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まず、毎日10人程度しかアクセスがなかったこの超マニアックなブログに、最近アクセスが増えています。預言を扱うからでしょうか。将来どうなるか、皆さん、知りたいんですね。でも、そんなこと、わかんない、というのが私の立場。そんなことを気にするより、神様との関係を深めてね、というのが私の考え。ただ、最近、この手の再臨についての話があったよぉ、って話がちらほら聞こえてくるので、全く問題のない説じゃないんですよ、ってことを説明しておいたほうがいいかな、と思っているので、触れているだけ。
このディスペンセーション論が完璧に間違っている、というつもりはありません。歴史的背景の中で生み出されてきたものだけに、いくつかの課題があることはいっておきたいというだけです。私にはこの理論が納得できかねる部分があるだけ、その理由を説明しているだけです。再臨と千年王国の時間的経緯の議論は、議論として面白いけど、結局、想像の域を出ない。実証できない以上、その日を楽しみにして待つほうがいいのかな、と思っています。
前回も触れたように、かなり危険な要素が紛れ込む理論のような気がするので、この理論を批判的な意識を持たないで聞かれる方が多い場合、この理論が一人歩きすることの危険性を強く感じます。封印すべきとは思いませんが、個人の知的冒険のレベルにとどめおくほうが良いと思います。
■理論の持つ有用性とその怖さ
ディスペンセーション論、ケインズの一般理論であれ、なんであれ、理論は、現実を単純化したモデルです。モデルは、私たちに現実の複雑さを取り除き、単純化したものですから、分かりやすいものですし、現実を分かりやすくして、分かったような気にさせてくれます。
○○論や○△説といったモデルが怖いのは、それが一見まともに見えれば、見えるほど、あるいは自分たちにとって都合がよければよいほど、それを無批判に受け入れる人々が出てくるところです。この○○論はあたっている、この○△説はあたっている。従ってすべてそれで読み解けるはずだ。という理解に立って、その上で聖書解釈やら、時代の解説やら、社会経済現象の理解を進めていこうとする人々がおられます。個人的には、一つの仮説に基づき、全てのものが体系的に理解できる、というのは人間がそもそも多様であり、世界が多様である以上、かなり無謀な論理だと思います。理論には、限界がある、ということを踏まえた上で理論を用いる人たちは知的冒険をしています。しかし、理論というものと、日常生活の一部として格闘することの少ない一般信徒に理論に限界があるということを知っておいてね、と求めることは、酷というものでしょう。だからこそ、確証のない説やモデルをあてはめることは避けたいと思っています。
人は、いろんな意味で限界をもった存在なので、一旦、そのことが本当だと思えてしまうと、何でも、人は無批判にその理論にそった解釈を受け入れてしまいやすいこと、その論理に従って全てのものをみてしまう、という罠に陥りやすいことは事実なのかなぁ、と思います。
わが国において、言論は、自由です。何を言ってもかまいません。でも、人を不安にするようなこと、人を不幸に陥れること、福音伝道で語るべき要素であるとはいえ、福音伝道のための手段と受け取られかねないような方法で、いろいろな受け取り方ができる預言に関する部分について言及し、その解釈を述べることは、私としては、厳しく謹もう、と思っています。もちろん、この理論は、世の終りは近い、だから、福音を伝えるべきだ、という理解を与え、福音伝道をする意義を、この理論が出てきた当時のブラザレンとその周辺の人々に非常に強く印象付け、福音を熱心に語っていった、ということは、重要だと思います。ただ、福音宣教のためというカンバンのもと、人々を不必要に不安に陥れるようなアプローチは、本当に適切だろうか、と思います。
人は、将来が見えない。だから将来が気になる。それを解き明かすかに見える理論のように見えるものがあるとすると、それにすぐ飛びつきたくなる。それは人間の素直な性質だと思います。だからこそ、注意しなければならないし、興味を引きそうな理論であればあるほど、その理論に批判的に考え、慎重に考える習慣を持つべきだと思うのです。できたら、普通の信徒の方も。そのような、信徒の方を育て、集会全体が成長するよう取り計らう長老などの指導者たちの役割は重たいのだなぁ、と改めて感じます。
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