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最後に余談めいたお話を。
キリスト集会での献金のガイドラインは、一応金銭所得の1/10ということが推奨ルールですし、信者間での暗黙の了解事項だと思います。学生アルバイトでの現金収入も、基本、バイト代の1/10の献金をしておりました。何の疑念もなく。そんなものだ、と何も考えていなかったこともあります。
ところで、聖書の中に、2レプタ銅貨を投げ入れた投げ入れた貧しいやもめの話(マルコ12章とルカ21章)があって、これが彼女の所持金全額だったので、イエスがこの貧しいやもめが最もたくさん入れた」と言及したという記事があります。2レプタというと、今の日本での金銭換算すると50円とか100円とかいった金額だと思います。
この部分の解釈として、
(1)やもめにならって神にすべてを捧げましょう(あなたの持っているものすべてを神に捧げましょう)
(2)やもめの捧げる精神を学びましょう(全額入れる必要はないがすすんで捧げる必要を理解しましょう)
(3)イエスは、金額そのものに目を向けるのではなく、やもめの神への信頼を評価された(金額で他者を評価することのないように)
その他多数の解釈のバリエーションがありますが、イエスは、「多くを捧げた」とこの会堂の中で主張した、とだけ記されていて、「○○せよ」とか、「やもめと同じようにせよ」とか言っていないことは注目に値すると、私は思っています。この聖書の箇所をもとに、「どうせよ」とか「かくあるべし」とかいう方もおられます。
「すべてを主にささげるべし」という解釈をここからされる場合、そのような趣旨の解釈については、ご発言しておられる個人の方の解釈であって、つまり、そのかたがたに与えられている聖書の理解(はみ出し部分)だと思います。「熱心に限界まで献金せよ」ということは、聖書そのものの言及ではないことに着目しておいたほうがよいのでは、と思います。まぁ、この「やもめ」のことが記述されていることには、何らかの意味というか神の意図があるとは思うのですが、それは、神ならぬ人間である私にはよく分かりません。個人的な解釈としては、神に従って生きる中での神にゆだねることを示そうとしたのだろうとは思います。その意味で(3)の解釈が私個人の解釈に一番近いです。
とりわけ、(1)のような解釈になると、ちょっとカルトの匂いが漂うように思います。聖書は持てるものをすべて捧げよ、とはあまり言っていないようです。確かに、初代教会が共同体を形成し、財産を共有していた話もありますが、アナニアとサッピラの例にもありますが、「持っている財産は自由にしてよい」と言うペテロの理解が記録されていますから、献金はあくまで自由で自分と神との関係で決めてよい、と理解するのが素直かなぁ、と思います。
また、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と申命記6章の中にありますが、このことから、あなたの持っているものすべてを尽くして、ということを言うことは少し無理があるかなぁ、と思います。すべてを尽くしてささげることを強調した場合、律法の中でのほかの記述と矛盾しますから。もちろん、金持ちの青年の話もあり、彼には「全財産を売り払ってついて来い」とイエスは言っていますが、これをすべての人に当てはめる形で、拡大解釈するのもどうか、と私は思います。
ところで、もとのやもめの献金の話に戻しますが、やもめに対して、民全体の共同体として養う責任があるとされていたユダヤ社会(ボアズなんかがその実際事例)とその種の共同体の存在しない現代社会において、同列に議論することは非常に問題があるように、私個人は今現在思っているのですが。やもめは、共同体で養われました。だからこそ、心配なくささげることができたようにも思うのです。元々、持っていないわけですし、あまったものは、共同体のもの。彼女の共同体に、献金という形で帰したのだろうと思います。あくまで、これは、私個人の見解です。違うご意見の方もいらっしゃって、当然と思います。
個人的には、多元主義者なので、献金についてもいろいろな考え方があってもいいし、それをお互いの考えとして、尊重し合えるキリスト集会(教会)とそのようなタイプの信徒が増えて言ってくれるとうれしいなぁ、と思っております。
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