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Facebook上で、非常に面白い文書を見つけ、日本語に翻訳 or 和訳 or 日本語変換したいと思い、試しに日本語で読めるようにしました。かなり雑な翻訳の続編です。前回から手紙の本文の続きです。内容としては、かなり厳しい表現となっていますが、ある面の事実を示していると思います。
なお、次の記事で、英文も載せておきます。なお、【・・・】の部分は、この文書の変換者の補注です。 ------------------------------------------------------------------------------- 日曜日に、被り物なしに集会に入り、座ったとしましょう。何が起こると思われますか。そう、多くの人々は、次第に不安になり、落ち着かなくなり、10分かそこら帽子をかぶっていないだけで、誰かから注意され、それでも帽子をかぶらないなら、譴責されることになるでしょう。それも良いでしょう。その譴責は当然予測されることです。聖書の中に『真実』【第1コリント11章のパウロの言及を指していると思います】が書かれているとおりです、まさに、私を十字架につけよ、という状態です。その後、2年間まったく聖書も読まず、祈りもせずに、それでも、私がスカートをはき【うーん、この手紙を書かれた方の集会では、パンツスタイルは、服装倒錯とみなされるのでしょうか】、帽子をかぶり、化粧もせず、当たり障りのないことを言う形で集会に出入りしたとしましょう。そのことに気づいたり、そのことを問題視する人はいるでしょうか。おそらくいないでしょう。なぜですか。誰も、聞くほど気にかけてもいないし、励ますために来てもくれないからです。 正直言って、集会の人のことを良く知らなかったとしたら、私は、人々は、私の歩みについてあまり気にかけていないと思うでしょうし、主の恵みによって成長しているかどうかを気にかけていないとすぐに思い込んでしまうでしょう。実際、私の頭に帽子を載せている時間が長ければ長いほど、人々は、私が被り物をかぶることの真理を理解しているかどうかを気にかけなくなり、帽子をかぶることは、救い主を愛するがゆえにするという動機を持っていることに関して、気にしなくなるのではないでしょうか。私たちがそのことにきちんと直面しているかどうかにかかわらず、集会では、内面より外見部分に重きが置かれるのです。あなたがある女性のことを信用していなければ、ある女性が女性として集会にスラックスで登場したときに、何が起きたのか、と聞かれることになるでしょう。人々は彼女とめったに話さなくなり、彼女を励まさなくなり、一方で脱いだものを裂き、もう一方で切り刻むでしょう。(このようなこと【集会にスラックスをはいてきた、ということをさすものとおもわれます】をした彼女の行動を容認しようとしているのではなく、例として用いているだけです。) ------------------------------------------------------------------------------- ここまで来ると、言いすぎ、という気もしますが、しかし、服装コードを外した時の集会の人たちの反応を非常にビビッドに書いていると思います。特に、信者だ、といっても自分たちと少し違う恰好をしているだけで、非常に疑問視されるその姿を描いていると思います。 この事例と類似のことを、私たちは、15年ほど前にワシントン州で、体験しました。家内は、日本での習慣と同様に被り物として、レースのベールを持参したのですが、それが問題視されました。そこの集会では、帽子だったようで、帽子をかぶっていないことが問題視されたのです。とりあえず、同席してくださった信者さんが、解説してくださって、とりあえずその場での問題は回避されたのですが、結局、それらしい帽子を急いでデパートまで買いに走りました。 私自身は、スーツを着て行っていなかったので、それが問題視されました。アメリカでスーツを買おうと思ったのですが、なかなか合わなくて、結局、父親の手術の立ち会いのために、急きょ帰国した時にスーツ(夏用と冬用)をもって帰ってしのいだのでした。 しかし、その教会に8カ月ほどおりましたが、その8ヶ月間、毎週のように出エジプト記の学びをしておられましたが、わずか8章程しか進まなかったです。まさしく、幕屋について、細かな学びを聞かせていただきましたが、なるほど、このような精神性なのか、ということ体験的によくわかりました。実は、このブログの出発点や私自身が自分たちの姿を相対化する出発点は、実はこのあたりにあったりします。 |
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前回の英文の続きです。
---------------------------------------------------------------- 4. LEGALISM ANDPHARISEEISM Inevery generation, it is young people who have been the ones to question theways of the previous generation. That just seems to be the natural way ofhumanity! I have no doubt my children will grow up and question how I dothings too. Young people are idealists, and are quick to find theflaws, malfunctions, and falseness in older ones. The flip side is thatthe older generations are quick to dismiss, underestimate, and begrudgethe younger generation for what would seem to be a