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今年の秋口に開かれた、石濱シナヨさんの記念式のあと、石濱ミカル
さんとお話しする機会をいただいたとき、核心を突かれたことを言われ
てしまいました。「今のブラザレンは、当初持っていた革新性を失って
いるのではないか?」やさしい口調での問いかけでしたが、問いかけら
れて答えに窮してしまいました。革新性を失って、ブラザレンという伝
統の中に閉じこもっているという側面があるのかもしれません。ブラザ
レン運動は出発点では、常識を覆すようなラディカルな運動だったので
すが、そういう革新性を失っているのかも、というご指摘は重要かも知
れません。
そもそも、ブラザレンは、信徒による信徒のための教会を目指した、
教会改革運動だったわけです。つまり、国家のツールになっている教会
への反論、ないがしろにされる平信徒が、平信徒をないがしろにした教
役者に対するアンチテーゼとして、はじめたのがブラザレン運動だった
わけです。
平たく言えば、聖書を中心として「教会をみんなの手に取り戻そう」、
という運動だったといっていいと思います。ただ、まじめで倫理的な時
代にこの運動の出発点が重なった歴史的経緯と初期指導者(特にダービ
ー)の考えが若干神秘主義的であった上に、懐古主義的というのか、聖
書の原点回帰という部分を強く主張した、ということもあって、若干、
古めかしい価値観が、現在もなお、このグループの中にこだましている
ことも事実です(ダービーの考え方が独立的ブラザレン、開放的ブラザ
レンのグループの中でも時折出てくることは、Dicksonがその著書の中
で指摘しています)。
あるブラザレンに影響を受けた都内にあるキリスト集会のあるグルー
プについての記事や、エクスクルーシブブラザレンの影響を受けた芦屋
市内にある信者のグループについての某巨大掲示板(書き込む気はしな
いので、ROMしてるだけですけど。)での書き込みを見ていると信者の中
に、奉仕のためにつかれきっておられるように見える書き込みや見えな
いルールがあるという書き込み(事実確認をしてませんし、本人の気持ち
がそのままかどうかは判定のしようがないのでなんともいえないのですが)
をしておられる方がおられるのを見る時に、また、ある特定の人物の影響
が強くなり、その方の発言に聖書に近い権威性をおもちである信者さんが
居られたり、会計の不透明性に疑問を持つ方が居られたりするようです。
そのお気持ちが真実だとしたら、「教会は、信者のためのものであっ
て、教会のための信者じゃないんだけど」といいたくなるのは、私だけ
でしょうか。そのような印象をお持ちの方がおかれている状況は、結果
として、ブラザレン運動が出発点で目指したもの、聖書が私たちに語り
かける教会のあり方とは違った方向を向いている、ように思います。
独自のキリスト集会文化ができてしまうのは仕方が無いのだけれども、
それを変えていくだけの内部の革新性を持ち続けてもらいたい(実は、
これは本当に大変なんですが)、と個人的に思っています。そのために
は聖書をもとに自分で考えるという習慣が大事なのかなぁ、と思います。
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