ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

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Facebook上で、非常に面白い文書を見つけ、日本語に翻訳 or 和訳 or 日本語変換したいと思い、試しに日本語で読めるようにしました。かなり雑な翻訳の続編です。今日は、第6章です。前回から手紙の本文の続きです。内容としては、かなり厳しい表現となっていますが、ある面の事実を示していると思います。
なお、次の記事で、英文も載せておきます。【】で囲った部分は、変換者の意見です。

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被り物のことを例にとって考えみましょう。このことはあなたが話されたことのポイントの一つであったように思います。あなたの言われていることは正しいとおもいます。被り物のことは、聖書の時代のときと同様に明白です。かぶり物自体は第1コリント11章の中の事実そのものなのでしょうか。確かに、被り物は、真実の象徴【神に対する恐れというのか、権威を認める行為】ではあります。しかし、そうだとしても、ここでも、我々は、馬車を馬の前においている状態となっています。被り物をもっとも尊いもの【被り物をかぶるかどうかに焦点があり、本当に神を敬っているかどうかはその次になっているということをこの手紙を書いた女性は言いたいようです】としているようです。あえて私は言わせていただくが、聖なる儀式【被り物をかぶったり、取ったりと忙しい場合もあると思います。】の一つとなっているのではないでしょうか。被り物が教えられる背景にある真の真理は、キリストがかしらであることと、最高の主であることでしょう。そして、真実、主であることが明白に教えられているのであり、被り物が用いられる前に理解されていないかぎり、人々は、なぜ被り物をするのかを理解しないでしょうし、そのこと【被り物をする神に対する敬虔】に価値を置かないことももちろんですが、さらに、そのことを本心から重要と思わないでしょう。


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個人的には、被り物に関しては、かなり文化的な影響があるかなぁ、と思います。18世紀の初期の時代を見ていると、ボンネット(といってもミレーの落ち穂拾いに出てくるような髪の後ろ側を覆うような婦人用帽子)型の帽子が多く、被り物は少数派です。時代がさがってくると、つばの広い帽子になってきます。日本のようにベールをかぶる習慣なのか、帽子をかぶる習慣なのかに関しては地域差があるように思います。ただ、日本で、帽子をかぶって集会に出席していると、びっくりした視線で見られるかもしれません。日本では、帽子をかぶる姉妹、というのは、1970年以降では、おられませんでしたねぇ。
その昔は、皆さん和服ですから、和服につばひろ帽というのは滑稽だからこそ、レースの被り物だったんでしょうね。

経験の象徴という意味での帽子、ということを考えたとき、ユダヤ人のシナゴーグに訪れたときにも帽子を敬虔の象徴としてかぶりましたが(丸い小さな平たい帽子)、こういうことを考えると、形式なのか、周囲への同調なのか、習慣に合わせているだけなのか、それとも敬虔なのかは、外見だけからは判断できないので、どうしても目で見てわかる形が議論されがちです。これを避けるためには、ときどき、何故、神への恐れや神への敬虔が重要なのか、という視点からの理解に立ち返ってそれぞれが考えることが重要なのかもしれません。

 
Facebookにのっていた、集会の問題点を指摘した北米の集会の姉妹からその集会で学んだ人に対する手紙の本文の続きです。

6. WE ARE MISSING THE BOAT - LOVE FOR CHRIST
So what then causes this discouragement among young people? We hear it week in week out, obey, obey, obey. If you're not obeying, you're in the wrong, etc. I don't argue that obedience to Christ is essential, but this pounding approach of “obey or die” drives people away, and doesn’t take into consideration the motive for obeying, which is love for Christ. Being constantly bombarded from the platform about the pattern, the pattern, the pattern, obedience, submit, submit, leaves little to refresh the soul. If you look around you, there really aren't many, if any at all, who are rebelling against the pattern. We get it already! But there are so many of us who have burdens in our lives, and hands that hang down, who feel we are just getting beaten into the ground by repetitious preaching that focuses so much on the rules, but not the reason behind them.
 
Facebook上で、非常に面白い文書を見つけ、日本語に翻訳 or 和訳 or 日本語変換したいと思い、試しに日本語で読めるようにしました。かなり雑な翻訳の続編です。今日は、第6章です。前回から手紙の本文の続きです。内容としては、かなり厳しい表現となっていますが、ある面の事実を示していると思います。
なお、次の記事で、英文も載せておきます。【】で囲った部分は、変換者の意見です。

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6. WE ARE MISSING THE BOAT - LOVE FOR CHRIST