shallowspirituality, rebellion, etc. Let me be forthright and describe for youwhat we young people see in the assemblies today and, I guess in a way, inmuch of the older generation which constitute the majority ofassemblies today. (What I say next does not pertain to all, but most.There are always exceptions to every rule. But the following is what wesee as a general rule.) We see PHARISEEISM and LEGALISM at its finest.We see people who are circumcised in the flesh but not in the spirit orheart. Let me explain. We see people who are more concerned about therules; that we wear the right cloths - a suit on Sunday, etc; don'twear make up; don't have earrings; be at all the meetings (or they areconvinced you are backsliding and make you feel awful about it); don't dothis, do that; stay in step or off with your head, etc. We don’t seepeople who truly care whether we are walking with the Lord, enjoying HisWord and growing in grace, or if we are struggling with something in ourlives. In the light of eternity, does it really matter two hoots if awoman wears earrings or not, or is it more important that she is thrivingin her walk with the Lord? Pharisees were known to place burdens on thepeople that were too heavy to bear. We young people find the same thing inthe assemblies. Most young people who have left or just choose not to come intofellowship describe assemblies as stifling. We talk about liberty in theSpirit, but then why is it almost suffocating at times? I am going to giveyou an example of how the assemblies have become like the pharisees, to whomthe external was EVERYTHING but the internal was completely under-valuesand even side-lined. |
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Facebook上で、非常に面白い文書を見つけ、日本語に翻訳 or 和訳 or 日本語変換したいと思い、試しに日本語で読めるようにしました。かなり雑な翻訳の続編です。前回から手紙の本文の続きです。内容としては、かなり厳しい表現となっていますが、ある面の事実を示していると思います。 なお、次の記事で、英文も載せておきます。なお、【・・・】の部分は、この文書の変換者の補注です。 4. 律法主義とパリサイ主義 どの世代であっても、若い人々は、その前の世代からは、ちょっと変な目で見られてきました。これは、人間世界では自然なことだとおもいます。私たちの子供が育ったとき、私自身は、同じような疑問を持つとはおもいます。若い人々は、理想主義的で、年長の人々についての欠点を見つけるのや、不具合や、誤りを見つけるのが早いのです。それとは逆に、年長の世代は、若い世代のことを、時に忘れることがあり、若い世代を過小評価しがちです。そして、若い人々が、霊的に浅く、反抗的であることを嫌がる傾向が強いのです。若い人たちが集会のことをどのように見ているかを直裁に表現してみたいと思います【以下はやや直截すぎるきらいがあるように思います】。ある点では、推測が混じっていると思いますが、集会の今日の主要な部分を占めている年長者のことをどう思っているのかを、直裁に表現してみます。次に言おうとしていることは、すべての集会に当てはまらないものの、多くの集会の実態に当てはまると思います。どのような法則にも、例外というものはあるのものだからです。以下のことは一般的な傾向として確認することができるのではないでしょうか。我々とは、パリサイ主義と律法主義が最もきわまったところではないでしょうか【うーん、よその教会の人から、以前このようなご意見をたまわった方がおられましたし、私も米国で福音自由教会にお邪魔した時に自分はブラザレンだ、といったときにある教会の方から、あぁ、あのパリサイ人のような教会ね、と言われたことがございます。それを自分の属するキリスト者集団に向けるとは、いやぁ、私にはできないことですねぇ。とはいえ、このメールを書いた方も、どこかでパリサイ派のようだ、と言われたのかもしれません】。