ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

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今回は、第2回目(午前中の後半の講演)のまとめをしたいと思います。

まず、この記事でお示しする記録は、あくまで、私が当日取得したノートに基づくもので、ここでは、私に聞こえてきた話、ということであり、発話者のご本人の意図とは違う可能性があることをお断りしておきます。そのことを十分お含み置きの上、お読みください。なお、いずれの話者の方には、いろいろお世話になっていることがございまして、まったく個人的な怨恨等は、ありませんし、批判的な部分があるとすれば、お考えそのものについてであり、個人攻撃のようなつもりは、まったくありません。攻撃しているとすれば、記者が不明であることについて、より深い理解に達するために、自己批判や自己攻撃しているだけです。くれぐれも誤解されませんように。

なお、以下で、太字部分は、このブログを記している私の個人的感想です。

基本的にこのご講演は、再臨と空中携挙がテーマだとご主張になられた、と思います。
3つのポイントがあるとして、
神の約束(契約)としての再臨
携挙と大艱難
将来におけるイスラエルの役割と神の計画

があるとされ、講演を始められました。

再臨について、地上再臨と携挙の2回あると主張されておられましたが、その根拠は明白にお話になられなかったように思います。

さらに、旧約聖書のページ数の分量から、イスラエルが分量が多い、ということから、イスラエルの重要性というのか特殊性の議論、旧約聖書とのかかわりの中でのイスラエルのという内容をお話されました。もちろん、旧約聖書は、アブラハムとその子孫の契約としての側面が強いというのは理解できるのですが、しかし、これは近代の数量主義のもたらす問題のある根拠のあまり強くない視点の様に思えました。おそらく、私だけだと思いますが。

ヨハネ14章から空中携挙の解説をされたのですが、イエスがすることは弟子にとって最善であることだ、という趣旨のご発言がございました。その後、イエスは父の家を備えに行く、といっていることから、イエスが花婿として迎えに行く、という主張をしておられました。しかし、この接合は、非常にトリッキーだと思いました。家(oikia)の解釈をどうするか、によるのではないか、と思ったことは事実です。

住まい(topos)ができたら、迎えに来る、といっていることを行っておられました。しかし、その後の解説部分では、oikiaとtoposの理解の混乱をしておられるのではないかなぁ、と思いました。

ここでのイエスの姿は、共観福音書での裁き主なるイエスという姿とは異なる、と語っておられました。とはいえ、共感福音書の大半が裁き主の強調をしていないように私には思えるのは、私の理解が不足しているのだろうなぁ、と思いました。山上の説教は、裁き主なるキリストとしてのことばなんでしょうかねぇ。わたくしには、よくわかりませんが。

聖霊なる神の役割を触れておられました。そのお話を聞きながら、聖霊の存在は、個人的には、これも一つの形としては神の国の実現だと思うのですが、それはどうなんでしょうねぇ、という印象を持ちました。

父なる神、花婿なるキリストと花嫁なる教会という理解の対比構造にあるものとして、アブラハム・イサク・リベカの関係との類似性を指摘しておられました。しかし、アブラハムとの契約を考えると、このように持っていくのは、少し厳しいのではないか、と思いました。また、リベカに対して提供された財産を祝福と関連させて述べておられたが、財産やさまざまな豊かさ、を神の祝福と理解するならば、下手をすると、『繁栄の神学』(信者数が多ければよい、キリスト者になれば、霊的にも、経済的にも豊かになれる、という主張が強い考え方)につながりかねない課題があるように思いました。これらも私の理解が十分でないためだと思われます。

第1テサロニケ4:13-18から、第1コリントや黙示録、過ぎ越しの祭りなどの状況を踏まえ、トランペットを鳴らすことと主の再臨の状況について説明しておられたが、この比定も類似性・相似性にのみ基づくものであり、少し論理構成としては弱い、のではないか、と思いました。「あう(apantesis)」という語を出迎えると説明しておられたが、そのコンテキストで、人間側が出迎える、かのような発言をされておられました。あくまで聖書の主体が神にかんしてのことであるということを考えると、かなり厳しいと思いました。なお、もともと、この「あう(apantesis)」という語の語源は、大会戦をするために両軍が相互に近づく、といった意味を含む語であるので、両者が正面からぶつかるように近づく、という理解のほうがいいのではないか、と思いました。

