて通うことができるキリスト集会とは何か、ガソリンが無くなって通えなくなるキリスト集会とは何か、計画停電で電車が走らなくなり、結果として通えなくなる可能性があるキリスト集会とは何か、高齢になった時、高齢のゆえに通えなくなるキリスト集会とは何か、そんなことを考える必要はそもそもなく、無理をしても、万難を排しても、キリスト集会に通う信仰が称揚される程の信仰をもつことが本当は大事なのかもしれません。そもそも、阪神大震災の被災地の端っこにいて、もう一方の被災地の端っこにあるキリスト集会に無理して通うのがどうかと思ったことを、今回の福島原発のこと、東北の津波のことで被害をお受けになられ、集まることすら困難だった東北の他のキリスト者共同体の皆さんのこと、そして、年齢を重ね、キリスト集会を自称するキリスト者共同体に来ることができなくて、申し訳なさそうにしておられる信者の方を見ることが増えるたびに、私たちは何をしようとしてきたのか、私は何をしようとしているのか、と自問自答しているのでしょう。

この精神的なあるいは霊的な旅は、まだまだ続きます。私が地上での生命を終えるときまで続くでしょう。今まで、時折であれ、この旅を私と一緒に続けて下さってきた方には、心から感謝しています。何より、このひねくれ者の私を愛して共に歩んでくださるナザレのイエスという方に。

随分まえになりますが、信者でない方を中心としたお話しの機会に、罪について話したときに、私は、Fanny Crosbyという方のBlessed assurance, Jesus is mine. Oh, what a foretaste of glory divine(日本語では、つみとがをゆるされ と訳された讃美歌)を最後に英文を直接触れながら、解説して、罪がない状態とは、Jesus is mine!と主張できることなのだ、とお話ししました。まさしく、ugougoさんのたとえで言う、宇宙刑事ギャバンの蒸着状態とでもいいましょうか。そう、私もJesus is mine!だと思うと、Fanny Crosbyに激しく同意したいと思います。

私の書きなぐるものにお疲れになった方は、どうぞご無理をなさいませんように。読んだところで、大して益となるものではないでしょうから。今後とも、お付き合いいただける方には、よろしくお願い申し上げる次第でございます。また、私が面白い記事と思った記事など、見つけましたら、ご紹介したいと思います。


Tim GrassのGathering to His Nameの中p.176からブラザレン文化に関する部分、The Emergence of Settled Patterns of Assembly Life and Worship(集会生活と礼拝のパターンの成立)の中のA Typical Sunday(典型的な日曜日)についての記載を紹介しながら、考えてみたいと思います。

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ブラザレン派の日曜日のプログラムにおける第二の弱点は、ルールの必要性に関する注意の広範な欠如である。このことから、非常に多くの信者にとって有益でない『祝福を受けた考え』が述べられたり、一人の人がその集会の支配的な影響力を持つ人物となりかねないことであった。ブラザレン派の日曜日のプログラムにおける第3の弱点は、ぎちぎちに固定化したようなパターン化であり、どのような奉仕を実施するかの詳細についての議論から、集会の分裂につながることがあった。

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確かに、誰でもが学べるということは、日曜日での話の内容が必ずしも有益でないものがあるということにもなりかねません。また、このブラザレンはと呼ばれるキリスト者グループが非常に伝道に熱心だったこともあり、伝道するのがキリスト者のすべての氏名と誤解された方も出たようです。その結果、十分に聖書を体系的に学ばないまま、語る人たちが出てくる場合もあります。信じて、すぐ福音を語ることもよいとされた時期もありました。このような時代の、いや、今もかも知れませんが、私の話を聞く羽目になった犠牲者の方には、深く御礼とお詫びを申し上げたいと思います。私自身の経験からで申し訳ないのですが、少なくとも私に関しては、今から反省してみれば、自分自身で十分に聖書を読みこなさないまま、あるいは深く考えないまま、福音を語ったり、学びを語ったりということにもなったわけです。ある面でいうと、どこかで聞いた話の劣悪なコピーで、非常にいい加減な内容のものも時にある場合がありました。本当にそんな話を聞く羽目になった方には、申し訳ないと思っております。

キリスト集会の中での特定の人物の影響が極めて大きくなる、ということに関しては、結構この種の問題はあるように思います。特に、開拓伝道として始まった教会(集会)の場合で、一人の男性信徒ではじめられたような場合、どうしてもその集会を始めた人の存在や考えが、繰り返し繰り返し語られる中で、知らず知らず信者の中に定着し、その集会(教会)の雰囲気や方向性を決定的に決めてしまうことがあるようです。

あと、聖餐式のパターン化については、どうしても人間、前例踏襲主義になりやすく、さらに、そのような行動を始めたときには、始めた人はそのように始めた方法論についても、一定の聖書解釈に立って実施していると考える傾向があるため、どうしても、パターン化が起きやすいようです。パターンから脱出させることも、実は重要なのですが、パターンからでるということは、従来のあり方を変えるということであり、それが、従来の聖書理解の否定と受け取られることにもなりかねません。こうなると、パターンの変更は、単に具体的な行為についての方法論の対立ではなく、聖書理解の対立となってしまい、そうなった場合、集会の分裂となってしまうようです。

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