われわれはほかの人々を肉において割礼を受けているもの【キリストを信じる信者である、と自称している、形式化した信仰生活である、というくらいの意味でしょうか。ここでの議論は、ローマ2章25節の表現を受けたものと思われます】の、霊や心において受けていないもの【ブラザレン派は、聖霊の働きを重視するので、自分たちには聖霊がおられる信者であるとみている、ということのこのメールを書いた方の見解の反映だと思います。】と見ています。 このことをもう少し説明しましょう。われわれは、だれが規則を順守しているかどうかで、人々を見ています。適切な服を着ているかどうか(日曜日にはスーツを着ているかどうか)、化粧をしていないか、イアリングをしているかどうか【日本でも、イヤリングはNGのようですね。ピアス?もちろん論外、の扱いだと思います】、すべての集会に出席しているかどうか、(あるいは、参加していないと後戻りをしていると思い、あなたはつらく感じることになるでしょう)これをしてはならない。これをしなさい、あなたの頭の中にあることから離れなさい、あるいはそれをしなさい、等々です。人々を神とともに歩んでいるかどうかや、神の言葉を慶びながら受け取っているかどうかや、恵みにおいての成長、あるいは日常生活での困難にあるかどうかについて、真剣に関心があるのでしょうか。【いやはや、強烈ですねぇ。】永遠の光に照らしてみたときに、最も重要なことは、ある女性がイヤリングをしているかいないか、なのでしょうか、それとも、その女性が神とともに歩むことを楽しんでいるかどうか、なのでしょうか。パリサイ派の人たちは、当時の人々が背負いきれないほど大きな荷物を負わせたことで知られたのではないでしょうか。私たち、若い人々は、同じことを集会の内部に見るのです。集会を離れた多くの人や、集会に来ることをやめた人たちは、集会を窮屈なところと表現するのです。【そりゃ、そうでしょう。現代には存在していない契約の箱のデザインがどうのとか、幕屋の素材がどうの、とかを提供だけして、なぜ、我々が神と生きることが大事なのか、神と生きることがどのように素晴らしいことか、を語らないとすれば、それは、いったい何?と言われても仕方がないかもしれませんねぇ。私は、旧約聖書を無視していいとは言いません。大事だと思います。しかし、できるならば、ロイドジョンズの講演録(旧約聖書から福音を語る)で示されているように、旧約聖書から福音も語ることができるはずですが、なぜかそれに取り組まれる方は少ないですねぇ。日曜学校ではあるのに。】われわれは聖霊にある自由について語りますが、なぜ、それで息が詰まりそうなのでしょうか。以下で、集会の人々がどのようにしてパリサイ人のようになるのか、の事例をお話ししたいと思います。外見がすべてであり、内部のことはすべては完膚なきまで低い評価され、あたかも関係ないもののように取り扱われるのかについての、その事例をお示ししたいと思います。 ----------------------------------------------------------- 内面が、外形に出る、というのは、中学高校の時、風紀検査で風紀係の体育教官室の先生方が竹刀をもちながらのたまわっておられたことですが、しかし、集会でも、そういうところはあるでしょうねぇ。1970年代後半に高校生だった信者の方が、髪を長くのばしたら、「祈りましょう」と宣教師の方に言われたことがあったとお話ししてくださいましたが、結構、このような経験をされた方は少なくないかもしれません。
最近は、ずいぶん少なくなりましたが、昔の姉妹は、非常に長い髪の毛を編んで、頭のまわりをぐるぐる巻いておられた方がおられましたが、髪の毛の長さも、昔は話題になったようです。日本でも、染めるのは、論外、という風潮もありましたし、茶髪もNGの集会も現在もあるとは思います。
服装については、以前Mikatarouさまからコメントしていただいたように、相当時代遅れの服装であるために、探すのが困難でお困りになった姉妹がおられたようですが、当時、本当に困っておられた姉妹も本当におられたことは容易に想像できます。
ほかの方々は、どうかはわかりませんが、私自身は、その方の外見はあまり重視しなくとも、と思います。ジーンズを着て集会にいらっしゃろうが、Tシャツ姿で集会にいらっしゃろうが、それはそれで構わないと思いますが、目のやり場に困るような服装だけは、困ってしまうので、避けてもらいたいなぁ、と思います。
とはいえ、霊的な内実のことに関しては、簡単に分かりにくく、このことを十分理解するため、そして、そのケアのためには非常に長い時間がかかるので、日曜日だけの関係では、そのための時間がとりにくいというのが実態ではないか、と思います。さらに、霊的な内実の充実を図っていくためには、それなりの工夫と関与が必要なので、それはそれで、大変かと思います。そのために、信者間のかなり確実な信頼関係がまず存在していないといけませんし。あと、守秘義務の問題とその後の集会の中での人間関係での問題が残る場合もありますし。
とはいえ、さまざまなチャンネルを通して信者のあり方を見ておくこと、そして、それを学びに反映させていくこと、ということは重要かもしれません。 |
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前回の英文の続きです。