ギリシア語学者の書籍を引用しながら、コメントを加えておられたが、どこまでが本人の主張で、どこからが語り手のコメントかまったくわからないような引用をされておられたのは、大変残念だと思います。大阪人は概して突込みだから・・・、とおっしゃるのかもしれませんが、これは聞き手を混乱に陥れただけ、と思います。さらに、この引用をする途中、他の方に対する哄笑・嘲弄とも判別不可能な発言が数多く見られた時間がございましたが、これは、正直、非常にまずいと思いました。多くの方は笑っておられましたが、私は、失笑の笑いだったのか、と思うほどでございましたが、どうもそうではなかったようです。その意味で、この部分については、まずもって、対論の体をなしていないのは、非常に残念であった用に思います。山本七平(1987)が日本人の伝統として、「ただ、われわれに、他人の宗教や宗教的感情を無視・嘲弄する奇妙な伝統があることは否定できない」と『一下級将校が見た帝国陸軍(文春文庫版)』のP87で書いていたが、それをまさに追体験するかのような時間が流れたので、あまりよい印象を持ち得なかったことだけは言及しようと思います。ご自分が同じことをされれば、烈火のように絶対にお怒りにはならないのだろうとは思いますし、烈火のようにお怒りになられないだけの冷静さをお持ちになられる方であることを、少なくともそれを期待いたしたい、と思うところでございます。

次にテサロニケI 5:1-9を引用し、主の日について話しておられたが、「日」を一定の期間、その根拠としてエゼキエル書を引用しておらたたが、その日は反キリストが支配する期間であり、テサロニケI 5:3で人々が平和だ、安全だ、といっている日としておられた。テサロニケI 5:9を根拠に、艱難にあわない、ということを説明されておられた。これは、どうなんでしょう、と思いました。あとのダニエル書の解説や、69週はすんだ、という解説も、その前提となる根拠がまったく提示されていないのは、問題だと思いました。個人的には、艱難後再臨説も、艱難全再臨説もいわゆる仮定、仮説でしかないと思っているからだろうと思います。ただ、その節が本当にそういっている、ということのより詳細な説明あるいは釈義を省いた形で、このように定義、あるいは断言するのは、個人的にはどうかなぁ、と思いました。私は、このような理解です、というつもりで話した、といわれたそれまでですが、お話しの口調を聞く限り、私にはそうは聞こえなかったんですけど、それは聞き手の問題だと思います。

とくに、イスラエルの債権の問題として、アブラハムへの契約のあふれとしての神への恵み、とか、アダム時代に神が「良し」とされた形で地上の具体的物理的環境が再建されるという概念のお話もありました。この部分も、その具体的根拠が明白に示されないまま、個人の感想の域を出ない、といわれかねないようなお話が、続いたように思います。また、イスラエルの再興をイスラエルが諸国の頭というか先導役となる、と受け取られかねない(事実私はそう理解していますが、聞き違いですよね。たぶん。後日送付されるはずの録音CDにて確認しますが)いうような表現がありましたが。この話を聞きながら、直前に聞いていた、N.T.Wrightの講演(このサイトでごらんいただけます。http://vimeo.com/32210791)の内容を思い出していました。英語はやや早いが聞き取りにくくはないです。

 いずれにせよ、黙示録に書かれた順番がすなわち将来における時系列順序であると想定して読み解いていく、という解釈法が全体を通して貫かれていたのですが、黙示が黙示である以上、このような解釈には、危険性が潜むのではないかなぁ、と素朴に思いました。

 全体的な印象として、基本的に話が拡散しがちで、きちんとした釈義の上に成り立ったご議論であるのだろうとは思いますが、私という受け取り手の問題により、個別特殊の問題の故にそのように伝わってこなかったのは、非常に残念でした。

 あと、この話を聞きながら、次のブログ記事でご指摘のこととよく似ている、と思いました。

 『「無教会は色々議論して結論に持っていくが集会は即結論にもっていく」と批判としてではなく、無教会と集会の特徴を端的に云った』こととして、お書きになっておられました。

今回のお話を聞きなら思ったことですが、ある結論があって、それに合致する証拠となる聖書箇所を引用しているような気がしてなりませんでした。その結果、なんとなく、論理が逆立ちしているんじゃないか、という印象を強く持ったということを正直に述べたいと思います。まぁ、この記事の筆者である私が無定見で、知識を持ちえてないだけからだろうと思います。これが一番残念に感じた理由かもしれません。