では、なぜ若い人々が失望してしまうのでしょうか。私たちは、毎週のように、「従え、従え、従え」と聞かされています。「従わないなら、あなたは間違っている」などといわれるのです。キリストに従うことが基本であることを議論しようとは思いませんが、「従うか、死か」【というよりは、真理か永遠の死かといった二項対立の概念の提示】といったような強い主張をぶつけるような方法は、人々を遠ざけるし、キリストの愛ゆえに従うという意思について考えにいれてはいないのではないでしょう。講壇からこの種の形、形、形、従順、従うこと、従うことと、ずっと絨毯爆撃のように攻撃され続けるため、霊をリフレッシュさせることがほとんどできないのではないでしょうか。あなたの周りをご覧になられたときに、パターンに対して反発する人々は多くないでしょうか。多くないとすれば、私たちは、パターンの中にはまり込んでいる【そして抜けられない】のではないでしょうか。我々の多くの人々は、人生における重荷があり、手にはたくさんのものがぶら下がっています。我々は、ルールに焦点を当てたこのようなくどくどしい教えによって、地面に撃墜されてしまうかのようではないでしょうか。【うわぁ、強烈】しかし、その【ルールの】背景については教えられているでしょうか。【Excellent Questionだと私は、思います】
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もちろん、キリストに従うことは、キリストの弟子である以上、当然と言えますが、ここでの問題は、キリストに従うことといった内容としての理解についての多様性の問題ではないか、とも思います。つまり、キリストに従うことの内容そのものをどう考えるか、ということです。もう少し言うならば、聖書理解に従う、と言うことが指す、聖書理解の具体的内容についての問題だろうと思います。そして、その聖書理解が聖書を個人的深く読んでえら得た信仰上の信念や確信なのか、それとも、どこかで誰かが学んだ聖書理解による信念や確信なのか、あるいは、長老やその教会(集会)の指導者が保有する聖書理解なのか、ということだろうと思います。ここでは筆者はそのことを明確に言及していませんが。
 本来、聖書解釈には幅があるはずですし、聖書解釈の詳細な部分やその適用に関しては、かなりの多様性というか幅があるはずだと思うのです。「従え」という言葉を聞く時、何に従うか、という従う内容に関する聖書理解は、聖書の全体から、その解釈に妥当性があるものだろうか、ということを十分に考えた方がよいとは、私は思うのです。ある時代のある環境下で生み出された可能性のある聖書理解にとらわれ、その中に囲い込まれる危険性が、あるように思うのです。
ところで、ある教会(集会)では、無意識化に形ができてしまう場合があります。例えば、礼拝で祈る順番(たとえば、最後は長老が祈るとか、最初は長老が祈るとかの順番)、聖書の言葉を読むときは、パンが回った後であるとか、讃美歌を選ぶ際に、パンの前には、このような讃美歌をうたうべきとか。まぁ、パン裂きは十字架の苦難を覚えるという側面がるので、復活を喜ぶ明るい曲調の歌は似合いにくいというのはあったりはします。それ以外にも、暗黙のルールやこういったことを発言することは望ましくないとか、結構暗黙のルールといっていいものが出来上がっている場合があります。最初に来られた方、特に他の教会(集会)から移籍された方々は、最初しばらくじっと様子を見て、その暗黙のルールを見た方がよい場合があるということがあるようです。集会には規則(宗教法人格として備えるべき明文化された既定)がない、と主張されることが多いのですが、実際には、行動に関する様々な暗黙のルールがあって、それにぶつかったとき、外部の方は、行っていることとしていることが違う、という印象をもつようです。その集会の中での生活時間が短い際に、気楽に発言すると、気まずい思いをすることもあるようです。実際にどのようなことになるかは、集会ごとや責任者の考えによってかなり異なるので、実は一概に何ともいいにくい、という部分があります。
Facebookにのっていた、集会の問題点を指摘した北米の集会の姉妹からその集会で学んだ人に対する手紙の本文の続きです。

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Recently I spoke with a friend who said she would be willing to compromise all the truths of the breaking of bread every Lord's day and head covering, etc, for just a little bit of encouragement and upbuilding elsewhere. Wow! What would drive someone to say or consider such a thing? Something must be lacking, and we can’t just cop out and say all the fault lies with the one who leaves. And yet the popular consensus is that whoever thinks of leaving or leaves is entirely at fault and being disobedient. Ok, so they have left the assembly and are now going somewhere that doesn’t uphold all the truths of Scripture, but I am telling you, people do not leave assemblies because of doctrinal reasons. Most who leave hope they can find a place that practices the same things. The reason most people leave is due to discouragement in their faith and a lack of care.
Facebook上で、非常に面白い文書を見つけ、日本語に翻訳 or 和訳 or 日本語変換したいと思い、試しに日本語で読めるようにしました。かなり雑な翻訳の続編です。前回から手紙の本文の続きです。内容としては、かなり厳しい表現となっていますが、ある面の事実を示していると思います。

なお、次の記事で、英文も載せておきます。

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最近、私は、ある友人と話しましたが、彼女が言うには、彼女は、毎週パンを裂くことや、被り物をかぶることといったことをあきらめ、もうちょっと励ましをくれて、成長させてくれる別の場所に行くことを考えているといっていました。何ということでしょう。何が、そんなことを考えさせたり、言わせたりするのでしょう。何かが抜け落ちているのであって、去っていく人々の中に問題のすべてあるという態度をとったり、失われていくままにすることをしてよいのでしょうか。ほかの良くみられる状況として、去っていく人々や去ろうとする人々は完全に間違っているという意見をお持ちになるかもしれません。もちろんそうかもしれません。だから、彼らは集会を去ったし、今去ろうとしている人々は聖書の真理を堅持していないのかもしれませんが、私が思うには、集会を離れるのは、【聖書に関する】教理上の問題ではありません。離れる人々の多くは、同じことができる【教理を守ることができる】場所を求めているのです。彼らが離れるのは、信仰生活における失望と、【個人への】関心の不足なのです。


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キリスト者としての成長とは何か、ということを考えると、単なる聖書知識の成長だけではなく、キリスト者として社会の中で、生きるときに、神とどのように向き合うか、ということであったり、神と共に生きる生活をより豊かにするということはどういうことか、ということかもしれません。それは人それぞれ違うでしょうが。

フランクに生き方を語る場であったり、聖書の理解を語る場であったり、さまざまな人々と共に生きる中で、豊かに生きている、ということについては、あまり学ばれることは少ないかもしれませんねぇ。意外と、こういう部分が本当は大切なの子かもしれません。

この手紙の著者の方がご指摘になっておられるように、集会から去っていく人々について、それらの人に責任がすべてある、という私たちは態度をとりがちかもしれませんが、私たちのうちの問題とは何か、という自己反省的な視点が欠けているのか、という視点で見直してみることも大切なのかもしれません。




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