---------------------------------------------------------------- 3. PUTTING THE CART BEFORE THE HORSE In relation to ministry, it seems assemblies are more geared to older Christians than younger ones. For example, why do we always invite preachers to speak on the same things - the local assembly, the tabernacle, the temple, etc? I am chock full of notes on those things, I really don't need to hear about the tabernacle for the tenth time! Why do we not invite someone like the man who spoke at the conference, (??), who can get onto the level of young people and challenge them in areas of life that actually relate to them? (??) took up Bible characters - the life of Peter, the life of David, Ruth, and so on, and brought out practical things that the young people could take home with them and say, yes, this is how I will live my life, and this is why! What's the benefit of teaching doctrine when we have young people who can't say no to drugs?? Ok, that’s maybe a bit of an exaggeration, so let’s say worldly music, worldly clothes, inappropriate physical behaviour, etc. What is the benefit of teaching head covering when our young people don’t even understand the truth of Lordship in their lives? (After all, that is the underlying truth behind the head covering). What is the point of teaching young people the deep truths of Scripture when they can't even manage to establish a simple daily reading, praying, and devotional life with the Lord? If we aren't growing in the Lord, those doctrines will just go in one ear and out the other. If a young person hasn’t fostered a love for Christ or been encouraged in her daily walk with Christ, then why on earth would she wear a head covering to a church other than the Hall? See my point? We constantly put the cart before the horse. And I am not saying we stop teaching doctrine, for that is not the answer. I simply mean that our diet right now is severely imbalanced, and the needs of the flock are not all being met. We need food at all levels, and right now only the most mature are being fed. Our brethren choose to bury their heads in the sand about it and then wonder why we're losing our young people?? But then most elders in the assemblies today are on average 60+ yrs of age, so is it any wonder they have no understanding of young people today and that as a result the majority of people in assemblies are also 60+? We talk about wanting a future for the assemblies and being concerned about losing our young people, but inaction on the part of the brethren leads me to believe they don't care quite enough to do anything about it. |
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Facebook上で、非常に面白い文書を見つけ、日本語に翻訳 or 和訳 or 日本語変換したいと思い、試しに日本語で読めるようにしました。かなり雑な翻訳の続編です。前回から手紙の本文の続きです。
