ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

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さて、これまで集会の責任者の任命に関するブログ記事を書いてきましたが、ここで、少し集会の責任者(いわゆる長老)の移行の問題について、触れたいと思います。

キリスト集会では、日本であれ、イギリスであれ、責任者の長期化は致し方のない現実としてあります。その原因のかなりの部分は、集会の責任者の候補者および「なり手」が少ない、という問題があります。現実的に、仕事をもちながら責任をとるケースが多くなるため、自営業を含め、かなり自由度の高い職種の人か、退職者でないと務まりにくい、という側面があります。現実的に対応できる人に依存する結果、責任者の交代が起きにくく、またその職を務める期間が長期化しやすいですし、長期化すればするほど、その人のところに集会の個々人のこれまでの信仰上の課題などを含めた情報やノウハウが集まるので、さらに余人をもって替え難い、という状況になるのも致し方のない部分としてあります。また、普通の信徒にしてみれば、お世話になっているんだし、という心情が働くので、かなりの不都合があっても、現職の長老に「そろそろご引退を」というのはかなり厳しいと思います。その結果、長期政権化する場合もあるでしょう。すると、長老職を返上するのは、天に召される時という、すなわち地上にさらば、という時か、転勤・転職などで現行の集会を離れざるを得ないとき、という状況はあるのだろうと思います。

しかし、前回のトゥルニエからの引用でもふれたように、それはある面でいうと長老職にある人々の冒険の機会を奪うことにもなるのですが、その面というのはあまり考えられておらず、どちらかというと日本でも、海外でも、何らかの障害(病気等)が出るまで、長老職に留まるということが続くことが多いように思います。もう、おやめになられたら、と思っていても、それを口にできないという雰囲気があるように思います。それ以上に、長老の考えに異論をはさむということが許されない雰囲気というのは、どんなものかと思います。本来、長老職とは、全体を指導するような役割ではなく、信者一人一人が神の思いを受け、生き生きとできる冒険に進めるような環境を整えるのが長老の仕事だと思うんですけど、それは、私がブラザレンの信徒であるがゆえに、ロマンティックな近代という思想に生きているからかもしれません。

ここまで、ブラザレンの長老職の話をしてきましたが、それに関連する文章を見つけたのでご紹介します。

何かの参考になれば、と思います。

トゥルニエ (生の冒険)から
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さて、私たちのせいの展開を記し付ける参加と開放の交代するリズムに戻ろう。参加がなければ、冒険もない。しかし冒険が古びるとき、ただ参加だけが新しい冒険にわたしたちを乗り出させ、自由の感覚を取り戻させてくれる。私はつい最近その経験をした。15年前私は、(中略 他の研究者とともに)人格医学年会を創設した。(中略)さまざまの教派、国籍、専門の医師たちをこのようにしてまじめな対話と、より人間的な医学を共同で追求していくことによってまとめていくことは、私たちにとってすばらしい冒険であった。私たちはこの部ループとまったく一体化していたので、多くの同僚たちは、このグループを「トゥルニエ・不ループ」と呼びはじめた。
 (中略)彼らは、私たち(トゥルニエ夫妻)が率先してやることを期待していたので、私たちが共有のものとして望んでいたこの運動は、あまりに個人的な、あまりに私に依存するものとなってしまった。
 私は始め、表面に出てきた批判―それは私たちが、このグループで優勢的な役割を果たしていることを攻めたものであるが―に猛烈に反発し、私の自由主義で講義した。しかし一人の同僚が、私を助けてその批判からむしろ忠告を受け取るようにさせてくれた。彼の言うには、15歳で、子供は成人になるため、父親から解放されなければならない。私は『ボッセイ・グループ』び父親核であり、妻は母親であった。ただし子供は両親の手を離れ、責任能力を持っていたが。私が新しい冒険に乗り出せるためにも、グループ自身に冒険精神の更新を可能にするためにも私が何らかの形で解放されることが必要であった。(中略)
 私が今言ったことは、(中略)何らかの企てをあきらめるときが来たのを感じてはいるが、それに愛着するあまり、なかなかあきらめ切れない人を励ますことができるだろう。過去の栄光、正確には時代遅れの栄光を裏切らぬよう、生き延びて無為に日を送っているさまざまの出来事のことを考えてみよう。芸術や文学のグループ、あるいは宗教や職業上の団体を創設し、何年も熱心に、また有効に指導に当たってきたが、一番近しい共同者たちもひそかにその人の辞任を望んでできていない、そういう一位bとのことを考えてみよう。
 (中略)彼らを助けてこの困難な放棄を行わせるのは、ここに新しい冒険を見出すことにほかならない。
 この冒険の連続こそ人生の姿、そして意味である。人生はとまることがない。誕生は冒険であり、死も冒険である。青春は冒険であり、中年は別の冒険であり、老年はまた別の冒険である。この時老年になれば必ず次々としていかなければならない放棄はまったく別のものに見えてくる。すなわち衰弱ではなく、新しい冒険によって豊かにされると思えてくるのである。 (pp. 221-224)

