ブラザレンについての諸断章

このブログは、プリマスブラザレンに関する個人研究の成果なんかを書いています。所属集会(教会)の公式見解ではありません。

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マザーテレサの映画を衛星放送(ムービープラス)で見ていたら、

・数字の問題じゃない。
・シンプルなのがいいのだ。
・companyをつくりたくない
・組織は必要ではない
・幸せな混乱 happy disorder がいい

というような発言を見ていて、マザーテレサって、ひょっとしてカトリック会のブラザレン?って思ってしまったけれども。すみません。マザーテレサを敬愛してやまない方々には申し訳ないですか。頑固な信仰スタイルといい。

発想としては、ブラザレンとほぼ同じかもしれない。ブラザレンのジョージミューラーも同じ発想でしたし。マザーテレサも、ある意味原理主義的ですよね。

ブラザレンは、聖書研究を一生懸命取り組みます。非常に聖書に詳しい信者が多いです。そうでもない方も居られますが。その読み方とその聖書理解がどのようなものであるかは別として。そして、毎日のように聖書を読み、聖書から考えます。


そして、男性信者は、日曜日やその他の日に、聖書研究や、伝道メッセージを担当します。そのために聖書研究を聖書だけと聖霊の示し、時にその助けをもちいつつ、行います。その結果、聖書とその理解を深めていくことになります。神学校の生徒や、神学校の卒業生並みと思われる、あるいは、知識や神の理解において、あるいはそれを越えたと思われる人々も時に出てくることもまれではありません。また、深い霊性をもつ方々も少なくはありません。各信者の与えられた賜物にもよりますが。

男性信者は、公共の前で話すことが求められます。また、そのことに慣れてきます。その結果、他の教会にいくと満足できない、ということもあります。というのは、自分なら、このテーマでこう語るということを考えながら聞いてしまう、時に批判的な視点で聖書公開や福音メッセージを聞いてしまうということもおこりかねません。

私自身がそうでしたが、アメリカでよその教会に集っていたとき、時にしゃべりたくなって、会衆の前でお話したくなるときもありました。それは、批判的な視点ではなく、自分に能力があると思うからではなく、神の仕事に関与したい、という気持ちからだったように思います。神の仕事に関与する方法がなくて、ストレスがたまりそうだったのを覚えています。普段の方針のあり方の関与と比べて、自分自身が十分関与できていないというあせりに似た気持ちを持ったという印象があります。

その意味で、ブラザレンに関与した人々は、神の仕事にかかわる何かしたくてたまらなくなるという欠点を持つことにもなりかねません。まだ、十分考えが煮詰まっているというわけではありませんが。

また、改めて、この話をしたいと思います。

ブラザレンの持っている聖書に忠実だろうとするあり方は、悪いものとはいません。ルターもそうであろうとしたし、カルビンもそうあろうとしました。また、イギリスで言えば、ウェスレーもそうあろうとしました。すべてのクリスチャンがそうあろうとした、またそうあろうとしているという意味では、カトリックも、プロテスタントであろうと、すべてのクリスチャンが持つべきあり方ですし、また、それを求めてきたわけです。

ただ、聖書に忠実であろう、聖典である聖書に忠実であろう、それも純朴に、純粋に、というあり方は、下手をすると頑固なあり方となりかねません。聖書に忠実であろう、とするあまり、頑固さにつながり、それが自らの考え方が正しいというという意識につながる可能性があります。このあたりは人によりますが。

この結果、他者の受け入れ、他者の聖書理解の受け入れに支障をきたす人物が出てこないとも限りません。その意味で、この聖書に忠実であろうというのは、両刃の剣みたいなところがあります。忠実であろうとする対象が、微妙に信者一人一人違う、忠実であろうとするポイントが人によって微妙に違うので、建設的な対話ではなく、無意味な神学論争(正確には言い争いと自分の聖書知識の誇りあい)と言う形の結末をとることも少なくありません。個人的には論外と思いますが。

自らが正しいというあり方を追求したその結果、頭から他者の考えを否定する、という場面にごくまれにではありますが、時に出くわすことがあります。日本の場合、多少深刻なのは、人格と考えが分離しているという近代としての個のありかたが確立していないので、聖書理解が異なって議論というか、論争になった場合、全人格的な否定ということにつながりかねず、そうなった場合、悲惨な思いされる方が出てくる場合もまったくないわけではありません。

目指しているものが正しくても、出てくる結果が必ずしも正しいとは限らない、というのは、マキャベリの君主論に出てきたような気がしますが、これは、信仰生活においても、その点だけは見あまらないようにしないといけないと思います。教会とはいえ、罪ある人間が集まるところですから。こんなことを言うと、集会(教会)の方に怒られるかもしれませんが。

個人の考えとしては、教会(集会)の無謬性ということは、完全には主張できないように思います。すべての組織と個人は、無謬ではありえませんから。

自らのあり方を含めて、自己批判をする精神を失わないようにしないといけない。自分のあり方が誤っているかもしれない、という立場を忘れないようにしないといけない、そのための対話を忘れないようにしないといけない、とは思います。

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