以上は、あくまで、筆者の個人の感想です。
ときどきコメントをくださるLuceさんから今回の終末論の感想についてのご期待のことばを頂戴したので、しばらく終末論についての講演会の概要とそのコメント、ということで書いてみたいと思います。

たぶん、4回にわたっての連載になると思います。

ストーリーのアウトラインとそれについての私の感想は、こんな感じかなぁ、と思います。第1回目の学びのアウトラインと感想(太字部分)は以下のようなものです。

最初は、終末論(正確には、ディスペンセーション主義に基づく終末論)の危険性についてでした。そこで、最初のスピーカーの方がお話になられたのは、子供時代、家にいなくて、家人が消えたかのような状態の時の恐怖、再臨が来たのか、と思ったというようなお話から始まりました。私は、どうってことないんですが、早朝に出勤する時なんか、誰にも言わずに家を出るので、時々うちの奥さんは、まさか再臨か、といまだに思う、というくらい、1970年代から1985年ごろまでにキリスト集会関係者とその家族となった方には、その恐怖感が刷り込まれているということで・・・。


確かに、あの時代をキリスト集会と呼ばれる集団で過ごした子供たちは、同じような刷り込みを経験しているとは思います。それは不幸な状況だったように思います。ところで、日本のキリスト集会では、終末論に関しては、ディスペンセーション主義に基づくこの手の終末論しかない、といっていいほどこの説が主流のように思います。この説に立たない方は、進んでこの説以外の説でお話になることが少ないので、これが提示されないのは、仕方のないことでしょう。終末について、と言いながらも、すべての終末論を包括した視点がないのは、仕方がないことかもしれません。終末について語る、というテーマであれば、やはり、ほかの可能性を含めて、この辺りのこれまでのさまざまな聖書理解の整理がまずはあったほうがよかったかなぁ、と思います。

そのかたは、二つ危険性を上げておられたのですが、一つは、日常生活や信仰生活がいい加減になること、終末が来ないんでないか、ということで、日常生活中心になり、信仰がいい加減になる、という危険性を指摘しておられました。

でも、危険性とは、この方が指摘されたものだけではないように思います。特定の終末論的なものの見方で、聖書を読むことで、聖書全体の読み方を歪めてしまう、特定の読み方でしか聖書を読めなくなってしまう、という危険性は触れておられなかったですね。私はそっちのほうが、非常に問題が大きいと思うのですが。


初臨と再臨について、次に触れていました。
へブル人への手紙9章から
天にあるものを清めた、という記述をもとに、天という問題についての解説をしておられたのですが、そのために、二つの「こられた」ハネマオー(覆いを取り去る)とオプタモー(神の主体的な神であることの啓示・開示)の違いによる比較をして、律法は罪を先送りにする、ということを説明したうえで、初臨の目的は罪を取り除くためであり、再臨は、待ち望んでいる人々に救いを与えるため、と説明していた。救いの定義を神の顔を見る、という定義で語っておられた。

救いの定義に関しては、完全に同意。ちょうど、今、自分の集会で語っていることとほぼ同じ。ただ、罪を拭い去ることに関しての説明は、少し疑問。というのは、Sin Removerとしてのイエスということになりはしないか、と思うからです。この辺りは、ここを参照。http://voiceofwind.jugem.jp/?day=20111214


さらに、ルカ4章でイザヤ書からイエスが語ったシーンで、初臨と再臨をイエスが切り分けている、という主張をしておられたが、ここを根拠に、神の祝福としての初臨、神の裁きとしての再臨をわけてかたっておられた。このはなしをききながら、これは、どうかなぁ、この部分からだけを根拠にするのは、すこしいいすぎじゃないかなぁ、と思いました。もっと、旧新約聖書の「ものがたり」というのは、私にとっては連続的というか、もっと一体化しているように思います。N.T.WrightやRob Bell S. McKnightを読んでいるせいかもしれませんが。