Tim GrassのGathering to His Nameの中p.181からブラザレン文化に関する部分、The Emergence of Settled Patterns of Assembly Life and Worship(集会生活と礼拝のパターンの成立)の中のLeadership and Office(リーダーシップと教会運営)についての記載を紹介しながら、考えてみたいと思います。

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貧しい人への対応と会計の責任は責任者を置くことの原則における広く認められた例外の一つとされた。これらの優先性と説明責任が求められるがゆえに、信頼するに足るある人物を選び、集会によって任命され、会計と貧しい人々の受け入れの責任にあたらせることが当然と考えられた。このような任命は、霊的な必要性よりも、物質的な必要性のことに関して、任命されることは受け入れられたのである。多くの分離派の教会とは異なり、ブラザレンでは、これらの具体的奉仕に当たる人を執事として、任命することをすぐに辞めてしまった。しかし、事務局長、または、『渉外にあたる兄弟』は集会生活において一般的なものとなり、話し手の依頼などにおける彼の役割の重要性から、一定の影響力を集会に及ぼすものとなった。


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話し手にだれを呼ぶかは、結構、神経を使う問題ですし、日本国内の現在のキリスト集会の中では、巡回伝道者に当たる方々に、あるいは、その集会で責任のある方々にお願いしているところが大半だと思います。このような責任のある方々や、巡回伝道者に相当する方々(勝手に自主的に回る人々ではなく、招聘に応じて巡回する人々)へのアプローチは、基本的にある程度の教会生活の長さと、その語り手の人々との個人的な付き合いの深さ、またその人の考え方を知っていることが求められるので、聖書の特定の個所に特殊な強調をおく人々(典型的には、奇跡、とりわけ癒しや異言[わけのわからない言語で勝手に話し出す行為])を招聘した場合、信者に動揺が起きたりする場合もあるので、それだけ慎重さが求められます。また、招聘に伴っては、謝金も発生しますので、その処理もあるので、一定の明朗さがある方が望まれるのではないか、と思います。

ところで、人数が少ない教会では、会計の責任に当たる事務長と集会全体の役割を見る代表ないしは日本国内では長老と呼ばれることが多い役職に当たる人々が同一人物であることも少なくないと思います。この結果、どうしても、一般信徒が、ものを言いにくい状態が生まれる場合も少なくありません。ある面、集会(教会)といっても、信徒一人一人に大きな影響を与えるのが、霊的な牧会の役割を果たす人々と、物品の購入や献金の管理などを含め、信者の物理的環境を提供する責任を負う人々ですので、人数が多ければ霊的及び教理面での責任者と会計責任者分離、ということは可能ですし、そうしているところが多いようですが、人数が少ないところでは、この分離が進まず、日曜日の活動への参加者の規模が相当大きくても分離が進まない文化が形成される場合もあるかもしれません。この結果、不明朗な会計処理や、支出に関する意思決定の問題が起きかねないことや、そのことに疑問をもったとして、それを口にすることが、長老や責任者への尊敬を損なう行為であると、長老や責任者、あるいは一般のセイントから受け取られかねないことも少なくなく、疑問に思っても、それを口にすることが難しくない場合も少なくありません。その結果、不明朗と言われかねない対応や処理がそのままずるずると続く、という場合も発生することがあるようです。


Tim GrassのGathering to His Nameの中p.180からブラザレン文化に関する部分、The Emergence of Settled Patterns of Assembly Life and Worship(集会生活と礼拝のパターンの成立)の中のLeadership and Office(リーダーシップと教会運営)についての記載を紹介しながら、考えてみたいと思います。

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 クレイクとミューラーの牧会上の働きに多く負っているブリストルのベテスダ集会ですら、公式の責任者を認識し、特定の人物を任用するという原則ではなくなっている。1860年代には、教会(集会)全体の働きのために、外部からの人々をクレイクとミューラーは招いており、20人くらいからなる毎週の会議を開催し、会衆から選ばれた執事を置いていた。1870年代末には、Bedminsterのグループが自立することを求め、ベテスダの指導者層はこれをフルタイムの牧会者(牧師)を置くことという条件のもとで認めた。しかし、1900年代には、ベテスダは、公式の役割を置くことに否定的なExclusive (Brethren)の背景をもつ何人か信徒の影響を受けはじめた。この段階では、豊かな才能ある人々もいたが、1917年にはその才能ある人々に不足することを嘆くことになる。

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 こうやって書かれたものを見ていると、ミューラーやクレイクがいた当時のベテスダ集会は、牧師制度に否定的ではなく、むしろ肯定的であったことがわかります。しかし、ダービーはの考え方に影響を受けた人たちが増え、その影響力が強くなるについれ、牧師制度などや教会の制度的な運営機構に対しても否定的になったようです。Grassは明白には書いていませんが、才能ある人々(賜物ある人々)が不足することを嘆くことになる、という表現で、これらの神からの才能が与えられた人々が集会から脱出するということを暗に示しているようです。

