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ブラザレンの聖書研究の基本は、自分で聖書を浴びるほど読むことです。主に日本語翻訳ですけれども。
これは、方法論として間違ってはいないと思います。聖書を聖書で解き明かす、というブラザレンの立場は、聖書を、注解書で解き明かす、という安直な方法をとらないところにその最大の特徴があります。なので、聖書を繰り返し読んで、こんな表現あったということを記憶し、後は、聖書の下部についている参考箇所を比較参照しながら聖書を読みこなし、聖書理解を深めていくのが、基本です。
その意味で、ブラザレンにとって、引照付き聖書は結構ないと困るもんなんですね。まァ、コンコルダンスがあるので、それはそれで良いのだけれども、日本語のコンコルダンスに頼っていると、日本語で同じことばは引けても、同じギリシア語の単語かどうかは、分からないのが、ちょっとねぇ。新改訳の引照が良いのは、基本同じギリシア語のところに誘導してくれるところ。
実は、ギリシア語を日本語にした瞬間にちょっと違う意味合いになったり、元々の意味合いが消えうせる可能性もあり、そこから日本語のみに頼って聖書理解を広げていくと、まずい場合もあったりします。最近話題のカルトも、その辺の聖書理解のいい加減さが原因のような気もします。日本語訳の聖書を読んで理解し、聖書のみことばを深めていくことで、かなりの線まではいけます。普通は、それで十分だと思います。ただ、微妙な聖書理解をするとなると、ちょっと厳しいかなぁ、と思います。
ブラザレンの信者の多くの方々は、聖書をよく読んでおられますが、時々ブラザレンの信者の方と非公式の場で聖書に関する理解についてのお話をしている時に危うさを感じる時があるのは、日本語聖書だけに基づいて、独自の聖書理解を進めておられるところにあるような気がします。その解釈はちょっと違うんだけどなぁ、という気持ちになることもあります。
ところで、ブラザレンの教会(集会)で講壇で話すためには、聖書学校に行く必要もないですし、日本語の聖書を読んでいるだけで十分だったりします。どこのクリスチャンの教会のグループでも同じことかとは思いますが、当たり外れは避けられませんが、ブラザレンの場合は、聖書からのメッセージとはいえ、やや当たりはずれの振幅が多いような気がします。
ブラザレンの教会(集会)は、ある意味で、神学というブレーキがあまり認識されてない場合があり、この場合、エンジンとギアの調整だけで運用しているようなところがあります。まァ、車の運転するにしても、エンジンとギアの調整だけで、ある程度何とかなるんですが。普通に巡航速度で走っている分には大丈夫。でも、異端的な思想に行きかけた時には、実際に責任を取っている責任者(長老と呼ばれることが多いですが、ブラザレン出発の頃は、30代の長老もごろごろしていたようです)の技量が求められるという意味で、厳しいのかなぁ、と思います。責任者の方々、本当にご苦労様です。
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