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プリマス・ブラザレンが実現しようとしたもの
初期のプリマス・ブラザレンが実現しようとしたものは、大雑把に言ってしまえば、
1)純粋性あるいは敬虔主義
2)一致性あるいは一体主義
に集約されます。
1)純粋性
純粋性というのは、聖書を純粋、そして聖書の権威を認めて、そこから敬虔に神と聖書についての理解とそれにまつわる教会の行動について求めていこうとする考え方です。国教会では、一応中道という考え方を主張しておられますが、かなりカトリック的な要素も強いので、いろんな人間的な考え方と見える、あるいは、教会というものを運営していくためのノウハウや伝統、過去のしがらみも結構あるので、最初の頃のダービーなどの人々には、とても純粋とはいえないように見えたようです。
とは言え、国教会の会員であれば、どこでも国教会の関係する地域の教会に自由に参加できましたから、一致性は保たれていたといえます。
2)一致性
この頃のイギリス諸島(ブリテン島及びアイルランド島及びその周辺の島々)の教会には、様々なものがありました。ピューリタン革命の結果生まれたクェーカー(フレンド派)、18世紀におきたメソジスト運動(ブラザレンに影響)、スコットランドを中心とした改革派の動き、分離派と呼ばれる人々の動きがあり、各派が独立にそれぞれが純粋に神との関係を求めて行動していましたが、それぞれが聖書理解に微妙な違いがあり、お互いに受け入れられず、半ば反目するような関係もあり、また各派の信者も本当の教会(集会の人は本当の集会とか真理に基づく集会といいたがりますが・・・)を求めてあちこちの教会を巡り歩く状況が生まれます。今みたいに超教派の活動などは考えがたかった時代ですし。その意味で、諸派には純粋性を求める雰囲気はありましたが、国教会のような一致性がなかったことも事実です。
となれば、この二つを併せ持つ合体ロボのような教会(集会)できないか。どの信者も等しく神に愛されている存在として受け入れるという点で一致があり、神のことばを純粋に求めるキリスト者の集団をつくれないか、という形で始まったのがブラザレンです。
その意味で、一種の宗教改革運動なんですね。基本的にブラザレンは、神を礼拝する正しい方法を考えよう、という運動です。だから、ブラザレンが、教会ではない(外部から見たらどう見ても教会)、自分たちは教派ではない(外部から客観的に見たらどう見ても教派)、神を純粋に求める集団だ、だから集会と呼ぶんだ(とはいえ、外部から客観的に見た場合、キリストを神として礼拝する行為をする以上キリスト教会)と主張するのは、これがもともと宗教改革運動という側面が非常に強いことに依存しています。これが外部に誤解を生んでいるような気がします。もちろん、それ以外の問題行動も多かったのも事実ですが。
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