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まぁ、信者以外の方との結婚の結果、教会やキリスト集会から、生産式への参加をとどめられた結果、神の礼拝者としての、聖餐式への参加を継続しないという選択される場合(というよりかは、実際には、子育てや生活の忙しさのゆえに礼拝に参加できないというような結果、キリスト集会の礼拝に参加しなくなるということが次第に定着していく場合)も実際には多数存在するようです。とはいえ、一時的に諸般の事情で真の礼拝者であることを中断したからといって、その人が救われているか救われていないかには、あまり関係がないと思うのですが。これは、私個人の理解です(私が所属するキリスト集会の公式見解ではありません)。
少なくとも、それを人間的な外形基準で判定したり、その方の信仰の回復のための努力をあきらめたり、その方自身の信仰のある時点でのあり方だけをもとに、批判したりするのは、まずいように思います。
礼拝への参加は、権利であるという側面もあり、また、結婚式に参加するというような光栄を受けるということなどだと思います。礼拝、あるいは聖餐式の参加は義務じゃないような気がします。礼拝や聖餐式への参加は、権利の放棄であり、残念なことであり、悲しいことではありますが、聖餐式の参加を義務化して、クリスチャンであるから、参加すべきだ、という議論はちょっと違うかなぁ、と思います。もちろん、諸般の理由で、礼拝に参加しないことは、正当な権利が行使されていない、それを行使する機会が失われているということにかんしては、残念なことだとは思います。
それよりも、そのことを神の手にゆだね、苦しんでおられる信徒(あるいは信徒の群れとしてともに集った方)のために祈ることが大切なのではないか、と思います。これは、私個人の経験に基づく見解です。
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