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ブラザレンでは、聖餐式は、主の晩餐そのものの再現であり、非常に重要かつ聖いものという立場に立ちます。したがって、それに参加する正当性(レジティマシィ)が重要になります。聖餐式に参加できるのは、信者だけ、ということになります。
しかし、信者だけ、といっても、その定義をどうするかのところで大きな問題になります。
楽な順に書いてみれば、
本人が、自分自身クリスチャンであると認識していればよい(大半のプロテスタント諸派)
本人が、口頭で信者であると告白すればよいのか(一部のプロテスタントの教会)
本人が、自身が特定の教会の信者であることを示す証明書の持参
(ブラザレンなどのプロテスタント派・カトリック)
ということになります。
ブラザレンでは、聖餐式に参加するために、信者であることの証明書としての紹介状を持っていないと宣教師であろうと、他の牧師であろうと、聖餐式に参加させないことが多いです。なぜかというと、信者であることの確認ができないから、というのが理由です。そういう意味で言うと、ものすごい批判意識を向けるカトリックと紹介状や被り物の点で似ているという一種のアイロニーを感じます。
それと、ブラザレンは、自分たちが正しい信仰のあり方を持っており、他の教会には問題があり、完全な形の信仰を持っていない、という理解に立っている方も多いので(これは必ずしも正しい、といえないし、そういうものの見方自体、本当によいのか、という考えもあります。私自身ブラザレンだけが正しくて、それ以外には問題があるという立場はとっていないつもりです。)、紹介状を持たない、その習慣がないために紹介状を発行してもらえないブラザレン以外の教会からの信者の場合は、聖餐式に参加させないという形をとるグループ(連結型あるいは閉鎖型ブラザレン)が多いです。日本のブラザレンの教会(集会)の大半は、この立場に立ちます。
もちろん、長老と呼ばれる指導者の考えにもよりそうでない集会もありますが、あまり多くないようです。その意味で、日本の集会(ブラザレンの教会)は、かなり閉鎖型、連結型ブラザレンの影響下にあるように思います。このことに決定的に影響を与えたのが、集会の真理と行動というタイトルで出版されている(いたかもしれない)1960年代に伝道出版社から出版された書籍だろうと思います。
この本は、もともと、英国のおそらくオープンブラザレン系の出版社と思われる出版社から出された本の翻訳であろうと思われますが、その本の完訳ではなく部分訳になっているので、編集者の意図が入り込んでいる可能性があります。
日本のブラザレンは、伝道出版社の(翻訳)本は無批判に受け入れてしまうところがあるので、その点でも自らへの批判意識とオリジナルに当たる努力もあったほうがいいのかな、と思います。
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