天の御座についての理解
エゼキエル書2章やI歴代誌28勝から、神の御座と幕屋のパラレル関係にあるとの解釈から、天使論をもちいながら、天の御座の構造に関する解説をしておられた。この部分は、かなり想像というか類推による比定が含まれているように感じた。非常に限られた範囲の聖書の個所をもとに、やや危うさを持ちながら、積み上げられた議論のように思ったのは事実でございます。
 さらに、足台、という言葉の解釈が『ちーと』違うのではないか、と思った。足台、というのは、土台あるいは基礎、礎という理解のほうが個人的にはしっくりくるんだけどなぁ、と思いました。キリストが礎となられた、という意味から理解するほうがいいのではないか、と思ったりもしました。けがれや悪魔をかかとで踏み砕く、というような表現についても触れておられたが、むしろ、個人的には、モーセが燃える芝のところで足の履物を脱げ、と言われたことも考えると面白いのではないか、と思ったりはしました。神とあったという意味では。

アダムが善悪の知識の実を食べたことで、天と地が分離した、という表現をしておられた。しかし、これも個人的にはどうか、と思った。分離、ということの意味がよく定義されていないのではないか、分離を強調することで、どうしても二元論的なものの見方となる傾向がみられやすく、少し論理が危ういかなぁ、と思いました。本来的には、連続体で理解するほうがよく、距離が遠くなった、という感覚でとらえるほうがよいのに、と思ったりもしました。

第1テモテ3:16から、御座と御使いとの関係を解説しようとされた。これもまた、かなり議論としては厳しい構造かなぁ、と思った。その根拠を詳細に説明せずに、ご自分の理解だけを述べておられるように思いました。時間がない、というのはその通りなのですが、どうせなら、語る内容を絞って、もう少し丁寧に説明があったほうがよかったかなぁ、と思いました。

このあたりから、天の構造や父の御座に関しての理解を、断片的な聖書の記述を集めて、さまざまなことを説明しようとしておられた。内容が多いからか、あまりにも断片的になっているよなぁ、整理されて体系的に提供されたとはいえなかったなぁ、と思ったし、何を説明されようとしておられるのか、その論旨の展開の筋があまりはっきりしていないような印象を持った。聴き手のわたしの能力の問題もあるのだろうけれども。

特に神の栄光の移動、というようなことを話しておられた。これもまた、この部分も説明不足という感じがしました。というよりは、ある考えに従って、聖書の部分を集めようとしてパズルを完成させるかのように、ある形にはめようとされているかのような印象を受けたのは、事実です。

特に後半の部分は、前半に比べ、説得力に欠くように思ったのは、私の気のせいだろうとは思います。時間の関係もあるのだとは思うが、説明の構成が少し粗いかなぁ、と思った。ややこしい部分だけに、もう少し丁寧な説明がいるように思ったんですが、皆さんはおわかりだったのでしょう。

 まぁ、今回の企画、そもそも時間がないところに内容盛りだくさん過ぎたと思います。そのため、焦点が拡散し結局正確な釈義に基づく体系的な展開、ということにはなっておらず、混乱しただけになってなければ、いいけど。特に30代以下の参加者の方々。と思いました。正直な感想ですけど。

 しかし、この方の午後のセッションで、こんど、私の集会が後援するANRの会でご講演されるヤンキー牧師こと、水谷先生のブログ悪魔からの卒業証書が取り上げられたのには、びっくりした。UgoUgo君が吹き込んだのかな?
今日は、関西地方で開催される新春合同学び会、と呼ばれる講演会に出席してきました。

ブラザレンらしく、再臨についての理解に関するお話(これはごく初期のカンファレンスでの主要なテーマであった)

1月に開かれているのは、スコットランドでは、1月1日に開かれた伝統を由緒正しく守っているからかもしれませんね。

まぁ、今日のお話のお二人のお話のうち、おひとりは、なるほど、と思わされる部分がいくつもありましたが、もう一人の方は、時間がなかったこともあるのでしょうが、少し残念なお話だったように思います。たぶん、時間がなくて、絞り込めなかったのが原因かなぁ、と思います。お一人の方のお話には、完全に同意できない部分はあるものの、共感できる部分は多かったですが、もう一人の方のは、どうも語りつくせずに終わって、ご本人が一番残念だったのでは・・・、という感じでした。

