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直接葬儀とは関係ありませんが、『死と悲しみ』について書いておきたいと思います。これは、正直なある信徒の方の告白だったので、書いておきたいと思います。
その方は、独身の方で、高校生の時にイエスを信じ、それから熱心に教会(キリスト集会)に通い、仕事をし、一生懸命に生きられた方でした。ちょっとユニークなご発言をされる方でもありましたが、明るく、楽しい方でした。結婚はされなかった方でしたねぇ。50歳を過ぎて、がんにかかられ、いくつかの病院で入退院され、余命があまりないということを医師から宣言されて、病院での最後の日々を過ごしておられました。明るかった方なのですが、病気と闘ったためもあるのでしょう。弱気になられることもおありになったようで、時に正直な気持ちをお話くださいました。もともと、正直に思ったことを素直に話される方だったこともあるとは思います。
あるとき、その方をお見舞いしたときのことです。その方は、こんなことを私に話してくれました。「私は、まだ、もっと生きたい。もっと生きていろんなことがしたい。でもそれは不可能なことは分かっているけれども、もっと生きたいのです。」その方の魂の叫びを聞いたような気がしました。そのあと、その方は、こんなこともお話くださいました。「信者の方がお見舞いに来てくださるのはうれしいのです。きついこともあるが、楽しくなることもあるのです。でも、いくら信者だからといっても、『○○さん、もうすぐ天国だからよかったじゃない、神様と会えるのだから』といわれると無性に腹が立つんですよ。そういってくる人もいるんです。確かに頭ではそうだと分かるのだけれども、私はもっとこの地上で生きて生きたい。そんな信者は駄目なのだろうか・・・。」返す言葉がなかったです。ただ、その方のやせ細った手を握って、一緒に「もしできるのであれば、この苦しみを取り除いてください。あなたが○○さんと共にいてください。」としか祈れなかったです。
自分自身の「神の国と苦しみ」の理解を問い直されるような経験でした。自分たちが信じていることがおそらく聖書から言って間違いがないから、といって、それを他人に押し付けるようなことをして良いのだろうか。悲しんでいる人や苦しんでいる人に、天国にいけるんだから良いではないか、といいかねない自分の無責任さ、無慈悲さ、配慮のたらなさを突きつけられた言葉でした。
その後、義母をなくし、実父をなくし(両方ともクリスチャン)、その中で、悲しみや苦しみを思う中で、どう考えたらよいのかを模索してきました。いまもなお、模索していますが、ヘンリ・ナウエン(ブラザレンにとっては間違っている対象であるとされているカトリック教会の方なのですが)という人の著作を読んでから、少しづつ、その辺の整理がついてきました。悲しみと共にあるイエス、勝利主義だけでは語れないイエスの理解に達することの重要性を少しだけ学んだ気がします(ブラザレンチックではないですが)。
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