 その意味で、1850-60年代、ミューラーやクレイクが活躍したベテスダ集会からも、1920年代には、その豊かな土壌が失われていったようですが、これと同じようなことが、日本のブラザレン運動では発生していないとご主張になられることが、キリスト集会で起きないように、聖書と集会の負の部分を含めた歴史から(残った人たちだけを研究する歴史ではなく)、きちんと学ばれて、よくお考えになられるように、そして、本来、多くの信者がキリストの体として集まることを目指していたのに、いつの間にかそのことを捨てて排他的になっていったこと、そのことが起きないように祈りをもって多くの集会が運営されることを私は願うばかりでございます。

 この前、関西のある若い方とお話ししたときに、この方も元集会におられた方、あの方も元集会におられた方、とお話したら、大変びっくりしておられました。逃げた魚は、むちゃくちゃ大物だったりするのでねぇ。

 

Tim GrassのGathering to His Nameの中p.180からブラザレン文化に関する部分、The Emergence of Settled Patterns of Assembly Life and Worship(集会生活と礼拝のパターンの成立)の中のLeadership and Office(リーダーシップと教会運営)についての記載を紹介しながら、考えてみたいと思います。

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地域に根差した人々が、リーダーシップを担うことが最も頻繁であったが、その集会に属する人々と同じ社会階層の人々から長老が選ばれることが、かなり頻繁にみられた。多くの、というよりほとんどの、集会では、公式に選ばれた長老というのはなく、ちょうどダービーがそう信じていたように、最初の使徒の死亡以来、教会内のだれしもがその使徒職にふさわしいものではないとされていた。以前にも示した通り、ダービーの教会観では使徒職とその権能はもはや存在せず、神から与えられてもいないとされた。したがって、教会(集会)は、その中にあって会衆の全体に目くばりできるような才能が与えられた人(集会用語では、賜物を与えられた人 Gifted)を見分けるべきであり、その人に従うべきだとした。このような非公式な認定は様々な形態を生み出した。ある場合には、男性信徒全体で運営する場合もあったし、ほかの場合には、複数の教会(集会)にまたがるものもあった。また、ほかには、このような配慮ができる人(牧師)を招へいする場合もあった。

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前回 書き忘れたことを少し。

このリーダーシップをとることが公的な役割を果たす機会としてとらえられているビクトリア時代の伝統というか常識、ということに関しては、シャーロック・ホームズシリーズの3人の学生にも出てきます。社会のリーダーとなるべき大学生が、試験のカンニングをするというストーリーなのですが、いい就職先が卒業できれば約束されていたにもかかわらず、カンニングという不正行為を恥じて、インドかパキスタンに軍人だか、警察官になっていく、という結末を迎えるというお話だったように記憶しています。

そういえば、シャーロックホームズの話には、名門であるが身代を持ち崩してピーピー言っている没落貴族やスキャンダルに巻き込まれた貴族の話がやたらと出てきますが、ちょうどビクトリア朝時代というのは貴族階級の凋落を迎えた時代の転換点だったのかもしれません。Miss Potterというピーターラビットの原作者の絵本作家の半生を描いた映画もこの時代の雰囲気を醸し出しています。

ビクトリア朝を境にして、従前の貴族階級が没落し、新興貴族階級ともいうべき紳士階層の社会での役割が大きくなるにつれて、集会の指導者層も、大幅に転換することになったように思います。

さて、ここからは、今回の記事に関してです。

日本では、比較的歴史が浅い教会がほとんどなので、開拓伝道で集会の原型を構築した人や、伝道者、設立に力のあった人の影響力が非常に強いように思います。また、設立した人たちの影響が強いというのも、この英国の伝統を引き継いでいるのかもしれません。本当は、キリストの体である教会って、そんなものでいいのかなぁ、と思います。また、これが悪く働くと、影響力が大きくなるのを避けるために、せっかくの奉仕ができるにもかかわらず、それを自主的にあるいは他律的に抑止される場合もあり、そういうのは、どんなものかなぁ、とも個人的には思います。

 また、日本では、規模にもよりますが、開拓伝道の場合は、ある一人の信者が全体の運営にあたり、それが安定してきた後、全体に規模が小さい場合は、男性信徒が全体で集まりながら運営にあたり、さらに多くなると、一人が全体を見渡すのではなく、複数の責任者(いわゆる長老)が協議しながら意思決定のスピードと運営を確保するというスタイルに移行するように思います。

 基本、日本の集会にはダービーの教会論そのものや、その影響、そのこだまがいまだに集会内に影響しており、公式に代表者を決めないところが多いようですが、これで一番困るのが、宗教法人や社団法人など、財産保護(死亡に伴う相続税対策)のために法人格を取得する場合で、代表者がなかなか決まらない、とか、代表者選出の方法が宗教法人法が想定している民主主義的な政体論に合致しないなどの問題があり、対応に苦慮するところが少なくないようです。

 改革長老派やフレンド派のような、段階を経た合議的民主主義的な運営方法などをとらないのが、キリスト集会を自称する人々の特徴であり、それゆえにゲリラ的な活動ができてしまう、また、そうならざるを得ないという側面もあるように思います。それが教会観関係に微妙な影響を与えていると思います。


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