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ブラザレンの信徒は、聖書とその主張を極めて尊重します。「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです。」だけではなく、聖書の中に記載されていること、聖書の主張と考えられること(聖書的という表現が良く用いられるようです。ただ、何を「聖書的」とするのかは、実はかなり個人の考えに大きく依存すると、思っています)を極めて尊重します。ですから、基本的に、清く正しく美しい結婚と家庭生活が重要とされます。それはその通りだと思います。私は、この価値観を大切にしたいなぁ、と思いますし、私の考えはそうです、とお話するようにしています。わが子たちには私の価値観を引き継いでもらえればうれしいけれども、個人の主権の範囲なので、自由を保障してやりたいと思います。
聖書の事例を見る限り、ダビデとバテシバのような不倫関係はもちろんNGです。
また、婚約が公式に公表されるまで、婚約者同士だけが閉鎖空間に一緒にいることも良くないとされます。婚約が正式に発表されるまでは、教会の中でも、一緒に座ったりしないように、ということも他の信者への配慮の結果として推奨されることが多いようです。なお、この種の推奨を指示と受け取る方も、時におられるようですが。多分説明が十分ないとそう思われる場合もあるかもしれません。実質的には他の信者さんへの影響を考えた配慮だと思います。また、結婚が尊いものであること、という基準から言えば、できちゃった婚(最近は、授かり婚とかおめでた婚ともいうらしいですが)も当然NGです。
現在の社会風潮がどのようなものであれ、それとは一線を画し、聖書の言葉とその倫理観を重視し、その倫理水準を自らに課す生き方、これは一つの価値観だと思います。私は、その価値観を大切だと思います。また、これは、私の個人的な理解ですが、創世記や旧約聖書の様々な事件、あるいは、新約聖書における性倫理に関する諸言及から考えて、この倫理水準は聖書から支持されうると思います。そして、多くの信者の方が聖書をよく読んで、聖書の主張する倫理と矛盾しない倫理行動規範を持ってもらえるといいなぁ、と思います。
ただ、それと同時に、イエスが持っていた共感というのか、同情というのか、ともに苦しみを分かち合うこと(ナウエンは、コンパッションといっていますが)も私は忘れたくはありませんし、全ての信者が忘れないでもらいたいなぁ、と思います。そして、自分たちが自分たちとして信じていることは、それは大事にしつつも、不必要に他者(キリスト集会以外の方)に厳しい目を向け、イエスから人々を遠ざけることがないように。実は、自らに聖書のいう倫理性を課し、他者にはコンパッションを示すというあり方をもちつつ、現実社会での問題での取り組みの中でこれらの両者のバランスを取ることは非常に難しいことだけど、非常に必要なことなのだろうなぁ、と私は思います。時には、コンパッションを悪用し、聖書と矛盾するような考えが比較的容易に入ってくることもあるので。このバランスを取ることが簡単なことでないことだけはよく分かっていますが。
長々と書きましたが、結婚観については、この辺でおしまいにしたいと思います。次は、2世の目から見た考えについて、書いていきたいと思っています。
で、最後に。
私はどのような経緯で結婚したか、についても、書いておきたいと思います。
関西で仕事が見つかったので、関東から関西に転居することになりました。その過程で、私の家族との雑談の中で、以前からお付き合いのあったキリスト集会の方(以前、同じ教会に集っていた方)の私が結婚相手を探しているというお話がでて、最初はお見合いのようなものをして、何回かお会いして、キャンプなんかにも来てもらって、その方の様々な様子を拝見しながら、真剣に祈り考え、そして、婚約、結婚しましたねぇ。もう、20年近く前になります。
で、いまもなお幸せな結婚を送っていますし、結婚して、もうすぐ16年が経過しようとしていますが、日々さらにより豊かな関係の深化に向かって進んでいるように思います。結婚当初よりは、より深いところでのつながりを感じています。本当に。
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