次の記事で、英文も載せておきます。なお、【・・・】の部分は、この文書の変換者の補注です。 ----------------------------------------------------------- 3.馬の前に馬車をつけるようなこと 牧会に関して言えば、集会は、若い世代の信者向けよりも、年配の信者のためのものをより多く取り揃えているように思えます。たとえば、同じことを言う人をいつも招くのでしょうか。地域教会とか、幕屋とか、神殿とか?【うゎ、強烈。私にはここまで書けません】私は、これらのことについてのノートで息が詰まりそうです。幕屋について聞くのは、10回目で、これ以上聞く必要がありません【これまた、強烈】。大会において、若い人のレベルに降りて、彼らの実際面での社会との関係について、取り上げることのできる(??)【伏字になっており不明】さんのような人を招かないのでしょうか。(??)さんは、聖書の人物を取り上げ、パウロの生涯や、ダビデの生涯、ルツの生涯などなどを取り上げています。そして、若い人々が家に持って帰って、そうだ、これが私たちの生活であり、これが理由だ、そのとおりだ、といえるような実際的な教えを引き出しています。教理の利益とは、若い人々が麻薬に対してそんなもの要らない、ということをいえない若者に対するものであるときに、発揮されるものではないのでしょうか。【確かに、麻薬や飲酒の誘惑にある人に対して、幕屋がどうのとか、神殿がどうのとか、地域教会がどうのとかは、意味をなさないですから。】 確かに、行き過ぎたかもしれません【そう思います】。しかし、世俗の音楽、世俗のファッション、不適切な身体的行動【たぶん性行為のことだと思われます】を考えましょう。私たちの人生における神の主権の事実(または真理)を知らない若い人々に対して、被り物の教えをすることの利益は何でしょう。(結局は、主(神)の主権を認めることこそが被り物の背景にあるはずです。)毎日聖書を読むことや、いのること、主との交わりのひと時を持つことすらできていないときに聖書の深い真理を教えることの意味とは何でしょう【我が家の子供たちを見ていても、反省せざるをえませんねぇ】。神(主)にあって成長していないときに、このような教理郷里は、右の耳から入って左の耳に抜けるだけではないでしょうか。もし、若い人々が、キリストへの愛を育てることができないときや、神とともに日々歩むことについて、励ましを受けないならば、彼女が被り物を集会ですることはできても、教会ですることができるでしょうか。 私の言いたいことをお分かりいただけるでしょうか。私たちは常に、馬の前に馬車をつけるということ(順序が逆)ということをしてき続けたのです。私は、教理を教えることをやめるべきだということを主張しているのではありませんし、それは解決策にはなりません。私は、われわれの食物が現在、偏ったもので、参加者に必要なものがまったく与えられていない、ということなのです【この部分は、幾分同意しますねぇ。まぁ、基本教理を繰り返ししゃべると、学びとしての内容がないとない王がないように思われるのではないか、という感覚というのは語り手にとってのわなですねぇ。基本的なことだけを話していると、学んでいないように見えてしまうことから、避ける人たちもいるでしょう。本当はそうじゃないんですが。短い時間で、基本教理を語ることをこなすことは難しいし。といって、長くやっていると飽きられるし】。私たちはさまざまなレベルの食物が必要で、われわれは、最も成長した人たち向けの食物を与えられているのです。【これは、そうかも知れませんねぇ。まぁ、被り物の話にしても、結果だけ教えられて、プロセスというかその背後にある構造が教えられていないというか。幕屋や預言にしても、あれは、極上の料理の最後に食べるビターチョコ系のデザートみたいなものであって、お子ちゃま向けではないですから。】われわれの兄弟たちは、そのことを考える頭を砂の中に突っ込んで、「なぜ、若い人たちが集会からいなくなるんだろう?」と考えているようなものです【ちなみに、この砂の中に頭を突っ込むという習性は、ダチョウが危機のときにする習性らしく、捕食者(プレデター)が来ると、ダチョウは頭の中を砂に突っ込んで、現実から回避するということがあるそうです】。多くの集会の長老たちは、60歳以上の方々であることを考えると、若い人々のことがわからないのは不思議ではなく、その結果として、集会の信者は60歳以上の方になるのではないでしょうか。私たちが話したいことは、集会の将来がほしいということであり、若い人々が失われているという懸念であり、私が信じるときに導いた兄弟たちが、そのことになんらそのことに関心を持っていないことに行動しないことです。 ----------------------------------------------------------- 上の文章を読みながら思ったことですが、真理(truth)、という言葉が、実はブラザレン派の行動や言動を読み解くためのキーワードのひとつかもしれないように思います。『真理』が適切に定義されないまま使われているので、『真理』が指す言葉や内容にかんする混乱が起こり、それが分裂につながるのが、たいていのパターンなのではないでしょうか。『真理』とは何か、ということをきちんと議論し共通理解が成立してから、個別の問題に取り組む、という姿勢がほしいように思います。集会は、『真理』という真剣(あるいは、双葉の剣、フェンシング用の剣)を振り回している道場のように外部から見えるのではないでしょうか。あぶないなぁ、とおもいます。 しかし、聖書を読むとかいう基本的なお話をしているときも、うちの高校生の娘も息子も大爆睡中。まぁ、基本的な教理の部分なので、聞く人がいなくても、語ることにしていますが。「起きろ」と言いたくなりますが、私はいいませんねぇ。私も中学高校のとき、集会で、いびきかいて寝てましたし。 ところで、ブラザレン運動は、もともとゲリラ的な自主的な活動として始まったために、非常に自由な雰囲気があったのですが、自主的な活動とはいえ、年長者が出てくると、世代交代が遅れる傾向にあったり、長老が長期政権化したりといった諸問題が出てくるので、それを防ぐ工夫が必要なのですが(従来は、開拓伝道があちこちで行われることで、この問題が回避されてきた部分もあるけれども、ただ、開拓伝道した場所が増えると、その開拓伝道でできた集会の人々のもつ、開拓伝道を行った個人にたいする評価も高くなってくるので、問題は複雑になることが多いと思います)、そのあたりの運営のノウハウは、この100年弱の期間かけても、北米でも作りえなかったということを、この文章は、示しているのかもしれません。 |