しかし、お話しされた中のお一人が、筆者とも関係の深い小さないのちを守る会ブログの記事を最後のまとめに使っていたのは印象的でした。

ところで、小さないのちを守る会のブログ記事を語った方の内容の一部は、おそらく、上沼昌雄さんの

闇を住処とする私、やみを隠れ家とする神


から着想の一部を受けているように思うし、その一部は、ヘンリー・ナウエンの

ナウエンと読む福音書

の第1章 God's way のDescending with Jesusから着想の一部を受けているように思った。ちなみに、筆者が主宰している明石ナウエン研究会では、昨年の年末に、ここを読んだので、印象深かった。明石ナウエン研究会は、どなたでも参加していただけます。阪神間からは遠いですが・・・・。

上沼先生の本にしても、ナウエンにしても、この辺り、私の関心分野と重なるので、小さないのちを守る会のブログを引用された方のお話は、私にとっては大変興味深かったです。ということで、今日も一日長かった。

皆さんは、どんな一日だったでしょうかねぇ。


Tim GrassのGathering to His Nameの中p.178からブラザレン文化に関する部分、The Emergence of Settled Patterns of Assembly Life and Worship(集会生活と礼拝のパターンの成立)の中のLeadership and Office(リーダーシップと教会運営)についての記載を紹介しながら、考えてみたいと思います。

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19世紀のイギリスの社会では、リーダーシップをとることは公的な役割を果たす機会ととらえる伝統がみられた。ある程度のブラザレンの指導者においては、このような考え方の反映がみられる。Coadによれば、19世紀後半において、指導者層の交代があり、元聖職者や貴族から、ビジネスの世界からの人物(変換者註 ジェントルマン層)、成功したビジネスマンや豊かな農民に交代している、とされている。彼らは、彼らが得た利益で建物を提供したり、巡回する伝道者を支援したり、その集会に信者の世話をする人としてとどまるように勧めることもあった。このような(一人の人物の貢献)の欠点は、一人の物事への取り扱いのコントロールが非常に密接であるために、集会の発展を妨げることになりかねない点である。

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このリーダーシップをとることが公的な役割を果たす機会としてとらえられているビクトリア時代の伝統というか常識、ということに関しては、シャーロック・ホームズシリーズの3人の学生にも出てきます。社会のリーダーとなるべき大学生が、試験のカンニングをするというストーリーなのですが、いい就職先が卒業できれば約束されていたにもかかわらず、カンニングという不正行為を恥じて、インドかパキスタンに軍人だか、警察官になっていく、という結末を迎えるというお話だったように記憶しています。

そういえば、シャーロックホームズの話には、名門であるが身代を持ち崩してピーピー言っている没落貴族やスキャンダルに巻き込まれた貴族の話がやたらと出てきますが、ちょうどビクトリア朝時代というのは貴族階級の凋落を迎えた時代の転換点だったのかもしれません。Miss PotterというPeter Rabbitの作家の半生を描いた映画もこの時代の雰囲気を醸し出しています。

ビクトリア朝を境にして、従前の貴族階級が没落し、新興貴族階級ともいうべき紳士階層の社会での役割が大きくなるにつれて、集会の指導者層も、大幅に転換することになったように思います。

日本では、開拓伝道で集会の原型を構築した人や、伝道者、設立に力のあった人の影響力が非常に強いというのも、この英国の伝統を引き継いでいるのかもしれません。本当は、キリストの体である教会って、そんなものでいいのかなぁ、と思います。また、これが悪く働くと、影響力が大きくなるのを避けるために、せっかくの奉仕ができるにもかかわらず、それを自主的な形式をとりながらも他律的に、あるいは他律的に抑止される場合もあり、そういうのは、どんなものかなぁ、とも個人的には思います。

それから、みなさん、新年明けましておめでとうございます。今年も、お付き合いいただけたら、と思います。
このブログを読んでくださった皆さん。

いつも読んでくださる皆さん。

どうもありがとうございました。

まだまだ、私のブラザレン研究の旅(あるいは放浪)は続きます。


この1年は、私にとって、いろいろチャレンジングな1年でありました。

何より、夏に体調が落ちたのが、一番つらかったですが。

ようやく、本調子に戻り始めました。馬鹿笑いができるようになりましたから。


この放浪の旅、気に入っていただいた方、お付き合いいただけたら、

と思います。Facebook上の研究会、こっちのほうが、個人的には

Deepで面白いんですが。怖くて公開できない。

来年が皆さんにとって、良い1年であるようお祈りいたします。

栄光在主 平和在地


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